「だったらプールに行こう! ルルーシュ!」
きらきらとした笑みを顔いっぱいに浮かべた異母兄をルルーシュはげんなりとして見つめた。執務室に己の溜め息がやけに大きく響く。
「そんな時間が私にあると思いますか?」
「時間は自ら作るものだよ。忙しい忙しいと言うばかりの毎日では疲れが溜まるばかりだし、良い考えも浮かばない。こういうときは思い切って一日遊んでみるものだ!」
この兄に諭されたと思うと少々悔しい。だが、クロヴィスの言うことももっともだと考え直した。遊び先がプールなのは子どもっぽい気もするけれど、ナナリーやユフィも一緒に連れて行けば喜ぶだろう。
(そもそもなんでこんなことになったんだ)
発端は二十分前にクロヴィスが訪ねてきたことだ。
ちょうど何も予定がないときだったので、書類整理をしながら話半分に相槌を打っていた。明らかに聞く気がないとわかっているだろうに、それでも饒舌にひとり喋り続けるのはある種の才能だとルルーシュは常々思っている。
クロヴィスを嫌っているわけではないのだが、理論で物事を組み立てていく自分に対し、芸術家肌の兄は感覚で進めていくことが多く、持って生まれた性質がまるっきり違っていた。
それに、クロヴィスは下手に褒めると調子に乗るタイプだ。そのせいで何度被害を被ったか、と思えばあまり素直に歓迎できないのも致し方なかった。
しかし今日は仕事が詰まっておらず、話半分でもクロヴィスと世間話をするくらいの余裕があった。だから、うっかり口にしてしまったのだ。
毎日暑くて気が滅入る、と。
(そこから「だったら」に繋がったんだな……)
失言を後悔してもすでに遅い。目を輝かせたクロヴィスが執務机に手を付き、休暇の大切さを懇々と説いていた。
「兄上もルルーシュも毎日忙しすぎるんだ。ちゃんと休みは取っているのかい? 仕事に追われるばかりでは早死にしてしまうよ。たまにはゆっくりのんびりしないと。その上、この暑さだろう? 日中は空調の完備された建物の中にいるかもしれないけど、冷気に当たってばかりでも体調を崩してしまう。だからこそ休暇先としてプールは最適だと思うんだ。先日、クロヴィスランドⅡが完成したのは知っているだろう? あそこならプールもあるし、開業はまだ先だからそれまでは自由に使えるし、遊びに行くには絶好の場所だよ」
異母兄の声を耳にしながら、ルルーシュは救いを求めてクロヴィスの背後に目を向けた。しかし、控えているスザクとジェレミアは苦笑いを浮かべるだけだった。
「ですから、私にそんな時間は」
「ならば兄上に許可をもらえばいい! クロヴィスランドⅡの感想も聞きたいし、視察も兼ねていると言えば兄上も許してくださるよ」
「そんな理由でシュナイゼル兄上が視察を許可するわけがないでしょう」
「言ってみなければわからないさ。せっかくだからコーネリアにも声をかけてみよう。ユフィもナナリーもきっと喜ぶ」
言うが早いか、異母兄はあっと言う間に部屋を出て行ってしまった。本当にこのまま帝国宰相のところへ乗り込むつもりらしい。
「追い出されるのがオチだろう……」
「しかし、こういうときのクロヴィス殿下の行動力は目を見張るものがありますから、案外簡単に許可をいただいてくるかもしれませんよ」
淹れ直した紅茶を机に置いたジェレミアが笑う。
「まさか。兄上だって暇じゃないんだ。馬鹿なことを言うなと一蹴されて終わりに決まっている」
どうせいつものくだらない思い付きだ。自分はともかく、コーネリアまで誘うなんて無理だろう。
そう高を括っていたルルーシュは忘れていた。クロヴィスの提案に悪のりするのが次兄だということを。
* * *
「なんでこうなるんだ……」
げんなりとした顔の主にスザクは小さく笑った。
「短い夏休みだと思って満喫されてはいかがですか」
「満喫と言われてもな……」
組んだ腕は長袖の白いシャツに包まれていた。真夏の太陽がじりじりと地上を照らしていて、今日も朝から気温が高い。長袖で暑くないのだろうかと思ったけれど、自分も騎士服を着込んでいるので似たようなものだ。
「とにかく着替えましょう。ここでぼんやりしていてもクロヴィス殿下に無理やり更衣室に連れて行かれるだけですよ」
眼前には完成したばかりのクロヴィスランドⅡがあった。プールのほかに遊園地、商業施設やホテルもあり、一日中ここで遊べるようになっている。ネーミングのとおりクロヴィスが総責任者として指揮を執っており、建築デザインから店舗の選考まですべて彼が関わったそうだ。
政治的センスはないがああいうことは本当に得意だよな、とはルルーシュの言である。直感で動く異母兄をルルーシュはあまり得意としていないようだが、決して嫌っているわけではない。それはシュナイゼルに対しても同じで、苦手だ苦手だと言いつつ、異母兄姉たちのこともちゃんと好きなことをスザクは知っていた。
ふと、声がしたのに気付いて目を向ければ、弟の姿を見つけたクロヴィスが遠くから大きく手を振っている。少し恥ずかしそうに手を上げたルルーシュの顔は満更でもなかった。
「仕方ない、今日は兄上の新作を見物するのが仕事だからな」
行くぞと促され、皇族専用の更衣室に足を運ぶ。ルルーシュが着替え終わるまで外で待とうとしたら、男同士なんだから気を遣う必要はないだろうと引っ張り込まれた。
「兄上が色々用意してくださったからスザクも好きなのに着替えていいぞ」
「はい、ありがとうございます」
テーブルの上にはオーソドックスな水着から、これは本当に水着なのだろうかと考え込みそうになるような奇抜な水着まで様々なものが並べられていた。無難にトランクスタイプの水着を選んだスザクは、そういえばルルーシュはどれを穿くつもりなのかと振り返って硬直した。
ほかの皇族は着替えの一切を人に任せるが、ルルーシュはすべて自分ひとりでやってしまう。スザクが手伝うことと言えば、スカーフを留めるときとマントを羽織らせるときぐらいなものである。
だから、ルルーシュの着替えをこの目で見たことは一度もない。彼への想いを自覚しているので、むしろ機会がなくて良かったと思うほどだ。
それなのになんの心構えもなしに真っ白な背中を直視してしまい、どうして平静を保てようか。
(いや、保てるわけがない)
心の中で否定している間もルルーシュは着替えを続けていた。脱いだシャツをハンガーにかけるとベルトを外し、ズボンへと手をかける。黒い生地の下から現れたのは白い足とビキニタイプのパンツで、あまりの光景に目の前がくらくらしそうだった。
どうしてそんな面積の狭い下着を穿いているのかとか、ルルーシュの清楚な雰囲気からは到底考えられないビキニは一体誰から吹き込まれたのかとか、どうでもいい疑問を打ち消すように頭を振る。今は任務の真っ最中で、主の下着姿に動揺している場合ではない。
「スザク? まだ水着が決まらないのか?」
「いえ! 決まりました!」
視線を感じたのか、ルルーシュが振り返って不思議そうな顔をしていた。慌てて敬礼のポーズを取ったスザクは、背を向けると己の着替えに専念した。
(殿下ってああいう下着が好みだったのか。なんだか意外だな。肌が白いから下着の黒がより強調されて……って、これじゃあ変態だ)
考えないようにと思えば思うほど、先ほど目にした光景が脳内で再生されてしまう。
いついかなるときも平常心を保つのが軍人だろうと気合いを入れ、着替えを終えたスザクは再びルルーシュの姿を見て今度は崩れ落ちそうになった。
「どうした? 先ほどから様子がおかしいぞ」
「い、いえ、なんでもありませんのでお気になさらず……」
なぜ水着まで黒のビキニなのですか、という問いはなんとか飲み込んだ。
普通に着こなしている様子から、水着も下着もいつもビキニタイプなのだろう。ルルーシュの新しい一面を知れたのは嬉しいが、このままでは挙動不審になりそうだ。パーカーを羽織ってくれているおかげで肌をじろじろ見てしまう事態にはならないのがせめてもの救いである。
「では参りましょうか」
「ああ」
涼しい更衣室から暑い外へと出る。
本日の参加者はクロヴィス、ルルーシュとナナリー、それからコーネリアとユーフェミアの姉妹だ。ほかに護衛や侍女たちが大勢いるものの、広大なプールを使うのはたった五人という贅沢さである。
「シュナイゼル殿下はいらっしゃらなかったのですね」
「プールには来ないが、このあとの食事会には顔を出すらしい。なんだかんだでクロヴィス兄上に甘い」
帝国宰相が一番甘いのはルルーシュ殿下ですよ、と思ったけれどもちろん口にはしなかった。言っても信じてくれないだろうし、嫌そうな顔をされるだけだ。
「お兄様! スザクさん!」
「そんなところにいないで早く遊びましょう」
すでにプールではしゃいでいたナナリーとユフィが手を振った。コーネリアとクロヴィスの年長組はプールサイドでくつろいでいる。
その両方を見比べたルルーシュが、スザクの肩をぽんと叩いた。にこやかな笑顔付きで。
「スザク、お前はナナリーたちと遊んでこい」
「えっ、殿下は?」
「私は姉上たちと一緒に地上でのんびりしておく」
「ナナリー様もユーフェミア様もがっかりされますよ。あ、まさか泳げないのですか……?」
「泳げないとは一言も言っていないだろう。ただ、二人と一緒にはしゃぐのは恥ずかしい」
「誰も気にされないと思いますが」
「私が気にする」
「ルルーシュ、遅いですよ!」
焦れったそうな声が飛んでくる。プールとルルーシュを交互に見たスザクは、失礼しますとルルーシュの手を引いた。
「ちょっ…スザク! 私は泳がないと言って、」
「でしたら、せめてプールの側までいらしてください。このままではユーフェミア様が拗ねてしまいますよ」
拗ねた異母妹のご機嫌取りはルルーシュの役目だ。つまり、いずれにしろ妹たちに付き合わなければいけないのである。
そのことを暗に伝えれば苦笑いが返ってきた。なんだかんだで二人を放っておけないのがルルーシュだった。
「お兄様、スザクさん、一緒にボールで遊びませんか?」
「水が冷たくて気持ち良いですよ」
「私はここで見ているからスザクと三人で遊ぶといい」
「ルルーシュは?」
「こういうところではしゃぐのはイメージではないだろう?」
あくまで水に入ろうとしない兄に、ナナリーとユフィが顔を見合わせた。目線を交わして一瞬のうちに何やら企んだのが第三者のスザクにはよくわかった。さすがルルーシュの妹と言うべきか。
「――じゃあ、ボールをもうひとつ取ってくれないかしら、ルルーシュ」
「ボール? ああ、これか」
脇に置かれていたビーチボールを手に取ると、プールの中のユフィに差し出した。
「ありがとう」
にっこり笑ったユフィが腕を伸ばす。そして、ごく自然な流れでルルーシュの手首を掴むと、躊躇うことなく一気に引いた。
「ほわ…っ」
まったく身構えていなかったルルーシュが水の中に落ちる。辺りに盛大な水音が響いた。
作戦成功にナナリーとユフィは喜び、クロヴィスは笑い、コーネリアは妹たちの悪戯に「あーあ」と言いたげな顔だった。
すかさずプールに飛び込んだスザクは、ルルーシュを引き上げると腕を支えた。
「大丈夫ですか、殿下」
「……大丈夫に見えるか」
無理やり落とされて不機嫌そうな主は、しかし一度濡れてしまったものは仕方ないと諦めたのか、髪をかき上げると妹たちを振り返った。
「こうなったら競争だ! 誰が最初に一周して戻ってくるか勝負だ!」
「いいですよ、絶対に負けませんから」
「私も負けません」
「スザク! お前もだ!」
「自分もですか?」
「皇族相手だからと手加減するなよ! 全力で勝負しろ! 兄上、スタートの合図を出してください」
「了解。全員準備はいいかな」
何やら火が付いてしまったルルーシュを筆頭に、コーネリアを除いた全員がはしゃいでいる。
皇族の遊びに混じっている自分という場違いさを感じながら、手加減するなというお達しなのでスザクも位置についた。
「では行くよ。よーい、」
命令通り全力で泳いだ結果は、言うまでもなかった。
* * *
「そもそも、体力馬鹿なスザクと勝負したことが間違いだったのだ。世界レベルの人間と素人が競って勝てるわけがないのに私は何をとち狂ったのか……」
「殿下、お願いですから機嫌を直してください」
「別に拗ねてなどいない! 初めから負けがわかっている勝負に挑んでしまった自分に腹を立てているだけだ!」
それが拗ねているのでは、と思ったことは口にしないでおいた。
(不機嫌と言うよりは照れている感じかな)
結局、クロヴィスやコーネリアも加わってプールで大いに遊んでしまい、それがあまりに子どもっぽかったと今ごろ恥ずかしくなっているのかもしれない。
そろそろシュナイゼルが到着するから着替えて食事にしようとクロヴィスから声がかかり、スザクはルルーシュとともに更衣室へ戻った。備え付けのシャワーで簡単に体を洗い、手際よく着替えを済ます。
「使ったタオルや水着はそこのボックスに入れておけばいいそうだ」
「わかりました」
ひと通り身なりを整えたあと、ルルーシュのほうはと様子を見ればその髪が濡れていることに気付いた。
「殿下、御髪を乾かしましょう」
「自分でやるからいい」
「そうおっしゃらず、このくらいはさせてください。殿下はご自分でなんでもできてしまうから、騎士としては少し寂しいんです」
「騎士は小間使いではないだろ」
「ええ、それはわかっているのですが、今日だけは特別に」
どうでしょうと窺う。すると、紫の瞳がこちらをじっと見つめた。
「――仕方ないな。たまには騎士の頼みを聞いてやるか」
仕方ないと言う声がどこか弾んで聞こえたのはきっと都合のいい錯覚だろう。
シャツの一番上のボタンまで留め、ルルーシュが鏡の前の椅子に腰かけた。その背後に立ったスザクは、ドライヤーの風を当てながら湿っている黒髪を掬った。
指を通る絹糸のような感触が心地良い。ずっと触っていたい手触りに自然と頬が緩む。
すると、可笑しそうに笑う気配がした。顔を上げれば鏡の中の瞳と目が合った。どうしたのかと首を傾げる。
「いつもと逆だなと思って。ナナリーの髪を乾かすのは俺の役目だし、自分の髪を誰かに任せたことはなかったから」
「殿下が嫌でなければこれからは自分に任せていただけませんか?」
口にしてすぐ、調子に乗りすぎたと後悔する。
ルルーシュは皇族としては珍しく、人の手を借りることを嫌うタイプだ。妹の髪まで乾かしてしまうような人が、いくら騎士相手でも自分の髪を任せるだろうか。
プールで一緒にはしゃいで距離が近くなったように感じたけれど、自分たちは友達ではない。ルルーシュは主で、自分は騎士だ。その関係を忘れてはいけない。
「申し訳ありません、出過ぎたことを……」
「スザクが毎日やってくれるのか?」
発言を撤回しようとすればルルーシュの声が被った。何を聞かれたのか数秒の間、思案する。
「――殿下がお望みならば」
「そうか」
質問の意味をなんとか理解して答えると、ルルーシュが嬉しそうに笑った。
ドライヤーを切り、代わりに櫛を手に取る。さらさらとした感触はやはり絹糸のようだと思いながら鏡の中の主を見た。
「だったら、これからはスザクにお願いしようか」
「よろしいのですか?」
「断る理由がないからな。それに、スザクの手は気持ちいい」
目を閉じて髪を梳かれているルルーシュの表情に不快感はなさそうだ。本当に気持ちいいと感じてくれているらしいとわかり、嬉しくてたまらなかった。
この時が永遠に続けばいいのにと思う。二人きりの穏やかなひとときは、忙しない毎日の中でとても貴重な時間だ。
しかし、時計を確認してすぐ現実に戻る。ルルーシュの異母兄姉たちもそろそろ着替えを終える頃だろう。いつまでもほかの皇族を待たせるわけにはいかないと、後ろ髪を引かれる思いでスザクは櫛を置いた。
「終わりました」
「ありがとう」
また鏡越しにルルーシュと目が合った。にこりと笑いかけてくれた主に口許を綻ばせる。
「先ほどの約束、忘れるなよ」
「夜だけでよろしいですか?」
「お前の負担にならなければ朝でも夜でもいつでもいい」
「でしたら、朝晩は自分にお任せください」
「わかった」
ルルーシュが立ち上がったタイミングで彼の上着を手に取った。袖を通したのを確かめると、前に回ってボタンをひとつずつ嵌めていく。
「なんだか贅沢だな」
「何がですか?」
「スザクにこうして髪を任せて、着替えまで手伝ってもらうなんてとても贅沢な気分だ」
「それをおっしゃるなら、自分のほうが余程贅沢です」
「そうか?」
「ええ」
首を傾げたルルーシュに大きく頷く。
こうして堂々と彼に触れることができるのだ。これ以上の贅沢があるだろうか。
しかし、それを口にすればたちまち警戒されてしまうだろうから本人にはもちろん内緒だ。髪を乾かすという申し出の中にほんの少しの下心があったことも。
(これだけは僕だけの秘密にさせてください)
悪い騎士ですみませんと心の中で謝罪して顔を上げる。
「では、参りましょう」
更衣室を出ると、今度はプールサイドではなく食事会場へと向かう。
ひと夏の思い出と言うにはささやかすぎる時間。でも、記憶に残るひとときは忘れられそうになかった。
それは、主と騎士の間にひとつの約束事が生まれた日でもあったから。
夏はまだ始まったばかりである。
(14.08.31)