レンゲソウ

「そんなこと、私は納得できません!」

 部屋に入るなり聞こえてきた怒鳴り声にスザクはびくりと肩を揺らした。咄嗟に背後を確認する。ぴったりと閉ざされた重厚な扉はたった今、自分が閉めたばかりだ。今の声が廊下に漏れることはないだろうと微かに安堵し、再び部屋の奥へと目を向けた。
 執務用の椅子から立ち上がり、両手を机についているのはルルーシュ。そんなルルーシュの視線を受けながら、ゆったりと足を組んでソファに座っているのは彼の異母兄のシュナイゼルだった。

「君が納得しようとしまいと関係ない。私は決定事項を伝えに来ただけだと言っただろう?」
「しかし!」
「何より、これは本人の意志だ。たとえ皇帝陛下が命じられたとしても彼は自分の意志を翻すことはないと思うよ。それとも君は、彼の騎士としての精神を踏みにじるつもりかな」

 騎士という単語に、執務室の入口の前で直立不動になっていたスザクの頬がぴくりと動く。
 兄弟喧嘩と言うにはシュナイゼルがやけに落ち着いているから、ルルーシュが一方的に激昂していると言ったほうが正しいようだ。それにしても、騎士とはどの騎士のことを話しているのだろう。

「専任騎士は皇族に与えられた特権だ。そして、騎士がどんな生き方をしようとそれは当人同士の問題。死に方についても同様だ」
「――つまり、本人が納得しているから見殺しにしろと」
「それが必要であり、本人にその意志があるのなら尊重すべきだ。君も私と同じ考えだと思っていたのだが、自分が騎士を持ったことで甘えが生じたのかな。だったら騎士なんか辞めさせなさい、ルルーシュ」

 兄の言葉にルルーシュの視線がさらに険しくなる。憎悪さえ感じさせる瞳は初めて目にするもので、スザクは固唾を呑んで見守った。

「合理的かつもっとも成功率の高い作戦をみすみす逃す手はない。作戦の変更は認められないし、そもそも君の同意が必要なものでもない。これは単なる事後報告だということを忘れてはいけないよ」

 話は以上だ、とシュナイゼルが立ち上がる。ルルーシュは微動だにせず、兄を見送ることもしなかった。いつも通りの穏やかな表情のまま入口まで来た帝国宰相は、スザクを一瞥すると「邪魔したね」とだけ告げて部屋を出て行った。
 あとに残されたのは妙な沈黙で、おいそれと声をかけられる雰囲気ではない。しかし、いつまでも突っ立っているわけにもいかないと、気を引き締め直すとスザクは足を進めた。
 ルルーシュは相変わらず両手をついたまま机の一点を見つめていた。怒りを抑えるためか、握られた手元の書類がぐしゃりと潰れていた。
 仕事を言い付けられて部屋を出たのが二十分前。シュナイゼルが尋ねてくる予定は入っていなかったから突然の訪問だったのだろう。この短い時間の中でルルーシュをここまで激昂させるとは、一体何を伝えたのか。
 目を瞑り、大きく息を吐き出した主はそのまま乱暴に椅子に腰掛けた。平素では考えられない態度だ。

「殿下……」
「コーネリア姉上への書類は渡してきたのか」
「はい」
「そうか。じゃあ、そこに積んであるものを処分してきてくれ」
「かしこまりました」

 目を通して不用となった書類の束を抱え、スザクは再び部屋を出た。体よく追い出されたとも言えるが、今はひとりになりたい気分なのだろうと理解する。べたべたと四六時中傍にいるのが騎士ではない。

「一歩遅かったか」

 宰相府の長い廊下を歩いていると前方から声が聞こえた。目を向ければジェレミアがいて、珍しくどこか困ったような表情を浮かべていた。その様子に、彼もルルーシュの状態を知っているのだと悟る。

「ジェレミア殿も部屋を追い出されたのですか?」
「いや、私はシュナイゼル殿下がいらしてすぐに出て行った。宰相付きの者から用件の中身を聞いて、今は戻らないほうがいいと貴殿に伝えようと思っていたのだが、どうやら遅かったようだな」
「自分はやり取りそのものは聞いていないのですが、シュナイゼル殿下のご用件とは一体なんだったんですか」
「……まだ公にはなっていない話だからくれぐれも口外しないように。特にルルーシュ殿下の前では」

 声を潜めた彼に小さく頷く。人通りのないところに場所を移すと書類を一旦置き、ジェレミアと向かい合った。

「今度の軍の大規模派遣は知っているな。EUからの要請もあり、おもに東側の地域でのテロリスト集団を一掃する作戦だ」

 もちろん、と応える。万が一にも誰かに聞かれないよう、二人とも極力声は潜めていた。

「ラウンズの頃にもあの一帯には何度か遠征したことがありますが、小競り合いが続いていて軍が疲弊するばかりなので今回は本格的に動くとか。確か、シュナイゼル殿下自らが乗り込まれるのですよね」
「ああ。宰相閣下が動くということで、今回の作戦にルルーシュ殿下は参加されていない。そのこと自体に不満を抱いていらしたかどうかはわからないが、陛下と宰相閣下のお考えに異を唱えるおつもりはなかっただろう。ちなみに、殿下はどのようなご様子だったか?」
「シュナイゼル殿下に対してとても激昂していました。あんな風に怒鳴るお姿は初めてです」
「そうか……」

 唸ったジェレミアにどういうことかと先を促す。腕を組んだ彼は、小さく息をついた。

「陽動作戦と言えば聞こえはいいが、要は捨て駒だな。単身で敵地のど真ん中に突っ込むという無謀な計画が立てられている」
「まさか、そんな計画をシュナイゼル殿下が、」
「もちろん作戦のひとつとして挙げられただけで、最初から誰かを捨て駒にしようとしたわけではない。ただ、地理的条件や敵が潜伏している場所の状況からどうしても犠牲は避けられないことが予想された。そこへ、捨て駒となることを自ら立候補した者がいた」
「どうしてそんな役を……」
「立候補した男のことは私も知っているが、彼はかつて皇族の騎士を務めていた人間だ」

 その科白に先ほどの兄弟のやり取りを思い出す。騎士の精神とか生き方とか死に方とか、なぜそんな話になっているのかまったくわからなかったけれど、あの言い争いの原因はこれかとようやく合点した。

「しかし、危険な作戦に参加することをよく許可しましたね。仕えている方はどなたなのですか」
「実は、彼が仕えていた皇族は昨年亡くなっている。一年前の中東での作戦中に皇子が倒れたことは貴殿も知っているだろう」
「はい」
「専任騎士はただひとりのためだけに仕えるものだ。そして、主が亡くなれば騎士としての役目は終わる。その後の生き方は個人個人によるが、あの男は忠義に厚く、主を守れずに死なせてしまったことをずっと悔いていたようだ」
「だから自ら捨て駒に……」
「あるいは、騎士としての自分の死に場所を探していたのかもしれないな。これは私の勝手な推測だが」

 主を守るのが騎士の役目ならば、主を守って死ぬのは騎士にとって最大の幸福とも言える。しかし、主を守ることができなければそれは最大の不幸だ。
 スザク自身、暗殺未遂事件によってルルーシュが殺されていたかもしれないと考えたとき、心臓が凍り付くような感覚を覚えた。想像だけで何もかも失ったような錯覚を抱くのだ。もし本当に最悪の事態を迎えることがあったら自分はどうなってしまうのか。
 (――そんなことは絶対にさせない。殿下の命は何があっても守る)
 無意識に手のひらを握り締めれば手袋が微かに嫌な音を立てた。

「とにかくだ」

 ジェレミアの声に我に返った。今は自分のことを考えている場合ではないと意識を戻した。

「今回の計画はすでに決定事項で、作戦を命じられた男も納得している。と言うより、むしろ本人が希望して作戦に参加している。男の心情を理解し、反対する者は誰もいないそうだ。ただし、」
「それを知ったルルーシュ殿下はお怒りになった、ということですね」

 そういうことだとジェレミアが嘆息した。

「ルルーシュ殿下がシュナイゼル殿下のお立場ならきっと同じ計画を思いつかれたはずだろう。ただ、元騎士の男を捨て駒とすることには納得されないだろうとも危惧していたら、やはりそのとおりだったようだな。ルルーシュ殿下は時に非情な決断をされる一方、身内には甘い部分もおありになるからな」
「身内?」
「その男と殿下は昔から親交があってな。アッシュフォードと繋がりがあった関係でアリエスにも何度か足を運んでいたらしく、ルルーシュ殿下がまだ幼いときには遊び相手になっていたそうだ」
「そうだったんですか。そんな方が戦場で自ら死にに行くと知って、それで殿下はあれほど激昂されたのか……」
「しばらくおひとりになりたいだろうからお部屋には誰も近付かせないようにしている。もっとも、補佐としての仕事もあるので少ししかお時間を差し上げられないのが心苦しいが」

 心苦しいという言葉通り、ジェレミアの顔には苦悶の色が浮かんでいた。ルルーシュに忠誠を誓っている彼だからこそ、ルルーシュのことを思って胸を痛めているのだろう。

「では、自分も様子を見て部屋に戻るようにします」
「ああ。私が言うことではないが、殿下を頼んだぞ」

 ルルーシュとの付き合いはスザクよりもジェレミアのほうが長い。いくら元ラウンズと言っても、長年仕えてきた主を横から取られるような真似をされて内心腹立たしく思っているかもしれない。それでも主のためにと、あとから来た自分に任せてくれる彼は本当に忠義者だ。
 廊下でジェレミアと別れたスザクは、深々と頭を下げると反対方向に歩き出した。ふと、シュナイゼルの言葉が蘇る。

『だったら騎士なんか辞めさせなさい』

 本気で口にしたわけではないだろうが、弟の甘さを指摘して非難したことに違いはない。シュナイゼルは弟の能力を高く評価している。それ故に、つまらない私情を挟むなと苦言を呈したのだろう。そのことはルルーシュだってよくわかっているはずだ。
 (でも、理性と感情は別物だ。頭ではどんなに理解していても、そう簡単に納得できるものではない)
 自分も戦場で多くの人を殺した。ラウンズの道を選んだのは自分だし、人を殺すことを決めたのも自分だ。後悔はしていない。だけど、人の心を捨てたつもりもない。
 この咎は自分が一生背負っていくものだと、初めてランスロットに乗って戦ったときに心に刻み込んだ。
 (こんな思いを殿下にはしてもらいたくないけど、殿下もいずれ戦場に出ることになるんだろう)
 今は宰相補佐として作戦の立案に関わっているものの、実際に指揮は執っていない。しかし、さらなる足場固めのためには戦地での実績も必要となってくる。いくら皇帝や宰相に気に入られていても、評価に値する働きがなければ周囲はうるさいままだ。
 それでもルルーシュには手を汚してもらいたくないと思ってしまうのは、騎士としての自分の甘さなのかもしれなかった。

「アリエスに帰るぞ」

 戻って来たスザクを一瞥し、ルルーシュはマントを手に取った。目を丸めていた彼は、しかしすぐに騎士の顔をするとルルーシュの手からマントを奪い、背中に掛けてくれた。
 (内心の動揺はすぐに隠すか。さすがは元ラウンズだな)
 見た感じは一見優男でいつもにこにこしているような印象だが、ラウンズとして活躍していた数年間、世界中の戦場でナイトメアを駆り戦ってきた人間だ。しかもスザクは遠い日本からはるばるやって来て、このブリタニアで最高の地位を手に入れたのだ。
 そんな彼が、ただの皇子の騎士になったことをあれこれ詮索する人もいる。「枢木スザクは皇帝陛下から賜った」といろんなところでルルーシュがわざと吹聴しているので最近はあまり聞かないが、それでも陰では面白おかしく話されているのだろう。
 (俺がスザクを欲しいと言ったからだ)
 なんでも好きな褒美をやるとの言葉に冗談で答えたつもりだった。まさか本当に本気だったなんて、普段の父を知る人ならば決して思わないだろう。父が本気だと知っていたらあんなことは言わなかった。
 皇帝の騎士と皇子の騎士。しかも皇子はなんの力も持たない、皇宮内ではむしろ厄介者の扱いをされている存在だ。どちらの騎士になればより幸福か。考えるまでもないとわかっていたことだ。スザクの今後の人生を、彼の幸せを考えるなら「枢木スザクを騎士に」なんて冗談でも口にしてはいけなかった。
 彼の人生を滅茶苦茶にするような選択をしてしまった自分に後悔したこともある。でも、スザクを手に入れたいと思ったのもまた本心だ。
 (醜いな、俺は)
 父の騎士に対して密かに恋心を抱くだけで良かったのだ。それを欲しいと我儘を言ってはいけなかった。

「できました」

 マントの紐を結んだスザクが顔を上げた。翡翠の瞳が自分を見つめる。その色にルルーシュの心臓がどくりと音を立てた。
 初めて会ったのは、彼がラウンズになったばかりの頃だ。日本人が異例の出世を果たしたと当時から話題だったし、自分と同い年と聞いてどんな人物なのか興味を持った。だからさり気なく兄に頼み、ラウンズの顔見せのときにおまけとしてついて行ったのだ。
 今よりさらに幼かった顔立ちはとても柔和な雰囲気で、こんな人間が戦場で戦えるのかと訝しんだものだが、その後のスザクの働きを見たり聞いたりする中で疑念はすぐに消えた。
 スザクのことが気になるようになったのはそれからだ。いや、もしかしたら最初から惹かれていたのかもしれない。
 皇位継承権が低く、皇宮内での立場も弱い自分に対し、スザクは嫌な顔をしたり冷たい態度を取ることはなかった。むしろ、ほかの皇族よりも親しげに接してくれた。自分が皇子だから優しくしてくれているのだとしても、そこに嘘はないと感じられた。そんな彼のことをますます好きになっていった。
 この気持ちを伝えるつもりはない。彼が騎士として傍にいるだけで充分だ。
 (でも、そのせいでスザクの命を危険に晒すことがあるとしたら)
 ラウンズ時代も危険はあっただろう。スザクが軍人として生きる限り、危険は常に隣り合わせである。皇帝の騎士のほうが困難は多かっただろうし、あらゆる戦地に赴くという意味では今以上に危険だったはずだ。だけど、少なくとも自分のせいで死ぬ可能性はなかった。
 (卑怯な考え方だな。単なる責任転嫁じゃないか)
 これではラウンズのときなら死んでも良かったと言っているも同然だ。何より、スザクの無事だけを祈るのは上に立つ者としてあってはならない。戦争の最中に命を落とす兵士はごまんといる。スザクだけを特別扱いすることはできない。
 それでも、自分のために死ぬようなことはあってほしくないと思うのは己の醜い感情だ。兄の言うとおり、騎士としてスザクを迎えたことによる甘えなのかもしれない。

「車の準備もできております」
「ああ」

 足を踏み出し、部屋の外に出た。仕事はまだ残っているけれどそんな気分ではなかった。兄が知ったら子どもっぽいと呆れられるに違いないと思いつつ、今は落ち着く場所で頭を冷やしたかった。
 (騎士としての精神、か……)
 兄の立てた作戦の有効性は理解している。自分もそのパターンは考えた。でも、初めから死ぬとわかっている作戦に親しかった人が立候補したと聞き、平静ではいられなかった。同時に、騎士の覚悟とはそれほどのものなのかと知った。
 だからこそ、スザクを騎士にしたのは間違いだったかもしれないという気持ちが生まれたのだ。戦地に赴く人のことを考えながら、別の部分でスザクのことを思うなんて最低だ。自分自身の感情に振り回されているようではまだまだ未熟者である。
 車の中でルルーシュはずっと無言だった。いつもならスザクと言葉を交わすのに、彼も気を遣ってくれているのか今日は走行音しか耳に入らない。不機嫌さを表している態度に困惑されているかもしれないが、今は気持ちがぐちゃぐちゃで口を開いたらつまらないことを言ってしまいそうだ。せめて自分の中の整理ができるまで、と心の中でスザクに謝る。
 いつもと同じアリエスへの道のりが、今日はやけに長く感じられた。

「お茶をご用意いたしましょうか」
「いらない」
「ではサンドイッチかマフィンはいかがでしょう。昼食もとられていませんし、何か軽いものでも召し上がられては。それともプリンがよろしいですか」
「――スザク」

 スカーフをするりと引き抜いたルルーシュの瞳がこちらを向く。そこにはまだ苛立ちの色が残っていた。

「何もいらない。しばらくひとりにしてくれ」
「ですが、」
「お前は私の世話係か。子どもじゃないんだ、ひとりで問題ない」
「そういうつもりでは……」
「お前が出て行かないと言うのなら私が出て行くまでだ」
「殿下!」
「ついて来るな!命令だ!」

 命令と言われて足が止まる。唯々諾々と従うだけが騎士ではないが、主の意志を踏みにじっていいわけでもない。
 ここはアリエスの離宮の中で警備は万全だ。自分のほかにも人間は大勢いる。
 (――いや、だからって放ってはおけない)
 ルルーシュの気持ちは尊重したいが、せめてどこにいるのかは把握しておきたいし、こんなときだからこそ傍にいてあげたかった。たとえ嫌がられようと、やはりひとりきりにはさせられないと思い直す。
 過保護な母親かとルルーシュは怒るかもしれない。確かにこれでは世話係と一緒だなと心の中で自嘲した。
 騎士だから傍にいたいのか。好きだから傍にいたいのか。この気持ちはどちらなのだろう。
 (これでは公私混同だ。我欲を捨てるどころか我欲しかないなんて騎士失格だな)
 ルルーシュが出て行ったと思しき方向に足を向けながら、私情に塗れた己の感情に溜め息をついた。
 思い返せば、自分は初めから私情だらけだ。ルルーシュの騎士になりたいと思ったのも、ラウンズの地位を捨ててルルーシュの騎士を選択したのも、純粋な忠誠心からかと言ったら嘘になる。こんな人間が騎士だと知ればルルーシュは嫌悪するだろう。
 だけど、彼の一番近くで彼を守りたいと願ったのもまた本心だ。

「あら、スザク君じゃない。ルルーシュは一緒じゃないの?」

 聞こえてきた声に振り返り、スザクは頭を下げた。
 以前、ユーフェミアにも似たようなことを言われたと思い出す。ここでも自分とルルーシュがセットとして認識されているのかと嬉しくなるが、すぐに表情を引き締めた。

「殿下も戻っていらっしゃいます。ただ、少しおひとりになりたいからと部屋を出られてしまって」
「もしかして喧嘩?それともルルーシュが駄々でもこねたのかしら」
「いえ、そんなことは……」
「いずれにしろ、自分の騎士を困らせるなんてあの子にしては珍しいわね」

 くすくすと笑うのは供の者を連れたマリアンヌだった。彼女は元ラウンズで、スザクにとっては先輩とも呼べる人だ。見た目にそぐわぬ豪胆さは語り草となっていて、あの陛下がマリアンヌ様にだけは頭が上がらないとこっそり噂されている。
 庶民から騎士、騎士から皇妃へと上り詰めた彼女は女性の憧れでもあり、民衆の人気はとても高い。庶民出の皇妃と陰口を叩く貴族や皇族もいるが、そんなことをいちいち気にしていたら何もできないと笑い飛ばすような強さも持っている人だ。

「で、ルルーシュはどこへ行ったの?」
「実は見失ってしまいまして……」
「それで探していたというわけね。だったら特別に教えてあげるわ。東の最上階まで上って、一番の奥の部屋に行ってみなさい」
「え?」
「ルルーシュが小さい頃、ひとりで泣きたいときによく籠もっていた部屋よ」
「――はい!ありがとうございます」
「それと、もうひとつ」

 一歩近付いたマリアンヌはふわりと笑みを浮かべた。それは優しい母親の顔だった。

「ルルーシュのこと、お願いね。お兄ちゃんだからって昔からひとりで頑張ってきて、私にもあまり弱いところを見せたがらないような子だったから、あなたを騎士にすると言い出したときはやっと背中を預けられる人が見つかったのねと思ってほっとしたの。ちょっと気難しいところがあるかもしれないけど、これからは二人で一緒に頑張ってもらえたら嬉しいわ」
「マリアンヌ様……」
「私からのお願いは以上。迎えに行くのが遅いとそれはそれで怒っちゃうから早く行ってあげなさい。任せたわよ、スザク君」
「イエス、ユアハイネス」

 少し出かけてくるわねと手を振ったマリアンヌに最敬礼をして見送ると、スザクは教えられた部屋を目指し駆け出した。
 自分が欲に塗れているのは元からだ。騎士になったことを今さら申し訳なく思うのなら初めからその手を取らなければ良かったのだ。
 ルルーシュが自分を選んでくれた。いろんな人から彼のことを託された。騎士失格のレッテルを自分自身で貼るということは、それらの想いを踏みにじるも同然だ。騎士を解任されない限り、いや、たとえ解任されたとしても、ルルーシュを守る役目を手放すつもりはない。自分は彼のためだけに生きると決めたのだから。
 目的地の近くまで行くと、ふいに音が聞こえた。
 (ピアノ……?)
 柔らかいメロディはどこかで聞いたことがあるけれど曲名はわからなかった。ドアの前に立ち、一拍置いたあとに小さくノックする。ピアノの音が止み、代わりに誰何を問う声がした。それは間違いなくルルーシュの声だった。

「枢木です」

 短く答えた。沈黙が続く。自分の心臓がやけに大きく鳴っていた。
 しばらくして入室の許可が出ると、スザクは安堵の息をついて失礼いたしますと中に入った。部屋にはほとんど物がなく、中央にグランドピアノが鎮座していた。まるでピアノのためだけに用意されたような場所だ。

「――さっきはすまなかった」

 鍵盤に目を落としたまま謝罪した主に首を振る。

「自分のほうこそ、殿下のお気持ちを汲み取れず申し訳ありません」
「お前は何も悪くない。私が八つ当たりしただけだ。……さっきの兄上の用件はもう知っているのだろう」
「聞きかじっただけですが」

 知らないと嘘はつけなかった。ルルーシュの視線が向けられる。

「兄上の計画の完璧さはほかの誰よりも理解しているつもりだ。私情を挟んだのは私の弱さだな」
「人の命を大切に思うことは弱さではありません」
「だが、代わりの案を出せないのなら意味がない。兄上の、そして彼の考えを覆せないのならば私の考えなど無駄だ」
「その方は殿下と仲がよろしかったのですか?」
「貴族の中では良かったほうだと思う。子どもの頃、ときどき遊んでもらったからな。皇宮であまり良く思われていない私に対しても普通に接してくれたし、とても優しい人だ。――なあ、スザク」

 小さく呼ばれ、はいと答える。彼の傍まで近付くと椅子の横で膝をつき、整った横顔を見上げた。

「お前は私のために死ぬ必要はない。私のためだと言うのなら、何があっても生きろ。たとえ私が死ぬようなことがあったとしても必ず生きろ」
「殿下、」
「騎士の生き方も死に方も当人同士の問題だと兄上は言った。先ほどはつい感情的になってしまったが、私もそう思う。主のために死ぬのが騎士道だと言うのなら否定はしない。だが、お前が死ぬことを私は決して許さない」
「殿下を守るためであっても、ですか?」
「私はお前を殺すためにお前を騎士にしたわけではない。私はお前と共に生きたいんだ。これは私の我儘だと知っている。お前から出世の道も平穏な生活も奪っておきながら、騎士としての覚悟を否定するようなことを言ってすまない。でも、お前には生きていてほしいんだ」

 淡々と語る声には深い想いが感じられた。
 生きていてほしい。その一言を喜ぶのはやはり騎士失格なのかもしれない。でも、彼の愛情に満ちた言葉を嬉しいと思う。
 敬愛している人が、家族でもない自分をここまで想ってくれている。否定や拒絶なんてできるはずがなかった。

「――わかりました」

 膝を付いたままルルーシュを真っ直ぐ見つめた。

「殿下をお守りし、殿下と共に歩むために、自分は必ず生きます」
「その約束、違えるなよ」
「イエス、ユアハイネス」

 ルルーシュが顔を綻ばせた。ようやく笑顔を目にすることができて、知らず心が温かくなった。
 彼が笑ってくれるならばなんだってしよう。泣いたり悲しんだりする顔はさせたくない。だから、ルルーシュを守るためにも自分は生きるのだ。

「せっかくだから一曲弾いていく。お前は先に戻っていていいぞ」
「いえ、ご迷惑でなければここで聴かせてください」
「それならソファにでも座っていてくれ。ピアノを聴くのにかしこまっている必要はない」

 言われたとおり近くのソファに腰掛けた。ルルーシュの指が鍵盤に当てられ、滑らかな動きで音を奏でていく。静かに、穏やかに、どこか慈愛に満ちた音色はとても心地良かった。
 彼を守って死ぬのではなく、彼を守って生きることが彼の望みだと言うのなら、その願いは必ず叶えよう。
 共に生きたいと告げてくれた人のために、必ず。
 (14.04.29)