髪を撫でる優しい感触に、ぽっかりと意識が浮上する。
寝起きの頭はまだ夢うつつで、今の状況がすぐに把握できない。それどころか、このままもう少し眠っていたいと思った。
ふわふわと、まるで波にたゆたっているような感覚。髪を撫でる手。体の下にあるのはスプリングの効いた寝心地の良いベッドで、触れるシーツは極上の肌触りだった。
眠るのは嫌いじゃない。寝ている間だけは現実に追われることがないから。
でも、夢を見るのはあまり好きではないかもしれない。現実に戻ったときにとてもがっかりしてしまうから。
意識が浮上する瞬間は嫌いだ。目が覚めてしまったと、夢と現実の狭間で後悔をする。
思えば、心地の良い目覚めというものは十歳のときから経験していない。起きられないのが怖いのではなく、起きてしまうことが怖かった。それは、心の底でずっと死を願っていた影響なのだろうか。
(ならば、目覚めの良い今は、少なくとも死は望んでいないということなのか)
スザクはゆっくりと瞼を開けた。
目の前にはルルーシュの穏やかな顔があった。髪を撫でていたのは彼の手だった。だから気持ちが良かったのかと、スザクはいたく納得する。
そして、ようやく自分の状況を把握した。
(今日はルルーシュの視察に随行して、謁見の時間に立ち会って、ロイドさんのところに顔を出して、ついでにランスロットの調整をして、それからルルーシュの部屋でルルーシュの帰りを待っていて……)
皇帝用の広々としたベッドを前にして睡魔に勝てず、少しだけと思いながら横になった。そしたらすっかり眠りこけていたらしい。
帝国で皇帝に次ぐ権力を持つナイトオブゼロとはいえ、皇帝陛下専用のベッドで断りもなく寝るだなんて、もし普通の主従関係ならば即刻首が飛ぶだろう。
しかし、自分のベッドを占領されているというのにルルーシュの顔は穏やかなままだ。むしろスザクの眠りを見守っていたようでもあった。これでは皇帝と騎士の立場がすっかり逆転してしまっている。
慌てて起き上がろうとしたら、やんわりと肩を押された。起きるなというサインなのだろうか。
スザクは力を抜くと、再びベッドに沈んだ。
「――懐かしい夢を見た」
しずかに呟く。
「どんな夢だ?」
「昔の君の夢。子どもだったり、再会したときだったり、君が君を忘れているときだったり。いろいろな君がいて、僕も君に対していろいろなことを思っていた。守りたいという気持ち、一緒にいたいという気持ち、憎いという気持ち。どれもばらばらで、でも確かに僕が抱いていた気持ちなんだ」
髪を梳きながら、ルルーシュは口許に笑みを湛えていた。
「まだ俺が憎いか?」
「……今はもうわからない」
スザクに触れていたルルーシュの手が離れ、体の傍らに置かれる。その手を追いかけてスザクは指を伸ばした。
「憎い気持ちは残っているような気もするけど、それがどんな感情だったのか忘れてしまった」
ルルーシュの左手に自分の左手を重ねる。温かい。生きている人間の温かさだった。
スザクは死に逝く人間の手の感触を知っていた。少しずつ命が消えていき、最後には魂の抜けた重みだけが手の中に残るあの感触。
今はここに存在しているルルーシュの体も、いずれはただの抜け殻になるのだ。
その日を思い浮かべてスザクはぞっとした。左手を握ったままベッドの上に起き上がる。先ほどまでのまどろみは完全になくなり、意識はすっかり覚醒していた。
「スザク?」
首を傾げたルルーシュが不思議そうに名前を呼ぶ。
スザクは何も答えることなくルルーシュを抱きしめた。突然のことに体重を支えきれなかったルルーシュがバランスを崩し、二人一緒にベッドに倒れた。
腕の中にある体のぬくもりに、自分がひどく安堵するのをスザクは感じる。
(大丈夫)
(まだ失くしていない)
(ルルーシュはここにいる)
顔を横に向け、目の前にある形の良い耳に唇で触れた。ひくりとルルーシュの肩が動いたけれど抵抗はなかった。拒否の意がないことを承諾と勝手に解釈して、スザクはそのまま滑らかな肌を辿った。頬に触れ、唇の端を掠め、皇帝服の首元を片手で器用に緩めてから首筋へと辿り着く。動脈の位置に舌先で触れれば、そこでようやくルルーシュが身を捻った。わざと歯を立てて軽く噛むと、その腕が持ち上がったのが視界の片隅に映った。
そのままスザクの体を押し退けると思われた腕は、しかし予想に反してスザクの頭へと伸ばされ、先ほどまでのように優しく髪を梳いた。
スザクは思わず首から唇を離してルルーシュの顔を見る。
穏やかなままの顔がそこにはあって、恐ろしいものなど何もないはずなのに言い知れぬ不安に襲われた。
「スザク。俺を憎んでいいんだぞ」
ルルーシュは笑みを浮かべながら告げた。
「むしろ俺を憎んだままのほうがお前のためだ」
その科白にスザクは目を瞠る。そして、つらそうに顔を歪めた。
「酷いね、ルルーシュは。僕にはもうそんなことできないって知っているくせに」
“憎い気持ちは残っているような気もする”なんて嘘だ。憎いと思い続けなければ枢木スザクというものが崩れそうだから憎いと思っているだけで、本当はとっくに許している。だけど、ルルーシュの前では憎んでいる振りをしていた。
「ルルーシュに謝りたかったんだ。君のことを憎みきれなかったくせに、僕は自分自身に嘘をついていた。もういいよって、その一言を君に言えれば未来は変わっていたのかな。君に伝えたいことがたくさんあったんだ。いいことも悪いことも、たくさんあった。でも、僕は何ひとつ伝えられなかった。ごめんという言葉すら、口にすることができなかった。生きている君に、直接言いたかったのに」
自分は一体何を喋っているのだろう。
『生きている君に』?
どうして死んだ人間に対するようなことを言うのだろう。
ルルーシュはここに生きているじゃないか。
自分の目の前にいるじゃないか。
スザクは思わず白い頬へと手を伸ばした。指先に触れたのは、唇で感じたのと同じ温かさだった。
「わかっているよ、スザク」
ルルーシュが微笑む。
「お前が思っていたことは、全部わかっている。俺だってお前にたくさん伝えたいことがあったはずなのに、何ひとつ言葉にすることができなかった。生きているうちに言えば良かったと今ごろ後悔しても遅いのに」
「ルルー、シュ?」
ルルーシュまで何を言い出すのだろう。
これではまるで生者と死者の会話だ。冗談でもやめてほしい。
それともこれは予行練習だろうか。ゼロレクイエムが成功すればルルーシュはいなくなる。いずれ受け入れなければならない彼の死に今のうちから慣れておけと、そういうことだろうか。
(だとしたら、君はどこまで残酷なんだろう)
目の奥が熱くなって、スザクは誤魔化すようにルルーシュを掻き抱いた。
この温もりも、この感触も、あと少しで失ってしまうなんて嘘だと思いたい。
泣き喚いて止めることができれば、せめてルルーシュへの想いを消し去ることができればどれほど楽だろう。何度もそう考えたけれど、どれもできるはずがないと自分自身ですべて否定して、そのたびに絶望する。
明日を望むくせに、明日が来なければいいと願う。ひどい矛盾であり、許されないことだ。だけど――。
「ルルーシュ、僕は本当は……」
続く言葉を言ってはいけないと思った。告げたところでルルーシュが困るだけ。でも、ここで伝えなければもう二度と伝えられない。
「本当は、君と生きたい」
心の底ではもうルルーシュを憎んでいないということを、ルルーシュを愛しているということをどうしても伝えたかった。
「君と一緒に明日を迎えたい。君を……殺したくなんかない」
憎まれていると思ったままルルーシュには死んで欲しくなかった。たとえそれが単なる自己満足だったとしても、伝えたかった。
気付けばなだめるようにルルーシュがスザクの頭を撫でていた。今日はずっと撫でられてばかりだと、頭の片隅でぼんやり思う。寝ているときも、まだ夢の淵を彷徨っている間も、起きてからも、ずっとルルーシュの優しい手の感触を感じている。永遠にこの時間が続けばいいのにと思うほど、優しい感触。
「知っていたよ」
耳元で囁くような声が聞こえた。
「ずっと、知っていた」
ルルーシュの腕が背中に回される。
「知っていて、知らない振りをしていた。俺も同じように、お前と一緒に明日を迎えたいと思っていたのに」
同じくらいの強さでスザクは抱き返された。
「だけど、それはお前と俺自身に対する裏切りだ。そんなことは俺たちには許されなかったんだ」
「……わかっている」
「人生にもしもは意味がない。でも、もしほかの選択肢を考えることができていたなら、俺はお前をひとりにしないで済んだのかな」
スザクはそこでふと気付いた。なぜルルーシュはすべて過去形で話しているのだろう。
体を起こして、柔らかい光を湛える紫の瞳を見つめた。やはりルルーシュは笑っていた。まるでこの世界につらいことなど何ひとつもないと言うようにとても穏やかで、果てしなく優しい笑み。
その瞳に飲み込まれそうになっていると、とん、と肩を強く押されてスザクはバランスを崩した。油断していたからか簡単に尻餅をつく。さらに腕を引かれてベッドへと倒れた。
呆気に取られながら、目の前の美しい顔を見上げる。最初と同じ体勢だった。
「ルルーシュ?」
「まだ時間が少しある。しばらく横になっていろ」
「でも」
ルルーシュの手がすっと伸びて、スザクの視界を覆い隠した。
「もういいから、今はゆっくり休め」
その言葉が合図だったかのように不思議と睡魔が襲ってきた。自然と瞼が下りる。
時間になったら、俺が起こしてやるから。
ルルーシュの声を聞いたのは、夢の中だったかもしれない。
(09.09.30)