Last Letter 6

 目を開けば、そこにはスザクの寝顔があった。
 すうすうと小さく寝息を立てている。思わず笑みが零れた。
 この二ヶ月、俺が眠るころ部屋を抜け出し、扉の前で一晩を明かし、朝を迎えるころベッドに戻って寝たふりをしていたスザク。俺が起きる素振りを見せたら、たった今、自分も起きたかのように「おはよう」と朝の挨拶を告げていたのに。
 今日に限って眠りこけてしまい、俺が起きたことにも気付かないなんて。
 (毎日無茶をするからだ。馬鹿)
 心の中で悪態をつきながら、しかし顔は緩く笑んでいると自覚していた。でもスザクには見られていないのだから問題ないだろう。
 毛布から手を出して、スザクの投げ出されている手をそっと握る。
 (あたたかい)
 子どもみたいな体温だ。
 スザクが俺の手を握り、指を絡めてきたときも温かかった。できればずっと握っていてほしいと思うほどに。
 起こさないよう、静かに身を起こす。その顔の脇に力をかけないよう気を付けながら手を付いた。
 顔を寄せ、そっと唇に触れる。

「スザク……」

 最初で最後の、俺からのキス。
 もっといろんな感情が湧き出すかと思っていたけれど、不思議と心は凪いでいた。とても穏やかで、ただ温かいだけ。

「…ぅっ」

 スザクから覚醒の気配がして、俺は何事もなかったかのようにベッドに潜り込んだ。目は閉じず、じっとスザクの顔を見つめたまま。
 何事かを唸っていたスザクは一度きつく目を瞑ると、力を抜いてのろのろと瞼を開けた。その翡翠の瞳がはっきりと覗いたところで、俺はにっこりと笑みを浮かべた。

「おはよう、スザク」

 スザクはぱちりと目を瞬かせて、数秒の後に「おはようルルーシュ」と笑みを返してきた。だけどその顔はしまったと言っている。ベッドで眠ってしまったことと、俺より後に起きてしまったことに慌てているのだろう。
 そんなこと気にしなくていいのに。俺は可笑しくて笑った。
 一度でいいから先に「おはよう」を言いたかったと教えたら、お前はどんな反応をするだろう。喜んでくれるか、そこは譲れないと膨れるか。
 (聞いてみたかったな)
 つきりと胸が痛んだことには気付かないふりをして、俺は身を起こした。

「よく眠れたか?」
「え…、あ、うん」
「そうか。それは良かった。体調は万全にしておかないといけないからな」

 手を伸ばして、スザクの柔らかな髪に指を絡める。今までこんなことしたことなかったというのに、最後だから少しだけ箍が外れているのだろうか。案の定、スザクが戸惑いを含んだ複雑そうな顔をしていた。
 余計なことを考えさせて悪いなと思いながら手を離す。

「お前はもう少し眠っておけ。俺は先に朝食にするから」
「いや、僕も起きるよ」
「まだ時間があるからゆっくりしていろ。明日からはまた忙しくなるんだ。休めるときに休んでおかないと」
「休みはこの二ヶ月で十分取ったよ。それに僕もお腹空いたから」
「そうか」

 身体を起こしたスザクに、俺はそれ以上何も言わずに視線を逸らした。思わず笑みが浮かんでしまい、立てた膝に肘を乗せて頬杖を付くと、スザクから口元が見えないよう顔を隠す。
 最後の食卓を一緒に過ごせることが嬉しかった。
 休んでいていいと言ったのに、それでも起きるということはスザクも朝食を共にしたいと思ってくれたのかもしれない。そう考えるのは果たして都合が良過ぎるだろうか。

「ルルーシュ?どうかした?」
「いや…、お前は何が食べたい?」
「僕?僕は……、うぅん、ルルーシュの食べたいものでいいよ」
「任されると逆に難しいんだが」

 スザクの好きなものを作ってやろうとしたのに。最後だから俺の好きなものを食べればいいと逆に遠慮されたのかもしれない。互いに互いのことを思っているのに、こんなところでまで擦れ違うなんて。

「それなら俺の食べたいものを作るから、何が出てきても文句を言うなよ」

 くすくす笑えば、「言わないよ」とひどく真剣な答えが返ってきた。

「ルルーシュの作るものに間違いなんてないだろう?」

 俺は思わず動きを止め、スザクの顔を凝視する。

「――あぁ。そうだな」

 話しているのは朝食の話題なのに、違うことを言われたような気がした。
 間違いなんてないと、これから先のことにお墨付きを与えられたような。
 俺の勘違いかもしれない。だけど今は勘違いしていたかった。二人で何度も確認し合ったことだけれど、最後の日にもう一度肯定されてひどく安堵している自分がいた。
 ありがとう。

「え…?」

 心の中だけで呟いたはずなのに、スザクが反応を返す。こういうところは妙に勘のいいやつだ。
 俺は何も言わずにベッドから降りた。

「先に行って待っているよ。お前は後から来い」
「――うん」

 顔を見上げてくるスザクに笑みだけを浮かべ、俺は部屋をあとにした。
 これが最後だなんて嘘みたいだな。
 そう言ってみたかったけれど、スザクが複雑そうな顔をするのはわかっていたので、胸のうちだけに仕舞った。
 朝の陽に照らされた廊下をひとり歩く。見れば、気持ちの良い青がどこまでも広がっていて、今日一日がまるで祝福されているかのようだった。

「いい天気だな……」

 世界の始まりに相応しい綺麗な青空に、俺はそっと目を細めた。

「……?」

 ふいに違和感を感じ、立ち止まって左頬に手をやる。触れた頬が微かに濡れていて、自分が泣いているのだと気付いた。
 哀しくないのに、涙が零れる。
 目を閉じれば、眦からぽろぽろと水滴が落ちて行くのがわかった。こんな顔をスザクに見られなくて良かったと、少しだけほっとした。いくら哀しくないと言っても、泣いているところを見られたら心配をかけてしまう。
 スザクには余計な心配や不安を抱いて欲しくなかった。ただ真っ直ぐに、目的のために、前だけを向いて歩いて欲しかった。引き止めるようなことはしたくなかった。
 顔を微かに上げて瞼を開けば、目に痛いほどの青が飛び込んでくる。涙はまだ止まらない。
 (あぁ、そうか。きっと、空が綺麗だから――)
 心はとても穏やかで、でも涙だけが止め処なく流れるのは空が綺麗だから。そう思えば、こんなところで泣いていることに納得できるような気がした。もし今ここにスザクがいたら、そんな理由で納得なんてしてくれないだろうが。
 哀しくはない。むしろ嬉しい。
 こんな青空の下で死に、世界に明日を贈ることができるのだ。ひとりで寂しく死ぬのではない。少なくとも、俺のことを理解してくれる理解者たちがいた。俺のことを愛してくれる人がいた。死ぬときはひとりだけど、孤独ではない。それはとても幸福なことだと思った。
 だから、哀しくはない。
 涙を拭うと、俺は再び歩を進めた。口元には笑みが浮かんでいた。自分では確められないけれど、きっと幸せな笑みのはずだ。
 歩きながら頭の中で献立を考える。思い浮かんだのはスザクの好きなものばかりで、なんだか自分が可笑しかった。
 (好きだよ、スザク)
 自然に生まれた想いに、胸がいっぱいになる。
 遠くのほうで扉の開閉する音が聞こえた。スザクが部屋を出てきてしまったのかもしれない。

「ルルーシュ!」

 案の定、名前を呼ばれ、追いかけてくる軽やかな足音がする。まだキッチンにすら辿り着けていないというのに、困ったやつだと苦笑いを浮かべながら溜め息をつく。

「仕方ない、スザクにも手伝わせるか」

 ひとりごちて立ち止まると、スザクが追いつくのを待った。

「来るのが早い」
「君が歩くのが遅いんだよ」
「倍のスピードで歩いたって、ようやく調理に取り掛かれたかどうかだ。後から来いと言ったのに」
「いいじゃないか。僕も手伝うし、そのほうが早いだろう?」
「当然だ」

 俺が歩き出すと、スザクも付いて歩いてきた。涙の跡を見咎められなかっただろうかと思ったが、スザクに変わった様子はなかったし、今さらだったので気にしないことにした。

「和食と洋食、どちらがいい?」
「和食。……あ、いや、ルルーシュの好きなほうで」

 即答しておいて、ついさっき俺の食べたいものと言ったことを思い出したのか慌てて言い直すスザクに、我慢できず声を出して笑った。

「構わないさ。俺も和食だと思ったから」

 珍しく意見が合ったなと、そう考えれば些細なことだというのに嬉しい。

「ただし、メニューは俺の好きなように決めるからな」
「もちろん」

 いつの間にか並んで歩いていたスザクをちらりと見る。視線に気付いたのか、何?と問われた。俺は寝室にいたときと同じく、ただ笑みだけを浮かべた。
 俺は幸せだよ。
 言うのは簡単だけれど、今のスザクはそんな言葉を望んでいないような気がしたから、心の内だけで呟いた。
 キッチンに着くと、俺は腕まくりをした。

「何を作るの?」
「そうだな……」

 スザクの好物ばかりを挙げれば、一体どんな顔をするだろう。そんな思い付きに、俺はふっと笑った。

「何?」
「やっぱりお前はいいよ」
「え?」
「すぐに作るから、お前は席で待っていてくれ」
「でも、」
「いいから。最後くらい俺に作らせてくれ」

 スザクが固まったのがわかったけれど、何も気付かないフリをしてぽんと肩を叩いた。

「ルルー、シュ」
「待っていてくれ」

 笑んでみせれば、スザクはほっとしたように身体から力を抜き、小さく頷く。

「――うん。待っている」

 そう言って、キッチンを出てダイニングルームへと向かって行った。その後ろ姿を見送ると、俺はシンクに寄りかかり瞼を閉じた。
 最後の日に「いただきます」と「ごちそうさま」と、それから「行ってきます」を言えるのがスザクで良かった。ナナリーにはもう言ってあげられないけれど、いつの日か、俺の代わりにスザクが言ってくれることを願った。
 まだゼロ・レクイエムが終わっていないというのに、随分と気の早い、そしておこがましい願いなのかもしれない。だけど、スザクにもナナリーにも幸せになって欲しいから、願わずにはいられない。
 (皆が幸せになってくれればいいな)
 声には出さず、心の中だけでスザクに語りかける。
 もちろん、皆の中にはスザク自身も含まれていた。真面目で頑固でどこか不器用なスザクは“幸せになること”を否定するだろうから、直接言ったりはしないけれど。
 皆、幸せに。
 決して口にはできない願いの言葉が、朝の陽に包まれた空間にとけて、そして消えた。
 (09.05.12)