「ルルーシュ」
バルコニーに姿を見つけ、小さく名前を呼んだ。
手すりに肘を付いて月を見上げていたルルーシュは、振り返ると「スザクか」と笑った。歩を進め、その隣に立つ。風が彼の黒髪を揺らした。
「そんな薄着で外に出ていたら風邪を引くよ」
「今日は暖かいから平気だ。それに今さら風邪を引いたところで、どうせ」
ルルーシュはふいに言葉を途切れさせると、口元に手を当てた。横目でちらりと窺えば、“しまった”という顔をしている。
何に対して“しまった”と思ったのか気付いたけれど、僕は何も知らないフリをした。指摘したところで意味がない。
「……そうだな。いくら暖かいとはいえ、夜風に当たりすぎるのも良くないな。戻るか」
ぽんと僕の肩を叩くと、ルルーシュは手すりから離れ部屋の中へと戻って行った。僕は彼の後ろ姿を目だけで追う。
『どうせ』
そのあとに続けようとしていた科白はわかっている。
『どうせあと二日で死ぬんだから、風邪を引いたところで問題ない』
そう。あと二日。
二日後には、皇帝に弓引いた者たちを処刑するための大々的なパレードが行われる。そして、そのパレードの場に僕はゼロとして現われ、ルルーシュを――。
「……やめよう」
小さく息を吐き出すと、ルルーシュの後を追って部屋に戻った。
ルルーシュは皇帝服を脱いで寝間着に着替えている最中だった。
綺麗な背中が目に入り、思わず顔を逸らす。よこしまな想いを抱いている場合ではないというのに、彼への恋心を自覚してからというもの、ふとしたときにルルーシュが見せる仕草や表情に何度も胸がざわついた。駄目だとわかっているのに、どうしようもない欲求が次から次へと湧いてきてしまう。
そんな僕の顔を見たC.C.に、「欲求不満か」とオブラートに包むことなく指摘されたときにはぎょっとした。顔に出している自覚はなかったから思い切り動揺してしまい、「なんだ、それで隠しているつもりだったのか」と呆れられたのには困った。
C.C.が気付いたということは、ほかの皆にも気付かれていた可能性が高い。ただ、彼女のようにわざわざ指摘してこないだけで。
(でもきっと、ルルーシュだけは気付いていない)
知られたくないと思いつつ、一番知ってほしい人からの反応が一番ないというのも少し堪えるな、と思わず苦笑いを浮かべる。
「どうした?そんなところに突っ立って」
着替えが終わったのか、訝しげな声が聞こえて僕は視線を元に戻した。眠るための準備をすっかり整えたルルーシュが目の前まで寄って来た。服の袷からちらりと見える鎖骨やうなじの辺りがやはり目の毒で、しかしそれに反するようにきょとんとしたあどけない表情がひどく不釣合いだった。
自分の魅力に無頓着で、恋愛や性的な意味合いのものをまったく知らない。純粋培養されて育ったわけでもないというのに、一体どうすればこれほど稀有な存在でいられるのだろう。
それでいて、人を率いるときの自分の見せ方はよくわかっている。カリスマという言葉がこれほど似合う人間もあまりいない。それはまさに王たる者の風格で。
(あぁ、やっぱり君は、皆に愛されているほうがよく似合う)
世界中から敵として憎まれるよりもずっと、ずっと――。
「スザク?」
気付けばルルーシュの顔に手を伸ばし、さらさらとした髪を掬い上げていた。そのまま、そっと優しく頭を撫でる。
戸惑いの目が向けられたが、僕はやめようとしなかった。
二ヶ月前の僕なら、自分の行動を自覚した瞬間、慌てて手を離していたことだろう。だけど、今は少しでもルルーシュに触れていたかった。あと二日もすれば永遠に触れられなくなってしまう温もりを、少しでも長く。
(まったく現金だな)
本当に死んでしまうと実感した途端、なりふり構わなくなるなんて。だったら最初から躊躇いなど見せずに、もっと触れていれば良かったものを。
(……わかっていなかったんだ。本当の意味では、まだ)
これはいずれ失う、失くしてしまう温もりなのだと、そう思って何度も触れてきた。でも、それが現実味を伴ってくるようになったのは、皇帝であるルルーシュの部屋で、ルルーシュと一緒に生活するようになってしばらく経ってのことだ。
ナイトオブゼロ、枢木スザクが“死亡”して約二ヶ月が経つ。
公式的には死んだことになっていても、身体は変わらず存在するのだから人目に付くのはまずい。もし生きていることが発覚してしまえば、ここまで進めてきた計画がすべて台無しになってしまう。
では、どこに身を隠すのが一番安全かと考えたときに、「そんなものは俺の傍以外はないだろう」とさらりと言ったのがルルーシュだった。どうやら最初からそのつもりだったようで、うろたえる僕とは対照的に、ルルーシュはさも当然だろう?という顔をしていた。
今現在、ルルーシュ皇帝の周りにいるのは、C.C.やジェレミア卿を除けば、ギアスをかけられた絶対に裏切らない者たちしかいない。人の口を伝って存在がばれる心配もなく、世界でもっとも安全な隠れ場所といえた。
しかし、その提案に乗ることを僕は躊躇した。
ルルーシュと同じ部屋にいることが嫌だったのではない。
ルルーシュのいないルルーシュの部屋にいることが嫌だったのだ。
僕はもうナイトオブゼロとして活動できないけれど、ルルーシュには皇帝としての仕事がまだ山ほど残っている。自然、私室に戻る時間は短くなる。ルルーシュのいない部屋で、僕はルルーシュの帰りをただ待たなければならない。
好きな相手と一緒に生活をして、何も手が出せないというのはたしかに苦痛だろう。でも、それ以上に、ゼロ・レクイエムのあと果たして僕は一人の時間を耐えられるのかどうか、そんなことを考えてしまうことのほうが僕にとっては苦痛だった。
今はまだルルーシュが帰ってくる。僕の待つ部屋に帰ってきてくれる。
だけど、ゼロ・レクイエムが終わったら?
ゼロ・レクイエムの成功は、ルルーシュという存在の消滅を意味する。そうなれば、ルルーシュは戻ってこない。
僕の元に戻ってこない。
もう二度と、戻ってこない。
この二ヶ月、ふとしたときに何度も背筋を凍らせた思考に囚われる。
目の前にルルーシュがいるというのに、まだ先の、だけど確実にやってくる未来に怯え、顔が強張るのを感じた。
(――いけない)
ルルーシュの前で怯えを見せてはいけない。ルルーシュが不安になるような態度を取ってはいけない。あと二日で死を迎える彼に、そんなものを感じさせてはいけない。
堪えるように食いしばった歯がぎりっと音を立てたとき、
「スザク」
再度、戸惑いの色を含んだ声で呼ばれた。その瞬間、固くなっていた身体から自然と力が抜ける。まるで魔法のような声だと思った。
ルルーシュの頭に添えるだけになっていた手をぎゅっと握り込むと、僕はようやく腕を下ろした。ルルーシュがほっとした顔をする。不可解な僕の行動に、どうすればいいのか困っていたのだろう。安堵の中に、少し残念そうな色が見えたのはきっと僕の勘違いに違いない。
「ごめん、ルルーシュの髪って手触りがいいから」
僕は無理やり笑みを作った。
「なんだそれは」
ルルーシュはどこか憮然とした表情を浮かべた。わざとらしすぎたかと思ったけれど、特に何も言ってこないのをいいことに、これ以上余計な弁解をするのはやめた。
「明日も早い。もう寝よう」
もう一度、今度は小さな子どもにしてみせるようにぽんぽんとルルーシュの頭を軽く叩く。案の定、「子ども扱いするな!」と怒られ、頭の上に乗せていた手を掴まれる。僕が声を立てて笑うと、ルルーシュがムッとしたような目で睨んだ。
「だってルルーシュが可愛いから」
「馬鹿は休み休み言え」
「馬鹿だなんて失礼だな」
「馬鹿だから馬鹿と言ったんだ。男に可愛いなんてどうかしている」
「そうかな?」
「そうだ」
ぷいと横を向いてしまったルルーシュ。そういうところが可愛いんだけどなと思いながら、僕はいまだ掴まれたままの手を握り返した。ルルーシュがぴくりと反応したけれど、振り払われることはなかった。
「ルルーシュ」
静かに名前を呼ぶ。
できることなら何度でも呼びたかった。こうして彼の名前を彼の前で呼べる時間はもう限られているから。
でも、惜しむ様子を見せてはいけない。僕が、僕たちが最優先しなければいけないのはゼロ・レクイエムの遂行なのだから、計画とは関係のないところでルルーシュを煩わせてはいけない。
(いけないことばかりだな)
一番最初に禁じたのは、ルルーシュへの想い。
結局、一度も伝えることのできなかったそれを今さら伝えるつもりはない。
だけど、せめて想いを込めて名前を呼ぶくらいは許されるだろうか。好きだという気持ちを伝える代わりに、大事に大事に名前を呼んでも構わないだろうか。
「ルルーシュ」
ルルーシュの顔が正面を向き、紫の瞳が僕を捉えた。僕もじっと見つめ返す。絡まる視線と、握り合った手だけが今の僕たちを繋ぐものだった。
どれほどそうしていただろう。ルルーシュはわずかに顔を伏せると、
「――スザク」
小さく呟いた。たった三文字を音にされただけなのに、僕の胸に温かいものが溢れてどうしようもなく泣きたくなる。
もっと呼んで欲しい。
その気持ちが伝わったのか、今度は顔を上げると、ルルーシュは真っ直ぐに僕を見て「スザク」とはっきり名前を呼んだ。そうして、ふわりと笑みを浮かべる。
僕も笑い返したけれど、泣き笑いの顔になっていなかったかどうか自信がない。
「ごめん……」
「どうして謝る」
「うん、なんとなく」
「なんだそれ」
ルルーシュがくすくすと笑った。その笑みを眩しく見ながら、僕は握っていた手を離した。消えた温もりが寂しかったけれど、ずっとこうしているわけにもいかない。
「寝ようか」
「あぁ、そうだな」
ルルーシュは踵を返すと、大人が三人寝てもまだ余裕があるほど大きいベッドにさっさと潜り込んだ。今までの余韻など微塵も感じられない、あまりにもあっさりとした態度に僕は苦笑いする。こういうところがルルーシュだと思った。
僕はベッドに近付くと、その端にそっと腰掛けた。
大きすぎるベッドなのだからもっと真ん中で寝ればいいのに、ルルーシュは右半分を空けて寝ている。僕のためのスペースだ。
皇帝の部屋で寝起きをすると決めたとき、もうひとつベッドを入れようとするルルーシュと、ソファで十分だと主張する僕との間でちょっとしたいざこざが起こった。だけど、それがあまりに無意味な争いだと二人とも気付き、折衷案として、ベッドを半分ずつ使用することをルルーシュが提案してきた。
大きさだけは十分あるから、男二人が寝ても狭くはないし大丈夫だと言われたけど、僕が気にしたのはもちろんそんなことではない。ルルーシュへの気持ちを自覚している身としては非常に複雑だった。
ルルーシュがまったく平気な様子だったのも、僕なんか意識していないと態度ではっきり示されているようで凹まされる。でも、むやみに反対するのもかえっ
て怪しまれると、大人しく折衷案を受け入れることにした。
寝心地の良い体勢を取ったルルーシュは、枕に頭を埋めたまま目だけで僕を見上げてきた。
「お前も寝ればいいのに」
「君が寝たのを見届けたらね。僕は皇帝陛下の騎士なんだから、君より先に寝るわけにはいかないよ」
「俺はそういう意味でお前を騎士にしたわけじゃ」
「うん、わかっている。だからこれは僕の自己満足だ」
笑いかけると、ルルーシュの顔に手を伸ばし上からそっと目を塞いだ。
「スザク」
咎めるような声で呼ばれたが、手を無理やりどかされることはなかった。
「明日も早いんだろう?最近、激務続きだったから、たまにはゆっくり休まないと」
二日後に死ぬとわかっている相手にこんなことを言うのはおかしいのかもしれない。
だけど、ルルーシュに二日後を意識させたくなかった。何より、僕自身が意識したくなかった。それを考えてしまうと、本当にどうにかなってしまいそうだったから。もっとも、普段通りでいようと自分に言い聞かせている時点で、逃げられないほどに意識してしまっているのだろうけれど。
(本当に、ただの自己満足だ)
自分勝手でごめん、と心の中で謝る。もちろんルルーシュには伝わらないけれど、こんなにぐちゃぐちゃとした心情などルルーシュに伝える必要などない。
「おやすみ。ルルーシュ」
極力穏やかな声音で告げれば、ルルーシュの口が何か言いたそうにわずかに開かれた。
「……おやすみ、スザク」
しかし、結局それ以上は何も言ってこなかった。そっと手を離せば、大人しく目を瞑ってくれている。ルルーシュの優しさに甘えている自覚はあったけれど、今の自分を曝け出すわけにはいかず、ごめんともう一度だけ胸の内で呟いた。
立ち上がり、部屋の明かりを落として回る。月の光があるから、照明がなくても自由に歩き回れた。
すべての明かりを消すと、ベッドに戻って先ほどと同じように端に腰掛ける。見れば、静かな寝息を立ててルルーシュが眠っていた。目を離していたのはわずかな時間だというのに、やはり皇帝としての連日の激務が堪えているようだ。
ルルーシュ皇帝は悪逆非道の限りを尽くしている、というのが現在の世界共通の認識である。
世界の明日を望み、自分がいなくなったあとのことまで考えてルルーシュが激務をこなしているだなんて、ゼロ・レクイエムを知る者たち以外は誰も知らない。
(――そして、僕だけが君の本当を知っている)
前髪を梳くと、さらりとした感触がした。もっと触っていたい気持ちを押し殺し、額にキスをひとつ落とす。
そのままベッドを離れて部屋の外に出た。後ろで扉の閉まる音を聞くと、寄り掛かるようにして座り込んだ。これが、ルルーシュの部屋で寝起きを共にするようになって以来の僕の習慣だった。
決して一緒には眠らない。
ルルーシュが寝ている間は同じ空間にいないよう自分に課していた。
扉の向こうで一晩過ごし、ルルーシュが起きるころに部屋へ戻ると、ベッドに潜り込んでまるでずっと眠っていたかのように振舞う。一晩中起きていることが知られればきっと責められるだろうから、絶対に気付かれないよう細心の注意を払った。
それは、暗殺などからルルーシュを守るという意味もあったけれど、それ以上に僕自身のためと言えた。
怖かったのだ。
どこかで自制を失ってしまうかもしれないことが怖かった。
ルルーシュに想いは伝えないと決めておきながら、彼に手を出してしまうかもしれない自分が怖かった。
だから、ルルーシュの隣では眠らなかった。主が眠るまで起きているのが騎士の務めだと嘯きながら、本当はただ自分のためだけにそうしていたのだ。
(どうしようもないくらい自分勝手だ。……でも、この距離感が今の僕たちには似合いなのかもしれない)
廊下に人気はない。誰も近付かないよう、あらかじめ人払いをしていた。
膝の間に顔を埋める。ルルーシュの存在を背中越しに感じた。
朝を迎えたらこっそり部屋に戻って、ルルーシュが起きるまでその寝顔を眺める。やがて目を覚ました彼が、寝起きでまだ焦点の合わない紫の瞳を僕に向けてくれる。それを愛しく見つめながら、僕はおはようの挨拶を贈るのだ。
最後の日も、僕はそうするのだろう。
いつもと変わらない一日の始まりを迎えるように、ルルーシュに「おはよう」と告げるのだ。
そうしたら、ルルーシュも「おはよう」と返してくれるに違いない。次の日も、また次の日も、同じ朝がやって来るのだと思えてしまえるほどに、温かな笑顔を浮かべて。
不思議と、いつの間にか心の中は穏やかになっていた。ルルーシュを失うことを考えればまだ胸は痛んだけれど、少なくともぐちゃぐちゃと絡み合っていた気持ちは凪いでいる。
きっとルルーシュは、最期の瞬間まで取り乱さない。
そう考えたら、僕一人だけが空回りして焦っているのがひどく情けなく感じられた。しっかりしなければ。両の頬をぱしんと強く叩く。
扉に凭れかかったまま、わずかに顔を上げると小さく息を吐き出した。
大丈夫だよ、ルルーシュ。
君の望む明日は必ずやってくる。
ゼロ・レクイエムは成功する。
僕が成功させてみせる。
必ず。
必ずだ。
「おはよう」とルルーシュに告げられる明日を思い描いて、僕はそっと瞼を閉じた。
(09.04.10)BACK<<