この恋が叶うまで

「えっ?」

 ルルーシュが顔を上げると、目の前の異母兄は笑みをたたえていた。一見穏やかだが、腹のうちが読めない笑顔だ。
 警戒するように見つめれば、シュナイゼルが今度は声を立てて笑った。
 この次兄にしては珍しい。よほど機嫌がいいのだろうか。

「そんなに警戒しなくてもいいだろう? 疚しいことは何もないよ。私はただ君にお願いしているだけだ」
「お願いって、すでに決定事項なのでしょう?」
「まあね」

 ほら、と心の中で舌打ちをする。
 ルルーシュはこの次兄が苦手だった。
 嫌っているわけではない。ただ、常に腹の探り合いをしているような状態で、一時も気の休まるときがないから疲れる。
 今日だって突然のお茶の誘いに難色を示したのだが、断ったら断ったで別の面倒事が発生するとわかっているため、渋々顔を出したのだった。
 (チェスや政治に関する議論ならば楽しめるが、それ以外はやはり苦手だな)
 しかし、ほかの兄弟姉妹はシュナイゼルと二人きりになっても平気らしく、ルルーシュに言わせれば信じられないの一言だ。異母妹のユーフェミア曰く、「それはルルーシュがお兄様と似ているからじゃない?」とのことだが、苦手な異母兄と似ているなんて認めたくはなかった。
 為政者としてのシュナイゼルは完璧だ。尊敬もしている。でも、人としての得意不得意はまた別の話だった。
 (いや、今はそんなことを考えている場合ではないな)
 カップをテーブルに戻し、姿勢を正してシュナイゼルと向き合った。

「兄上のお話に従うということは、途中で学生を辞めろということですか?」
「そうだね」
「あと一年もせずに卒業できるのですが」
「特例で君の卒業を認めるよう私からアッシュフォードに頼んであげよう」
「そういう問題ではありません」
「気持ちはわかるよ。しかし、皇族として生きている以上、覚悟はしてきただろう?」

 ルルーシュは視線を外さないまま、膝の上で両手を組んだ。
 皇族の責務。改めて言い聞かされなくてもわかっている。普通に過ごすことがどれだけ難しいか、物心ついた頃からずっと覚悟してきた。
 だけど、学校ぐらいはちゃんと卒業できるのではないかと期待していたから、心情としては簡単に割り切ることができなかった。
 身分を隠してアッシュフォード学園に通い始めて約二年。
 理事長の孫娘のミレイとラウンズのスザクを除き、ルルーシュが皇子であることは誰ひとり知らない。教師ですらごく一部にしか知らされていなかった。
 これはルルーシュの強い希望で、まだ正式にお披露目されていないのをいいことに我儘を通したのだ。ほかの兄弟は皇子や皇女として学校に通っているので、異例中の異例である。
 そのため、学校でのルルーシュはのびのびと自由気ままに過ごせた。生まれて初めて手に入れた自由だ。
 しかしモラトリアムの時間もこれで終わりかと小さく息を吐いた。ずっと覚悟はしていたが、いざそのときが来ると一抹の寂しさを感じる。

「君のために用意した副大使の椅子だ。喜んでくれるだろう?」

 シュナイゼルが右手を掲げると、控えていたカノンが何やら資料を渡した。ルルーシュ殿下にはこちらを、とテーブルの上に分厚いファイルが乗る。

「現時点での日本との取り決めと水面下で動いている交渉内容だ。それと、日本側の関係者はすべて網羅している。出発前に頭の中に入れておきなさい」

 仕方なく手に取ると中身をパラパラめくった。
 すべて網羅しているとの言葉通り、日本のトップからその下についている役人まで、経歴や実績などが事細かに記されている。交渉事項に関しては、表向きの発表だけでなく裏取引と思われる内容もあった。
 まだ話を受けていないのにこれを俺に見せていいのかと思わず異母兄のほうを見れば、ただ笑みを返されただけだった。

「ルルーシュが一緒に行くとなればクロヴィスも喜ぶよ」
「クロヴィス兄上を大使にするのがそもそもの間違いだと思うのですが」

 資料をテーブルに戻しながら、せめてもの嫌味を口にした。

「相変わらず辛辣だねぇ。日本とは緊張関係がようやく緩んできて、これからは文化面で親交を深めていこうと考えていることは君も知っているだろう? それにはクロヴィスが適任だよ」
「確かに、文化面での交流は重要でしょう。その点においてクロヴィス兄上が適任というのも理解しています。しかし、日本とはまだまだ危うい部分を残している関係でもあります。今ここでクロヴィス兄上を選択するのは最善ではないと私は思いますが」
「だからこその君だ」

 真っ直ぐに見つめられ、ルルーシュはその視線を受け止めるように顎を引いた。

「兄上、私はまだ学生です。皇位継承権も低いですし、アッシュフォード以外にこれといった後ろ盾もない。こんな立場の弱い人間に大使の補佐役など務まりません」
「そういう謙遜は君らしくないね。日本に行くのはそんなに嫌かな?」
「嫌というわけでは……」
「では、ほかに何か懸念が? だったら私が取り除いてあげよう」

 そんなものはないのだろう? と暗に言われていて、ルルーシュは目を伏せた。
 のらりくらりとかわせる相手でないことは初めからわかっている。今のはささやかな抵抗だ。
 しかし、これ以上の言葉遊びは無意味だなと諦めた。

「わかりました。副大使のお話、お受けいたします」

 ようやくイエスの返事をすれば、シュナイゼルは満足そうな顔をしていた。
 何もかもこの異母兄の予定通りなのかと思うとやはり悔しい。しかし、ここで駄々をこねて副大使の椅子を蹴るのも得策ではない。
 (副大使とは言え、日本においてはナンバーツーとなる。またうるさい連中が出てきそうだが、ブリタニアの中にいても余計な雑音はある。ならばいっそ国外に出るのもひとつの手か。それに──)
 不意に浮かんだ顔を打ち消すようにルルーシュは姿勢を正した。

「出立はいつですか?」
「三週間後の予定だ」
「また急な話ですね。一応、私にも心の準備というものがあるのですけど」
「今の大使が不正によって辞任することになったからね。大使代理は置いているが、日本は我が国にとっても重要な国だからあまり長期間不在にはしたくない。これでも遅いくらいだよ」
「わかりました。それで? このあとは?」

 どうせすでに決まっている話だ。手続きや事前準備に関する諸々もあらかた進められているのだろう。

「さすがはルルーシュ、話が早くて助かるよ。実はこのあと、父上から正式な任命を受けることになっている。クロヴィスも一緒だ。ああ、今日は貴族達はいないから安心しなさい」

 玉座の間には父だけでなくほかの皇族や貴族もいる。謁見するときは彼らに囲まれることになるので面倒だと思ったのだが、それを悟ったようにシュナイゼルが補足する。

「そういえば、大使の任命はいつも兄上がされていますよね。ならば、わざわざ父上に会わなくても」
「父上たっての希望だよ。これは君のお披露目であり、外交デビューにもなるわけだし」

 大袈裟にしなくてもいいのにとぼやくけれど、父が言い出したことならば断われない。

「では、すぐに正装を用意させます」

 学校が終わってすぐに呼び出されたため、ルルーシュはまだアッシュフォードの制服姿である。父親とは言え、一国の皇帝と面会するのだ。それなりの格好はしておかなければならないだろう。
 至急正装を持ってくるようアリエスに連絡を取ろうとすれば、「その心配はいらないよ」と異母兄に止められた。

「今頃、ジェレミアがこちらに向かってきているはずだ」
「私の部下を勝手に使うのはやめてください」
「父上との大事な話があると言ったら向こうが勝手に気を回しただけだよ」

 君の部下が自分の意思で動いたのだと言いたいらしい。まったくこの兄上はと、何度目かの溜め息をつく。

「それで、父上との謁見はいつですか?」
「一時間後だよ」
「またそんなタイトなスケジュールを……。もし私が頑として断っていたらどうするおつもりだったのですか」
「君は断らないだろう?」

 その質問には眉をひそめただけだった。何もかもお見通しなのが本当に悔しい。

「急いで着替えないと間に合わないではないですか。ジェレミアには何分前に連絡したんですか?」

 そこへ、噂をしていた本人の到着が伝えられた。息を乱して現れた彼は珍しく髪のほうも乱していて、車からここまで全速力で走ってきたことが窺えた。
 助かったとねぎらえば、ジェレミアはぴしりと姿勢を正した。

「殿下の御為ならばたとえ火の中であろうと水の中であろうと」
「それはいいから早く衣装をくれないか」
「はっ。どちらにお持ちしましょう」
「隣の部屋を使えばいい。私の侍女に着替えを手伝わせよう」

 シュナイゼル付きの者達に連れられ、隣室で着替えに取り掛かる。学生の間はあまり公の場に出ないようにしているので、こうして正装に袖を通すのは久しぶりだった。
 離宮の中では皇子らしい格好をしているが、それでも正装に比べるとラフな姿である。
 今年は新年の挨拶と父上の誕生日の祝賀行事くらいだったか? と思いながら首元のスカーフを整えてもらう。普段は自分で制服を着ているので、誰かに着替えを手伝ってもらうのも久々だ。
 最後にマントを羽織ると、そばに控えるジェレミアがやけに感激した様子で見ていた。

「どこかおかしなところがあるか?」
「いえ、ご立派になられてと思いまして」
「何を言っている。大袈裟だな」
「大袈裟などではありません。殿下が幼い頃から見守って参りましたこのジェレミア、年々殿下がご立派になられることを大変嬉しく感じております」

 忠義者の言葉に、褒めても何も出ないぞと笑う。
 ジェレミアは何かにつけて大袈裟だが、庶民出の母を持つ子としてルルーシュを下に見る者が多い中、彼だけは昔からルルーシュを皇族として大事に扱ってくれた。そのことについてはとても感謝している。

「このあと父上との謁見が入っている。終わったら兄上付きの者に送ってもらうからお前は下がっていいぞ」
「かしこまりました」
「それと、これから色々準備をしなければいけなくなる。正式発表はまだ先になるが、しばらくブリタニアを離れることになるからそういう心構えでいてくれ」

 目を瞠ったジェレミアをちらりと見たあと、「ただし、嫌なら無理について来る必要はない」と付け加えた。

「先ほども申し上げましたとおり、このジェレミア、殿下の御為ならばたとえ火の中水の中でも飛び込むつもりです」
「わかったわかった」

 小さく肩を揺らしてから、ルルーシュは改めてジェレミアのほうを見た。

「お前のその忠義に感謝する」

 ジェレミアがまた感激した表情を浮かべたので、今度はすぐに背を向けた。彼の熱い語りに付き合っていたら長くなるのだ。

「兄上、お待たせいたしました」
「時間はまだあるから問題ないよ。それにしても──」

 ルルーシュの頭の上から足の先までを眺め回した異母兄は、何やら満足そうに頷いていた。

「何か変ですか」
「いや、うちの兄弟には器量良しが多いけれど、やはりルルーシュは飛び抜けていると思ってね。我が弟ながら惚れ惚れするよ」
「兄上まで変なことを言って。残念ながら、私はそういう言葉にいちいち反応しませんよ。ここで褒めて得点を稼いでも意味はありません」
「私は事実を言ったまでなんだが」
「そんなことをおっしゃって、どうせ馬子にも衣装だと思っているのでしょう。正装は滅多に着ないから物珍しく感じるだけです」
「自信家で自分の能力も正しく把握しているのに、こういうことに関してはどうして無頓着なのか不思議だよ。ねえ、カノン」

 シュナイゼルに同意を求められた側近はくすくす笑っていた。

「それがルルーシュ殿下の魅力だと私は思っておりますが」
「まあ、それもそうだね」

 何がそれもそうなんだと言いたいけれど、ここで口を挟めばまた面倒になりそうだと黙っておく。
 やがてクロヴィスが到着し、部屋の中は一気ににぎやかになった。ルルーシュの姿を見るなりクロヴィスは褒めちぎってきて、またかとルルーシュはげんなりした。
 いつも会っているのに今日はなんなんだ、そんなに正装が珍しいのかとすっかり気持ちがくたびれた頃、ようやく玉座の間へと向かうことになった。
 シュナイゼルを先頭に歩きながら、家族が濃い人間ばかりだと気疲れするなと思った。いつもむっつりしていて厳めしい顔ばかりの父を思い浮かべ、さらに疲れた気分になる。
 (早くアリエスに戻ってナナリーとお茶をしたい)
 父の顔を頭から追いやり、最愛の妹のことを考えた。
 日本に行けばナナリーとはしばらく離れることになる。今生の別れではないし、連絡を取ろうと思えばいつでもできるけれど、物理的な距離だけはどうしようもない。
 だけど、ナナリーもそろそろ自立する時期だ。最近は彼女なりに将来のことを考えているようで、卒業後のことについて異母姉のコーネリアやユーフェミアにあれこれ相談しているらしい。
 男兄弟よりも姉妹のほうが話しやすいのだろうと理解しているものの、ナナリーが自分を頼ってくれないことがルルーシュには寂しかった。
 (俺も妹離れする時期なんだろうな)
 だからこそ、あえて物理的な距離を取るのは有効だ。どんな事情があれ、己の職務を放棄して勝手に帰国することは許されない。役職が付くとはそういうことである。
 (それに、スザクとも離れられる)
 もしかしたらそれが一番の理由かもしれない。我ながら私情にまみれているなと胸のうちで嗤った。
 あまり思い出さないようにしていたスザクの顔が自然と浮かぶ。
 先月のバレンタイン以来、スザクとは会っていなかった。
 スザクはあれから忙しくなり、留守番のはずが結局は遠征に駆り出されたようで、今はブリタニアから遠い土地にいる。今もきっとランスロットで戦場に出ているのだろう。
 (おかげで顔を合わせずに済んだと思っている。最低だな、俺は)
 スザクは遊びに出かけているわけではない。命がけでブリタニアのために戦っていて、いつ命を落とすかわからないような場所にいるのだ。なのに、スザクが学校に来られないことを知って一瞬でもほっとしてしまった。
 最低だ、とルルーシュはまた己を罵った。
 バレンタインのあの日、勝手に屋敷に押しかけて、勝手に食事を作って、勝手にチョコレート替わりの贈り物をして、勝手にキスをした。
 思い返すたびにいたたまれなさで叫びたいような気持ちになり、たった一度でも彼とキスできた嬉しさに胸がいっぱいになり、本人の意思を伴わないキスは犯罪と同じだと自己嫌悪に襲われる。それを半月ほどの間、ずっと繰り返していた。
 この恋は終わらせようと決めたのにスザクへの想いは未練がましく残り、ひとりになると無意識に唇に触れている自分がいた。
 こんな状態でスザクと顔を合わせたらどうなってしまうのか。少なくとも、視線はまともに向けられないだろう。得意のポーカーフェイスも上手くできるか自信がない。
 だから、日本行きは寝耳に水ではあったものの、スザクから離れるのにこれほど都合のいいことはないと思ったのだ。
 (今後のことも考えた上での結論で、スザクだけが理由なわけではない。ただ、理由のひとつではある)
 私情を挟むのは皇族としてあるまじきことだ。クロヴィスの起用にあれこれケチを付けたくせに、自分自身がこれでは情けなくてたまらなかった。
 ルルーシュの本音を知れば異母兄達はきっと呆れるだろう。立派になったと言ってくれたジェレミアもがっかりするに違いない。
 (一日でも早くスザクのことは忘れて、向こうでは職務に没頭しよう。それが、俺に期待してくれた兄上達へのせめてもの罪滅ぼしだ)
 玉座の間の扉が見えると、ルルーシュは気を引き締め直した。スザクの顔もナナリーの顔も追い出し、皇子としての自分を意識する。
 ここに入ればあとには引けない。
 気楽な学生生活も子供時代も終わり、皇族としての責務を全うして生きることを定められる。
 だけど、寂しいという気持ちはもうなかった。
 (覚悟なら決めた)
 玉座の前に進み出る。時折アリエスを訪ねてくる父に遭遇するけれど、皇帝としての父と顔を合わせるのはしばらくぶりだった。
 重々しく口を開いた父は、クロヴィスを日本の大使に、ルルーシュを副大使とすることを告げた。これをもって正式に日本行きが決定する。

「それから、ルルーシュ」

 任命して終わりかと思っていたら、思いがけず父から名前を呼ばれた。

「これでお前は公に出ることとなる。特別に餞別を贈ろう」
「餞別、ですか?」
「何か欲しいものがあれば申せ」

 突然の話にルルーシュは呆気にとられた。

「しかし私だけ餞別というのは……。でしたらクロヴィス兄上にも」
「私のことは気にしなくていいのだよ、ルルーシュ。君は初めて表舞台に出るのだから特別ということだ」
「ですが、欲しいものは特に……」

 物欲はあまりないし、そもそも皇族なので大抵のものは手に入る。皇帝に直々に願い出るほどの望みは持っていなかった。

「では、二週間後に聞こう。それまでに決めておくがいい」

 そこで謁見の時間は終わった。玉座の間を退き、異母兄達と共に回廊を歩く。
 正式に副大使を任命されてひと段落したはずなのに、ルルーシュは難しい顔をしたままだった。

「せっかくなんだから父上になんでもおねだりすればいいじゃないか」

 明るく言うクロヴィスに、ルルーシュは眉間の皺を深めた。

「おねだりって……。急に困ります。欲しいものは本当にないのですから」

 ほかでもない皇帝からの言葉だ。何も欲しくないからと言って、「ない」と断ることは難しい。
 予想外のところから厄介事が舞い込んでしまったと溜め息をつきたい気分だった。

「難しく考える必要はないよ。せっかくの機会なのだから父上に無理難題を言ってみるといい」
「クロヴィスの言うとおりだ。父上がこんなに甘いのはルルーシュだけなんだし、親孝行だと思って甘えてみてはどうだい?」
「二人とも他人事だからそんな勝手なことが言えるんです」

 言いたい放題な異母兄達にそっぽを向いた。出立までに学ばなければいけないことがたくさんあるのに父上は余計なことを、と心の中で悪態をつく。
 笑うばかりのシュナイゼルとクロヴィスを無視してルルーシュは足を進めた。
 (父上の力でどうにかなるものなら良かったのに)
 どうせ、一番欲しいものは手に入らないのだ。

***

「名付けてホワイトデー大作戦! ってことで計画を立ててみたんだけどどうかしら。いいでしょう? いいわよね? ルルーシュ」

 生徒会室に入るなり同意を求められ、ルルーシュは部屋の入口で顔を顰めた。

「いいも悪いも、来たばかりなんだから判断できるわけがないでしょう。今度はなんのイベントですか」

 靴音を立てて中に入れば、生徒会長のミレイがにやりと笑った。

「だからホワイトデーよ」
「ホワイトデーとはなんですか」
「あら、ルルーシュでも知らないことがあるのね」

 からかうような口調にムッとした。
 ルルーシュの頭はありとあらゆる知識を詰め込んでいて、この世界で知らないことはほとんどない。だが、たまには例外もある。その例外が今回当てはまっただけなのに、自分の知識を疑われるような発言は心外だ。
 (ホワイトデーとはなんだ。そのままの意味だと『白い日』になるが、白を何かにたとえているのか? そもそも本当にそういう単語があるのか? ミレイの造語という可能性は……、いや、待てよ。俺が知らないということは、ブリタニア以外での記念日という可能性もあるな)
 頭の中でホワイトデーの正体を探っていると、「そんなに真剣に考えなくてもいいわよ」とミレイが背中をばんばん叩いてきた。

「痛いですって」
「ホワイトデーはね、バレンタインデーに女の子からチョコレートをもらった男の子がお返しをする日よ」
「えっ」

 バレンタインデーという単語につい反応してしまう。ルルーシュの中の動揺を知ってか知らずか、ミレイがにんまりとして顔を覗き込んできた。

「ま、日本だけの習慣なんだけど。ホワイトデーの存在が明らかになったのはスザク君のバレンタイン騒動のおかげね」

 日本のバレンタインは女子から男子に告白するのが定番らしい。それをうっかり話したせいでスザクはチョコレート攻撃を受ける羽目になったのだが、ミレイはあの日の騒動を直接見ていないはずである。
 しかし、さすがはお祭り好きの生徒会長。盛り上がりそうなイベントについては耳が早い。

「バレンタインという絶好のイベントを逃してしまったのは迂闊だったわ。だからね、そのリベンジをしようと思って」
「だからホワイトデー大作戦?」
「そういうこと」

 じゃあこれ持っててね、と何かを胸に付けられた。

「徽章ですか?」
「徽章は徽章でも、チョコレートの徽章よ。金色のメダルみたいなのがチョコレート」

 ご丁寧にリボンもついていて、見た目は本物の徽章のようだ。またこんなものに経費を使って、とルルーシュは眉を寄せる。

「で?」

 ミレイのことだ。これを胸に付けて終わりではないのだろう。
 いちいち説明を求めるのも面倒なので結論を促せば、ミレイがにっこり笑った。

「そのチョコレートの裏には自分の名前が入っていて、意中の相手のチョコレートを奪った人にはその人とお付き合いする権利が得られるってわけ。付き合いたい人がいない場合は、校内でチョコレートを一番多くゲットしたら会長権限で望みを叶えてあげる。もちろん、できることとできないことがあるけど、私の権限で可能ならばなんでもオッケー。これがホワイトデー大作戦の概要よ」
「日本だとチョコレートはバレンタインのものですよね? ホワイトデーも関係あるんですか?」
「ないわよ。バレンタインに何もできなかったからチョコレートを活用してみただけ」
「また適当な……。だいたい、ほかのみんなはどうしたんですか」

 昼休みが終わる直前に生徒会室へ呼び出されたものの、ルルーシュとミレイ以外のメンバーはこの場にいない。
 まさか──、と嫌な予感がした。

「そう、そのまさか。今からイベント開始よ」
「だって授業は」
「今日は特別。それに、ルルーシュはもう学校に来られなくなっちゃうでしょう?」

 不意に真剣な口調で言われ、ミレイの目を見返した。
 この一週間、ルルーシュは学校に出ていない。副大使の件で忙しく、のんびり授業を受ける時間がなかったのだ。
 クラスのみんなには転校することが伝えられていて、今日が最後の登校となる。
 ルルーシュの後ろ盾であるアッシュフォード家のミレイは当然そのことを知っていた。だからこそ、わざわざイベントを企画してくれたのだろう。

「だからって何もホワイトデーと絡めなくても」
「だってそういうイベントがあるのなら有効活用しないと。ま、ホワイトデー自体は今日じゃないんだけど」
「違うんですか?」
「ホワイトデーは三月十四日よ」
「二日も早いじゃないですか」
「細かいことは気にしない気にしない。とにかく、制限時間一時間の間にしっかり逃げてね」

 このイベントはミレイからの餞別と言ったところだろう。最後の最後まで会長に振り回されるのかとルルーシュは苦笑いした。

「捕まったとしても俺はその相手とお付き合いできないんですが」
「いいじゃない、最後に夢を見るくらい。ルルーシュが転校することはもう知られているんだし、今日一日だけってみんなちゃんとわかってるわよ。それに、たった一日だとしても皇子様とお付き合いできたとなれば喜ぶわ」
「それでいいんですか?」
「いいのいいの。ってことでそろそろスタートするから、逃げる準備してなさい」

 また背中を叩かれ、だから痛いですってと文句を言っておく。
 校内放送のマイクをオンにしたミレイは、一分後にイベントを開始することを伝えた。あと一分で逃げろだなんて無茶苦茶だと思いつつ、ルルーシュは生徒会室をあとにした。
 (さて、どうしたものか。俺がクラブハウスにいることは知られていないし、時間までどこかに隠れておくのがベストだろうな。最後と言われたものの、誰かに捕まるのはやはり避けたいし……)
 十秒前! とミレイの声が校内に響く。カウントダウンが始まり、イベントのスタートが高らかに宣言された。
 このままクラブハウスに留まることを決めたルルーシュは、見つからないよう建物の奥へと向かう。
 すると、「なお、今回は特別ルールよ!」と放送が続いた。

『ルルーシュ・ランペルージのチョコレートを奪って私のところまで持ってきた場合は、部費を十倍にします! ルルーシュはクラブハウスの中よ! 部費をアップさせたい部員は至急クラブハウスまで来ること!』

 いきなりの特別ルールにルルーシュはぎょっとした。

「くそっ、会長め! やっぱりただの悪ふざけじゃないか!」

 少しでもしんみりした俺が馬鹿だったと後悔する。
 遠くのほうから雄たけびのようなものが聞こえてきた。恐らく運動部の生徒達だろう。
 のんびり隠れる計画が台無しだと悪態をつき、ルルーシュは駆け足になった。
 (クラブハウスに留まるのは危険だな。ひとまずここを離れよう)
 裏のほうに回ったのと、ホールの扉が音を立てて開いたのは同時だった。

「いたぞ!」
「ルルーシュだ! 捕まえろ!」

 勘弁してくれとげんなりしながら、後ろは振り返らずに走る。クラブハウスを出たところで、別の方角からも集団が向かってくるのが見えた。
 舌打ちしたルルーシュは近くの建物に逃げ込んだ。以前は特別教室のときに使われていた校舎で、最近、別の場所に特別棟が建て替えられたため、取り壊されるのを待っている建物だ。
 校内は敵だらけだし、自分の体力を考えればこれ以上走ることは愚行である。幸い、この中にはホールがあり、内側から鍵をかけられるようになっていた。
 (あそこならほかに入口はない。そこで一時間耐え切れれば俺の勝ちだ)
 埃っぽい廊下を駆け、三階に上がってホールを目指す。
 しかし、追いかけてくる複数の足音がどんどん近付いてきて、今にも掴みかかられるのではないかというあせりに足がもつれた。

「ほわぁ…!」

 無様に転んでしまい、ルルーシュは咄嗟に手を付いた。
 普段は使われていない建物で内装も古いため、床はところどころ剥げていた。そのせいで擦ったのか、掌に血が滲む。捻らなかっただけマシだが、じんじんとした痛みは感じた。
 だから走り回るのは嫌いなんだと文句を垂れながら起き上がると、ルルーシュは再び走り出した。
 今のタイムロスのせいで集団との距離がだいぶ縮んでしまった。おまけに、ルルーシュの息はすでに上がっている。こんなところで簡単に諦めるのは嫌だけど、これ以上走るのは苦痛でしかない。
 それでもなんとか目的地までたどり着き、扉の取っ手を掴んだ。

「えっ……」

 しかし、扉はぴくりともしなかった。どんなに力を込めても開かない。
 (そういえば、勝手に立ち入る生徒がいて困るからドアや扉はすべて開けられないようにしたと先月のホームルームで…!)
 すっかり忘れていた己の迂闊さを呪う。
 追い詰めたぞ! と声がした。五メートルほど手前で止まったのはラグビー部だ。

「ルルーシュ、そのチョコレートを渡すんだ」
「大人しくしていれば悪いようにはしない」

 悪役のようなセリフを吐いてじりじりと迫ってくる。ルルーシュは後ろに下がったけれど、すぐに扉に阻まれた。
 一対一ならばまだ交渉の余地があるものの、相手が集団では話し合いに応じてくれないだろう。イベント開始から三分も経たずに白旗を上げるのはなんとも不甲斐ない。
 (ここまでか……)
 ルルーシュが観念したそのとき、突然何かの割れる音がした。心臓が止まりそうなほど驚いて音のほうを見れば、廊下の窓がなくなっている。
 そして、ここにはいないはずの男が立っていた。

「スザク……?」

 呆気にとられていると、制服を軽く払ったスザクがにこりと笑った。

「迎えに来たよ」
「は? いや、お前どうやってここに、というかなぜ学校に」
「説明はあと。とにかく今は逃げよう」

 そう言うなり、スザクはルルーシュを抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこである。

「逃げるって、この状況でどうやって」
「こうやって」

 ルルーシュを抱えて窓枠にひょいと飛び乗ったスザクが、「舌を噛まないように気を付けて」と不穏なことを言った。
 ルルーシュの中にものすごく嫌な予感が生まれる。

「ス、スザク、お前もしかして」
「口」

 短く告げられ、慌てて口を閉じる。それから反射的に彼の首に抱きついた。

「飛ぶよ」

 そう宣言したのと同時に、身体が浮き上がる感覚がした。時間にすればわずか数秒。しかし、窓から隣の建物に飛び移るその数秒は永遠のようだった。

「っ!」

 重力と共に衝撃を感じる。
 着地したスザクはすぐに走り出し、ルルーシュは彼に抱えられたまま屋根の上を移動することとなった。
 (俺は今、スザクと一緒に空中を飛んだのか……)
 自分の状況を把握して、くらりとめまいがした。
 地上は十メートル以上も下だ。うっかり足を滑らせて落ちたら頭を打って即死か、死ななくても確実に怪我はするだろう。
 気が遠くなりそうな感じと上下に揺れる振動に耐えるため、ルルーシュはしがみ付く両腕に力をこめた。すると、ルルーシュの身体を抱く腕も強くなった。
 状況としては最悪だが、スザクに抱き締められていることに違いはないのだと思い、こんなときなのに胸が高鳴った。
 (俺は馬鹿か)
 スザクにはもう会わないと決めていたのに、実際に会ったらそんな決心は吹き飛んでしまいそうだ。羽よりも軽い覚悟だなと口元で嗤う。

「ここまで来たら大丈夫かな」

 ルルーシュが自己嫌悪に陥っている間に目的地へ到着したのか、スザクがようやく止まった。
 恐る恐る辺りを確認する。ルルーシュ達は校舎の屋上にいた。
 改めて隣の建物を見たら割れた窓ガラスがある。あそこからここまで命綱なしで走ったのかと思うと、感心よりも呆れる気持ちのほうが大きかった。ラウンズが馬鹿なのか、スザクが特別馬鹿なのか。

「下ろしますよ」

 ようやく地面を踏んだ足は、しかし力が入らずにくずおれそうになった。慌ててスザクがルルーシュを支え、ゆっくりゆっくり座らされる。

「大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけがあるか……」

 気持ち悪い、と零せば今度は背中を優しくさすられた。

「お前な、助けてくれるのはいいが、もう少し方法はなかったのか。おかげで酔った」
「申し訳──」
「そんなに枢木卿と呼ばれたいか?」

 懲りないスザクを軽く睨んだ。二人きりになった途端、すぐさま敬語に戻るところは徹底していていっそ感心してしまう。
 なんで俺が毎回毎回指摘しなければいけないのだと苦情を言えば、わかったからと苦笑いを返された。

「そもそもお前、遠征中ではなかったのか? しばらくブリタニアには戻れないと聞いていたのに」
「今回は早く終わったんだ。それで学校に来たらちょうどイベントが始まっていて」

 スザクの胸にもチョコレートの徽章が付いていた。登校して早々、イベントに巻き込まれたようだ。

「よく俺の居場所がわかったな」
「それはみんなの行き先を見ていたら。あんなに大勢で追いかける相手は君しかいないだろう?」
「だからってなぜ窓からなんだ。もっと普通に登場しろ」
「普通に追いかけていたら間に合わなかったよ。廊下も階段も人がいっぱいで進めそうになかったから、それで外に回ったんだ。あそこは窓の外にバルコニーが付いてるだろ? だから、そこを渡って君を追いかけるのが一番早かったんだ」

 バルコニーと行ってもほとんど飾りである。人が通るように設計されたものではないので、細身のルルーシュでも歩くことは難しい狭さだ。
 そんな場所を渡ったということは、恐らくスザクは手すりに上って移動したのだろう。そうして廊下の奥で追い詰められたルルーシュを発見し、迷わず窓を割って建物の中に入った。
 そこまでして助けてくれたことには感謝するけれど、もう少し何か方法はなかったのか。しかし、スザクは善意で行動してくれたのだと思い、これ以上の小言はやめておく。

「まあいい。とにかく助かった」
「このあとはどうするの?」
「ここにいても見つかるだろうし、ひとまず空き教室に移動する。幸いと言うべきか、俺を狙っている生徒は会長の放送でクラブハウスに集結しているはずだから、今なら校舎の中を移動しやすい」
「あ、じゃあその前にこれを交換しない?」

 突然の提案に首を捻り、自分の胸元のチョコレートに目を落とした。

「もし君の分が取られても、僕の名前なら問題ないだろう?」
「しかし、それではお前が誰かと付き合うことになるぞ」
「僕が一緒に逃げるんだからそんなヘマはしないよ」
「だったら交換する必要もなさそうだが」
「念のため。ね?」

 特に断る理由もないので胸から徽章を外し、スザクのものと交換して付け直した。
 それから下の階に下りると、ルルーシュの推測通り校舎はしんとしていた。廊下を真っ直ぐ進み、渡り廊下を渡ってさらに隣の校舎へと移動する。
 その最上階には使われていない教室がいくつかあった。ポケットから鍵を取り出したルルーシュは、奥から二番目のドアを開けて中に入った。

「なんで鍵を持ってるの」
「たまたまだ」

 咎めるような視線を無視して奥に向かう。カーテンを閉めると室内は薄暗くなった。

「もしかしてここでサボってる?」
「さあな。前の化学の教師が準備室を移動することになって、その手伝いをしたときに偶然拾ったんだ」
「だったら返しなよ」
「定年で辞めてしまったから返せない」

 スザクが溜め息をついた。すらすらと言い訳をするルルーシュに呆れているのだろう。
 そんな彼を無視して古びたソファに腰掛けたルルーシュは、手をついた瞬間に「痛っ」と声を漏らした。

「どうしたの?」
「かすり傷だ。忘れていた」

 転んで怪我をするなんて子供かと思っていたら、いきなり手を取られてびくりとした。

「血が出てる。さっき追いかけられたところで?」
「ちょっと転んだだけだ。たいしたことない」
「立って」

 言い終わるよりも先にぐいっと引っ張られ、慌ててスザクのあとをついて行く。なんだなんだと混乱していると、隅にある洗面台まで連れて行かれた。

「ここの水、使ったことはある?」
「あ、ああ」

 元は理科準備室なので、普通の教室と違ってここには教師用の設備がある。洗面台はそのひとつで、教師を手伝ったときやひとりでサボっているときに何度か使用した。

「最近も?」
「確か先月に……」

 なら大丈夫かなと独り言らしきことを言ったスザクは、蛇口を捻ってしばらく水を確かめていた。それからルルーシュの制服の袖をまくり、傷口を洗い始めた。

「かすり傷でもそこから菌が入ることもあるんだ」
「そ、そうだな、あとは自分で洗うから」
「怪我は僕のほうが慣れてる」

 傷口に障らないよう、丁寧に洗うスザクの横顔は真剣だ。あまりに真剣で、顔が近いと心臓をばくばくさせている自分がひどくみっともなく思えた。
 (スザクは普通に心配しているだけなのにな……)
 やっぱり俺は馬鹿だと、零れそうになる息を飲み込んだ。
 水を止めたスザクがハンカチを取り出し、今度は丁寧にルルーシュの手を拭き始めた。

「ありがとう」
「どういたしまして」
「ハンカチなんて持っていたんだな」
「ハンカチぐらい持てって言ったのは君だろう?」
「そうだったか?」
「うん。そのおかげでこうして役に立った」

 スザクに笑みを向けられ、ルルーシュは自分の心拍数がさらに上がるのを感じた。
 二人でソファに戻るとなんとなく手持ち無沙汰になる。校舎の外から喧噪が微かに聞こえてくるけれど、ルルーシュ達のいる場所はとても静かで、二人きりなのだということをやけに意識してしまう。

「日本にはホワイトデーという習慣があるのだな。今日まで知らなかった」

 何か話さなければと思い、当たり障りのない話題を出す。

「お前もお返しを準備しているのか?」
「いや、お返しは何も考えてないよ」
「あんなにもらったのに?」
「あんなにもらったから。あれに全部返していたらキリがないよ。変な勘違いをされても困るし」
「そうか、でも……」

 先月の光景を思い出す。
 スザクは贈り物をすべて処分すると言っていたけれど、ひとりぐらいは気に入った女の子がいたはずだ。
 相手はよりどりみどりで、スザクが誘えば誰もが喜んでついて行くに違いない。

「──お前はもてるからな」
「え?」

 気付けば声に出していて、ハッとしたルルーシュは内心の動揺を悟られないよう慌てて話を続けた。

「もてるとお返しも大変だなと思っただけだ。そういえば、先月のチョコレートは全部処分したのか?」
「うん」

 つまり俺のチョコレートケーキも処分されたということか、と思い至る。
 処分前提でこっそり置いてきたのだからこれは当然の結末なのに、落ち込むのは身勝手だ。それはわかっているけれど、寂しいような気持ちはどうしても生まれる。

「でも、食べ物以外なら用途があるのではないか?」
「食べ物以外って?」
「コンドームなんてふざけたものがあっただろう」

 俺は何を言い出しているのだと、今度は頭を抱えたい気分になった。
 どうしてわざわざ傷を抉るような真似をするのか。馬鹿じゃないかと、何度目になるかわからない言葉で自分を罵る。

「ああ、あれ。あれなら」
「本当に使ったのか?」

 先走って聞けば、スザクが可笑しそうに笑った。

「まさか。だって穴を空けられているかもしれないし」
「穴?」
「穴」
「穴とはどういう意味だ?」

 首を傾げれば、スザクの笑みが深まった。

「ルルーシュって性交渉に関する知識はあるんだよね?」
「なんだいきなり」
「いや、わからないかなと思って」

 どうやら馬鹿にされているらしいと気付き、ルルーシュは眉を寄せた。

「悪かったな。どうせ俺はもてないんだ」
「もてるとかもてないとかじゃなくて、って言うかルルーシュがもてないことはないし」
「お世辞はいらない」
「違うって」
「それより穴とはどういう意味だ。さっさと教えろ」

 ルルーシュが迫れば、スザクは少し困った顔をした。

「えっと、つまりね、子供ができるんだよ」
「は?」
「避妊のための道具に穴を空ける。つまりそんなものは使い物にならない」
「それはそうだ」
「だから、使い物にならないコンドームをわざと贈って妊娠を企むってこと」

 スザクが説明した内容は理解できる。しかし、それはルルーシュの知識の範疇を超えていて、すぐには意味を理解できなかった。

「皇族はそういう注意をされないの?」

 顔を覗き込むように聞かれる。
 スザクの目が面白そうな色を浮かべている気がして、ルルーシュはカッとなった。

「そ、そんなこと……っ」
「僕はラウンズになったばかりの頃にされたよ。女遊びをするのは自由だけどほどほどにって」
「ラウンズはどういう教育をしているんだ」
「地位のある者に群がる人間は多いからね。当然のことだよ。それより、僕としてはルルーシュのほうが心配だな。本当に性交渉に関する勉強をしてるの?」
「し、仕組みは知っている!」
「じゃあ実践は?」
「実践……」

 実践とはなんのことだと聞くまでもない。
 今度はすぐに意味を悟ってうろたえる。
 スザクの顔は相変わらず近い距離にあった。

「キスの経験ぐらいはあるだろう?」
「それは……」

 先月のバレンタインデーに、スザクには内緒で交わしたキスのことが脳裏に浮かぶ。
 あれがルルーシュにとってのファーストキスだった。家族とのキスとは違う、好きな人とのキスだ。
 でも、そんなことはスザクには伝えられなかった。寝ている隙にこっそりしたのだとは口が裂けても言えないし、墓場まで持って行かなければならない秘密だ。
 だから、この場ではノーと答えるのが正しいけれど、そしたらキスの経験もないのかと笑われるかもしれない。
 どれが正解なのだと迷っているうちに、スザクの顔がさらに近付いた。

「家族とのキスはなしだよ」
「わかっている! 俺だって……!」
「まあいいや。どちらにしろルルーシュは慣れてなさそうだし」
「お前、やっぱり俺を馬鹿にしているだろう」
「してないよ。ただ、男として少しは練習しておいたほうがいいんじゃない?」
「余計なお世話だ」
「僕が練習相手になってあげるよ」
「必要ない」
「だったら、練習じゃなくていいから一度試してみない?」
「何を」
「君の知らないキス」

 はあ? と思ったときには唇に何かが触れていた。目の前には近すぎてぼやけた翠色がある。
 これはスザクの目で、触れているのはスザクの唇だ。
 そのことに気付いた瞬間、ルルーシュは反射的に身体を引いた。しかし、いつの間にかスザクの腕に拘束されていて身動きが取れない。

「……ッ」

 思わず目を閉じれば、啄むようなキスをされる。ちゅ、と濡れた音がして身体の熱が一気に上がった。
 何度も口付けられ、どうすればいいのかわからなくて固まっていると、だんだん息が苦しくなってきた。

「んっ……ンンっ」

 このままでは酸欠になるとスザクの胸を強く叩いたらようやく唇が離れた。
 ぜえぜえと深呼吸をするルルーシュに、ちゃんと息しないと、と耳元で囁かれた。

「いき……?」
「鼻でするんだよ」

 スザクの顔がやけに甘ったるい。
 甘くて甘くて、触れ合った部分から溶けてしまいそうなくらいに。
 (スザクが、俺に)
 彼の濡れた唇が目に入り、顔が熱くなった。キスをされたのだと思うといたたまれない気持ちに襲われ、慌てて目を伏せる。

「──ルルーシュ」

 今ここでその呼び方をするのは反則だ。
 両手で頬を包まれ、上を向かされる。ルルーシュが自然と目を閉じたのと、再びキスが降ってきたのは同時だった。

「ぁ……っ、ン……んぅ」

 激しさはなく、ただひたすら甘く口付けられる。
 舌先で唇の合わせ目をつつかれ、請われるままに口を開けば舌が入り込んできた。
 咥内が熱い。
 触れた舌と舌が熱い。
 どこもかしこも熱くてたまらない。

「ふぁ、ん……ッぁ」

 これは練習だとスザクは言っていた。
 気持ちがあるわけでも、キスがしたいわけでもなく、性的なことに不慣れなルルーシュをからかって遊んでいるだけだ。
 それでも、スザクとキスをしているのだと思えば嬉しくて、ルルーシュは無意識に身体を寄せていた。手を伸ばし、彼の制服の裾をそっと握り締める。

「んんッ、んぅ」

 後頭部にスザクの手が当てられ、口付けがさらに深くなる。静かな部屋には唾液の絡まる音が大きく響いていた。
 自分達はいけないことをしているのだということをまざまざと感じてまた体温が上がる。これ以上熱くなったらカラカラに乾いて干からびてしまうかもしれない。

「ア……っ、すざ、──ッ」

 咥内をたっぷり味わわれたあと、音を立てて唇が離れた。
 頭の芯がぼうっとしていて何も考えられない。ぼんやりとスザクを見ていたら、彼はふいと視線を外して「申し訳ありません」と言った。
 その一言でルルーシュは現実に戻った。

「別に気にしていない。練習、なのだろう?」
「ですが、少しやり過ぎました」

 反省の言葉には後悔の色が滲んでいた。
 大方、相手が男であると思い出して気持ち悪くなったのだろう。あるいは、皇子に余計な真似をしたと今後のキャリアを心配しているのか。
 いずれにしろ、スザクにとってはなんの意味もないキスなのだと思い知らされてしまい、あんなに体温の上がっていた身体から熱が引く感覚がした。

「しつこい。いいと言っているだろ」

 強く言い返したとき、つっ、と何かが顎を伝った。
 それはどちらのものかわからない唾液だと気付き、叫び出したいような気分になってルルーシュは慌てて口元を拭った。恥ずかしさで死ねそうだと今さらながらに思う。
 (日本へ行く前の最後の思い出だ)
 触れたのかどうかわからないようなキスではなく、恋人がするようなキスができた。たとえそこにスザクの気持ちがなかったとしてもキスはキスだ。
 だからこれで充分だと、ルルーシュは己に言い聞かせた。
 なんとなく気まずい空気に二人とも黙り込む。
 先にからかってきたのはそっちなんだからお前がどうにかしろ、と心の中でスザクに文句を言っていると、不意に足音が聞こえた。ひとりではない。複数だ。
 ここまで生徒が来たのかと身構えていると、廊下にいる誰かが部屋のドアを開けようとした。

「おい、ここ鍵がかかってるぞ」
「使ってないからじゃないか?」
「でも副会長なら全教室の鍵を持ってそうだし、一応ここは全部見て回ったほうがいいだろ」
「誰か職員室から鍵を取ってこい」

 廊下で繰り広げられる会話に、見つかっちゃいそうだね、とスザクが小声で言った。

「ああ、時間の問題だな。こうなったら、やつらが鍵を開けたタイミングで強行突破して」
「その必要はないよ」

 立ち上がったスザクがカーテンを引いた。部屋の中が一気に明るくなり、眩しさに目を眇める。
 さらに窓も開け放ったスザクは、戻ってくるといきなりルルーシュを抱き上げた。

「な、何をする!」
「僕に掴まってて」
「お前まさか……」

 嫌な予感しかしない。一度目よりも嫌な感じが強いのは、ここが校舎の五階だからだ。
 ルルーシュがじたばたと暴れている間に、スザクは勝手に歩き出す。

「ところで、君って高所恐怖症だっけ?」
「今さらか!」
「もしそうだったら目を瞑っててね」
「いいかよく聞け! 俺は普通の人間だ! ラウンズ基準で行動するんじゃない!」
「ほら、ちゃんと掴まってて」

 スザクが窓枠に足をかける。先ほどの再現のようだ。

「あとで絶対殴ってやる……」
「まずは手前の屋根に乗って、それから校舎の裏に行くから」

 説明を聞き流してスザクの首に腕を回した。
 こうしておかないと危ないから掴まるのであって別にスザクにくっ付きたいわけではない、と誰に聞かせるでもない言い訳を心の中で呟き、襲ってくるであろう衝撃に備えてルルーシュはぎゅっと目を閉じた。

「じゃあ行くよ」

 高いところから飛び降りるときの浮遊感は何度経験しても慣れることはなかった。
 その後、ルルーシュはスザクに抱えられて校内を逃げ回る羽目となる。
 ルルーシュ狙いの生徒だけでなく、スザクのチョコレートを狙った生徒にも追いかけられ、結局、イベント終了までずっとスザクの腕の中だった。おかげで、地面に下ろされたときには疲れ果ててぐったりしていた。
 ナイトオブセブンとの協力は不公平すぎると一部から苦情があったものの、ラウンズに抱えられて逃げることは違反ではないとの会長判断により、イベント自体はひとまず無事に乗り切ることができた。

「お疲れ様」

 生徒会室の椅子に座り込んで動かないルルーシュに、スザクが水を持ってきてくれた。同じ背丈の人間を抱えて走り続けていたくせに、スザクは少しも疲れを見せない。
 けろりとした様子に、やはりこいつは化け物だと改めて思いながら水を飲む。ルルーシュ自身はまったく走っていないのに喉が渇いていた。

「そういえば……」
「ん? 何?」
「いや、なんでもない」

 スザクとチョコレートを交換したのだと思い出し、一瞬だけ馬鹿げた考えが浮かんだ。
 (お前のチョコレートをもらったんだから俺と一日付き合え、なんて言えるわけないだろ)
 残りの水を飲み干すとようやく人心地ついた。

「──礼をしないとな。俺を助けてくれたことと、最後まで捕まらずに逃げてくれた礼だ。何が欲しい?」
「僕?」
「お前しかいないだろう」
「僕は当然のことをしたまでで」
「遠慮するな。こういう機会ももうないわけだし」

 そこまで言って口を噤んだ。
 まだ公にはなっていないけれど、スザクはラウンズなので副大使就任の件は知っているだろう。当然、ルルーシュが学校を辞めることもわかっているはずだ。
 案の定、彼の顔を窺うと複雑そうな表情をしていた。

「とにかく、お前に何か礼がしたい」

 しばらく考えていたスザクは、だったら──、とルルーシュの隣に座った。

「また作ってくれないかな、カレー」

 トラウマではないが、先月のあれこれが脳裏をよぎって胸が痛くなるメニューだ。

「せっかくだからもっとほかのものを」
「カレーがいいんだ。この間は君と一緒に食べられなかったから」
「あ……その、あのときは急用ができて、お前に声をかける前に帰ってしまって悪かった。料理のほうはどうした?」
「もちろん食べたよ」
「みんなで?」
「ううん、僕ひとりで」
「は? お前ひとりで食べたのか?」

 作り過ぎてしまい、ひとりではとても食べ切れない量になっていた料理の数々を思い出す。いくらスザクが成長期でも、あれを全部というのは無理ではないか。

「みんなで分けてくれと言ったのに」
「君の手料理をほかの人間に食べさせるわけがないだろ」

 どこか拗ねたような言い方に首を傾げる。本当に全部食べたのかどうかわからないけれど、皇族相手だから配慮しているのだろうとルルーシュは結論付けた。

「まあ、カレーでいいならいくらでも作ってやるが」
「本当?」

 途端に顔を明るくさせたスザクに、子供みたいだなと笑う。

「いつ行けばいい? 今週ならば割と自由がきく」
「それなら明後日のお昼は? 僕も事後処理が終わってちょうど身体が空くから」
「わかった。明後日だな」

 思いがけない二度目の訪問にそわそわするような気分になった。スザクにはもう会わないという決心はすっかり消えていて、現金なことだと苦笑いが浮かぶ。
 (これが本当に最後だから)
 そしたらちゃんとこの恋を終わらせるから。
 だから、最後に少しだけスザクとの時間をくれないか。

***

 約束の日は奇しくもホワイトデー当日だった。
 前回はバレンタインデーで、今回はホワイトデー。まるで誰かに図られたようなタイミングだなと思いながら、ルルーシュはスザクの屋敷を訪ねた。
 今日のスザクはラウンズの衣装ではなく私服で、普段とのギャップにときめくような気持ちを抱く。こんなことでいちいち反応する自分が恥ずかしくて、ルルーシュは努めて平静を装った。
 スザクの部屋に通されると、この間のように「お茶にお付き合いいただけませんか?」と聞かれた。断る理由もないので、もちろんと答える。
 使用人が紅茶を準備し、それぞれの前に湯気の立つティーカップが置かれた。

「それと、殿下にこちらを」

 二人きりになると、スザクが綺麗にラッピングされた箱をテーブルに乗せた。なんの贈り物だろうと首を傾げる。

「お返しです」
「お返し? 俺はお前に何かを贈ったことはないが。ああ、もしかして先月のカレーのお返しという意味か?」
「いえ、違います」
「ではなんのお返しだ?」

 ルルーシュの目を真っ直ぐに見つめ、スザクが柔らかく微笑んだ。

「チョコレートのお返しです」

 伝えられた内容がすぐには頭に入らず、ルルーシュはぽかんとスザクの顔を眺めた。

「正確に言うと、チョコレートケーキですね」

 スザクはにこにこ笑っている。
 ルルーシュは呆然とすることしかできなかった。

「……な、何を言っている」

 絞り出すように声を出した。心臓が早鐘を打っているのを感じる。

「殿下が僕に贈ってくださったチョコレートケーキですよ」
「お、俺はそんなもの」
「僕が気付かないと思いましたか? もらったチョコレートは全部覚えています。たった一個でも箱が増えていたらすぐにわかりますよ。しかも、増えたのはあなたが部屋にいらっしゃったあとだ。あなた以外の人間が置いていくことは不可能です」

 全部ばれていたのだと悟り、ルルーシュの顔からさっと血の気が引いた。もしかして、スザクが屋敷に誘ってきたのはこれのためだったのか。
 (いや、まだ大丈夫だ。スザクはただの悪戯としか思っていないだろう。まさか俺が本気でバレンタインに贈っただなんて考えるはずがない)
 だから落ち着け、とルルーシュは自分に言い聞かせた。

「──ばれていたなら仕方ないな」

 先ほど以上に平静を心がけてにこりと笑う。

「気付かれるとは思わなかった。しかもお返しまで用意させてしまって」
「いいえ。殿下から手作りのケーキをいただけて嬉しかったです。とても美味しかったですよ」
「まさか食べたのか?」
「もちろん」
「だが、手作りのものには何が入っているかわからないから食べないと」
「殿下の手作りでしたら食べるに決まっています」

 スザクがわからなかった。
 そうまでして皇族に気を遣うのか。あるいは、これでポイントを稼いでいるつもりなのか。

「かえって悪かったな」
「僕が勝手にお礼をお渡ししているだけです」

 開けてみてくださいと促され、言われるままにリボンを解いた。
 中に入っていたのは、一粒一粒が宝石のように綺麗なチョコレートだった。

「ホワイトデーに何を贈ればいいのかわからなくて、色々探していたらこのチョコレートが殿下にぴったりだと思ったんです。せっかくのお返しなのに面白味がなくてすみません」
「謝る必要はない。とても綺麗じゃないか」

 スザクだってどうせなら可愛い女の子に贈り物をしたかっただろう。それでもルルーシュのために時間を作って選んでくれたのだと思えば素直に嬉しかった。

「食べてもいいか?」
「もちろんです」

 口の中に入れるとチョコレートはすぐに溶けた。上品な甘さが広がり、自然と顔が綻ぶ。

「気に入っていただけましたか?」
「ああ、これは美味しいな」
「そうですか、良かった」

 もう一粒、今度は別の味を食べてみた。紅茶にもよく合う。
 (ナナリーにも食べさせたいな)
 店はどこなのか尋ねようとしたら、不意にスザクが立ち上がった。テーブルをぐるりと回り、なぜかルルーシュの隣に腰を下ろす。

「実を言うと、今日はもうひとつお話がありまして」
「なんだ?」
「これ、覚えていますよね?」

 スザクが取り出したのは、先日のイベントで使われたチョコレートの徽章だ。覚えていると答える代わりに頷けば、スザクが口元を緩めた。

「ではあのときのルールも覚えていますか?」
「相手のチョコレートを奪ったらその人と付き合えるというあれか?」
「ええ。僕はこうして殿下のチョコレートを持っています。ですから、ルールに従って僕とお付き合いしていただけませんか?」
「ん……?」

 話が理解できなかった。

「俺のを持ってるって、それはお前と交換したからであって」
「理由はどうであれ、殿下から奪ったことに違いはないですよね?」
「ま、待て! どうしたらそういう理屈になるのだ!」
「チョコレートを奪う方法は決まっていなかったと思いますが」
「だからそれはお前から交換しようと言われて」
「でも、殿下は僕に渡しましたよね?」

 ルルーシュは顔をひくりとさせた。
 話がまったく通じない。そもそも、なぜスザクはこんなことを言い出したのだ。
 冗談なのか。からかっているのか。それとも、何かの罰ゲームなのか。いずれにしろ、ルルーシュからすればタチの悪い悪戯でしかない。

「仮に俺のチョコレートをお前が奪ったのだとして、俺達は男同士だぞ」
「ええ」
「だから、付き合うというルールには当てはまらない」
「同性で付き合ってはいけないというルールはありませんでしたよ?」
「常識で考えればわかるだろう」
「殿下が常識という言葉を持ち出すのは意外ですね。もっと寛容な方かと思っていたのに」
「俺が不寛容だと言いたいのか」
「だってそうじゃないですか。同性という些末な問題に目くじらを立てるなんて」

 その言葉にかちんと来た。
 こちらは同性相手に恋をして散々悩んできたというのに、それを些末な問題と言えるのはスザクが何も知らないからだ。
 (俺がお前を好きだと言ったら嫌悪するに決まっている)
 膝の上で両手を握った。
 スザクの狙いはなんだろう。からかうにしてはやり過ぎだ。
 もしかしたら、これはただの嫌がらせなのかもしれない。バレンタインに贈ったチョコレートケーキの意味を本当はわかっていて、その上で気持ちをもてあそぼうとしているのか。あるいは、仕返しのつもりなのか。こちらの好意を悟られ、存在そのものを嫌われてしまった可能性もある。
 考えれば考えるほど悪い方向に想像が働いてしまい、握り締めた両手は白くなっていた。
 すると、その上にスザクの手が乗った。思わず声を上げて腰を浮かせれば、優しく両手を包み込まれる。

「ひとりで勝手にあれこれ考えて勝手に結論を出してしまうのは殿下の悪い癖だと、シュナイゼル殿下がおっしゃっていましたよ」
「は、離せ!」
「殿下は頭のいい方ですが、なんでも先回りして考えて、相手に確かめもせずに自分の中でこうだと決め付けるのは良くないと僕も思います」
「いいからその手を……っ」
「でも、あなたの性格を知りながら遠回しに伝えた僕も良くないですね。意地悪なことをしてしまってすみません。ルルーシュ殿下が可愛らしいからつい」
「可愛いって、俺は男だ!」
「わかっています。同性だとわかった上で、僕はあなたに交際を申し込みました」

 まだ冗談を言うスザクにカッとなった。

「これ以上つまらないことを言うなら──」
「好きなんです」

 スザクの言葉はルルーシュの頭に入ってこなかった。
 不測の事態に理解が追い付かない。
 呆然とスザクを見つめていたら、確かめてみますか? と尋ねられた。

「僕の気持ちが本物かどうか、殿下のお好きなように確かめてみてください」
「確かめる……」
「ええ。殿下のおっしゃることなら僕はなんでもしますよ」

 頭の中は真っ白だ。何も考えられない。
 ただ、目の前にスザクがいることだけは理解できたので、呆然としたまま口を開いた。

「キス──、してくれないか」

 無意識に告げた言葉は願望がダダ漏れで、ルルーシュはようやく我に返った。今のはやっぱりなしだと伝えようとして、しかし、声ごと唇に塞がれてしまった。

「ん……っ」

 練習だと言われた先日のキスよりも優しい。
 でも、ルルーシュの身体を抱き寄せる腕はこの間よりも強くて息苦しいくらいだ。
 胸の辺りにしがみ付けば、背中をまさぐるように触られた。くすぐったくて、気持ち良くて、このままずっと抱き締めていてほしいと願うように思う。

「ア……」

 唇はすぐに離れ、ルルーシュは物足りないような声を漏らした。
 自分の反応の恥ずかしさに俯くけれど、スザクは許してくれなかった。両手で頬を包まれ、赤くなった頬も濡れた唇も潤んだ瞳もすべてが晒される。

「これで信じてもらえましたか?」
「っ、どうせ誰にでもしているのだろう」
「しませんよ」
「だってお前は」
「殿下以外の男にキスしたいなんて思わないですし、相手が女性だとしても誰彼構わずキスをする趣味はありません」
「でも、この間は練習だと」
「そうでも言わないと殿下にキスできないでしょう?」
「俺を騙したのか」
「恋の駆け引きだと思ってください」
「何が駆け引きだ」
「で、信じてくれましたか?」
「今ので何を信じろと…!」
「それなら、人には絶対言えないことを打ち明けます。僕がアッシュフォードに通うようになったのも、生徒会に入ったのも、殿下と二人きりのときにラウンズの顔を取り繕っていたのも、イベントであなたを助けたのも、恋愛方面にあまり詳しくない殿下をからかったのも、それにかこつけてキスをしたのも、バレンタインのお返しをしたのも、すべてはあなたのことが好きだったからです」

 ちなみにホワイトデーのイベントがあることは会長から事前に知らされていたんですよと暴露され、ルルーシュは目を瞠った。

「だから仕事を切り上げて急いで戻ってきました」

 スザクは悪びれる様子もなく、にこにこしている。
 今の話が本当ならばあまりに馬鹿だ。ラウンズがそんなことでいいのか。

「このまま片想いを続けて行くのも良かったんですが、まさか眠っているときに殿下からキスをしてもらえるとは思ってもいなかったので。それで方針を変えました」

 さらりと爆弾発言を落とされて硬直する。
 口を開きかけ、だけど何を言い訳しても無意味なのだろうと悟ってやめた。
 バレンタインのチョコレートケーキも、秘密のキスも、全部スザクにばれていたのかと思うと必死に誤魔化そうとしていた自分が滑稽に感じられた。

「あなたのことが好きです」

 愛おしむように頬を撫でながら告げられる。
 本当にスザクは本気なのだろうか。
 本気で好きだと言っているのだろうか。
 これも冗談だったとあとで言われないだろうか。
 ずっと片想いをしていたから、突然好きだと言われても信じられない。こんなに都合のいい展開があるものか。
 でも、スザクの気持ちを疑うということは、自分の好きな人を疑うということで、それはつまり自分には見る目がないと言っているようなもので。
 (ああもう、面倒だ)
 好きだと伝えられて素直に信じられない自分がほとほと嫌になった。だけど、これが性分なのだ。今さらどうしようもない。
 ならば、スザクに信じさせてもらうしかないだろう。

「もう一度──」

 そのあとを言い淀めば、笑みを浮かべたスザクが顔を寄せる。
 唇が重なり、ルルーシュは目を閉じた。優しいキスに心が満たされるようだった。
 スザクの手を掴んで握り締めると、今度はゆっくり瞼を押し上げた。
 至近距離で見る瞳はとても綺麗な翠色をしていた。

「甘いですね」

 甘い顔をしたスザクがそんなことを言う。

「チョコレートのせいだろ」
「いいえ。殿下が甘いからです」

 何を馬鹿なことをと悪態をつき、ルルーシュは深呼吸するように息を吸い込んだ。

「俺は、ずっとお前のことが好きで、でも、叶うはずがないと一度諦めたから、今さら好きだと言われても困る」

 だけど──、と震えそうな唇を叱咤して言葉を紡ぐ。

「お前が、本当に俺を好きでいてくれるのなら、諦めなくてもいいのだろうか」
「諦めてもらっては僕が困ります。両想いなのに失恋するなんて御免です。それと、殿下が諦めても僕は諦めませんから。どこまでも追いかけますよ」
「追いかけられるのか」
「ええ。逃げるときは覚悟して逃げてください」

 それは恐ろしいなと、ルルーシュは肩を揺らした。

「ラウンズに追われたら逃げられないではないか」
「だから逃げないのが賢明かと思います」

 それは脅しかと文句を言う。
 僕もずっと片想いしてきたんですからそろそろ叶えさせてくださいと返される。

「ならば聞くが、俺は再来週には日本へ行くことが決まっている。交際を始めていきなり遠距離恋愛だ」
「知っています。ですから」
「お前、俺と一緒に来るつもりはないか?」

 スザクが大きく目を見開いた。それから、可笑しそうに吹き出す。

「考えることは同じなんですね」
「まさか勝手について来るつもりだったんじゃないだろうな」
「いいえ。でも、僕の任務を日本にしてくれないかなと計画していたところです」
「ラウンズが私情まみれでいいのか。ちゃんと仕事はしているんだろうな」
「ちゃんとしてますよ」

 本当かと胡乱な目を向ける。しかし、私情にまみれているのはルルーシュも同じなのであまり強くは言えない。

「ただ、僕はラウンズですから陛下の許可がない限りは動けません」
「そこは問題ない」

 簡単に答えたルルーシュに、スザクが不思議そうな顔をした。

「ようやくおねだりの使い道が見つかったんだ。大いに利用してやるさ」

 なんの話かとますます不思議そうなスザクに、ルルーシュは声を立てて笑った。

「とにかく待っていろ」
「わかりました。殿下にお任せします」
「ああ。それと、もういいんじゃないか?」
「何がです?」
「気持ちを伝えたのだから、二人きりのときにラウンズの顔を取り繕う必要はないだろう?」

 スザクが頬を緩め、ルルーシュの手を恭しく持ち上げた。

「名前を呼んでも?」
「好きに呼べばいい」
「だって、呼んでしまったら箍が外れそうだったから」
「この間は呼んでいたじゃないか」
「この間?」
「だから……練習と言ってキスしたときに」
「呼んでたっけ?」

 あれはスザクの無意識だったのかと思い、いたたまれないような気持ちが湧き起こる。
 箍が外れた状態で求められていたことが嬉しくて、でもたまらなく恥ずかしい。

「ルルーシュ」

 大事に名前を呼ばれ、スザクへの愛しさが生まれた。その愛しさは限りがなく、ルルーシュの心から溢れて身体の隅々にまで行き渡るようだった。

「君のことが好きだ」

 指の先にキスが落とされた。
 触れている場所から互いの想いが流れ込めばいいのに。そしたら言葉がなくても伝わるのに。
 だけど、言葉で伝えたい想いもある。
 この愛しさを伝えたい。
 声にしたい。
 ルルーシュは顔を綻ばせ、そして唇を動かした。

「俺も、ずっとスザクのことが好きだったんだ」

***

 回廊の先でどのくらい待っただろう。
 謁見の間の扉が開き、そこから黒髪が見えたとき、スザクは思わず安堵の息をついていた。どうやら緊張していたらしいと気付き、ルルーシュのことになると途端に平静ではいられない自分に苦笑いする。

「お疲れ様でした」
「ああ、疲れた」

 スザクの前までやって来た彼に声をかけると、心底疲れたという声音が返ってきた。

「それで首尾のほうは?」
「俺が失敗すると思うか?」

 にやりと笑われ、思いませんとスザクも笑った。
 二人で連れ立って歩きながら、ルルーシュが謁見の内容を説明する。

「お前は俺の護衛ということになった。ブリタニアを発つ日から任務開始だ。日本に着いてからもずっと俺付きということになるからそのつもりでいてくれ」
「では、二十四時間殿下とご一緒できるということですね」

 口元をへらっとさせれば、ぴたりと足を止めたルルーシュに軽く睨まれた。

「先に言っておくが、俺は仕事とプライベートはきっちり分けるからな。仕事中にプライベートを持ち込まれたらその場ですぐに別れるから覚悟しろ」
「はい」
「これからしばらくは忙しくなる。二人きりの時間はあまり取れない。それでも文句はないな」
「承知の上です」
「あと──」
「心配はご無用ですよ、殿下」

 にこりと笑みを浮かべれば、ふいと視線を外してばつの悪そうな横顔を向けられた。
 ルルーシュがなんでも先回りをしてあれこれ考えてしまうのは相変わらずだ。それはつまり、彼の心配の表れでもある。
 男同士だからとか、皇子とラウンズだからとか、不安になる要素は挙げればキリがないだろう。だけど、その不安を馬鹿らしいと笑うことはできなかった。
 (怖かったのは僕も同じだ)
 お前はいつも余裕たっぷりだなとたまに言われるけれど、ルルーシュ相手に余裕なんてものはない。
 ただ、ルルーシュのことだけはどうしても諦めきれなかっただけなのだ。
 不意に風が吹き、黒髪がさらさらと揺れた。

「殿下、御髪が」

 失礼いたしますと手を伸ばして乱れた髪を整える。直している間、ルルーシュは目を閉じていた。
 キスを待っているときみたいだなと無意識に思い、そのあとに「キスしたいな」とはっきり思った。皇宮のど真ん中で不謹慎極まりないけれど、ルルーシュにはいつだって触れていたいのだから仕方ないと開き直る。

「カレー、今度はいつ作ってくださいますか?」

 唐突な質問にルルーシュがぱちりと目を開けた。スザクの顔を見て吹き出す。

「お前は本当にカレーが好きだな」
「殿下のカレーが好きなだけです」

 三度目の正直と言うべきか、ルルーシュと一緒にカレーを食べるという当初の目的が昨夜ようやく叶った。
 最初はルルーシュが逃げ出してしまい、スザクはひとりきりでカレーを食べることとなった。
 二度目のときは互いに想いを伝え合ったあとも離れがたく、いっそこのまま泊まって行きませんかと誘おうとしたタイミングで呼び出しがあり、カレーが出来るよりも前にルルーシュを帰す羽目となった。
 このままブリタニアを離れるのは心残りがあり過ぎると訴え、なんとかルルーシュに時間を作ってもらった結果、三度目にしてようやく念願を叶えたのである。
 なんとなく答えたカレーがまさかこういう展開になるなんてと、昨夜は感慨深いような気持ちだった。

「そんなに食べたいのならいくらでも作ってやる」

 くすくす笑ったあと、ルルーシュがふと真剣なまなざしを向けてきた。

「──スザク」
「はい」
「これは父上の戯れ言なのだが……」

 何やら言いにくそうに目を伏せてから、すぐにまた紫の瞳がスザクを見つめた。

「ナイトオブセブンで良ければいくらでも連れて行け、しばらく護衛として日本にいるのならいっそ騎士にしてしまえばいいと」

 えっ、とスザクは声を漏らした。

「父上の戯れ言だ。お前にはラウンズとしての今後があるし、将来設計だってしているだろうし、父上が退位されるまでは父上の騎士なのであって、皇帝の騎士と皇子の騎士のどちらがいいかなんて聞くまでもないわけで、だから本気で考える必要はなくて」

 慌てた様子で言い募るルルーシュの肩をがしりと掴んだ。皇族の彼に皇宮でなれなれしく触れるのは不敬だけど、周囲に人がいないことは瞬時に確かめたので問題ない。

「僕が騎士なのはお嫌ですか?」
「嫌とかそういうことでは」
「僕はあなたのものです。あなたが望むことはすべて叶えて差し上げます」
「だが」
「僕はなりたいですよ、ルルーシュ殿下の騎士に」

 ルルーシュが目を瞠った。
 スザクをじっと見て、薄く色付いた唇を震わせる。綺麗な顔がくしゃりと歪んだ。
 普段はポーカーフェイスで感情を見せようとしない皇子様が、スザクの前ではころころと表情を変えてくれる。本人は気付いていないかもしれないけれど、その表情は彼の気持ちを何よりも雄弁に語っていた。

「後悔はしないな?」
「後悔なんてするはずがありません」

 迷いなく伝えたスザクに、綺麗な顔が柔らかく微笑んだ。

「だったら、父上にもうひとつおねだりをしておかないといけないな」

 早速、次の算段を始めるルルーシュはやはりルルーシュだ。

「ルルーシュ殿下」
「ん?」
「どうか、末永くよろしくお願いいたします」

 溢れんばかりの愛しさを言葉に込めて大切に伝えると、こちらこそよろしく、とルルーシュが嬉しそうに返してくれた。
 永遠という言葉を簡単に使うつもりはない。
 ただ、この命が終わるそのときまで、ずっとあなたを想い続けることを約束します。
 (18.03.14)
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