この恋が終わるまで

「ルルーシュ殿下」

 背後から聞こえてきた声にルルーシュは一瞬眉を寄せ、小さく溜め息をつき、それからゆっくり振り返った。

「学校内であろうと護衛をお付けくださいといつも申し上げているでしょう」
「護衛を付けたら俺の正体がバレるじゃないか。それより、学校ではその呼び方をするなと言っているだろう。人にお説教する前に俺の頼みを聞いてくれたらどうなんだ、枢木卿」

 最後はわざと強調して言えば、ルルーシュの視線の先にいる彼が苦笑いを浮かべた。

「申し訳ございません、つい」
「申し訳ございません?」
「あ、いえ、ですから、……ごめん、悪かったよ。だから君もその呼び方はやめてくれないかな」
「お互い様だ」

 ふんと腕を組めば、彼の苦い笑みが深まった。

「まあいい。そんなことより、お前はここで何をしている。生徒会をサボるとはいい度胸をしているな、スザク」

 改めて呼び直せば、その表情に今度は嬉しそうな色が浮かんだ。名前を呼ばれて喜ぶなんてまるで犬だな、と思ったことはルルーシュの心の中だけに留めておいた。
 枢木スザク。ブリタニアに移住する外国人は多いが、その中でも彼の経歴はもっとも特異なものだろう。
 日本人でありながら帝国最強の騎士、ナイトオブラウンズの一員に抜擢され、今ではブリタニア随一の強さを持つともてはやされている。
 ラウンズの頂点に立つナイトオブワンにも引けを取らないのではないかと噂され、ラウンズだけのトーナメント戦をやってくれないだろうかと、ブリタニア軍人の中では期待にも似た要望が出ているらしい。
 いずれにしろ、スザクの強さは人間離れしているというのがもっぱらの評価である。
 その評価に応えるように、彼はあらゆる戦場で次々と戦果を挙げていて、どんなに不利な状況でも彼の駆るランスロットさえいれば勝利は約束されるとまで言われていた。
 そんな彼が今は学生服に身を包み、ルルーシュの前で飼い犬のように従順な態度だ。
 (たまにしか授業に出てこないから、こうして思いがけず顔を合わせると調子が狂うな。これだからイレギュラーなやつは)
 舌打ちしたい気持ちを抑え、ルルーシュはスザクに近付いた。

「それはなんだ?」

 彼の両手には大きな紙袋があった。ひとつではない。全部で五つもある。

「プレゼントだよ」
「プレゼント? お前、誕生日か何かか?」

 頭の中の情報を探るが、ルルーシュのデータベースに該当するものはなかった。
 そもそもスザクの誕生日は七月だし、と思っていると本人から正解が教えられた。

「バレンタインの贈り物なんだ」
「バレンタイン? それは来週だろう? 随分と気が早いな」
「来週は仕事で学校に来られないとリヴァルに話したらそれが学校中に広まってしまって、渡すなら今日がチャンスだと思われたみたい。そのせいで今日は生徒会にも出られなくて」
「なるほど、そういうことか。だが、なぜバレンタインに? お前を友達だと思っているのか?」

 ブリタニアのバレンタインは家族に贈り物をするものだ。親しい友達に贈り合うこともあるけれど、スザクのように山のようなプレゼントをもらう機会はない。ルルーシュ自身、贈ったり贈られたりするのは妹や異母兄弟ぐらいである。
 不思議に思って首を傾げていると、スザクが困ったような顔をしていた。

「僕がうっかり日本のことを話したのがいけないんだ」
「日本?」
「うん、日本式のバレンタイン。日本は外国の風習を取り入れるのが得意で、さらにそれをなんでも商売にしちゃうから、本来の意味とは違った行事になりがちなんだ。で、日本のバレンタインは女子が男子にチョコレートを贈って愛を告白するっていうのが定番」
「なんだそれは。馬鹿馬鹿しい」
「そう言うと思った。最近は友達同士で贈り合うのが増えてるみたいだけど、日本では告白の日みたいになってるって教室でうっかり話しちゃって」

 ようやく話が見えてきた。
 ブリタニア国民にとってナイトオブラウンズは憧れだ。皇族に匹敵する身分で、金も名誉も権力もすべてを持っている。
 スザクの場合は日本人だが、ラウンズという権威を前にすれば人種の違いなど瑣末なことだ。
 そんなスザクの恋人となっていずれは妻の座に、と日頃から狙っている女子生徒が日本式のバレンタインを知り、ここぞとばかりにプレゼント攻撃を仕掛けてくるのは当然だろう。

「だから女子達が一斉に贈り物がしてきたってことか。ナイトオブセブン様にしては迂闊だったな」
「茶化さないでよ。本当に後悔しているんだから」
「気を抜いていたお前が悪い」
「ちゃんと反省しているよ」
「どうだか。そんなことを言いながら、本音はチョコレートが欲しかったんじゃないか?」
「他人からのチョコレートなんていらないよ」

 冗談のつもりで言えば、思いがけず強い口調で否定された。きょとんとするルルーシュに、ハッとしたスザクが慌てた様子で「申し訳ございません」と謝った。

「言葉遣い」

 すかさず咎めれば、スザクがまた慌てた。
 こいつ本当に天下のナイトオブラウンズかと、吹き出しそうになるのをルルーシュはこらえた。

「不要な贈り物の処分に困ることは俺もあるし、来年はこんなことがないよう今のうちに根回ししておくんだな」
「うん。それにしても、さすがにこの量を持って帰るのは骨が折れそう」
「車があるだろう?」
「今日は歩いて帰るつもりだったから呼んでないんだ」
「必要になったと今から呼べばいい」
「それが、どうせ作戦会議で籠ることになるからってことで、運転手にはしばらく休暇を出してて」
「それはまたタイミングが悪いな」
「本当にね。色々失敗したよ」

 その声音は心底困っているようだ。女子には優しいスザクも、この事態にはさすがに参っているらしい。
 ルルーシュはたくさんのプレゼントが無造作に突っ込まれている紙袋を眺めた。
 ここにあるのはスザクへの下心だ。純粋な好意もあるかもしれないが、自分の想いを形として渡している時点で下心が一切ないとは言わせない。
 (こんなに簡単に渡せるんだな)
 無意識に浮かんだ感情を振り払うように、スザクの手から紙袋を半分奪った。予想外の重さに身体がよろめく。

「何してるの、重いよ」
「たいした重さではない」

 スザクに支えられてしまったことが同性の男として悔しいので、ルルーシュは虚勢を張った。同時に、両足を踏ん張って体勢を戻す。

「俺が整理してやる」
「整理?」
「この状態のまま持ち帰ったら底が抜けるかもしれない。道のど真ん中で大量のプレゼントをかき集めるのは嫌だろう? 万が一、そんな場面を撮られたらどうするつもりだ」

 ナイトオブセブンが女性からの贈り物を公道にばら撒いていたなんて不名誉な噂を立てられたら困る。
 彼は帝国の騎士だ。たとえ個人的なスキャンダルだったとしても、彼の評価は帝国や皇帝の評価に直接繋がるのだ。

「ゴシップ紙に撮られるのは嫌かな……」
「だろう? だから俺が中身を整理して、紙袋も補強してやる」

 ルルーシュはスザクの返事を待たずに歩き出した。
 待ってよ! という声と共に彼の靴音が追いかけてくる。そのことにルルーシュは口元を微かに緩め、生徒会室を目指した。
 (それにしても重い)
 両手にずっしりと重力を感じる。これで半分なのだから、軽々と持ち歩いていたスザクはやはり化け物だ。
 そんなことを思っていると、追いついたスザクがルルーシュの手から紙袋を奪った。ひとつだけ残したのは、ルルーシュのプライドを慮ってのことだろう。しかし、自分が非力みたいでやはり悔しい。

「この体力馬鹿が」
「えっ、馬鹿って酷くない?」
「うるさい」
「僕は別に普通だよ。君の体力がないだけだろ?」
「だからうるさいと言っている」

 言い合いをしながら歩いていると、下校途中の女子とたびたびすれ違った。
 どの生徒も「ルルーシュ君さよなら」と言ったあと、ちらりとスザクのほうを見る。そのうちの半数は、スザクを呼び止めて綺麗にラッピングされた箱を差し出してきた。
 そのたびにスザクはありがとうと笑みを浮かべて受け取るため、紙袋の中身は増していった。
 困ると言っていたくせにたいしたフェミニストだなとスザクに呆れ、大量のプレゼントを前にしてもまったく怯むことなく自分の分を押し付けてくる彼女達の豪胆さにも呆れた。
 いちいち立ち止まって丁寧に対応しているスザクと、嬉しそうにきゃあきゃあはしゃいでいる女子達を見ていたらムカムカしてきた。イライラも募る。
 ようやく解放されたスザクがルルーシュのほうを向き、こてんと首を傾げた。人の顔をじっと見ているのでなんだと思っていたら、紙袋を床に下ろして近付いてきた。
 それからおもむろに手を伸ばし、いきなり額の辺りをさすられる。

「眉間に皺が寄ってるよ。綺麗な顔が台無し」

 目の前に甘ったるい笑顔があって、ルルーシュは言葉に詰まった。ハッとしてスザクの手を振り払えば、紙袋が音を立てて落ちる。

「あ……」

 うろたえていると、スザクがしゃがみ込んで袋から零れた箱を拾い上げていた。急いでルルーシュも床に膝をつけば、「大丈夫だよ」とスザクに制されてしまう。
 手伝う間もなくすべてスザクが片付け、ついでに残りの紙袋も取り返されてしまった。

「力仕事は僕の仕事だから」
「俺だって力はある」
「はいはい」

 笑いながら歩き出すスザクに、ムッとしたルルーシュも止まっていた足を動かした。
 (ひ弱な皇子だと思っているのだろう)
 学生鞄より重いものは持ったことがないという誤った認識をされているかもしれない。
 確かに、日頃は自ら重労働をする機会がないけれど、生徒会の行事のときはちゃんと働くし、重いものだってちゃんと持てる。
 でも、そんなときにスザクが現れると必ず荷物を奪われた。重いでしょう? とまるで女子に対するセリフのようなことを言って、ルルーシュが苦労して持ち上げたものをひょいと片手で抱えるのだ。
 そのたびに、スザクから気にかけてもらえたことの嬉しさと、男としてのプライドを傷付けられたことの悔しさで複雑な気持ちになる。
 (俺が皇子だから優しくするだけだ)
 だけど、その瞬間は自分だけが特別扱いされたようで、嬉しさのほうが勝った。
 (そうして喜んだあとに、どうせ俺以外にも優しくするくせにと思って傷付くんだ。滑稽だな)
 残りの道のりは女子生徒に遭遇することもなく、ほっとするような気持ちで生徒会室のドアを開けた。無人の部屋に入ると、テーブルの上に中身を出すよう指示する。

「全部ですか?」
「出さないと整理できないだろう」
「しかし、殿下のお手を煩わせるのはやはり申し訳なくて……」
「くどい」

 ルルーシュがぴしゃりと言えば、スザクは叱られた子犬のようにしゅんとした。お前は本当にラウンズか、と何度目になるかわからないツッコミを心の中で吐き出す。

「では、よろしくお願いします。並べるのはサイズ順のほうがいいですか?」
「そうだな。でも、だいたいでいいぞ。そこまで正確に分ける必要はない」
「わかりました」

 早速作業に取り掛かったスザクを手伝いながら、ルルーシュはこっそり嘆息した。
 敬称も敬語も禁止だとあんなに口うるさく言ったのに、二人きりになった途端、スザクはまた「殿下」と呼んできた。彼の態度も身に纏う空気もすっかりナイトオブセブンのものだ。
 (ここは学校だと言っただろう)
 喉元まで出かかった文句を飲み込む。
 スザクは皇帝の騎士でナイトオブセブン。一方のルルーシュはその皇帝の息子、つまり帝国の皇子で、ブリタニアでは皇帝に次ぐ地位にあった。
 ラウンズが皇族に匹敵する身分とは言え、皇族を粗雑に扱うことはできない。頭を下げて敬うのは普通のことだ。
 ましてや、スザクは日本人である。他国の人間に対する差別意識が強く残るブリタニアにおいて、ブリタニア人ではないことは大いに不利だった。
 些細な失敗だとしても、スザクの失脚を狙う連中にとっては格好のネタとなる。だから、細心の注意を払って皇族と接するのも当然のことなのだ。
 そんなことはルルーシュも理解している。学校なのだから同級生らしく振る舞えと命じているものの、それは無茶な要求で、ルルーシュの単なる我儘だと知っている。
 (わかってる、だが――)
 先ほど、スザクに触れられた額を意識してしまう。
 彼にとっては何気ないスキンシップだとしても、ルルーシュにとっては特別な接触だった。
 (感情とはこんなにもままならない)
 いつからこの気持ちが胸の中に芽生えているのか、ルルーシュには検討もつかなかった。
 ある日唐突に気付き、信じられない事実に愕然とし、そして、芽生えてしまったものは仕方がないと観念した感情の名前は、恐らく恋と呼ばれるものなのだろう。
 観念と言っても、その境地に至るまでひと月ほどの時間を要した。
 (だって、男である俺が、同性のスザクを好きになるなんて絶対にあってはいけないことなのだから)
 いつから彼を意識するようになったのかは本当にわからなかった。ありきたりだけど、気付けば好きになっていたとしか言いようがない。
 同い年ということもあり、スザクとは出会った当初から親しくしていたものの、そこに恋愛感情が生まれる余地はなかったはずだ。
 もしかしたら、生まれて初めて友達に近い存在を得られたことが嬉しくて、友情を愛情と勘違いしてしまったのかもしれない。
 いずれにしろ、己の感情を認識したときにはすべてが手遅れだった。
 (だからと言って、どうにかすることもできないわけだが……)
 それがルルーシュの悩みの種である。
 同性である以上、告白という手段は取れない。勇気を振り絞って告白したところで、気味悪がられて終わりだ。
 皇族相手だから気持ち悪いとはっきり言うことはないだろうが、今後の付き合いを改められる可能性は高い。これをネタに脅迫される恐れもあった。
 もちろんスザクはそんなことをしないと信じている。でも、このことを知った悪意の第三者が存在しないとも限らない。
 だから、ルルーシュは必死に取り繕っていた。
 皇宮ではルルーシュ・ヴィ・ブリタニアとして。学校では生徒会副会長のルルーシュ・ランペルージとして。
 スザクを好きな気持ちは決して誰にも悟られないよう、心の奥の奥に押し込むようにして仕舞い込んだ。
 苦痛でないと言えば嘘になる。今日のように女子から大人気のナイトオブセブン様を目の当たりにすると、柄にもなく嫉妬した。なんの躊躇いもなくチョコレートを贈れる彼女達が羨ましくてたまらなかった。
 (別にスザクと付き合いたいわけではない。ただ、友人として近くにいたいだけだ)
 しかし、その望みを叶えることすら現状では難しい。学校ではただの同級生として過ごせているけれど、人の目がなくなった途端、彼は皇宮と同じ態度で接してくる。
 一定の距離を取り、必要以上に近付いてこないのはラウンズとしては正しい判断なのだろう。
 だが、ルルーシュからすればそれは拒絶と同義だ。好きとは言えない代わりに、せめて友人としてスザクのそばにいたいと願うのに、スザクにとってはそれすらも迷惑なのだろう。
 溜め息が漏れそうになって、誤魔化すように深呼吸をした。
 (今日だけで一年分の溜め息が出そうだ)
 憂鬱になっている間も作業は続けていて、テーブルの上には大小様々な箱が並んでいた。色とりどりのリボンは綺麗だが、今は嫌味にしか感じられなかった。

「スザク、そこの棚の中に紙袋があるから全部出してくれ」
「よくご存知ですね」
「先週、俺が片付けたからな」
「なるほど」

 スザクが運んだ紙袋を検分し、大きめで頑丈なものを選ぶ。それを二重にしてさらに補強すると、今度は箱を詰める作業に取りかかった。

「手伝いますよ」
「必要ない。お前がやったらせっかくの作業が台無しになりそうだ」
「酷いですよ。それじゃあ僕がいい加減みたいじゃないですか」
「こういう細かい作業は不得意そうに見えるが」
「それは殿下の誤解ですって。こう見えて僕は繊細ですよ?」
「ほう、繊細」
「信じてませんね」

 不服そうなスザクにくすくす笑っていたルルーシュは、何気なく持ち上げたラッピング袋がやけに軽いので首を傾げた。

「どうされました?」
「ほかのに比べると随分軽いなと思って」
「中が気になりますか?」
「他人の贈り物の中身を探る趣味はない」
「見てもいいですよ。僕も気になるし」

 言うが早いか、ルルーシュの手から包みを受け取ったスザクが遠慮なく開封した。その開け方はお世辞にも丁寧とは言えないもので、やはりいい加減じゃないかとルルーシュはこっそり思った。

「あ」

 中を覗いたスザクがバツの悪そうな顔をした。変なものでも入っていたのかとルルーシュが近付けば慌てて口を塞いだ。紙のラッピング袋がぐしゃりと潰れる。

「何をしているんだ」
「何も」
「そんな風に掴んだら中身が潰れるだろう。何が入っていたんだ?」
「いえ、これは殿下のような高貴な身分の方の目に触れさせていいものではないので……」

 スザクの言葉にルルーシュはムッとした。
 高貴な身分だからと理由をつけているが、要は皇族を関わらせたら面倒だという意味ではないか。
 女子高生が法的に問題のあるものを贈ってくるとは思えないから、単に見せたくないだけなのかもしれない。
 (まさか好きな相手からの贈り物か?)
 そんなことに思い至り、ルルーシュの心に嫉妬心が芽生える。
 恋敵の贈り物を握り潰してやろうと思ったわけではない。ただ、これがスザクの想い人からの贈り物だったらと考えたらたまらない気持ちになった。
 衝動的に手を伸ばし、スザクから包みを奪い取る。

「あっ、殿下!」
「殿下と呼ぶなと言っただろう」

 スザクを一瞥し、袋の中身を掴む。出てきたのは初めて見るものでルルーシュは首を捻った。
 (化粧品のサンプルか? クラスの女子がこういうのをたまに見せ合っていたような。しかし、化粧品だったら中身がこんな手触りなのはおかしいし……。何かが入っているようだが、医療関係のものか?)
 いずれにしろ、贈り物として選ぶような代物ではなさそうだし、スザクがこれを必死に隠そうとした理由も検討がつかなかった。

「これはなんだ?」
「ええっと……」

 睨むようにじっと見つめれば、スザクは顔を逸らした。

「答えろ」

 命じるのは不本意だが、ここは皇族の権力を大いに使わせてもらうことにする。
 ルルーシュの命令に観念したのか、困ったように頭を掻いたスザクがぼそりと何かを口にした。

「ん?」
「あれのときに使うのですよ」
「あれとは?」
「ですから……コンドームですよ、それは」

 ルルーシュの脳は単語の意味を把握してくれなかった。
 言葉の意味は知っている。概念としても理解している。
 でもまさか生徒会室で、しかもスザクの口から聞かされるとは想定していなかったので、すぐには理解できなかった。

「コンドーム……」

 何気なく声にし、そこでようやく意味を悟った瞬間、全身が熱くなるような感覚を抱いた。手の中にあるものを恐る恐る見て、反射的に手を離してしまう。
 スザクは何も言わずに膝をつき、床に落ちたものを拾い上げた。それからルルーシュのほうを窺う。
 その視線には試すような色があって、自分の頬の温度が上がったことをルルーシュは感じた。

「な……、な、何を言っている!」
「事実をお伝えしたまでです」
「だからってはっきり言わなくてもいいだろう!」
「答えろとおっしゃったのは殿下ですよ?」

 にこりと笑ったスザクが立ち上がり、拾ったものをルルーシュの手に握らせた。

「よろしければ差し上げましょうか?」

 囁かれた言葉にカッとなり、思わず右手を振り上げる。しかし、スザクの頬を殴るよりも早く手首を掴まれてしまった。

「反応されるということは、これの意味をご存知なのですか?」
「当たり前だろう!」
「そうでしたか。てっきり殿下はご存知ないかと」
「馬鹿にするな。性交渉に関することは皇族に必要な知識だ。避妊具についてもちゃんと知っている」
「では、使い方もよくご存知で? まさかすでに実地で経験されているとか?」
「俺達はまだ高校生だぞ! 経験なんかあるものか!」

 叫ぶように答えれば、スザクが目を瞠った。

「文句があるのか」
「あ……いえ、そっか、そういうことですか……」

 ひとりで何やら納得しているスザクにルルーシュは眉を寄せた。どういうことだと問いたいけれど、口を開けばまたやぶ蛇になりそうだ。
 (いや待てよ。スザクはひと目見ただけでこれがコンドームだとわかっていた。実物を見たことがある、つまり使ったことがあるということで……)
 使ったことがあるということは、誰かと性交渉をしたという意味だ。
 そのことに気付き、今度は全身から血の気が引くような感覚がした。目の前が暗くなり、咄嗟にテーブルへと手をつく。

「大丈夫ですか?」

 スザクの心配そうな顔が近付き、身体を支えられた。
 翠の瞳にはルルーシュしか映っていないのに、彼はルルーシュのものではない。そのことがとても理不尽に感じられ、胸の内で嫉妬とも憎悪とも呼べるものが渦巻いた。
 これは良くない感情だ。皇族としていついかなるときも平静さを忘れてはいけないのに、見ず知らずの人間に激しい嫉妬を覚え、憎しみさえ抱いている。
 拳を握れば、コンドームが存在を主張した。これを贈った相手はどういうつもりだったのだろう。
 本気なのか。冗談なのか。スザクとの身体の関係を望んだのか。本命にはならなくてもいいから、遊びの相手として立候補したつもりなのか。

「スザク……」
「はい」

 彼の胸に拳を押し付け、手の中のものを突き返す。

「ナナリーが俺の帰りを待っているんだ。早く終わらせるぞ」

 投げ付けるようにコンドームを返すと、ルルーシュは何事もなかったように残りのプレゼントを片付け始めた。
 スザクもそれ以上は何も言わず、ルルーシュの作業を見守っていた。黙々と整理し、すべて片付けると「できたぞ」と声をかける。

「ありがとうございます。殿下のお手を煩わせて申し訳ございません」
「言い出したのは俺のほうだ。気にするな。ところで、それの中身はチョコレートだったか?」
「恐らくほとんどはそうでしょうね」
「全部食べるのか?」
「いえ、すべて処分します。毒が入っていないとも限りませんから」
「そうだな」

 贈り主が聞けば憤慨するに違いないが、親しくない相手からの贈り物には慎重にならざるを得ない。皇族やラウンズという特殊な立場に置かれているルルーシュ達にとってはそれが常識だ。
 誰彼構わず疑いたくはないが、本当に毒を仕込まれていた事例がある以上、手作りだろうと既製品だろうと無闇に口には入れられなかった。

「しかし残念だな。こんなにチョコレートがあるのに一粒も食べられないとは」
「たとえ食べられたとしても、これを全部食べるのはさすがに無理ですね。そこまで甘党ってわけでもありませんし」

 苦笑いを浮かべたスザクに、でもコンドームなら使えるんじゃないか? と思い、自分の意地悪さにルルーシュも胸の内で苦笑いした。

「確かに、全部食べたら胸やけしそうだ」
「ええ。なので、さっきから塩気のあるものが欲しくて」
「食べてないくせに?」
「匂いがすでに甘ったるいですから」

 そうか? と思って嗅いでみるけれどチョコレートの匂いはしなかった。甘ったるいのはチョコレートではなく、これを贈ってきた女子達の気持ちなのかもしれない。

「塩気か……」

 なんとなく声に出して、ルルーシュはハッと閃いた。瞬時に頭の中で計算し、これは使えると結論付ける。

「だったら、塩気のあるものを作ってやろうか?」
「へ?」

 目を丸くしたスザクに、ルルーシュは何気ない風を装って腕を組んだ。

「こんなにチョコレートをもらったのにひとつも食べられないナイトオブセブン様が可哀想じゃないか。だから、俺が塩気のあるものを振る舞ってやる」
「殿下が? 御自ら?」
「私の手料理では不満か?」

 わざと皇宮での一人称を使えば、まさか! とスザクが首を振った。

「しかし、殿下にそのようなことを……」
「俺がいいからいいんだ。何度も同じことを言わせるな」

 居丈高に告げると、スザクは少し困ったような顔をしていた。
 迷惑がられているのかもしれない。遠回しに拒絶したのにちっとも伝わっていないから、困った皇子様だと思われたのかもしれない。
 (どうせ今さらだ)
 恋人にはなれない。友達にもなれない。どの関係も望めないのならば、嫌われても嫌われなくてもどうでもいいではないか。
 開き直るように思ったルルーシュは、「で、来週の予定は?」と尋ねた。

「夕食の時間でいいだろう? 食べられなかったら次の日に温め直せばいい。俺は食事を作るだけだから、厨房を使わせてもらえれば充分だ。もてなしも不要。終わったらすぐに帰る。そういう条件でどうだ?」
「厨房でしたらいくらでも使ってください。それと、せっかく作ってくださるのですから、せめて一緒に夕食をとらせてください」
「俺と違ってお前は忙しいだろう? 無理する必要はない」
「無理なんかしていません」

 強く否定され、ルルーシュは訝しく思った。
 先ほども廊下でこういうことがあったし、これまでにもスザクは何度か不思議な反応をしてきた。夕食を一緒にとらなかっただけで不敬罪だなんだと騒ぐつもりはないのに。
 それだけ信頼されていない証かと思うと寂しさも感じた。

「俺からの提案は夕食を作ることだけだ。ほかはお前の好きにしろ」
「ありがとうございます」

 スザクが満面の笑みを浮かべた。その顔は本当に嬉しそうで、そこまで喜ぶことか? とルルーシュは首を傾げるけれど、彼が喜んでくれるのならまあいいかと思った。

「では、ついでにリクエストも聞こうか。何が食べたい?」
「そうですね……カレーかな」
「カレー? 好物だったのか?」
「好物というほどではありませんが、なんだか急に食べたくなってしまって」
「随分簡単なものだな。ではカレーをメインに、ほかにも何品か作ってやろう」
「楽しみにしています。明日からしばらく会議やランスロットの調整が続くのですが、十四日でしたら昼だけ外出するので、夕方には戻れると思います」
「十四日か。それなら、お前が戻る頃に食べられるよう準備しておこう」
「はい」

 スザクは相変わらずにこにこ笑っていた。カレーはさほど好物ではないと言ったけれど、これはどう見ても好物だ。
 (カレーか。母上に教わったことはあるが、日本の味を調べ直したほうが良さそうだな。付け合わせも必要になるし)
 頭の中で当日の計画を組み立てる。
 スザクに手料理を振る舞うことを知ったら女子達はどんな反応をするかなと思い、やはり俺は意地が悪いとルルーシュはこっそりぼやいた。

***

 約束の日。お茶の時間より少し前にスザクの屋敷を訪ねると、彼はまだ外出していなかった。

「随分とお早いですね」
「迷惑だったか?」
「迷惑ではありませんが、今日って平日ですよね?」
「そうだが?」
「まさかサボり……」
「厨房はどこだ。早く案内しろ」

 学校を抜け出してきたと言ったら連れ戻されてしまいそうなので、無理やり屋敷の中に入らせてもらう。スザクにはバレているだろうが、皇族のやることならば大目に見てくれるだろう。
 その目論見は正しく、スザクは溜め息ひとつで諦めてくれた。

「厨房へ行く前にお茶を出させてください」
「気遣いは不要だ」
「ちょうどお茶にしようと思っていたところなんです。一杯だけお付き合いいただけませんか?」

 スザクに頼まれたら無下にすることはできない。お前が出かけるまでならと了承すれば、彼の部屋に案内された。
 初めて足を踏み入れる私室はどこか温もりがあった。家具のひとつひとつは高級品だけど無駄な派手さはなく、シンプルな空間は好ましさを感じる。
 しばらくすると使用人がやって来て、見慣れぬ茶器がテーブルに乗った。お茶は緑色で、これは? とスザクに目線で尋ねた。

「緑茶です。殿下は初めてですか?」
「知識では知っているが、ちゃんと飲むのは初めてだ。ブリタニアで緑茶というのは貴重だな」
「従妹が送ってくれまして。殿下のお口に合うかわかりませんが、一度お試しになってみてください」

 勧められるまま口をつけてみた。馥郁とした香りが鼻腔をくすぐる。

「いかがですか?」
「悪くない。茶器も趣があっていいな。これも日本から?」
「緑茶を飲むのに紅茶と同じカップは合わないので」
「確かに」

 気に入ってすぐに二杯目をおかわりすると、「たくさん送られてきたのでお土産に差し上げましょうか?」とスザクが言ってくれた。

「いいのか?」
「ええ。僕ひとりでは飲み切れないので」

 だったら使用人にあげればいいのではと思ったけれど、くれると言うのならばと彼の申し出をありがたく受けることにする。

「ところで、あれはそのままなのか?」

 お茶を飲みながらスザクの後方に目を向ける。部屋に入ったときからずっと気になっていたものだ。
 釣られるように首を回したスザクが、ああ、と興味なさそうに相槌を打った。

「処分するつもりですが、その前に相手の名前とメッセージ内容に目を通しておこうと思って」

 女子達がスザクに渡していたバレンタインのチョコレートがデスクの上にあった。すべて処分すると言っていたが、紙袋の状態は先日持ち帰ったときと変わらず、まったく手を付けられていないようだ。

「まさか全部確認するつもりか?」
「ええ。あまり疑いたくはないですが、中には僕を中傷する内容もあるかもしれないので。好意的なものだとしても、誰から贈られたのかは一応確かめておこうと思いまして。でも、ゆっくり確認する時間が取れなくてあのままなんです」
「使用人に任せればいいじゃないか」
「そうですが、個人的なメッセージを他人に見せるのは少々気が咎めますし」

 忙しいくせによくやると内心呆れた。
 他人からの贈り物には興味がないと言っていたくせに、一個ずつ中身を確かめるのだから律儀なのか愚直なのか。
 スザクは中傷を警戒しているが、そんなものはあるはずがない。どうせメッセージカードには「好きです」とか「付き合ってください」とか、告白の言葉が山ほど書かれているに決まっている。
 スザクはそれらすべてに目を通すのかと思い、たとえ一方通行だとしても想いを伝えることのできる彼女達が羨ましくなった。
 (くだらない)
 チョコレートから目を背けると、バレンタインの話はやめにして別の話題を出す。
 そうして三十分ほど雑談をしたあと、では僕はそろそろ、とスザクが時計を見た。

「作戦会議だったな。例の中東案件か?」
「はい。と言っても、僕は今回居残り組なので出番はないのですが。今日はオブザーバーのようなものです」
「お前はいつも遠征に出ているから、たまには居残りでゆっくりしてもいいんじゃないか?」
「でも、身体がなまりそうで」
「お前は根っからの体力馬鹿だな」
「だから馬鹿はやめてください」

 これだけ働いているのに身体がなまることを気にするとは、軍人の鑑のような心がけではあるが、今からオーバーワーク気味でどうするのだと心配にもなる。

「でも、身体を動かすことが僕にとっては一番なんです。頭で考えることはあまり得意ではないので」
「謙遜だな。ただの馬鹿ならラウンズにまではなれないぞ」
「僕は運が良かっただけです」

 ランスロットと呼ばれるナイトメアのデバイサーにたまたま選ばれ、たまたま活躍する機会が与えられ、任務をこなしていたらたまたま皇帝の目に留まっただけだと、スザクは自分の経歴を謙遜して話す。
 確かに、スザクは運がいいのだろう。
 通常、ブリタニア人以外の人間はナイトメアの騎乗が許されていない。そんな中、偶然受けたパイロット適正テストで高評価をたたき出し、ナイトメア研究の第一人者であるロイドがスザクを見出したのは奇跡的な幸運だ。
 しかし、いくらチャンスが転がっていても、そのチャンスを生かすだけの能力がなければどんな機会も無意味である。
 スザクにはチャンスをものにするだけの才能があった。彼が運だけの人間でないことはルルーシュがほかの誰よりも知っている。
 だから、スザクの活躍を素直に認めない連中や、いつまで経っても謙遜ばかりのスザクには歯痒いものを感じていた。

「また難しい顔をされていますね」

 思いがけず近いところからスザクの声がして、ルルーシュはソファの上で飛び上がった。そんなに驚かれなくても、とスザクがくすくす笑う。

「お、お前が驚かしているんじゃないか!」
「僕は何もしていませんよ」

 嘘つけと言いたいが、またいつもの堂々巡りになることは明らかなのでやめておく。
 ルルーシュは茶器をテーブルに戻すと、立ち上がっているスザクを見上げた。

「引き留めて悪かったな。早く行かないと遅刻するぞ」
「ご心配なく。仕事の前に殿下とお話しできて嬉しかったです。三時間ほどは戻れないかと思いますので、それまでこの部屋はご自由にお使いください」
「ここはお前の私室だろう? 客室に案内してくれたら移動する」

 腰を浮かそうとしたら、肩に手を乗せてやんわり押し留められた。

「どうかお気遣いなく」
「それは俺のセリフだ」
「僕としては、殿下に過ごしていただけるのでしたらむしろ光栄です。退屈しのぎになるかどうかわかりませんが、部屋の中のものはご自由に触れてください。なんなら、僕にとって都合の悪い文書や資料がないか確認してくださっても構いませんよ」

 ナイトオブセブンは日本のスパイではないかという噂がたまに出てくる。それをネタにした軽口なのだろうが、面白くない冗談だ。

「では徹底的に捜索して、ナイトオブセブンに二心なしと国中に喧伝してやろうか」
「あまり大げさにされるのは困りますね」
「だったらお前もつまらないことを言うな」

 ほら早く出かけろと、今度こそ立ち上がってスザクの背中を押す。

「わかりましたから、そんなに押さないでください」
「せっかくの機会だ、俺が見送りしてやろうか?」

 皇族がラウンズの見送りをしたとわかれば、また面白おかしく噂されるに違いない。先ほどの冗談への仕返しに、さすがのスザクも降参のポーズをしてみせた。

「困ります。そんなことを殿下にさせたら宰相閣下に殺されてしまいます」
「この程度で怒るほど兄上は狭量な人間ではないぞ」
「そういう問題ではないのです。とにかく、見送りはここで充分です」

 くるりと身体の向きを変えたスザクは、ルルーシュに微笑みかけると膝を折った。絨毯の上に青いマントがふわりと広がる。

「行ってまいります、ルルーシュ殿下」
「ああ。しっかり励んでこいよ。お前が帰る頃には夕食ができているから寄り道するんじゃないぞ」
「イエス、ユアハイネス」

 恭しく頭を下げたスザクがドアの向こうに消えると、ルルーシュは息を吐き出した。それから制服の胸元をぎゅっと掴む。

「ああいうのは反則だろう……」

 心臓がドキドキしていた。
 彼のラウンズ姿も笑顔も見慣れているはずなのに、不意に笑いかけられたら途端に緊張してしまう。
 本人はほんの戯れだったのかもしれない。わざとルルーシュを皇子らしく扱って、からかっただけなのかもしれない。
 それでもスザクに笑顔を向けられたら嬉しいし、急にラウンズの顔をされたらそのギャップにどきまぎしてしまう。
 女子じゃあるまいしと、ルルーシュは照れ隠しに舌打ちしてソファへと戻った。
 これから忙しくなるのだ。スザクが帰宅する時間に合わせて夕食を作らなければいけないのだからぼんやりしていられない。
 (その前に……)
 持ってきた紙袋の中からひとつの箱を取り出す。
 ブラウンの箱に赤いリボン。数日前、嫌というほど見せつけられたものを模倣したラッピングだ。
 (これならほかと紛れるだろう)
 スザクが日本のバレンタインの話をしたことや、女子達の間でチョコレートを贈る計画が進行していたことに気付かなかったのは迂闊だった。
 あの時期はちょうど生徒会がバタバタしていたからというのは言い訳にしかならないが、学園内の情報には常にアンテナを張っているルルーシュにしては珍しい失態だ。
 (こんなものを贈ってどうにかなるわけではないが……)
 今日、二月十四日にスザクの屋敷を訪ねることが決まったとき、ひとつの計画を思い付いた。
 他愛のない計画だ。悪戯と言ってもいい内容である。
 スザクは喜ばないとわかっているし、ほかのチョコレートと一緒に処分される運命にあることもわかっていた。
 でも、だからこそ逆に都合がいい。
 昨夜からアリエスの厨房に籠ってせっせと作っていたのは一口サイズのチョコレートケーキである。普通のチョコレートを贈るのはつまらないと思い、先日から悩みに悩んで決めたものだ。
 渡せたら渡そうという軽い気持ちでいたので、先日のまま紙袋が残っていたのは好都合だった。ひとつずつ中身を確かめると言っていたから、スザクの目に触れる機会を得られただけで充分だ。
 ルルーシュは紙袋からギフトボックスをいくつか取り出し、自分が持ってきたチョコレートケーキの箱を入れた。それから元通りの配置に戻して、違和感がないことを確認した。
 これで完璧だと、口元に笑みを浮かべて満足げに頷く。
 (贈り物が一個増えたところで気付かれることはない。いくらスザクでも見破れないだろう)
 こっそりバレンタインの贈り物をし、気付かれないうちに捨てられる。でも、それでいい。
 スザクに告白まがいのことをした。たとえ自己満足だとしても、ルルーシュにとってはそれだけで良かった。

「さてと、時間もないことだしそろそろ厨房に行くか……」

 内線で執事に連絡をすれば、すぐにノックの音がした。部屋を出ると恭しく頭を下げられる。

「今日は食事を作りに来ただけなのだから大袈裟にしなくていいぞ」
「しかし、主人からはルルーシュ殿下を丁重におもてなしするよう命じられておりますので」
「律儀なことだな」
「厨房には当屋敷のシェフを控えさせますが」
「いや、ひとりで問題ない。何かあれば呼ぶから、それまでは誰も入ってこないようにしてくれたら助かる」
「かしこまりました。では、そのように致します」

 厨房に案内されると、頼んでおいた食材がずらりと並んでいた。
 足りないものがあればお申し付けくださいと言って執事が出て行くと、ルルーシュは制服の上着を脱いでシャツの袖をまくった。用意されていたエプロンをつけ、まずはカレー作りに取り掛かる。
 ここ数日、ルーから作るカレーを研究してきたので手順は完璧だった。おかげでアリエスの厨房にはずっとカレーの匂いがしていて、試食に付き合わされたジェレミアは毎食カレーを食べるはめになったわけだが、何がそんなに嬉しいのか、彼は涙を流して食べてくれたので助かった。
 日本人の口に合うものということで、日本出身の咲世子にも味の評価をお願いした。彼女からはほかの日本食についても習ってお墨付きをもらったので、今日はその成果を発揮するだけである。
 料理は子供の頃から母に教わって慣れている。日頃は母や妹の喜ぶ顔を思い浮かべながら作るけれど、今日はスザクの喜ぶ顔が頭の中にずっとあった。
 好きな人のことを考えながら作るのは少し照れくさい。でも、今だけは好きなだけスザクのことを考えていていいのだと思うと胸の中が温かかった。いつも心の奥のほうに押し込めている想いがじわりと溢れてくる。
 カレーを煮込んでいる間、ルルーシュは手際よくほかのメニューも作っていった。鍋がコトコト鳴る音と、包丁の軽やかな音が広い厨房にのどかに響く。
 そうしているうちに時間は過ぎていて、スザクの帰宅予定時間が迫っていた。
 厨房のドアがノックされ、応えを返すと執事が顔を覗かせた。

「主人から連絡があり、あと十五分ほどで到着するそうです」
「そうか、わかった」

 ちょうどいいタイミングだなと炊飯器のスイッチを入れた。
 カレーなら白米が必要だが、さすがに米の炊き方まではわからないし米を炊くための道具もないと困っていたら、これをどうぞと咲世子がわざわざ私物を貸してくれたのだ。
 (ブリタニアの屋敷に日本の炊飯器というのはひどく違和感があるな)
 広々とした厨房に炊飯器がぽつんと置かれていて、そこからコードが伸びているのはなんだか可笑しい。
 (そういえば、スザクは今までどうやって米を食べていたのだろう)
 事前に厨房の道具類を確認したところ、米を炊くのに適切な器具はなかった。
 日本人なら白米を食べたいだろうに、ブリタニア食で我慢していたのだろうか。あるいは、米がなくても特に支障はないのか。
 (食は生活の基本なのに、俺としたことがリサーチ不足だったな)
 スザクの好みをちゃんと確かめた上で、次は彼の好物ばかりを作ってあげよう。まるでスザクの彼女か婚約者のようなことを考え、次があることを少しも疑っていない自分に苦笑いした。
 女子ならともかく同い年の男子、しかも厄介な皇子に頻繁に訪ねられても迷惑なだけだ。
 何も知らないふりをして押しかけるという手もあるが、そんなことを続けていたらいずれ本格的に嫌われそうである。

「時間があるから部屋に戻っておくか……」

 先ほどの緑茶を淹れてほしいと執事に頼むと、ルルーシュはスザクの私室hへ戻った。ソファに腰掛け、部屋の書棚へと目を向ける。
 人の蔵書を見るのはなかなか興味深い。自分と同じジャンルの本があれば同好の士かと思えるし、まったく手を出したことのない分野だとその本にもその人にも興味がわく。
 スザクはどんな本を読んでいるのかと書棚に近付くと、見慣れない縦書きの文字が並んでいた。どうやら半分ほどは日本語の本のようだ。
 残り半分はブリタニア語で、語学に関するものから政治や経済まで幅広い。専門書と言うよりは、勉学のためのテキストといったところか。
 (意外と勤勉なんだな)
 意外と言ったらスザクが怒るかな、とルルーシュは小さく笑った。
 日本を離れてブリタニアでひとり生きていく大変さはもちろん、外国人がラウンズとして生きていく大変さもあるだろう。
 日本とブリタニアは言葉も生活習慣も何もかもが違う。今でこそナイトオブセブンとしてちやほやされているが、そこに至るまでには様々な苦労をしてきたはずだ。
 (だからこそ、プライベートくらいは穏やかに過ごしたいだろうな。つまり、そういう相手として俺ほど相応しくない人間はいないというわけだ)
 ナナリーやユフィのような可愛らしい女の子ならともかく、同性の皇子では単なる仕事の延長線としか思えず、ただただ息が詰まるだけだろう。
 また溜め息が出そうになり、慌ててぶんぶんと首を振った。
 (今日はスザクの食事を作りに来たんだ。余計なことを考えるんじゃない)
 そのとき、部屋のドアがいきなり開いてルルーシュはびくりとした。叫ばなかっただけ上出来である。

「ル、ルルーシュ殿下?」

 姿を現したのはスザクで、彼も驚いた顔をしていた。

「えっと、お疲れ様」
「あ……、ただいま戻りました。申し訳ございません、てっきり厨房にいらっしゃるのかと」
「米が炊き上がるまで少しお茶をもらおうと思って」
「米? まさか白米を炊いているのですか?」
「ああ。カレーには必要だろう?」

 スザクがふわりと笑い、そうですかと嬉しそうに言った。

「では夕食にするか」
「その前に、サインをしなければいけない書類があるので、ひとつだけ片付けてもいいですか?」
「別に構わないが、仕事を終わらせて帰ってきたのではないのか?」
「帰り際にちょっと押し付けられてしまって」
「だったらそのときにサインすれば良かったじゃないか」
「殿下をお待たせしたくなかったので」

 つまり、ルルーシュを待たせるのは嫌だったから仕事を後回しにして急いで帰ってきたということらしい。そのことに喜色を浮かべたルルーシュは、しかしすぐに平静さを取り戻した。
 (スザクが急いだのは俺が皇族だからだ。勘違いするんじゃない)
 自分のために心を配ってくれたのではなく、相手が皇族だから気を遣っただけだ。
 それを忘れてはいけないと自分に言い聞かせ、ルルーシュはにこりと笑みを浮かべた。

「俺のことは気にするな。ついでに少しのんびりしたらいい。俺のほうはまだ料理の仕上げが残っているから、あと一時間ぐらいは厨房のほうに行っている」
「しかし、殿下をこれ以上お待たせするのは」
「しつこいぞ」

 ルルーシュが短く言えば、スザクは今日も叱られた犬みたいにしゅんとした。それに笑いかけ、ルルーシュは背中を向けた。

「一時間経ったら呼びに行く。それまでにちゃんと仕事を終わらせろよ」

 部屋を出ると、外で待っていた執事に「お茶を運んでやってくれ」と伝えた。

「私は厨房に戻る。供はいらない」

 執事の返事を待たずに歩き出したルルーシュは、完成途中の料理が並んでいる厨房に戻った。
 ドアを閉めてひとりになった途端、溜め息が零れる。
 (わかっているはずなのに、どうしてこんなに胸が締め付けられるのだろう)
 何が悲しいのか自分でもわからないけれど、無性に泣きたいような気持ちだった。
 あえて理由を挙げれば、スザクとの距離をまざまざと感じてしまったせいか。
 スザクは約束通り仕事を終えて戻ってきた。一緒に夕食をとるために急いで帰ってきてくれた。
 でもそれは、皇子であるルルーシュを蔑ろにしないためだ。夕食そのものを楽しみにしてくれたわけではない。そのことを今さらながらに実感してしまった。
 (この恋は叶わないと知っているくせにまだどこかで期待しているのか、俺は)
 滑稽だなと嗤う。スザクのために用意した料理の数々も、すべては自分の空回りの結果だと思えば急に虚しくなった。
 せっかく食べてもらうのにこんな気持ちでどうすると己を叱咤し、調理の続きに取り掛かる。
 一時間とは言ったものの、律儀なスザクのことだから時間より前に準備して待っているかもしれない。
 米が炊き上がった頃に一旦様子を見に行くことにして、ルルーシュは残りの料理を完成させると、あとは片付けに専念した。
 皇族が皿洗いなんてと、人が見れば驚き呆れるだろう。でも、汚れたボウルやフライパンを一心に洗っていると余計なことを考えずに済んだ。
 やがて軽やかなメロディが聞こえ、炊飯器が炊き上がりを知らせる。ルルーシュは執事を呼び、共にスザクの部屋へ向かった。
 ドアの前に立ってノックをする。しかし、いつまで経っても返事はなく、二人で思わず顔を見合わせた。

「聞こえていないのだろうか」
「いえ、そのようなことはないと思いますが……。もしかしたら部屋にいないのかもしれません。主人が戻るまで中でお待ちください」

 どうぞどうぞと促され、それならと中に入る。
 やはり他人の部屋に無断で入るのは気が咎めるなと思いながら奥へ進んだルルーシュは、そこでぴたりと足を止めた。

「スザク?」

 ソファに寄りかかっている彼を見つけた。膝の上には書類があり、今にも滑り落ちてしまいそうだ。

「寝ているのか……?」

 仕事の途中で居眠りするとは、よほど疲れていたのだろう。
 無理に押しかけて悪いことをしたなと思いつつ、ルルーシュはスザクの寝顔を窺った。すうすうと穏やかな寝息を立てて眠る姿はどこかあどけない。
 戦場でのナイトオブセブンとは大違いで、こうして見るとまだまだ子供だなと頬を緩めた。書類をそっと掴んでテーブルに置くと、もう一度スザクの顔を見る。
 (この男のどこを好きになってしまったんだか)
 まじまじと寝顔を見ていたら急に照れてしまい、ふいと視線を逸らす。
 俺は何をしているんだと姿勢を戻したとき、視界にチョコレートの山が飛び込んできた。ルルーシュに現実を突き付けるように。
 (わかっていると言ってるだろう)
 どうやってもスザクは手に入らない。そんなことはわかっている。
 これはほんの一時の、幻みたいな恋だ。
 学校を卒業すればルルーシュには皇族としての責務が待っているし、スザクだってラウンズとしてさらなる高みを目指すだろう。
 色恋なんてものにうつつを抜かしている暇はなくなり、やがてスザクには結婚相手が現れるのだ。
 そのときは彼を祝福してあげたい。幸せになれよと言って、いつかこの恋を懐かしく思えるようになりたい。
 (だから……)
 眠るスザクを見下ろす。

「最後に一度だけだなんて、俺も存外ロマンチストだったんだな」

 苦く笑い、ルルーシュはおもむろに身をかがめた。ソファの肘掛けに手を付き、息を止めて顔を近付ける。
 スザク、と口の動きだけで名前を呼んだ。
 身体の奥底から愛しさが溢れ、唇と唇を軽く触れさせた。
 キスとも呼べないようなキスだった。触れたのはほんの一瞬ですぐに顔を離してしまったから、感触もよくわからない。
 ただ、スザクに触れた部分から熱が伝わり、全身が熱くなる。
 とうとうキスをしてしまった。
 しかも勝手に。一方的に。
 そう思った途端、嬉しさと後悔がない交ぜになって胸が苦しくなった。

「すまない――」

 まだ眠っているスザクに謝罪したルルーシュは、ぐっと拳を握ると身を翻した。
 急いで部屋を出て、執事に「帰る!」と伝えた。

「え? ですが主人がまだ」
「用事を思い出したんだ。スザクは中で寝ているから、起きたら夕食を準備してやってくれ。それと、一緒に食べられなくてすまないと伝えてほしい。食べきれなかったら適当に処分してもらって構わないから」
「しかしルルーシュ殿下…っ」
「とにかく今日は帰る!」

 待機していたジェレミアに連絡を取ると、急ぎ足で玄関に向かう。
 迎えの車に乗り込んだところで、ルルーシュは盛大な溜め息を吐き出した。

「枢木卿と何かございましたか?」

 心配そうなジェレミアに首を振る。

「スザクは関係ない。個人的な問題だ。少し眠るから着くまで起こさないでくれ」
「かしこまりました」

 運転席との間の仕切りが上がり、ルルーシュは目を閉じた。
 (何が最後に一度だけだ。馬鹿馬鹿しい)
 己の行動を思い出して恥ずかしくなる。頬どころか耳まで熱い。
 火照った肌を冷ますように両手で顔を覆った。
 (これでおしまいにしよう。俺は皇子で、あいつはラウンズ。それだけだ)
 好きなんて言わない。せめて友達になりたいなんてことも言わない。
 ただ、この恋が静かに息絶えるまで、もう少しだけ彼を想わせてくれないだろうか。

***

「さて、どうしようかな……」

 目を閉じたままスザクはぼそりと呟いた。

「攻略の難しい皇子殿下だから少しずつ距離を縮めようと思って色々考えていたのに、まさかあちらから仕掛けられるなんて」

 困ったな、とさほど困っていない口調で零す。

「でも、残念ながら僕は諦めるつもりはありませんから」

 覚悟しておいてね、ルルーシュ。
 愛しげに彼の名前を呼ぶ。
 そうしてスザクはルルーシュの触れた唇を指先でなぞり、口元に柔らかな笑みを浮かべた。
 (18.02.14)