カランコエ

 また明日、とあちこちで交わされる挨拶を耳にしながら、ナナリーは足早に正門へと向かっていた。
 真っ直ぐに歩いて行く皇女殿下を生徒たちは物珍しそうに見送る。普段なら「さようなら、ナナリー様」と声をかけるのだが、今日はそんな雰囲気ではない。誰もが口を噤み、黙って皇女の後ろ姿を目で追っていた。

「ナナリー!」

 そこへ、周囲の空気など物ともしない声が聞こえた。生徒たちの視線が一斉に向き、声の主を確かめた彼女らは一斉に納得した。

「ユフィ姉様」
「良かった、追いついて。ナナリーったら足が速いんですもの」
「すみません、急いでいたものでつい」
「何か用事?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」

 目を伏せた異母妹にユフィがにこりと笑みを浮かべる。

「付き合ってもらいたいところがあるの。ちょっといいかしら」
「どこですか?」
「それは着いてからのお楽しみ」

 行きましょうと手を引かれ、ナナリーは慌てて姉のあとを追いかけた。学園の正門の前には一台の車が止められていて、二人の皇女の姿に運転手が深々と頭を下げた。ドアを開けた従者に、「今朝、お話しした場所までお願いね」とユフィが声をかける。かしこまりましたと応えた彼に、どうやら姉の御付きたちはすでに承知しているらしいと察する。

「もうすぐ体育祭ね。ナナリーは今年もリレーの走者に選ばれるのかしら」
「ほかに速い方もいますからどうでしょう」
「謙遜ね。ナナリーの足の速さに敵う人はそういないんじゃない?」
「そんなことありません。私はまだまだです。でも、今年は体育祭自体をお休みしようかと思って……」
「そうなの? それは残念ね。ナナリーの運動神経の良さはマリアンヌ様譲りだって、お姉様が毎年楽しみにしていらっしゃるのに」

 ナナリーは誤魔化すように笑い、それから車窓に目を向けた。
 世界の景色は変わらない。
 もちろん、晴れの日と雨の日では景色は異なるし、朝と夜でも風景は変わる。一日とて同じ日はない。
 それでも世界は世界だ。学校に行けばクラスメートたちがいて、授業を受けて、一日が終わればアリエスの離宮に戻る。なんの変哲もない毎日だ。
 だから世界は変わらない。
 ただ、ナナリーの中の世界だけが変わってしまった。いつまでも変わらないと信じていた自分の世界が壊れるかもしれないなんて、あの日まで一度も考えたことがなかった。
 皇族とはブリタニア国内でもっとも命を狙われる存在だ。そんなことはよく知っていたし、暗殺への備えも幼い頃から教わってきたから覚悟はしていたつもりだった。
 でも、それが実際に起こるのと起こらないのとでは大きく違う。
 人の命はいつか尽きるものだと理解していても、実際にそのときにならなければ死など意識しないのと同じだ。
 (私もお兄様も、いえ、お兄様は私以上に命を狙われる可能性があると、どうしてわかっていなかったのかしら)
 宰相府襲撃事件、そして第十一皇子暗殺未遂事件から四週間。
 事件当時はブリタニア国内が大騒ぎとなったが、一ヶ月近く経った現在、世間はすっかり落ち着きを取り戻している。早々に暗殺犯が逮捕されたことも理由だが、ブリタニア皇族同士の暗殺未遂はたびたび起こっているので国民はすっかり慣れっこなのだ。
 政治の中枢である宰相府にテロもどきを仕掛けたということでさすがに最初の一週間ほどはテレビでも大きく取り上げられていたが、それも次の新しいニュースが流れる頃にはすっかり古い事件となってしまった。
 所詮、世間の興味などその程度なのだ。たとえ皇帝が崩御したとしても、人々はあっという間に忘れてしまうに違いない。
 でも、当事者はそう簡単に忘れることはできない。事件の記憶はいつまで経っても生々しく残るものだ。いつかは風化するのかもしれないが、それには膨大な時間がかかるだろう。

「ナナリー、着いたわよ」

 ユフィの声に意識を戻す。車が止まったのは一軒のこぢんまりとした店の前だった。なんの店かと看板を見上げる。
 先に行く姉のあとをついて行くと、二人は二階に通された。あらかじめ皇族を出迎える用意があったようで、一階席は満席だったのに二階席は人の姿がまったくなかった。
 歩いていると甘い匂いが鼻腔を擽る。どうやらお菓子の店らしい。

「本当は普通に来たかったんだけど、護衛の方がどうしてもって言うから、仕方なく二階を貸切にしてもらったの」
「それは仕方ないですね」
「だから今度はお忍びで来ましょう」

 懲りない姉に思わず笑う。ユフィに言わせれば「だって息苦しいんですもの」ということなのだが、御付きたちは冷や冷やしているだろう。

「さあ、座って。ここのケーキは絶品だってお友達が言っていて一度食べてみたかったの。チョコレートケーキが一番のオススメらしいわ」
「じゃあ、私はチョコレートケーキにします」
「私も」

 ユフィが目線を向ければ、控えていた店員が緊張した様子で近付いてきた。ケーキセット、二つともチョコレートケーキで、と注文すれば上擦った声で返事が返ってきた。
 ぎこちなく水を置き、ぎこちない動きで階下に下りていく後ろ姿に、悪いことしちゃったわね、とユフィが舌を出した。

「せっかくですから私ではなくお友達といらっしゃれば良かったのに」
「ええ、お友達とは今度ね。今日はナナリーと一緒に来たかったの」

 笑顔だったユフィが不意に心配そうな表情を浮かべた。

「ナナリーがそんなに思い詰めた顔をしていたらルルーシュが悲しむわ」
「私、そんな顔してます?」
「学校にいるときからずっと」
「そうですか……」

 水の入ったグラスを持ち、なんとはなしに眺める。水面に映った自分の顔はよくわからなかった。

「ルルーシュは元気にしているかしら? 怪我人に元気と聞くのも変だけど」
「お兄様はすっかりお元気です。さすがはブリタニアの医療だって褒められて、いい機会だからとお医者様にあれこれ質問しています」
「相変わらずね。ルルーシュらしいわ」
「傷もほとんど塞がって、無理のない運動だったら問題ないくらいに回復しています。あとは体力を取り戻すだけです。もっとも、お兄様の場合はそれが大変なのですが」
「もともと体力がないから仕方ないわね」

 頬に手を当ててしみじみと呟くユフィに苦笑いしようとして、失敗した。
 訳もなく悲しくなった。
 いや、訳ならある。ただ、普段は自分がそこまで悲しんでいることを自覚していなかった。
 足の上に置いた両手の甲に涙がはらはらと落ちているのを見て、私はこんなにつらかったのかと初めて気付いた。
 いきなり泣き出した妹にユフィは困惑しているだろう。なんでもないのだと涙を拭ってみせなければいけないのに、透明な雫はとめどなく溢れて制服のスカートを濡らしていた。
 席を立ったユフィがテーブルを回り、ナナリーの横に立つ。

「我慢しないで、ナナリー。泣きたいときは思いっきり泣けばいいの」

 そう言ってふわりと抱き締められた。
 ルルーシュとは違う、でも確かに安心できるぬくもりに、とうとうナナリーは嗚咽を漏らした。
 こんなに泣くのはいつ以来だろう。猫を追いかけて木に上ったら自分が意外と高いところにいて、足が竦んで下りられなくなってしまい、どうすればいいのかわからずわんわん泣いたことがある。六年ほど前のことだ。
 あのときはジェレミアが助けてくれたけれど、その間、下でずっとおろおろしていたルルーシュに「ひとりで危ないことはしちゃ駄目だって言ってるだろ」とたしなめられたのだ。
 そうして妹を叱ったあと、ルルーシュにぎゅっと抱き締められたことを覚えている。今のユフィみたいに心の落ち着くぬくもりだった。
 兄姉たちに抱き締められるたび、ナナリーは幸せな気分になった。自分は愛されているのだと実感した。
 でもそれは、いつも当たり前にあるものではないのだということを思い知った。
 兄が、ルルーシュが、この世界からいなくなる。ある日突然、奪われ、永遠に失ってしまうかもしれない。その可能性を一瞬でも考えたら、怖くて怖くてたまらなかった。
 ルルーシュが撃たれた直後はまだそのことを理解していなかったのだろう。むしろ、憔悴しきったスザクを叱咤するほどの元気があったというのに、ルルーシュが元気になるにつれてナナリーの中の不安や恐怖はどんどん大きくなっていった。
 でも、ようやく回復した兄を心配させるようなことは言えないし、啖呵を切ったスザクにもとても打ち明けられない。母は事件の事後処理で何かと忙しく、ジェレミアや咲世子もここしばらくはバタバタと駆け回っていて、これはすべて自分の胸のうちに秘めておこうと思っていた。しかし、どうやらユフィにはお見通しだったらしい。
 ようやく涙が涸れた頃、ナナリーは小さく鼻を啜った。ユフィの差し出したハンカチで涙を拭く。

「もういいの?」
「――はい」

 こくりと頷けば、優しく頭を撫でてくれたユフィは正面の椅子に戻った。

「あんなことがあったばかりで元気がないのは当然だけど、最近は特に塞ぎ込んでいるような感じだったから心配していたの」
「私、そんなに暗かったですか?」
「周りの皆は気付いていないと思うわ。でも、私はお姉さんだから。と言いたいところだけど、半分はルルーシュの助言のおかげね」
「お兄様の?」

 思いがけない名前にぱちくりとまばたきをする。睫毛に残っていた最後の雫がはらりと落ちた。

「お見舞いに来てくれるナナリーの様子がおかしいから少し見ていてくれないかって。スザクからもお願いされたわ」
「スザクさんまで?」
「あの二人ったら、こんなときぐらい自分たちのことだけを考えればいいのに、やっぱりナナリーのことが気になっちゃうのよね」
「お兄様のお見舞いのつもりだったのに、かえってお二人を心配させてしまうなんて……」
「いいのいいの、特にルルーシュはそれが生き甲斐なんですから。ナナリーの心配をしなくなったルルーシュなんて逆に気持ち悪いわ」

 くすくすと笑ったユフィに肩から力を抜く。
 この不安は自分だけの秘密で、自分だけが抱えていくものだと覚悟していたけれど、兄たちにはバレバレだったのかとわかったら気が抜けてしまった。

「たくさん泣いたらなんだかお腹が空いてきました」

 大泣きしてしまった気恥ずかしさからそんな軽口を叩いてみる。だけど、空腹なのは本当だ。今の今まで食欲なんてなかったのに、安心したらお腹が空くなんて現金な体だと可笑しくなった。

「じゃあ、早くケーキを持ってきてもらいましょう」

 ユフィが目配せすると、二階の入口に控えていた従者が心得たように階下に下りた。入れ替わりのように先ほどの店員がやってきて、テーブルに注文したケーキと紅茶が並んだ。
 まだ緊張した様子の店員を見送ると、さっそくぱくりと食べてみる。チョコレートの程よい甘さとケーキのしっとりとした食感がとても美味しくて、思わず笑顔になった。

「美味しい?」
「はい!」
「良かった。ここを紹介してくれたお友達にお礼を言っておかなきゃ」

 ユフィもケーキを一口食べると、同じように笑みを零した。

「このケーキも美味しいけど、チョコレートケーキと言えばルルーシュのケーキよね」
「前にユフィ姉様がおねだりしたときのケーキですね」
「あれからなかなか食べられないの。ルルーシュったらいつもいつも忙しいから」
「たまに休暇はあるんですけどね」
「本当にたまにじゃない。大きなお仕事のあとはちょっと休んでいるけど、ルルーシュはいつだって慢性的なお休み不足。もっとのんびりすべきよ」
「今は結構のんびりしていますよ。不可抗力ではありますが」
「動けないから仕方なくのんびりしているのはのんびりと言わないわ。だいたい、怪我をしてようやくゆっくり休めるなんておかしいじゃない」

 ぷりぷりしながらチョコレートケーキを頬張るユフィに、それはそうだと吹き出す。今度は泣かずにちゃんと笑えた。

「それにルルーシュのことだから、怪我が治ってアリエスに戻ったらどうせまた仕事をするでしょう? さすがに今回ばかりはお父様もお兄様もゆっくり静養しろ、すぐに復帰する必要はないっておっしゃってるけど、あのルルーシュが何もせず日がな一日ぼーっとできると思う?」
「思いません」
「でしょう? だから私、閃いたの」

 こういうときのユフィの閃きは、大抵ルルーシュが嫌がるものだ。しかし、ルルーシュ以外の人間にとってはきっと良い閃きに違いない。そう思ったから、ナナリーは食べ終えたばかりのケーキの皿をどかして身を乗り出した。

「何を閃いたのですか?」
「山奥のお城。あそこにルルーシュとスザクを閉じ込めるのはどうかしら」
「夏に良く遊びに行っていたあのお城ですか? 最後に行ったのはたしかクリスマスパーティーのとき……」
「ええ、あのお城よ。あそこなら静かで空気もいいし、仕事をしようと思ってもできないし、のんびり静養するにはもってこいの場所だと思うの」
「あんな場所まで決裁をもらいに来る人なんていませんものね」
「ルルーシュが無茶をしないようスザクには見張り役になってもらいましょう。もちろん、警備はしっかりお願いするし、何かあったときのためにお医者様たちも一緒に行ってもらうけど、基本的には二人きりで過ごしてもらうの。静養と休養の両方ができて一石二鳥だと思うんだけど、どうかしら?」
「いいと思います。私は賛成です」
「じゃあ、まずはマリアンヌ様にご相談して、そのあとお父様やシュナイゼルお兄様の許可をもらいましょう。警備のこととか、いつまでルルーシュを滞在させるのかとか、考えなきゃいけないことがたくさんあるわ。あと、スザクにも協力してもらわないと。ルルーシュの退院が来週だから急がなきゃ」
「ユフィ姉様、なんだか楽しそう」
「だってこういうの久しぶりなんですもの」

 張り切った様子のユフィにくすくすと笑う。
 ルルーシュとスザクがお互いにじれったい片想いをしていたときは、どうやってあの二人の距離を縮めようかユフィとよく作戦を練っていたけれど、今の状況はまるであの頃のようだ。二人の想いが通じたあとはそういう機会も減ったので、久しぶりの作戦会議はたしかに楽しい。

「それに、ルルーシュとスザクにはもっと二人だけの時間を持ってもらいたいの」

 ふいにユフィがしんみりとした口調になった。
 主とその騎士として常に一緒にいる二人だけど、それは公に見せる姿である。ただのルルーシュとただのスザクが一緒に過ごす時間は思いのほか少ないのだ。
 ルルーシュが怪我をして良かったとは決して言わない。暗殺未遂なんてもう二度と起こってほしくない。
 ただ、事件はなかったことにはできないし、それによってルルーシュが静養する時間を得たのは事実だ。ならば、ゆっくりできるときにゆっくりすべきなのだろう。元気になれば嫌でも皇族としての責務を果たさなければいけないのだから。

「それでは、第一回目の会議を始めましょう」

 切り替えるように宣言した異母姉に、「はい!」と大きく返事をした。
 ルルーシュの困った顔が頭に思い浮かぶ。優しい兄は困りながらも妹たちの提案を決して蔑ろにはしないだろう。そんな兄をなだめる騎士の姿も一緒に浮かんで、ナナリーは頬を緩めた。
 たくさんの優しい思い出をくれた大好きな兄に、今度はこちらがたくさんの思い出を贈るのだ。
 (16.08.16)