「どちらを選んでもお兄様を悲しませるとわかっている場合、私はどうしたらいいと思います?」
尋ねた瞬間、カレンが困ったような顔をした。意地悪な質問をしていると自覚しながら尋ねる自分はとても酷い人間なのかもしれない。
そもそも酷い人間でなければ兄をずっと縛り付けるような真似はしないと思い、ナナリーは微かに笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。意地悪なことを訊いてしまって」
「ううん、簡単に答えを出せない問題だしじっくり考えたほうがいいわ。でも、本当にルルーシュには相談していないの?」
「お兄様を悩ませたくありませんから」
窓の外に目を向けると、空を泳ぐみたいに白い雲がゆっくり流れていた。ここ数日は天気が良くて気持ちいい。
兄が来たらカレンと三人で散歩をしようか。もしスザクも一緒だったらカレンが嫌がりそうなので、そのときは兄とスザクを残して行くのが良さそうだ。
(お兄様にはスザクさんがいれば大丈夫だから……)
異母兄のシュナイゼルが病室を訪ねてきたのは一週間ほど前のことだった。
ブリタニアでの仕事が忙しいはずなのに、数ヶ月に一度は必ず日本に来てくれるのだから意外とまめである。ルルーシュに言わせると「こちらでの生活に口出ししようとしているだけ」らしいのだが、ナナリーはそうは思っていなかった。口出しなら電話やメールでも出来るし、わざわざ時間を割いて日本に来るのはあまりに酔狂すぎる。
来日したシュナイゼルがやることといえば、日本での暮らしやルルーシュの様子について訊くことぐらいだ。
初めのうちは兄が弟を心配しているだけだろうと思っていた。しかし、あるときふと気付いた。もしかしたら父親が末の息子を心配し、シュナイゼルに様子を見てくるよう頼んでいるのではないかということに。
母を失った事故が原因で兄は父を憎んでいるけれど、ナナリーは兄ほど嫌っていなかった。それに、幼い頃のルルーシュは父親が大好きだったことを知っている。大好きだったからこそ裏切られたショックが大きく、憎しみに繋がっているのだ。
父も不器用だが、兄も相当な不器用だ。あの不器用さは父親譲りに違いない。
(私の足がお父様の力で治ると知ったら、お兄様はきっとショックを受けるでしょうね)
ブリタニアでなら足が治るとシュナイゼルに教えられた。
二人で帰って来ないかという提案の裏には父の意向もあるのだろう。いくらシュナイゼルでも、勝手に家を飛び出してしまった自分たちを父に相談もなく帰国させることは出来ないはずだ。
今までずっと兄に守られて生きてきた。それが当然だと、自分は心のどこかで思っていなかっただろうか。
自分のために生きる兄。自分のために何もかもを犠牲にする兄。そんな兄を、自分は密かに望んでいなかっただろうか。
「私は、お兄様のためにもお兄様から離れるべきなんです。たとえそれがお兄様を悲しませることになったとしても」
「ナナリー……」
「なんて偉そうなことを言って、一番寂しいのは私自身なんですけどね」
カレンを安心させるために笑ってみせたけれど、彼女は眉を下げたままだった。
「本当にいいの?」
「――私たち兄妹は近過ぎるくらい近くにいました。お互い兄妹離れするには、今回のことはいい機会だと思うんです。それに、いつまでも私の足のことでお兄様に負担をかけたくないですし」
「ルルーシュは負担だなんて、」
「わかっています。でもお兄様は優し過ぎるから、だから今度は私が自分自身で決めるんです」
しばらく黙っていたカレンだったが、ナナリーの決意が固いことを知ったのか、小さく息を吐き出すと「わかったわ」と小さく言った。
「話し合いは二人でちゃんとしてちょうだい。何も話さないまま別れるのは絶対に許さないから。ただし、それ以外のことだったら私は全面的にサポートするわ」
「ありがとうございます、カレンさん。それと……」
果たして彼女に頼んでいいものか少し迷う。しかし、ここは日本に残る彼女の協力がどうしても必要だ。
手招いたカレンの耳元にナナリーはそっと手を当てた。
「実はもうひとつお願いがあるのですが」
* * *
「今、なんて言ったんだ……?」
ルル―シュは呆然と聞き返した。
愛しい妹の声なのに、その言葉は理解できずに耳を素通りする。理解できないのではなく理解したくないのだと自分の中の冷静な部分が言っていたけれど、とてもではないが素直に受け止められない。
「私は手術を受けるためにブリタニアに帰ります」
「どうして……どうしてなんだナナリ―、ブリタニアは、あの家は、俺たち家族を見捨てたんだぞ?あの家に戻るなんて、」
「足を手術するのは私です。そしてブリタニアに戻るのも私です。お兄様ではありません」
「しかし、」
「お兄様は私の足が治るのは嫌なのですか?」
「そんなことはない!お前の足が治ることだけを願って今までずっと……。だが、手術が必ず成功する保証はないんだぞ」
「少しでも可能性があればその治療に賭けてみようとおっしゃっていたのはお兄様ではないですか。この病院を選んだときだってそうでしょう?なのに今さら手術の保証を求めるなんて矛盾しています」
ナナリ―の言うことはどれも正論だ。
治療はつらいかもしれないけれど足を治すために頑張ろうと、事故のあと彼女に言って聞かせた。まだ幼かった妹は、兄の言葉を守るようにつらい治療に耐えてきた。
そして今、ようやく確実な可能性が舞い込んできたのだ。ナナリ―のことを考えるならば、自分は反対ではなく賛成をするべきなのだ。
(だけど――)
ルル―シュは声を失った。
じっと向けられたナナリ―の瞳。まるで自分を試しているみたいで思わず目を背ける。
そのとき、背中に温かい手が触れた。振り返れば後ろに控えていたスザクが優しい顔をしていた。
「ルル―シュはナナリ―の足が治ってもらいたくないわけじゃないんだよね?」
「当たり前だ」
「でも君たちの実家には帰ってもらいたくないんだよね?」
「――ああ」
「だけどさ、手術を決めたのもブリタニアへの帰国を決めたのもナナリ―なんだ。君がナナリ―を大事にしていることはよく知っているよ。でも、ナナリ―が手術をしたいと考えているのなら、君はお兄さんとして妹の意志を尊重すべきじゃないのかな」
「そんなことは、わかっている」
わかっている。ナナリ―をブリタニアに帰さないとスザクに話したとき、それが独り善がりな考えであることはわかっていた。妹の今後と幸せを考えるならば、意地やプライドはかなぐり捨てて彼女の足の治療を最優先させなければいけないこともわかっていた。
それでも感情が邪魔をした。母親の見舞いにも葬式にも顔を出さず、後ろ盾を失った自分たちを放っておいた父親に頼らなければいけないことがどうしても許せなかった。
しかしナナリーにきっぱりと意志を告げられてしまい、今まで縋り付いていたものを失ったような感覚を抱いた。
(潮時、ということか……)
兄の身勝手な我儘はここで終わらせるべきなのだろう。
「ナナリ―だって子どもじゃないんだ。あんまり反対していたら嫌われちゃうよ?」
最後は茶化すように笑ったスザクに、ルル―シュは微かに表情を緩めた。
今日もスザクと一緒にナナリ―の病室を訪ねていた。病院の近くで買ったプリンを携え、三人でいつものように楽しいお茶の時間を過ごすつもりだった。先日のシュナイゼルの話はずっと気にかかっているけれど、ナナリ―はこのことを知らないから今はまだ黙っていようと考えていた。
だけど、彼女は手術のことを知っているどころか決心までしていた。
自分に内緒で話を持ちかけたシュナイゼルには怒りが湧いたが、ナナリ―の決断を聞いてそれどころではなくなった。しかも説得は失敗し、逆に言い負かされてしまうとは兄として情けない限りだ。
スザクがこの場に居合わせたのは偶然だけど、彼がいてくれて良かったのかもしれない。自分ひとりだったら頭が真っ白のまま立ち尽くすことしか出来なかった。ナナリ―の望みを聞き入れられず、一方的に反対することしか出来なかった。
「嫌われるのは嫌だな」
ぽつりと呟けば、ナナリ―とスザクが顔を見合わせた。
「――そうだな、ナナリ―はもう子どもじゃない。どうしたいのか自分で決めるべきだし、一度決めたことを俺がとやかく言うものではない」
「お兄様、それでは……」
「今後の日程なんかは一緒に話を聞くし、必要な手続きも俺がやる。簡単な手術ではないと聞いているから、ナナリ―は心の準備をしておくんだよ」
「はい!ありがとうございます、お兄様!」
身を乗り出したナナリ―に抱き付かれ、彼女がベッドから落ちないようルル―シュは慌てて支えた。振り返ればスザクが笑っていた。
これで何もかも解決したわけではないし、手術のことを考えればむしろ本番はこれからだけど、ひとまずは良かったのだろう。
兄として、親代わりとして妹の世話を焼いてきた身としては、まるで子どもが親離れするような一抹の寂しさを感じる。でも、今は彼女の成長を素直に喜びたい。
(俺も妹離れする時期なのかもしれないな)
その後は早速シュナイゼルに連絡を取ったり、大まかな日程を相談しながら三人でお茶を飲んだり、夕方のひとときを過ごした。
面会時間の終了が迫った頃にナナリ―と別れ、スザクと並んでいつものように帰り道を歩いた。
太陽が山の陰に隠れ、空は薄い紫から群青色へと変化していく。外灯がぽつぽつと点き始めて暗くなった道を照らしていた。
病院帰りの人間はルル―シュとスザクしかいなかった。二人の間に会話はない。なんとなく口が重かった。それを察してくれたのか、スザクも無理に話しかけてこなかった。広い道路に二人の足音だけが響く。
分かれ道に差し掛かるとおもむろに足を止めた。スザクとはいつもここで別れていて、今日もそのつもりだった。
「さっきはごめん」
思いがけない言葉にルル―シュは顔を上げた。
「君とナナリ―の問題なのに、僕が出しゃばったこと言っちゃってごめん」
「何を言っている。お前がいてくれたから良かったんじゃないか。謝る必要はない」
「本当に?」
「ああ」
「そっか」
小さく笑ったスザクに、彼は彼で自身の発言をひどく気にしていたのだと気付いた。自分たちの問題に関係のないスザクを巻き込んでしまったことを今さらながらに申し訳なく思う。
「俺のほうこそすまなかった。うちの家族の問題に巻き込んでしまって」
「それこそ謝る必要はないよ。友達が困っていたら力になりたいって思うのは当然だろう?」
「友達か……そうだな……」
なぜだろう。スザクが「友達」と口にしたとき、少しだけ胸が痛んだ。スザクは初めての友達で、自分たち兄妹のことでこんなにも親身になってくれているのに、それで傷付くなんておかしな話である。
自分の感情の違和感を振り払うように、ルル―シュは小さく息を吐いた。
「でも、やっぱり俺では駄目なんだな」
「駄目って何が?」
「全部だ。大嫌いな父親に頼らなければいけないことも、なんの力も持っていないことも、俺自身のふがいなさを突き付けられたみたいで悔しいな……」
「ルル―シュは立派にやっているじゃないか。それに僕たちはまだ学生なんだよ?家族を頼るのは当たり前のことで、悔しがるようなことじゃないよ」
スザクの慰めに首を振る。
母親が死んで以来、自分がナナリ―を守っているつもりだった。しかし異母兄の援助はずっとあったし、実家を嫌っているくせに完全に縁を切ることも出来なかった。
父や兄からすれば自分はまだまだ子どもで、これまでの生活はままごとのようにしか見てもらえていなかったのかもしれない。だから悔しいのだ。スザクが言わんとすることは理解しているけれど、どうしても悔しいのだ。
「ルル―シュ?」
スザクの驚いた声にルル―シュはすぐさま目元を拭った。この程度のことで泣くなんてみっともない。それこそ子どもみたいだ。
唇を噛んで顔を背けたのと、温かい腕に抱き締められたのは同時だった。
「泣いていいよ」
優しい声が耳元で聞こえた。
「誰も見ていない。僕も見ないから、泣いていいんだよ」
「――っ」
母の葬式のときすら泣かなかった。長子として、ナナリ―の兄として、父親の代わりに自分がしっかりしなければいけないと決して涙は流さなかった。
泣いてもいいと誰かに言ってもらえたのは初めてだった。
目の前の肩に額を押し付ける。きつく閉じた目からは次から次へと涙が雫れ、スザクの制服を濡らしていた。
薄暗い帰り道の途中で、ルル―シュは声を押し殺して泣いた。スザクは何も言わないままでいてくれた。
強く抱き寄せられ、そのぬくもりに安堵してまた涙が落ちた。
(13.6.16)