スザクは朝から不機嫌だった。いや、不機嫌を通り越して怒っていた。
原因はスザクの主であり恋人でもあるルルーシュだ。
むっつりとした表情はなるべく人前に出さないようにしているので、通り過ぎる使用人たちは誰も気付いていない。「お疲れ様です、枢木卿」と労わりの言葉を述べる彼らは、にこやかに「お疲れ様です」と返す騎士が心の中では不機嫌極まりないなんて想像すらしていないだろう。
これもラウンズ時代にポーカーフェイスの訓練をしてきた賜物だ。ラウンズ就任直後はなんでもすぐ顔に出していたのだが、ナイトオブワンにたびたび注意され、なるべく感情を表に出さないよう心掛けてきた。おかげで無表情は得意になったものの、今度は無表情すぎると指摘されたくらいである。
そのうち戦場での活躍がまるで死神のようだからという理由で『白き死神』と嬉しくない名前を付けられ、人前でむっつりしていても「ナイトオブセブンならば」と人々に納得されるようになった。お世辞やおべっかはいまだに苦手だし、皇族や貴族に媚びへつらうのも得意ではないので、これはこれでまあいいかと開き直っている。
だから、スザクがにこにこと笑顔を浮かべ、自然と優しく接するのはルルーシュやルルーシュに近しい人だけである。最近はだいぶ顔が柔らかくなってきたと元同僚のジノやアーニャに言われるが、それはルルーシュの騎士となり、恋人という立場を得られたことによる心の余裕だ。
そういうわけなので、今こうしていつもの柔和な顔を保っているのは以前のスザクからすれば大きな進歩だった。ラウンズ時代なら不機嫌を撒き散らしながら廊下を歩き、誰も近寄れないオーラを放っていたに違いない。
(行動力があるのはいいけど、なんで僕に隠れてこそこそ出かけたりするんだ。しかも護衛は咲世子さんって、僕の騎士としての役目がないじゃないか。そりゃあ、ロイドさんのところに行ってナイトメアの操縦訓練をすると聞かされたら止めたくなるけど、でも絶対行くななんて言わないし、殿下の意志をちゃんと尊重するのに、僕に一言も告げずに行ったということは僕のことをちっとも信用していないと言っているのも同じじゃないか。そもそもロイドさんもロイドさんだ。年の瀬のこんな時期に訓練を許可しないでほしいよ。皇族の我儘を止めるのも仕事のうちだろ)
不機嫌の原因はルルーシュだが、怒りの矛先はロイドに向いている。あとで顔を合わせたらお小言のひとつやふたつ言ってやらなければ気が済まない。
スザクがこれほど立腹している理由は今から八時間前。早朝の鍛錬を終えて自室に戻り、騎士服へ着替えたあと、ルルーシュを起こすために彼の部屋へ行ったときまで遡る。
年の瀬が迫っているというのにスザクの主は相変わらず忙しい毎日を送っていた。
現在、宰相のシュナイゼルは外遊に出ていて、国内の細々とした案件はすべてルルーシュの元に集まっているから余計に慌しい。この調子では新年までずっとバタバタしているのではないかと、スザクを始めとする側近たちが危惧するくらいだ。
それでも、クリスマスぐらいはのんびりできるのではないかとどこかで期待していた。昨日はクリスマスで、アリエスでもパーティーが開かれた。
パーティーと言っても大々的なものではなく、マリアンヌ親子と親しい皇族や貴族が集まって内輪で楽しむささやかなものだ。ナナリーとユフィの二人が中心となり、さらには特別顧問として呼ばれたミレイも一緒になって準備を進め、ルルーシュはただ出席すればいいだけの状態だった。
忙しい彼を慮り、少しでも負担をかけないようにしたのだろう。たまには賑やかな場所に顔を出して日頃の疲れを癒してほしいと誰もが願っていたに違いない。
そんな妹たちの心遣いが嬉しかったのか、ルルーシュは飾り付けや料理の数々に頬を緩め、彼女たちが手作りしたクッキーを褒めていた。そのうち、ほかのパーティーに出席していたクロヴィスやコーネリアといった面々も集まり、アリエスはさらに賑やかになった。
料理を堪能し、年上の兄姉たちからプレゼントが渡され、クリスマスの夜はこのまま穏やかに更けて行くかと思われた。
だが、兄妹水入らずでお茶でもしようかと席を立ち上がりかけたとき、ジェレミアが慌てた様子でルルーシュを呼びに来た。報告を聞いた途端、兄の顔から宰相補佐の顔へと変わったルルーシュは、兄妹たちに詫びて足早に宰相府へ戻ることとなった。それが昨日の夜遅く。
案件自体は簡単なものだった。何時になってもいいから持って来いとルルーシュ本人が担当者に伝えていた内容だから、彼らは自分たちの仕事を全うしただけである。彼らだって家族とのクリスマスを犠牲にしてずっと仕事をしていたのだとわかっている。
だけど、ルルーシュにのんびりとした時間を過ごしてもらいたかったスザクとしては、なぜ今夜なのだと大人気なく苛々してしまった。思い返せば、不機嫌の火種はそのときからあったのだ。
結局、ルルーシュが再びアリエスに戻れたのは深夜二時を回った頃で、今日はもう疲れたからひとりで休むと早々に部屋に引き上げた。恋人になって以来、同じベッドで寝ることが多かったので、余程疲れているのだろうと察してスザクも自室で休んだ。
そうして向かえたクリスマス翌日。朝から一時間ほどの鍛錬を終えると、いつものようにルルーシュを起こしに行った。たいして寝られていないだろうが、宰相不在中ということで決裁が溜まっているし、午後にはシュナイゼルの名代で視察の予定も入っている。
申し訳なさを感じつつ部屋に入ったスザクは、しかし主のベッドがもぬけの殻であることに気付いて首を傾げた。
シャワーでも浴びているのかと浴室を覗いてみたが、使われた形跡はない。ならばすでに朝食の席についているのかと食堂へ行くと、使用人たちがまだ準備をしている最中だった。それなら散歩にでも出たのかと思ってアリエスを駆け回ったが、誰もルルーシュの姿は見ていないと言う。
まさか誘拐かと青くなり、慌ててジェレミアを探して捕まえた。すると、「ルルーシュ殿下なら視察のご予定を朝にしてお出かけになられた」という意外な返事が返ってきた。護衛は咲世子が務めていると聞いて安心したものの、なぜ咲世子さんと? という疑問がすぐさま浮かんだ。
予定変更も早朝の出発もスザクは何も聞いていない。騎士を差し置いて咲世子を同行させていることも納得いかない。
とにかく今はルルーシュを追いかけようと身を翻したところ、ジェレミアに引き留められた。
「殿下は昼にはアリエスに戻られるご予定だから貴殿は残っていていいぞ」
「しかし、」
「咲世子がいるから護衛は必要ない、だからお前たちはアリエスでゆっくりしていろ、とのご指示だ」
「え……」
どういうことだと訝った。ゆっくりしてほしいのはむしろルルーシュのほうである。夜遅くに帰り、朝早くに出かけ、精力的に視察をこなし、午後はまた書類仕事に没頭するつもりだろうか。
「自分はルルーシュ殿下の騎士です。殿下が働いていらっしゃるのに、騎士の自分がぼんやり過ごすわけにはいきません。視察先は昨日から変更ありませんよね? でしたらすぐに追いかければ、」
「枢木卿」
咎めるように呼ばれて声を飲み込む。
「ルルーシュ殿下には咲世子がついているから心配ない。それに、アリエスで待機しろというのはご命令だ。勝手に出かけるのはいいが、もし殿下のご予定が変わってすぐにお戻りになられたらどう言い訳するつもりだ」
「ですが……」
「貴殿の気持ちはわかるが、ここは待機だ。いいな」
「――はい」
年上のジェレミアに言い聞かせられては渋々でも頷くしかなかった。
現在のスザクはルルーシュの騎士で、ルルーシュを警護する親衛隊の筆頭でもある。当然、立場はスザクのほうが上だが、ジェレミアはルルーシュに長く仕えてきて、スザクが来る前までは警護隊長を務めていた。そんな彼を蔑ろにしたり、彼の意見を一蹴したりすることはとてもできない。
仕方なく命令通りに待機していたのだが、朝食を終え、昼食の時間が過ぎ、太陽が少しずつ傾いてそろそろ午後のお茶にしようかという時間になってもルルーシュが戻って来る気配はなかった。アリエスの窓から外をじっと眺め、車が到着するのを今か今かと待ち続け、あまりにじりじりし過ぎて眉間の皺がくっきり残りそうなほど待った頃、窓辺で仁王立ちしているスザクにジェレミアが声をかけてきた。
「咲世子から連絡があった」
「本当ですか?」
勢いよく振り返りすぎた上に、表情があまりにも鬼気迫るものだったのか、普段は紳士然としているジェレミアが若干たじろいだ様子を見せた。
「殿下はロイドのところにいるそうだ」
「ロイドさん?」
なぜ? と首を捻る。視察先は商業施設がメインのはずだ。そもそも、研究所は定期的に訪れるのだから今さら視察する必要もない。
「ナイトメアの操縦訓練で研究所に寄られるそうだ」
「操縦訓練……?」
その言葉に眉を寄せた。ルルーシュがナイトメアに乗ることをスザクはあまり快く思っていない。
彼には最前線ではなく安全な場所にいてもらいたいのだが、ルルーシュは自ら戦場に出ようとする。指揮なら後方でも問題ないのに、スザクやほかの兵士たちが前線で戦っているのに自分だけが高みの見物はできないというのが理由だ。
今のところルルーシュ専用のナイトメアが活躍するような戦いはないが、今後もずっと平和なままでいられる保証はない。だから、いつかに備えて定期的に操縦訓練をしているのだ。
そのこと自体は咎めるつもりはなかった。皇族たるものナイトメアの扱いぐらいできなければというのがルルーシュの姉であるコーネリアの言葉だし、嗜みとして操縦技術を身に付けることまで口を出すつもりはなかった。
しかし、何もクリスマス翌日の今日、騎士を置き去りにしてまでやることではないだろう。
(もう限界だ)
戻るまで待てという指示だが、操縦訓練は視察の一環ではない。つまり、視察はもう終わったということだ。予定を終了したのに戻らず、道草をしている主を迎えに行くのはむしろ騎士の仕事である。
そう結論付けたスザクは、「殿下をお迎えに行ってきます」と身を翻した。後ろでジェレミアが何か言っていたけれど、これ以上はもう待てない。
そういうわけで、朝から置き去りにされ、ずっと待ちぼうけを食っていたスザクはすっかり不機嫌になっていた。
蔑ろにされたことを怒っているのではない。ルルーシュがいつまで経っても自分を大切にしないことに怒っているのだ。
人には休めとか体調には気を付けろとか言うくせに、自分のことはまったく頓着しない。皇族という身分に似合わず世話焼きなのはルルーシュのいいところだが、同じくらい自分自身の体調も気遣ってほしい。無理をし過ぎて倒れた経験があるのだからもっと己を労わってほしい。
(ってことをいくら言っても殿下は聞く耳を持たないんだろうけど)
もっと自分に甘くなればいいのに。
ルルーシュを取り巻く状況が己への甘えを許さないのだろうが、せめて恋人の前では弱い部分を晒してほしい。そう思うのは過ぎた我儘なのだろうか。
ロイド伯爵の研究所まで急いでくれと運転手に伝えた顔が切羽詰っていたのか、車はこれまでの最短時間で到着した。後部座席のドアを自分で開けると、研究所の受付係に頭を下げられながら中へと向かう。操縦訓練をしているのだからいつもの場所だろうと、靴音を鳴らしながら足早に歩いていたスザクは、通路の先に見知った顔を見つけて駆けた。
「ロイドさん!」
「あれぇ、なんでスザク君がここにいるの、ってちょっとちょっと、いきなりなんなの」
「なぜ殿下の操縦訓練中にロイドさんがこんなところにいるんですか! 万が一、不測の事態があったらどうするつもりですか!」
白衣を掴み、がくがくと揺さぶる。ロイドの頭もがくがくと前後に揺れるけれどお構いなしだ。
「殿下なら大丈夫だって」
「適当なことを言わないでください!」
「適当じゃないから…!」
なおも問い詰めていると、「あらスザク君」と聞き慣れた声がした。
「連絡を入れてまだそんなに経っていないのに随分と早いのね」
「セシルさん! ルルーシュ殿下はどちらに?」
「ルルーシュ殿下なら休憩室の奥よ」
これまた不可解な回答にスザクは首を捻った。
「とりあえずロイドさんを離してあげてちょうだい? 今、ロイドさんがいなくなると予算が取れなくなってしまうの」
「ああ、そうですね」
ようやく手を離せば、僕の価値ってなんなのとロイドがぼやいていた。それを無視してセシルに向き直る。
「休憩室の奥ってどういうことですか」
「ずっと籠もっていらっしゃるから私たちもよくわからないの。終わるまで誰も中に入るなと厳命されているから、それまでお茶でもしてのんびり待ってましょう」
「いえ、そういうわけにはいきません」
「行っちゃ駄目だって。僕が怒られるんだからねぇ」
引き止める声を無視して歩き出す。これ以上、悠長に待つことはできない。ひとりで籠もっていることも、誰も入るなと命令していることも気がかりだ。
また良からぬことをしていなければいいけれどと思いながら休憩室の方角を目指す。
(休憩室の奥って何があったっけ。仮眠室とシャワー室とそれから……)
まさか昼寝でもしているのだろうか。しかし、「終わるまで」という言葉があるから寝ているわけではなさそうだ。何かをしているのは間違いないが、何をしているのかまったく思い浮かばなかった。
休憩室の前を通り過ぎ、仮眠室から順にドアを開けていく。最後にキッチンスペースのパネルを操作するとエラーが出た。中から鍵が掛けられているのだ。
ここか、とスザクはドアを叩いた。
「殿下、こちらにいらっしゃるのですか?」
尋ねる声に少し遅れてガシャンと金属音が聞こえた。
「殿下? いらっしゃるんですね」
「は、入るな!」
入るなと言われたけれど、ガチャガチャと不穏な音がしているのに騎士が指を銜えて待っているわけにはいかない。
「入りますよ。ドアからなるべく離れていてください」
深呼吸をすると、勢いをつけて蹴りを入れた。ナイトメアの装甲にも使われている素材のドアが凹み、呆気なく壊れる。その奥でルルーシュは唖然とした表情を浮かべていた。
「大丈夫ですか、お怪我はありませんか」
急いで主の元まで駆け寄ると、ルルーシュは呆れた眼差しでスザクとドアを交互に見た。
「スザク……」
「はい」
「立派な器物損壊だ。修理の請求書はお前宛てに出してもらうからな」
「そんなことはどうでもいいです。それより殿下、朝から一体どちらへいらしていたのですか。視察に向かうのなら向かうで、せめて一言あっても良かったではないですか。咲世子さんは護衛で同行しているのに、騎士の自分が待機させられるのは納得いきません。そもそも、昨日は遅かったのですから少しでも休んでくださいとお願いしましたよね。なのに、どうして早朝から仕事をされるのですか。シュナイゼル殿下が不在で大変なのはわかりますが、もっとご自分の体を労わってください」
騎士はいついかなるときも冷静沈着で、主の身を守ることを第一に行動すべきである。それを胸に日頃から仕えているけれど、ルルーシュを前にしたら今朝からの不満が堰を切ったように出てきた。
「それでも視察に行きたいとおっしゃるのならちゃんと僕を連れて行ってください。僕のことは置いて行くのに咲世子さんを同行させるのでは僕の騎士としての存在意義がなくなってしまいます。確かに咲世子さんは優秀ですし護衛としても完璧です。でも、殿下の騎士は僕なんです。殿下がどうしても咲世子さんがいいと思われるのならそれはそれで仕方のないことですが、僕にも騎士としての自負があるんです」
珍しく騎士が言い立てるのを呆気に取られた様子で聞いていたルルーシュは、それはすまなかったと呟いた。
「今日のことをお前がそこまで気にしているとは思っていなかったんだ。……ところで、スザク」
「はい、なんでしょう」
「さっきから咲世子咲世子と言っているが、それはつまり咲世子への嫉妬か?」
何を言われたのかわからずにぽかんとしたスザクは、嫉妬の二文字をようやく理解するとまさかと叫んだ。
「ち、違います!」
「普段の自分の役目を咲世子に奪われたから咲世子に嫉妬したんじゃないのか?」
「そんなことは――」
ある。
思い返してみれば、今日の不機嫌の理由は置いて行かれたこともあるけれど、ルルーシュがスザクではなく咲世子を連れ出していることも大きかった。
どうして僕ではないのだという気持ちが朝から渦巻いていた。仕事上、咲世子のほうが適任だとルルーシュが判断したのかもしれないのに、どうして連れて行ってくれないのだと子どものように不満を抱いていた。
それは紛れもなく嫉妬ではないのか。
「お前でも嫉妬することがあるんだな。しかもここに来たときの顔」
ルルーシュがくすくす笑っていた。
「お前が俺に本気で怒っているのを初めて見た」
「怒っていたわけでは……」
「いや、勝手なことをした自覚はあるからな。だが、こんなに心配するなんて本当に思わなかったんだ。サプライズというのはなかなか上手くいかないものだ」
ルルーシュの視線がわずかに動く。それを追いかけ、今さらながらにキッチンスペースを見渡したスザクは「あっ」と声を漏らした。
研究所にいるのは当然研究者が多い。ロイドほどではないものの、寝食を忘れて研究に没頭するような熱心な研究者ばかりだ。そんな研究所においてキッチンスペースは無用の長物でしかなく、むしろセシルが恐ろしい料理を生み出す恐怖の部屋として可哀想な扱いを受けている場所でもある。
そこに生クリームやチョコレート、色とりどりのフルーツという研究所に相応しくないものが並んでいた。ここは調理場だったのだと実感して感動すら覚えるようだ。
よくよく見ると、ルルーシュの手元にはボウルがあった。先ほどの金属音の原因はこれらしい。
「こんなにたくさん……。殿下がすべて作られたのですか?」
目の前には綺麗なホールケーキがあり、すでに五つが完成している。残りのひとつも飾り付けを残すだけの状態だ。
「昨日はせっかくのパーティーだったのに途中で抜け出す羽目になっただろう? だから皆へのお詫びのつもりだったんだ。まあ、ケーキは昨日のうちに食べているからもういらないだろうが」
「そんなことはありません。殿下お手製のケーキでしたら毎日でも食べたいです。しかし、なぜ六つも?」
「ひとつはアリエス用、もうひとつはユフィとコーネリア姉上、それから一応クロヴィス兄上のご機嫌も伺っておこうと思ってな」
クロヴィスに対してはいつも手厳しいルルーシュだが、忙しいのにわざわざ顔を出してくれた兄のこともちゃんと考えていたらしい。嫌々と言った様子を見せるのは照れ隠しだろう。
「残りの二つはここを貸してくれたロイドとセシルの分だ。研究所の職員が甘いもの好きかどうかはわからないが、皆が食べられるようにと多めに作っておいた」
「なるほど。では、こちらはどなたへのケーキですか?」
未完成のケーキはほかのものに比べると小ぶりだ。ケーキ好きならひとりで食べ切れてしまうサイズである。
単純な疑問を口にしただけなのに、なぜかルルーシュはふいと視線を逸らした。その耳が微かに赤くなっている。
「それは……、お前に渡そうと思って」
「え?」
「二人でお茶の時間を過ごすのも悪くないと思ったから……」
だからアリエスの厨房ではなくここをわざわざ借りたのにお前が来ては意味がないではないか、本当にイレギュラーなやつだな、と言い訳のような言葉がぼそぼそと聞こえた。
「えっと……」
つまり、ルルーシュは昨日の埋め合わせのために皆にケーキを作ろうと思い立った。それだけならアリエスの厨房を使えばいいだけだ。慣れた場所だし、材料だって豊富にある。でも、恋人と一緒に過ごすためのケーキを作っていたら誰かが目聡く気付いてしまうかもしれない。完成までは当の恋人にも知られたくない。だから、遠出の言い訳を作れるだけでなく、口が堅くて信用できる人間がいる場所を選んだ。それがロイドの研究所だった、というのが真相なのだろう。
恐らく、スザク以外の人間はルルーシュの企みを知っていた。咲世子もジェレミアもロイドもセシルも、皆が協力者だったのだ。
「しかし、それだと視察は……」
「ああ、実は今日の早朝に兄上が戻られたので俺の仕事はなくなった」
「そうなのですか? 何か問題でも?」
「単にプライベートの予定を切り上げただけらしい。もともとそんな予定はなく、俺への嫌がらせでわざと遅い日程を知らせていた可能性はあるが」
「それならわざわざ早めにお戻りにはならないでしょう」
「いいや、シュナイゼル兄上なら有り得る」
眉を寄せて心底嫌そうに呟いたルルーシュが可笑しくてつい笑ってしまう。すると、紫の瞳がスザクを窺うように見た。
「で、機嫌は直ったか?」
「あ……」
「サプライズも悪くないが、それでお前を怒らせては意味がないからな。以後気を付ける」
「いえ、僕のほうこそ大人気なくて申し訳ありません」
「元ラウンズが子どものような嫉妬をするのはなかなか見応えがあったけどな」
「殿下……」
ルルーシュは頬を緩め、最後の仕上げをするから少し待っていろと言った。
「あとはフルーツを乗せるだけだからすぐに終わる」
「こちらのクリームはもう使われないのですか?」
「ああ。そっちは処分するから味見していいぞ」
「では少し」
行儀が悪いかと思ったけれど、手元にスプーンがないので指でチョコレートクリームを掬ってみた。ぺろりと舐めれば程よい甘さが口の中に広がった。
「なんだか子どもの頃を思い出しますね」
「クリームで?」
「うちは厳しい家でしたから、ケーキと言っても誕生日ぐらいにしか出てこなかったのです。だから、誕生日になるとお手伝いさんがケーキを作ってくれるのが嬉しくてずっと傍で見ていました。余ったクリームをこうして舐めさせてもらったこともあります」
でも舐めすぎて気分が悪くなってしまいましたと笑う。
せっかくのご馳走もケーキも入らず、あまりの気分の悪さに寝ていたら誕生日が終わっていたことは今でも苦い思い出だ。だから、翌年は学習して決してクリームには手を出さないようにした。こうして直に舐めるのはあのとき以来である。
「スザクにもそんな子どもの時期があったのだな。いつもむっつりしていたから子どものときからそういう顔なのかと思っていた」
「殿下の前でむっつりしたことはないと思うのですが……」
「ラウンズ時代の話だ」
「えっ」
「なんだ、気付かれていないと思っていたのか? 白き死神の不機嫌そうな顔は皇宮内では有名だったぞ」
「それは……失礼しました」
ルルーシュは皇子だ。皇宮に自由に出入りできる立場だし、そこでナイトオブセブンの姿を見かけていたとしてもおかしくない。なのに、今の今まで彼には隠せていたと思い込んでいた己が恥ずかしい。
「でも、そんなお前が俺の前では笑ってくれるのが嬉しくてな」
はにかんだような横顔をぼんやり見つめる。
そう言えばルルーシュも外向けの顔は厳しい。宰相補佐はまだお若いけれどなかなかに手強い、シュナイゼル殿下とはまた違った怖さがあると囁かれていることは知っている。
だからこそ、彼がスザクの前でだけは柔らかな表情を見せてくれるのはとても嬉しいことだ。たまに不機嫌さを現わすのも、小さな我儘を言うのも、すべてはスザクへの甘えである。他人には決して見せない表情を恋人には見せてくれるのだと思ったらたまらない愛しさを感じた。
それと似たような感情をルルーシュも抱いていたのだろうかと、胸の奥がじわりと温もった。
「なんだか幸せですね」
「藪から棒になんだ」
「あ、殿下もクリーム舐めてみますか?」
「味見なら俺は、」
にこにこと笑う騎士に何かを察したのか、ルルーシュの頬が赤らんだ。苺や林檎と同じくらい赤くて可愛いなと、ルルーシュが聞いたら恥ずかしがって怒りそうなことを思う。
「――そうだな、もう一回味見しておくか」
ルルーシュがこちらを向く。チョコレートクリームを掬ったスザクは、ルルーシュの口許にそっと人差し指を伸ばした。
唇が開き、赤い舌が覗いた。その舌が指先を舐め、ぱくりと口に含んだ。そして上目遣いにスザクを見たかと思えば微かに口の端を上げる。
こんな仕草をどこで覚えたのだろう。ほんの少し前までキスだけでおどおどしていたのに、今では時折、スザクを誘うような目をする。こんな視線を向けられたら誰でもその気になってしまうのではないだろうか。
でも、ルルーシュが密かな欲を見せるのはスザクだけだ。スザクだけがこうしてルルーシュを独り占めできる。嫉妬をする必要なんて最初からなかったのだ。
そんなことを思っていると、ルルーシュの舌が指の腹をなぞった。クリームを綺麗に舐め取り、ようやく顔を引く。
「あまり煽るのはやめてください」
「俺は味見をしただけだ」
何も知らないふりをしてふふんと笑う。性悪な猫のようだ。
「そうだ、今日と明日の二日、休みをもらったぞ。ちゃんと留守番をした褒美らしい」
「お休みですか?」
「まずは兄上たちにケーキを届けて、昨日の埋め合わせのためにナナリーと母上と一緒に夕食をとるから、お前とケーキを食べるのは夜になるがいいか?」
今夜、二人きりで。その誘いがどういう意味なのか、改めて確認するのは野暮だろう。
「もちろんです!」
思わず返事が大きくなった。艶然と微笑んだルルーシュが作業に戻る。その横顔はいつものルルーシュで、ほんの少し前に艶っぽい仕草をしていたなんて嘘みたいだ。
(結局、今日一日、殿下に振り回されてしまったってことなのかな……)
それはそれでいいかとこっそり笑った。恋人のためにケーキを作り、二人きりの時間まで用意してくれたのに、これでもまだ足りないなんて我儘を言ったらばちが当たってしまう。
ぶち壊してしまったドアの修繕についてはあとでロイドに相談しようと、スザクは心の中で呟いた。
(15.12.26)