ベルガモット

 窓の外には雲ひとつない青空が広がっていた。高い太陽を眺めながら、一ヶ月前の長い休暇が嘘のようだなと独りごちる。
 (つまり、僕が殿下を初めて抱いたのも一ヶ月前ということで……)
 口許が無意識に緩みそうになり、スザクは慌てて気を引き締めた。職務の最中に思い出す内容ではない。
 ここはブリタニアの中枢で、いつ何時、何が起こるかわからないような場所だ。爛れたことを考えていたせいで主を守れませんでしたなんて騎士失格どころの話ではない。
 (それにしても、今日は長いな)
 目の前には扉がある。その向こうは宰相の部屋で、限られた者しか立ち入ることは許されない。
 今日はルルーシュが個人的にシュナイゼルへの面会を申し込んでおり、スザクはお供としてついて来ていた。いつもなら一緒に中へ入るのだが、二人だけで話があるということでスザクはもちろん、シュナイゼルについているカノンも部屋の外に出された。カノンはしばらく休憩に行っているため、廊下にいるのは衛兵のほかはスザクだけだ。
 ここに立ってすでに三十分は過ぎている。忙しい宰相と宰相補佐の二人なので、手短に話を済ませるのが常である。しかし、今日はなかなか終わる気配がない。このことをあらかじめ想定していたのか、お前は一旦戻っていいと言われたものの、騎士が主の傍を離れてのんびり休憩しているわけにはいかないとやんわり断わった。
 そんな騎士に、ルルーシュは「相変わらず真面目だな」と笑っただけで好きにさせてくれた。軍人なので忍耐を求められる状況には慣れているし、三十分程度で根を上げるほど柔ではない。ただ、相手がシュナイゼルなので何か面倒なことになっていなければいいけれど、と皇宮内では決して口にできないことをこっそり思う。
 そのとき、目の前の扉が開いた。背筋を伸ばしてルルーシュを出迎える。

「帰るぞ、スザク」

 先を行くその横顔は若干疲れていた。

「また何か無理難題でも?」
「いや、明後日の軍部の会議について色々と相談をしたら長引いただけだ。相手が兄上だからってそんなに心配するな」

 くすくす笑われ、申し訳ございませんと苦笑いする。シュナイゼルは宰相として非常に優秀で、次期皇帝候補のトップにいる人物だが、そんな彼からルルーシュに持ってこられる話はだいたいが面倒事だ。つい心配してしまうのも致し方ないだろう。

「軍の中には私が会議に混ざることを面白くないと思っている連中もいるからな。先日の作戦が成功したことで表立っては批判できなくなったが、粗探しをしてどんな些細なことでも足を引っ張る材料にしようと考えているに違いない。しばらくは今まで以上に気を引き締めていくぞ」
「はい」

 そんな大事なときに不埒なことを一瞬でも思い浮かべてしまった自分を大いに反省する。
 ルルーシュは主であり、誰もが恭しく頭を下げる皇族だ。本来ならば指一本触れることすら許されないような相手なのだ。恋人になったからといって今までの関係が崩れるわけではないし、崩していいものでもない。弛んでいる場合ではないとスザクは気合いを入れ直した。
 人気のない廊下を進む。ふいに、規則正しかったルルーシュの靴音が微かに乱れた。
 どうしたのかと後ろ姿を注意深く見守っていると、その足がぴたりと止まる。

「殿下?」

 振り返った彼がこちらを見つめた。かと思えば、二人の間の距離を縮め、突然肩に凭れかかってきた。

「えっ、で、殿下、いけませんこんなところで、」
「スザク……」
「駄目です、人が来ます」

 まさか公共の場でルルーシュのほうから抱きついてくるなんて思いもしなかった。嬉しいけれど、さすがにこれはまずいだろう。咄嗟に周囲を窺って人がいないことは確かめたものの、どこで誰が見ているかわからない。
 両肩を掴んで引き剥がそうとすれば、逆に背中に腕を回された。ルルーシュ殿下、と必死に名前を呼んでたしなめても離れてくれない。
 こんな機会は滅多にないしここで拒絶するのは本当にもったいないことだが、今は心を鬼にするしかない。スザクがそう覚悟を決めたとき。

「気持ち悪い」
「は……?」

 不穏な言葉が聞こえた気がして一瞬固まる。
 その途端、ルルーシュの体から力が抜け、ずるずると崩れ落ちそうになった。慌てて細い体を支えて床にゆっくり座らせた。

「殿下、どうされたのですか、うわっ、熱があるじゃないですか、いつからですか、もしかして朝からずっとですか、それならそうと早くおっしゃっていただければ、」
「うるさい……」

 弱々しい声で文句を言われ、口を噤む。言いたいことは山ほどあるけれど相手は病人だ。お説教は後回しにして、今はとにかく休ませるしかない。

「すぐにお運びします。このままアリエスに戻りましょう」
「まだ仕事が……」
「今日の予定はすべて終わっています。こまごまとしたものの処理についてはジェレミア卿と相談しますから、ひとまずお部屋に戻りましょう」

 横抱きにして抱え上げると、足早に、しかし慎重にルルーシュを運ぶ。宰相補佐がこんなところで倒れたと知られれば厄介だなと心配したが、幸い、部屋の前の衛兵以外に見られることはなかった。
 自分たちの戻りを待っていたジェレミアは、スザクの腕の中でぐったりしているルルーシュに驚いた顔をしたものの、主が横になりやすいようクッションをすぐに用意してくれた。ルルーシュの体を大事にソファに寝かせると、スザクはジェレミアに状況を説明し、衛兵への口止めや本日の業務の切り上げについて話し合った。そして、今日は速やかにアリエスへ戻ることと、このことはしばらく口外しないことを決める。
 明後日には重要な会議が控えているのだ。欠席はもちろん、体調不良という噂が広まることも好ましくない。意識はしっかりしているルルーシュにそのことを伝えると、それで問題ないと短く返事が返ってきた。
 今後のことが決まれば、まずはゆっくり休んでもらうためにアリエスへ戻らなければならない。
 起き上がるのもつらそうな体を抱き起こす。できれば先ほどのように抱えて運びたいところだが、そんな姿で皇宮を出るわけにはいかないだろう。

「車までおひとりで歩けますか?」
「ああ、歩くぐらいできる。大丈夫だ」

 心配させまいと口許を緩めたルルーシュだけど、その笑みにいつものような力はない。一瞬眉を寄せたスザクは、腕を差し出すと「捕まってください」と言った。
 ジェレミアを伴って車まで向かうと、あとのことは彼に任せてアリエスを目指す。その間、ルルーシュはスザクの肩に頭を乗せて目を閉じていた。額に手を当ててみると火傷しそうなくらい熱く、吐く息も苦しそうだ。
 一体いつから具合が悪かったのだろう。思い返してみるが、ルルーシュの言動に不審なところはなかった。しかし、これだけの熱が出ているのだからかなり前から無理をしていたのではないか。
 もっと早く言ってくれれば良かったのにと唇を噛む。だけど、今日は朝からスケジュールが詰まっていたし、最後にはシュナイゼルとの面会が入っていたことを踏まえれば、周囲に悟られることなく一日乗り切ろうとしたルルーシュの考えも理解できるので責められない。自分が身代わりになれればいいのにと、スザクは熱を持った手を労わるように握り締めた。
 アリエスまでの道のりが今日はやけに長く感じる。ようやく城が見えたときには思わずほっと息を吐き出した。
 到着すると、待ち構えていた咲世子が後部座席のドアを開けた。

「ジェレミア卿からの連絡でお医者様はすでに呼んでおります」
「ありがとうございます」

 ルルーシュの背中と膝の裏に腕を回して抱きかかえ、咲世子の先導で部屋まで運んだ。アリエス専属の医師は心得た様子で、ベッドに寝かせたルルーシュの診察を始める。
 そこまで見届けたスザクは付き添いを咲世子に任せて別室に移動し、皇宮に残っているジェレミアに連絡をした。明日のスケジュール変更や急ぎの案件などについて相談するが、明後日の会議だけはどうしても外すことができないし、たとえ体調が戻らなくてもルルーシュは這ってでも出席するだろうというのが二人の共通認識だった。

「明日は急な視察ということにして、殿下には一日静養していただこう。調整ができたらまた連絡する」
「よろしくお願いします」

 電話の向こうに頭を下げるとスザクは携帯を仕舞った。スケジュールのほうはジェレミアに任せるとして、今は少しでも早くルルーシュに回復してもらわなければならない。本音はゆっくり休んでもらいたいが、状況がそれを許さない。明後日の会議ではルルーシュ自身の発言もあるので、欠席なんて事態になったら今後の彼の評価にも繋がってしまう。
 部屋に戻るとすでに診察は終わっていた。窮屈な皇族服から寝衣に着替えも済んでいて、表情はまだ苦しそうだが規則正しい寝息を立てていた。
 寝室の外で話を聞いたところ、ルルーシュは昔から夏に弱く、疲れや睡眠不足もたたって風邪を引いたようだが、薬を飲んで休めば問題ないとのことだった。医師が出て行くと、咲世子に明日以降の状況を説明する。ジェレミアとの連絡役を彼女に頼み、スザクは再び寝室に入った。
 照明を落とされた薄暗い部屋の中で、ルルーシュの息遣いだけが微かに聞こえる。

「あまり無理はしないでくださいといつも言っているのに、本当に困った人ですね」

 触れた頬はまだ熱い。すでに温くなっている氷嚢を取り替え、少しでも早く熱が下がればいいと祈るように思った。

***

 自分の咳の音で目が覚める。けほ、と乾いた咳を繰り返していたら背中を撫でられた。その手は心地良く、安堵するような気持ちが体中に広がる。
 次第に咳も収まり、横になったまま視線を動かすと、薄暗闇の中で騎士の顔がぼんやり見えた。

「スザク……?」
「大丈夫ですか?」
「今は何時だ……」
「まだ深夜ですから気にせず寝ていてください」

 水、と呟けば背中に触れていた手のひらが離れた。途端に寂しくなって、水なんて言わなければ良かったと後悔が生まれる。同時に、そんなことを思ってしまった自分が恥ずかしくなった。

「起き上がれますか?」
「ああ」

 普段ならなんでもない動作がひどく億劫できつい。支えられながらなんとかベッドに凭れると、水を注いだグラスが渡された。それを飲み干し、もう一杯もらったところで息を吐き出した。全身が熱く、いろんな関節がぎしぎし言っていて不快感しかない。
 今朝、起きた瞬間からなんとなく倦怠感はあった。覚えのある感覚にこれはもしやと思ったが、どうしても外せない予定があったし、明後日のことで異母兄にも相談がしたかったので休むという選択肢は最初からなかった。それでも、次第に熱を帯びてくる体にまずいと思い、シュナイゼルとの面会が終わったらスケジュールを調整して早めに切り上げるつもりでいた。
 想定外だったのは、シュナイゼルのもとを辞したあと、スザクと二人きりという状況になった途端、緊張の糸が切れて一気に気持ち悪さに襲われたことである。おかげでスザクの前で醜態を晒してしまったが、あの場に彼しかいなかったのは不幸中の幸いと言うべきだろう。

「すまない、迷惑をかけた」

 掠れた声で謝れば、スザクは首を振った。

「それで明日のことだが……」
「明日の殿下のご予定は視察のみです」
「何?」
「それ以外は何も入っておりません。ですから、一日ゆっくり休まれてください」
「ゆっくりって、そういうわけには」
「ただし、明後日の会議はどうやっても動かせませんので、それまでに体調を万全になさってください」

 厳命だと言わんばかりの口調に、ぽかんとしていたルルーシュは小さく笑った。

「企んだのはお前とジェレミアか」
「はい」
「兄上は?」
「シュナイゼル殿下にもご報告はしていません。ご安心ください」
「では、企みがばれないように明後日までには必ず元気になっていないといけないな」
「そういうことです。それと、元気になられたら僕からお説教させていただきますので覚悟しておいてください」
「騎士がお説教か」
「主の間違いは騎士が正さなければいけませんので」
「わかった、心しておく」

 今後は厳しく体調管理されそうだなとぼやくが、自業自得なので何も言えない。

「ところで汗はかかれていませんか? ずっと眠っていらっしゃったので、お召し物を取り替えたほうがいいかと」
「ああ、そうだな」
「では頼んでまいります」

 スザクが外に出ると、寝室が急に静かになった。目を覚ましたときにひとりだったら心細くなっていたかもしれないと、子どものようなこと思った自分に少し笑ってしまう。
 しばらくして戻って来たスザクは手に何かを持っていた。それをテーブルの上に置くと、使用人に運ばせた寝衣やタオルを取ってベッドに近付いた。

「お体をお拭きしますね」

 するりと寝衣を脱がされる。この一ヶ月で裸は何度も見られているし、そもそも男同士だから何も気にする必要はないのに、彼の手が自分の背中や脇腹に触れているのだと考えるとなぜだか急に恥ずかしくなった。スザクは病人の看護をしているだけで、自分ばかりが意識していることも恥ずかしい。頬が熱いのは風邪のせいだけではないだろう。照明が暗いので赤くなった顔を見られないのはせめてもの救いである。

「腕を上げてください」

 言われるままに手を上げれば、新しい寝衣を着せられた。肌が隠れたことと、乾いた生地の感触に思わずほっと息をつく。

「冷えた桃をお持ちしたのですが食欲はどうですか? 薬も飲まなければいけませんので、少しだけ召し上がってみませんか?」

 スザクが一緒に持ってきたのは桃の乗った皿らしい。空腹感はないが、桃ぐらいならと頷く。
 小さく切った果肉が運ばれ、甘い果汁が口の中に広がった。冷たい食感が火照った体に心地いい。意外にも食は進み、気付けば皿の上は空になっていた。おかわりをお持ちしましょうかという問いには首を振る。
 口許を拭ってもらい、薬を飲むとルルーシュは再びベッドに横になった。スザクの手が額に触れ、まだ熱が高いですねと心配そうな声がした。腕を伸ばし、その手を掴む。

「殿下?」
「少しだけ、こうしていてくれないか」

 傍の椅子に腰掛けたスザクは、左手を握り直すとルルーシュの望み通りそこにいてくれた。

「ナナリーがまだ小さかったとき、よく熱を出していたんだが、そのたびに母上がナナリーに付き添っていたんだ」

 目を閉じてぽつりぽつりと昔話をする。今まで誰にも打ち明けたことのない話をしようと思ったのは、やはりどこか心細いからなのか。それとも、相手がスザクだから甘えているのか。

「まだ四歳か五歳ぐらいだったかな。その頃にはもうひとりで寝るようになっていて、ナナリーは妹でまだまだ小さいから俺は我儘を言ってはいけない、母上を煩わせてはいけないと思った。でも、本当は少し寂しかったんだ。母上は俺だけの母上ではなくなってしまったのだと、眠るときに俺の手を握ってくれることもないのだと、そう思ったら寂しくて、夜が来るたびに泣いていた」

 あの頃を思い出してふいに目の奥が熱くなる。十年以上も前の子ども時代の話なのに、今になってまた泣くなんて馬鹿みたいだ。

「殿下は優しいですね」
「妹に嫉妬していたような兄だぞ」
「子どもなんだから母親を取られて嫉妬するのは当たり前です。それでも殿下はナナリー様に当たることはなかったのでしょう? 妹思いのいいお兄ちゃんじゃないですか」

 スザクの身じろぐ気配がして、こめかみに口付けが落とされた。

「これからは僕がいます。殿下をおひとりにはさせません」
「一緒に寝ろと言ったら寝てくれるのか」
「もちろん。ただしその場合、違う意味の寝るもついてくるかもしれませんが」

 不穏な科白に思わず目を開け、馬鹿と言った。スザクが可笑しそうに笑う。その顔をむっと見ていたルルーシュは、しかしすぐに表情を緩めた。

「――でも、お前が一緒にいてくれるのなら構わない」
「え?」
「俺はもう寝る。お前ももう休んでいいからな」

 ぶっきらぼうに言うと、今度こそ眠るために目を閉じた。恥ずかしくてこれ以上スザクの顔を見ていられなかった。
 相変わらず左手は握られたままで、そのことに安堵している自分がいた。子どもを寝かしつけるときのように頭を撫でられ、その心地良さにうとうとしてくる。これでは本当に子どもと同じだ。

「おやすみ、ルルーシュ」

 優しく囁かれた声に笑みを浮かべ、返事の代わりに左手を握り締めた。
 やることはたくさん残っているけれど、今日一日だけはスザクに甘えていいだろうかと願うように思い、ルルーシュは穏やかな眠りに落ちていった。
 その夜、二人の手が繋がれたままだったことを知るのは、彼の騎士ただひとりである。
 (15.08.09)