教室を出て行く後ろ姿を見つけ、ルルーシュは弁当箱を持つ手に力を込めた。勇気を出して足を踏み出すと、離れていく背中を追いかける。
この二週間ほどですっかり日課になってしまったことだけど、行動に移すときは毎回緊張した。
スザクだってわかっているのだから大人しく教室にいてくれたらいいのに、と八つ当たり気味に思いながら足を早めた。
「スザク!」
彼が振り返ると同時に、有無を言わせず弁当箱を押し付けた。
「ほら、弁当。今日の朝もお前がひとりで行くから渡せなかったじゃないか。朝と夜はどうしているのか知らないが、昼ぐらいは野菜をちゃんと摂れ。いくらお前が体力馬鹿でも栄養不足になれば体に良くないぞ」
断られるのが怖くて一気に捲し立てる。スザクが弁当箱を受け取ったのを確認すると、すぐに背を向けてその場を離れた。
教室に戻り、そのまま机に突っ伏すと安堵の息が自然と漏れた。
(今日も受け取ってもらえた)
なんで俺がこんなに緊張しなければいけないのだと心の中で愚痴るけれど、だったらやめてしまえとは思わなかった。
(ただの幼馴染で友達ならこんな感情抱かなかったのに)
枢木スザクとは生まれたときからの付き合いだ。幼馴染として十七年を一緒に過ごしてきて、周囲の誰もが二人を親友だと信じている。
それは間違いないし、自分たちはずっとそうやって関係を続けていくのだと思っていた。
(でも、変わってしまったんだ)
自覚したのはいつだろう。
初めは勘違いだと自分に言い聞かせた。こんなのは間違っている、友達に対して抱く感情ではないと否定してきた。
でも、スザクの家に自分の知らない誰かが出入りしているのを知ったときに醜く嫉妬した。そしてようやく認めたのだ。
自分はスザクに恋をしていると。
(結局、誰が家にいたのか聞けないままだったけれど、もう戻ってこないのだろうか)
数週間前からスザクの態度がおかしくなった。
スザクの両親は仕事で海外赴任しているから、家事の手伝いをするために枢木家に度々足を運んでいたのに、ある日突然「家には来なくていい」と言われた。
母親がお手伝いさんを頼んだから大丈夫という言葉を最初は信じたし、自分の役割がなくなるのは少し寂しいけれど、プロが家のことをやってくれるなら安心だと思った。
しかしある週の土曜日、スザクが誰かと一緒に家を出て、楽しそうに出掛けていく姿を目撃してしまった。
そのときに気付いたのだ。
スザクの家にいるのはお手伝いさんではなく、幼馴染にも内緒にしている親しい誰かなのだと。
相手が男なのか女なのか、後ろ姿だけでははっきりわからなかった。ただ、すらりと伸びた手足に華奢な体、遠目からでもわかるほど艶めいた黒髪から、きっと美形なのだろうと想像が出来た。スザクの様子で相手は年上という印象も受けた。
(俺のことは遠ざけたくせに……)
二人がいつ知り合ったのかはわからない。でも、まるで同棲のように暮らしていたのは、スザクの態度がおかしくなった頃からで間違いないだろう。
それを理解したとき、最初に抱いたのは嫉妬。そして悔しさ。
自分のほうがスザクと長く一緒にいるのに。自分のほうが先にスザクを好きになったのに。
どうしてという気持ちばかりが渦巻き、嫉妬で狂いそうだった。
今さら告白する勇気もなく、幼馴染で男でしかない自分にスザクを取り戻す術もなく、このまま彼を失ってしまうのではないかと恐怖に怯える日々は、しかしあるとき唐突に終わった。
自分は大丈夫だから心配するなとスザクに突き放されたのはまだ二週間前のことだ。その翌日、昨日のことを謝ろうとめげずに訪ねたところ、今度はいきなり抱き締められ、さらには泣き出されてしまった。
スザクの体温に一瞬頭の中が真っ白になったけれど、泣き続ける彼を慰めたくて、ぐずる子どもをあやすみたいに背中を優しく叩いてやった。今まで見せたことのない表情を向けて来たかと思えば、急によそよそしい態度を取るようになったのはそれからだ。
一緒に暮らしていた相手と何があったのか、あの人はどこへ行ってしまったのか、スザクには何ひとつ聞けていない。聞きたいとは思わない。
だから、何かを打ち明けようとしたスザクにも「話さないままでいい」と伝えた。
怖かったのだ。
スザクの話を聞いて、もしスザクの中に見ず知らずのあの人への気持ちが残っているとわかってしまったら、自分はもう二度と立ち直れないような気がした。
何もなかったのかもしれない。あの人は単なる友達で、事情があってちょっと泊まっていただけかもしれない。
だけど、もしもという恐怖は消えなかった。自分の弱さが真実を聞くことを拒んだのだ。
(素っ気なくしてスザクを困らせてやりたいと、意地悪する気持ちも少しはあったのかもしれないな。だから朱雀さんのことだって話してないし)
一週間前に出会ったスザクの親戚の顔を思い出す。
兄弟どころか双子と言っても頷けるほどスザクにそっくりな年上の彼。スザクから彼の話を聞いたことはないけれど、あれほど同じ顔を前にしたら親戚という言葉を信じずにはいられなかった。
彼が立っていたのは、悪逆皇帝ルルーシュがゼロに討たれた場所だった。独裁による支配で世界を恐怖に陥れた皇帝と、世界を救った英雄。
皇帝が倒れたことで英雄の存在はますます輝き、世界は平和への道に向けて共に歩み始め、皇帝は大いなる憎しみの象徴となった。
一連の歴史はまるで物語のようで、初めから仕組まれたシナリオのようにも感じられたけれど、今のところそんな説を主張する歴史家はいない。
悪の象徴と正義の象徴が実は手を取り合っていたなんて、まさに世紀のペテンで非常に面白い話だ。もっとも、たとえ戯れ言だとしても、皇帝ルルーシュを憎む人々には受け入れられない内容だろうが。
(そう言えば、スザクも朱雀さんもあそこで泣いていた)
記念碑の前に朱雀は立っていた。振り返った彼を見たとき、彼が泣いているのかと思った。実際に涙を流していたわけではないけれど、どこか寂しそうな表情にそう感じてしまった。
記念碑があるのは国立の公園だ。広大な敷地は緑が多く静かで、人もあまりいないから考え事をしながら散歩をするには最適の場所だ。かつて血が流れたなんて信じられないくらい良い場所である。
スザクと一緒に記念碑の前に立ったとき、彼も突然涙を流した。そのときもルルーシュは何も聞かずに彼の背中を撫でた。
あの石碑に何があるのだろう。自分にはわからない何かを二人ともが感じたのだろうか。
だいたい、なぜ自分は見ず知らずの男を居候させるなんて暴挙に出たのか。家族は出張中で、家には自分ひとりだ。もし彼が犯罪者なら、これ以上ない格好のカモである。
それをわかっていながら行き先がないと言う朱雀を家に誘ったのは、頭の片隅でスザクとあの人の姿がちらついたからだった。
(ちょっと対抗してみたかったんだ。スザクは何も気付いていないのに)
無関係の朱雀まで巻き込んでしまったことは申し訳ないと思う。だけど、まだ指を折って数えられるくらいしか経っていない朱雀との生活はひどく馴染み、自分でも驚いていた。
年上の彼はとても優しく、大人らしい落ち着きを持っている。スザクと瓜二つの顔はときどき間違えてしまいそうになるけれど、やはりスザクとは違う人間だ。
しかし、毎朝一緒に登校していた習慣を最近になって破られ、弁当だけを無理やり渡す毎日が続くと、優しい朱雀のほうに気持ちが傾いてしまいそうになる。
(馬鹿だな、俺は)
後悔とも自己嫌悪とも呼べる気持ちが体の中をぐるぐる回るようで、ルルーシュはきつく目を閉じた。
スザクにはきちんと食べろと言いながら、自分はお弁当を食べ損ねてしまったことに気付いたのは昼休み終了のチャイムが鳴ったときだった。
* * *
「買い物?僕と?」
「ええ、今度の土曜日にどうかと思って。朱雀さんあまり外に出てないみたいだし、たまには外の空気を吸いませんか?」
「でも僕、恥ずかしい話だけど手持ちがないから」
一緒に外出しようと提案してきたルルーシュに、スザクは苦笑いしてみせた。
ランペルージ家に居候させてもらうようになって十日が経つが、その間、庭の手入れや家の周囲の掃除をする程度でほとんど家から出ていない。ルルーシュに頼まれて近所のスーパーへ買い物に行ったのが唯一の遠出だ。
もちろん、この世界では枢木スザクの顔は知られていないし、姿を見られて困ることもない。ただ、隣の『スザク』と万が一遭遇するリスクを考えたら、どうしても足が外に向かなかった。体を動かすほうが得意で、世間的には死んだことになっていた数ヶ月を除けば、外で動き回るのがメインだった自分にとってはある意味快挙である。
おかげで、百年前から現在に至る歴史はだいたい頭に入っていた。
ここが間違いなく現実で、ルルーシュは悪逆皇帝、ゼロは世界を救った英雄として歴史に名を残していることも確認した。
ナナリーが亡くなるまでの活躍もネットで情報を集め、幸せに生涯を閉じたことにひどく安堵した。
ただ、ゼロに纏わる詳細だけは調べなかった。いつどこで何をやったのか、どんな功績を残したのか、まだ生きているのかもう死んでいるのか、そういう情報は意図的に避けた。自分自身の先を知ることはカンニングのようで抵抗があったのだ。
いつ死ぬのか知りたくないという気持ちも確かにあったけれど、今ここで未来を知れば、これから自分がやることはどれも歴史の本の焼き写しでしかないように感じられた。だから自分の未来は見ないようにした。
しかし読むものがだんだん少なくなり、最近は体のほうも鈍っている。やはり自分はルルーシュのように何日も家に籠もっているのは向いていないのだと実感し、そう考えると自分たちはつくづく正反対で、でもそれがちょうど良かったのだと今さらながらに思った。
ともかく、これ以上体を動かさないのは精神的にも良くない。早朝のジョギングだったらさすがに鉢合わせすることもないだろうと考えていた矢先に、出掛けないかと逆に提案されたのがたった今のことである。
「どこに行ってもお金は必要だろう?無一文なのは格好悪いし、だからって君に奢ってもらうわけにもいかないし。遊びに行くなら友達と一緒に行ったら?そうだ、スザクと一緒に出掛けたら?」
スザクの名前を出した途端、ルルーシュの顔が微かに強ばった。幼馴染に対する反応としてはどこか変で、おや?と首を傾げた。
「スザクと喧嘩でもした?」
「喧嘩というか、俺もスザクもお互いを勝手に避けているというか……。スザクはまだ落ち込んでいるみたいで、でも俺はその理由を聞きたくないから」
「それって、前に言っていた『あの人』が関係しているのかな」
以前、ルルーシュが口籠もった人物。それを聞いても仕方がないと思ったけれど、彼に暗い表情をさせる人がどういう人なのかやはり気になった。
「――はっきり見たわけではないんです」
少し躊躇ったあと、目線を逸らしたルルーシュが口を開いた。
「顔もちゃんと見たことはないし」
「その人の名前は?」
「聞いてないです。スザクの家にはもういないみたいで、でも家じゃなくて別の場所で会っているのかもしれない」
どこか落ち込んだ様子でぽつりぽつりと話すルルーシュ。素っ気ない幼馴染を怒るわけでも詰るわけでもなく、ただ寂しそうな顔をする彼に何か引っかかるものを感じた。
もしかしたら、彼は――。
「綺麗な黒髪で、背も高くて。男の人か女の人かわかりませんが、後ろ姿がとても綺麗だったからきっと顔も綺麗なんだろうなって。家事も出来るみたいだし、あの人がいる間は俺の出る幕もなくて」
「家事……?」
「ええ。いつもは俺がスザクの家に行って食事を作っていたんですが、来なくていいって言われたので。スザクはとても楽しそうだったから、美味しいものを毎日食べさせてもらっていたんじゃないかな」
拗ねたような口調を、しかし今は気にかける余裕がなかった。
(黒髪で、家事が得意で……。でもまさか……)
元の世界の偶然ならともかく、ここは百年後の世界だ。あまりにも非現実的すぎる。そもそも情報がまったく足りないではないか。黒髪で家事が得意な人間なんてごまんといるのだ。
そう否定するのに、スザクの頭にはひとりの人間の名前しか浮かばなかった。
百年後の世界で、枢木スザクの生まれ変わりの世話を焼いた人間が誰なのか、確証となるものは何もないのにスザクは確信していた。
(ルルーシュ)
彼もこの世界に来て、この世界で過ごしたのだ。しかも、こちらの時間ではたった一週間前に。
『お前は生まれ変わりを信じるか?』
あのときの言葉が思い出され、スザクは左手で口元を覆った。
生まれ変わりを信じるかと訊かれ、地獄に行くだろうから関係ないと答えた自分に彼はなんと言ったか。
(君は、こんな未来が来ることを知っててあのときの僕に、生まれ変わってまた出会えたら一緒に普通の高校生をやってみたいと、そう言ってくれたのか?また僕に会いたいと、思ってくれたのか……?)
胸がいっぱいになって、ふいに鼻の奥がつんとした。
「朱雀さん?」
心配そうな声が聞こえた。顔を上げれば、ルルーシュに良く似た顔が自分を見つめている。ここに来た初日と同じシチュエーションだ。
(そうか、君はここにいる彼らが自分たちの生まれ変わりだとちゃんとわかって――)
大丈夫だと言う代わりにゆるゆる首を振った。
一緒に夕飯を作ったり、映画やドラマを観たり、学校生活の話を聞いたり、この世界の彼がもたらしてくれるものはごく普通の日常で、それがとても愛しく、温かく、とても幸せだと思った。
何より、生きているルルーシュと何気ない会話をしていることがたまらなく嬉しい。
「……ありがとう」
「え?」
「ごめん、いきなりこんなこと言われても困るよね。でも、ありがとう」
僕と出会ってくれて、ありがとう。
この世界にあるのはどれもこれも元の世界では叶わなかったことばかりだと知って、涙が零れそうになった。
(12.09.21)