「ただいま」
リビングのドアを開けて入ってきたルルーシュに、スザクは手元の新聞から目を離すと笑みを向けた。
「おかえり、ルルーシュ」
スザクの声にルルーシュもふわりと笑う。ボストンバッグを床に下ろすと、紙袋だけをテーブルの上に置いてスザクの目の前に座った。
「早かったね。せっかくなんだからもっとゆっくりしてくれば良かったのに」
スザクは読みかけの新聞を畳んで退けた。一泊して帰ると言って出掛けたから、てっきり夕飯まで食べて来ると思っていたのだが、時計を見ればまだ夕方にもなっていない時間だ。
せっかく久しぶりにお母さんとナナリーと家族三人で過ごせる機会だったのにいいのだろうか。そんな意味を込めて問えば、ルルーシュは「一泊できたから充分だ」と告げる。とても満足そうな口調に、無理をして言っているわけではないとわかった。
「ほら、お土産。ナナリーがお前にって」
「僕に?ありがとう」
テーブルの上に置いていた紙袋を渡され、スザクは中を覗き込んだ。
「お菓子?」
「家の近くに和菓子屋ができたそうで、そこの和菓子が美味しかったからスザクにも味見してほしいそうだ」
「へぇ、ナナリーが気に入ったのならきっと美味しいだろうね。今、食べようかなぁ。ルルーシュも食べるだろ?お茶入れるよ」
「じゃあ、その前に荷物を部屋に置いてくる」
「うん」
席を立ったルルーシュはバッグを持ってリビングを出て行った。その後ろ姿を見送ると、スザクはキッチンではなくソファのあるほうへ素早く向かった。脇に置いてあった自分の鞄を探り、ひとつの小箱を取り出すとホッと息をつく。
(午前中に買いに行ってて良かった……)
昨日の夜はリヴァルと飲みに行き、嫌がらせも兼ねて一晩中付き合ってもらうつもりだったが、彼の話を聞いて気が変わった。大事なことだから少しでも早いほうがいいだろうと早々に帰宅し、今日は朝から出掛けて目的のものを買いに行った。まさかこんなに早くルルーシュが帰って来るとは思っていなかったが、善は急げの行動が功を奏したと言える。
スザクは立ち上がると、箱をテーブルの上の見つかりにくい位置に置き、お茶を入れるためキッチンに立った。湯を沸かし、急須の中の茶葉を蒸らしているところでルルーシュが戻ってきた。
「ちょうどお茶が入るところだから、座って待ってて」
「悪いな」
「いいからいいから。たまには僕にもさせてよ」
ブリタニア人であるルルーシュだが、日本暮らしが長いので日本茶も飲み慣れている。そしてルルーシュの淹れたお茶は、スザクが淹れたものより断然美味しい。
料理が得意で多少凝り性なところがあるから、紅茶もコーヒーも日本茶もどれも手を抜かずに完璧にやってしまうのだ。紅茶やコーヒーはともかく、生粋の日本人の自分がお茶のひとつも淹れられないというのは少々ショックだったものの、上手い人間が淹れたほうがお茶だって喜ぶだろうということで、いつしかお茶を淹れるのはルルーシュの担当になっていた。
とはいえ、このままでは格好がつかないと、ルルーシュがいないときにスザクもこっそり練習をしていたので、成果を見せる絶好の機会である。美味しいと言ってもらえるよう慎重に淹れ、二つの湯飲みを自分とルルーシュの前に置く。
お土産と言って渡された箱を開ければ、綺麗に並べられた小振りの大福が包みに包まれて六個入っていた。椅子に座ったスザクは、いただきますと手を合わせてからぱくりと一口で食べた。
「どうだ?」
「美味しいよ」
求肥に包まれた餡の甘さがちょうどいい。淹れたばかりのお茶の美味しさと相俟ってほっと一息つくようだった。
口をもぐもぐさせながら告げれば、ルルーシュが嬉しそうに頬を緩めた。
「ルルーシュも食べなよ」
「ああ」
お茶を一口飲んだルルーシュは、一瞬動きを止めてスザクを見た。不味かっただろうかと、不安でスザクの心臓がどくりと大きく鳴る。
「……上達してる」
「へ?え?それって、」
「美味いな」
それがスザクの淹れたお茶の感想だと理解した途端、嬉しさで口許が自然とにやけてしまった。
「最初は日本人のくせになんでお茶の一杯も満足に淹れられないんだと呆れたものだが、これなら人前にも出せるな」
「ひどい貶されようなんだけど……」
「事実だろ」
にや、と笑ったルルーシュに、素直に褒めてくれないんだからと膨れてみせる。
「でもちゃんと練習して上手くなったじゃないか」
「ルルーシュにはまだ敵わないけどね」
拗ねたように言えば笑われた。
「要は淹れた人間の気持ちだろ?これからはお茶も交代制だな」
「だけど、ルルーシュのに比べたら」
「俺だってお前の淹れたお茶を飲みたいんだ」
軽い口調だったからまだからかわれているのかと思ったけれど、ルルーシュの顔がとても優しかったから今の発言は本心なのだと思った。スザクは嬉しい気持ちのまま二つ目の大福を口に入れた。
「さすがナナリーだね。美味しいお店をちゃんと知ってる」
「当たり前だ。俺の妹だぞ」
ルルーシュも菓子に手を伸ばしながら、得意げにシスコン発言をする。ルルーシュにとって、ナナリーが買ってきたものはきっとどれも美味しいのだろう。こういうところは中学のときから変わらないよな、とこっそり思ってスザクは笑った。
「何か可笑しいか」
「ううん。ただ、幸せだなぁって」
二人で菓子を食べてのんびりお茶を飲んで。こんなに幸せなことがあるだろうか。
すると、ルルーシュが少しだけ柳眉を寄せた。
「大袈裟だろ、それは」
「なんで?どんな些細なことでも、ルルーシュと一緒なら僕にとっては幸せだよ」
「またさらりと恥ずかしいことを……」
もごもごと呟いて、ルルーシュは誤魔化すようにお茶を飲む。スザクはにこりと笑んだ。
「それにさ、小さな幸せの積み重ねが大きな幸せになるって言うし」
そう告げると、湯呑みをテーブルの脇に退けた。二人の真ん中にあった菓子箱も横にずらす。ついでにルルーシュの手の中の湯呑みもさり気なく取り上げ、退かしたものと一緒に置いた。
「スザク?」
テーブルの上にスペースを作っていくかのようなスザクの行動にルルーシュが首を傾げる。一体何を始めるんだと、怪訝そうな表情が言っていた。
スザクは黙って笑みだけを浮かべたまま、ルルーシュの両手を包むようにして握った。
「結婚しよう」
ルルーシュがぽかんとした顔をしている。
瞬きもせずに見つめてくるから「大丈夫?」とスザクが顔を近付ければ、ルルーシュはハッとして握られている手を思い切り引いた。負けじとスザクも引き戻す。
「な、お、お前は何をいきなりそんな冗談っ…!」
「冗談じゃないよ。本気だよ」
「だったらなおさらタチが悪い!急すぎるだろう!」
「一般的な順はちゃんと追ってるよ?好きだって告白して付き合って同棲して、そしたら次は結婚じゃないか」
「たしかにそうだが……って、そういうことじゃなくて!」
言い合いをしながら、手を引き抜こうとする力と引き戻そうとする力は互いに緩めない。テーブルの上で攻防が続く。
「じゃあどういうこと?」
「だから、その……、お前は今まで一度もそんな素振りを見せたことがないじゃないか」
「うん、それは僕が悪かったと思ってる。でも、結婚したいっていう気持ちは本気だよ」
先に諦めたのは体力のないルルーシュだった。肩から力を抜くと、握られた手はそのままに顔を少し俯けた。
「ねえルルーシュ。この間のリヴァルの話、本当はまだ続きがあったんじゃないの?」
ルルーシュの手がぴくりと動いた。落とした視線をさ迷わせているが返事はない。
スザクは口許を緩めると、安心させるように優しく両手を撫でた。
「“二年以上同棲していて何の進展もないカップルは惰性で一緒に暮らしているだけ。相手の気持ちはもう離れてるに決まっている。そんなカップルは周りが振り回されるだけだから面倒くさい”」
リヴァルの言葉を思い出しながら口にすれば、ルルーシュが身を固くさせたのがわかった。その様子に気付きながらスザクは続けた。
「“だからお前たちも無駄に同棲期間を延ばしていないで、さっさと結婚しちゃえよ”。リヴァルはそう言ったって話していたよ。どうして最後まで教えてくれなかったの?」
「…………」
「単に恥ずかしかった?それとも僕が嫌がると思った?」
「……恋人と結婚相手は違う」
「僕にとっては違わないよ」
「だけど、いきなり俺が言い出したらお前だって困るだろう」
「困らない。なんで困らなきゃいけないの?」
「なんでって……」
「僕がルルーシュのことを本当はそんなに好きじゃないと思っていたから?結婚の話なんて持ち出したら嫌がると思った?僕のこと、まだ信じられない?」
「違う、信じていないわけじゃない。ただ……。ただ、俺の自信がないだけだ」
言葉のとおり、自信がなさそうにぽつりと呟くルルーシュ。プライドが高く、常に自信に満ちた顔をしてみせる彼が「自信がない」と言っていること自体が驚きだった。どうしてそんな風に考えてしまうのだろうと疑問に思い、それはもしかしたら自分の態度が原因だったのかもしれないとスザクは反省する。
誤解が解けた今、ルルーシュはスザクの言葉をちゃんと信じてくれているはずだ。しかし、信じてはいても、心の奥底にある不安は一朝一夕では拭いきれないのだろう。
(僕が安心させてあげる言葉をあげなかったから……。結局、好きだと告白してからの5年間、僕はひとりで舞い上がっていただけなんだ)
ごめんねルルーシュ、と心の中で謝るとスザクは右手だけ離した。そして、隠すように置いていた小箱を取り上げルルーシュの手に握らせる。
「?なんだ?」
「開けてみて」
ルルーシュは首を傾げながら、話の途中でいきなり渡された箱に目を落とした。訝しげな顔をしつつも箱に巻かれていたリボンを解き、蓋を開ける。
その様子をじっと見ているスザクの心臓はどくどくと早鐘を打っていた。断られるとはこれっぽっちも思わない。だけど、最悪の事態を想定しないわけでもない。ルルーシュに関してだけはいつも自分に自信が持てないから、はっきり答えを聞くまでは不安でたまらない。
(――ああ、そうか。ルルーシュもこんな風にずっと不安だったんだ)
不安の原因にも気付かず、ただひとり幸福だと思っていた自分の浅はかさを呪った。その間にもルルーシュの手は箱の中身を取り出している。
ルルーシュは中から出てきたケースを掌に乗せるとスザクを見た。その顔が「開けていいのか?」と言っていたので、ゆっくり頷いた。言われた通りにケースを開けたルルーシュは、中に入っているものを見て目を瞠る。
スザクは静かに言葉を紡いだ。
「結婚しよう、ルルーシュ」
ルルーシュが驚いたままの表情を向けてきた。
掌に乗せられたケースに手を伸ばすと、スザクは中に収めていた指輪を取り出す。そして、ルルーシュの左の薬指に嵌めた。あらかじめサイズは確認していたけれど、こうしてぴたりと嵌まることがなぜだか無性に嬉しく感じられた。
指輪を嵌めた手に自分の指を絡めて握りしめる。
「君が信じられないのなら何度でも言うよ」
ルルーシュは目を見開いてスザクをじっと見ていた。
「でもさ、何か反応がないとすごく不安なんだよね」
「ぁ……」
苦笑いを浮かべれば、ルルーシュがうろたえたような顔をする。
「この間、喧嘩したときに、“お前は何も言ってこないじゃないか”ってルルーシュが言っただろう?初めはなんのことか意味がわからなかったんだけど、リヴァルの話を聞いてようやくわかったよ。僕たちは5年も同棲しているし、僕は君のことを好きだ好きだって言うくせにただ同棲期間だけを延ばしていることが不安だったんだろう?だから、僕の気持ちが君から離れていると思った」
「それは俺の誤解で」
「うん、あのときちゃんと話して誤解は解いたよね。でもさ、ルルーシュはまだ自信がなかったんじゃない?リヴァルから結婚しちゃえよって言われたけど、僕がそんなことを考えている素振りすら見せたことがなかったからあのときも言い出せなかった。まあ簡単に言えるようなことでもないからね。どちらにしろ、君はまたあまりよくない想像をしたわけだ」
「……もし、お前が同棲まででいいと思っていたら、結婚の話なんて持ち出されても迷惑なだけだろう?」
「だから迷惑なんかじゃないって。そこまでルルーシュに不安になられたら、僕もいろいろと自信なくしちゃうんだけど。……って、悪いのはそんなことを考えさせてしまった僕なんだよね」
握り締めていた手を軽く持ち上げ、薬指にキスを落とした。プラチナのシンプルなリングは、ルルーシュの綺麗な指にとても良く映えている。指輪を探しに行ったとき、一目で気に入りルルーシュに似合うだろうと思ったが、実際に嵌めてみると予想以上だ。じわりじわりと幸せな気持ちが滲み出てはスザクの心を満たしていく。
だけど、ルルーシュも同じように嬉しく思ってくれているのだろうかと考えた途端、危惧が生まれた。これもまた自分の独り善がりなのではないだろうかと。
「僕はね、結婚したくないわけじゃなかったんだよ。ただ、一緒に暮らせることが嬉しくてたまらなくて、そこで満足していたんだ」
「満足?」
「そう。すごく情けない話なんだけど、僕は君と同棲できただけですごく幸せで、その先まで考えが及んでいなかったんだ。だから結婚っていう単語すら出てこなかった。だって、同棲しているということは、僕にとっては結婚したも同じことだったから」
そう告げればルルーシュが顔を赤くした。
「……そんなこと考えているなんて知らなかった」
「一度も言わなかったからね。不安にさせてごめん、ルルーシュ。だから今度はちゃんと言うよ」
スザクはルルーシュの手を両手で包んだ。
「僕と、結婚してください」
ルルーシュは頬を染めたまま自分の指に嵌められた指輪を見つめる。
「俺でいいのか?」
「ルルーシュじゃなきゃ駄目なんだ」
はっきり告げる。すると、ルルーシュは意を決したように顔を上げ、正面からスザクの目を真っ直ぐ捉えた。
「俺は完璧な人間じゃない。我儘を言うかもしれない。お前を困らせることがあるかもしれない。もう嫌だって、お前が愛想を尽かすこともあるかもしれない。それでもいいのか?」
「それはお互い様だよ。ルルーシュが僕のことを嫌って家を出て行ってしまう可能性だって、あってほしくはないけどゼロではないだろう?」
「そうだな。でも、俺はお前のことを心の底から嫌うことはできないと思う」
「それも同じ。僕だって、ルルーシュのことを嫌うなんてできない。だって好きなんだ。どうしようもないくらい、ルルーシュのことが好きなんだ」
好きという言葉は何度も伝えた。ルルーシュが好きだ。好きだから一緒にいたい。そんな単純な願いは5年前に告白したときから、いや、もしかしたら最初に出会ったときから抱いていたのかもしれない。
スザクの真剣な、それでいてひどく愛しい者を見る眼差しに、ルルーシュは握られている手をぎゅっと握り返した。
「俺も……。俺も、お前のことが好きだし、お前とずっと一緒にいたいと思っている。だから――」
一旦言葉を区切ったルルーシュは、深々と頭を下げると、
「よろしくお願いします」
そう言って顔を上げ、ふわりと微笑んだ。笑った顔は幸せそうで、とても綺麗で、スザクは純粋に見惚れた。
「――うん。僕のほうこそ、よろしく」
なんだかくすぐったくて、顔を見合わせると二人して笑ってしまった。
リヴァルに感謝しなきゃな、とスザクは思う。ルルーシュを不安にさせた張本人だけど、リヴァルの話がなければこんなに話が進展することもなかっただろう。
スザクはルルーシュの指にもう一度キスをした。
「ルルーシュ、ありがとう。僕と一緒にいてくれて」
「これからも一緒にいるんだろう?」
「そうだね。ずっと一緒にいよう」
スザクの返事に満足したような顔をしたルルーシュは、取られた手はそのままに椅子から立ち上がった。どうしたのだろうと見上げれば、唇に掠めるようなキスをされた。
たっぷり三秒間、スザクは固まった。唇が離れても呆然としたままで、見ればルルーシュが少しだけ得意げな顔をしている。
「……びっくりした」
「何か文句があるか?」
「いや、文句なんてないけど」
「俺からキスすることだってあるんだからな」
口調は偉そうなのに、その頬は先ほど以上に赤く染まっているから内心ではひどく緊張していたのかもしれない。それでもふふんと笑ってみせるルルーシュの強がりが可愛くて、スザクは頬を緩めた。
「じゃあ今度は僕から」
「へ?…ぅわ!」
握ったままだった手を引くと、お返しのようにキスをする。このまま深く口付けてもいいけれど、今はまだ伝えたいことが残っているから我慢しなければと、スザクは名残惜しそうに唇を解いた。その代わりにこつんと額をくっ付ける。
「大事にするから、大事にしてね」
「なんだそれは」
ぷっ、とルルーシュが吹き出した。
「一生君を離さないから。覚悟しておいてよ」
冗談っぽく言った言葉は本気だった。たとえルルーシュが嫌がったとしても絶対にこの手を離すつもりはない。それほど自分の想いは強いのだ。
スザクの真剣さが伝わったのか、ルルーシュは顔を離して真っ直ぐに立つと、すっと目を細めた。
「覚悟している。だからお前も覚悟しておけよ」
「もちろん」
スザクはルルーシュの手を掲げ持つと、リングの嵌った指に再び唇を触れさせた。まるで神の前で誓うときのように恭しく、厳かに。その様子をルルーシュは何も言わずにじっと見つめていた。
「愛しているよ、ルルーシュ」
そして、スザクの言葉に優しく笑ってくれた。
その笑みにスザクは言い知れぬ喜びを感じる。今、この世界で一番幸福なのは間違いなく自分だと思い、静かに瞼を閉じた。
唇で触れているルルーシュの手が、指の先が、とても温かかった。
(09.09.08)