ドアの前でスザクは大きく深呼吸をした。
教えてもらった暗証番号を入力してエントランスを抜け、エレベーターに乗り込み、最上階の奥の部屋にたどり着く一連の流れはこの数ヶ月ですっかり慣れたものだ。
だけど、このドアは最後の関門である。
相手に会いたくないわけではない。むしろ会いたくて会いたくてたまらない。最後にここを訪ねたのは一週間前だけど、その一週間がスザクにはとてつもない長さに感じられた。それほど今日の日を待ち侘びていた。
でも、玄関のインターホンを押す瞬間はどうしても緊張する。今日だけじゃない。この部屋を訪れるときはいつだって緊張している。
だってこれは奇跡なのだ。あんなに綺麗な人が自分の恋人だなんて、今でも夢ではないかと思うくらい奇跡的なことなのだ。
だから、好きな人に会うのは楽しみだけど同じくらい緊張してしまうのである。そんなことを彼に打ち明けたら、嘘に決まっていると笑い飛ばされそうだけど。
三回目の息を吸い込み、スザクは思い切って指を伸ばした。軽やかな音が鳴り、すぐに玄関のドアが開いた。まるで自分がここに来るタイミングを知っていたような早さだ。
「ちゃんと相手を確認してからドアを開けたほうがいいよって言っているのに。僕以外の人だったらどうするの」
「お前だったから問題ない」
「そういうことじゃなくて」
「一応のぞき穴で確認しているから大丈夫だ。それより疲れただろう?ちょうど夕飯の準備ができたところだから早く上がるといい」
確認しているならいいけど、と独りごちながら部屋に上がる。
出迎えてくれたのはとびきりの美人で、街を歩けば誰もが振り返るような美しさだ。ノーマルだったはずの自分が一目で恋に落ちたのだから、ほかの男だってきっと目を奪われるに違いない。
「お邪魔します」
「違うだろ」
咎める声に気付き、すぐに訂正する。
「ただいま、ルルーシュ」
「おかえり、スザク」
残念ながら同棲はまだだが、この家に上がるときは「ただいま」と言うのがルルーシュとの約束になっていた。
いっそ住んでしまえばいいのにと言われたが、そこはけじめを付けるべきだろう。恋人に甘えてばかりなのも格好悪い。
「座って待っていてくれ。それとも先にシャワーを浴びるか?」
「ううん、明日早いから今日は帰るよ」
帰ると口にした途端、ルルーシュが寂しそうな表情をした。だけどあっという間に感情を隠すと綺麗な笑みを浮かべた。
「そうだよな、お前も忙しいからいつも泊まるわけにはいかないもんな。じゃあすぐに夕飯を――」
逃げるようにキッチンへ行こうとしたルルーシュの手を引いた。後ろから抱き締めれば、抵抗することなく腕の中に収まった。
こんなとき、自分は許されているのだと知って安堵する。
「ごめんね。せっかく待っていてくれたのに」
「待っていたわけではない」
素直じゃない言葉に小さく笑った。
「でも、明後日締切のレポートを提出したらまた来るよ。バイトの休みも合わせるから一緒にゆっくり過ごそう?」
耳元で囁くとルルーシュが頷いた。さらさらと手触りのいい黒髪が揺れて耳が覗く。
目の前の耳たぶに唇で触れれば、腕の中の体がびくりと震えた。
「スザク…っ、夕飯、」
「ちょっとだけ。ルルーシュチャージさせて」
「なんだそれは」
「だって最近きつい仕事が多いから。その上、レポートでしょう?一週間もルルーシュ不足で死ぬかと思った」
大袈裟だなとくすくす笑われ、腕の力を込める。
「だからもうちょっとだけ」
細い体を正面に向けると、仕方ないなと言うようにルルーシュの手が背中に回った。自然と顔が近付き、唇が優しく触れる。
「ん……ッ」
鼻に抜けるような甘い吐息に腰の奥が疼きそうだ。
本当はもっと激しく、貪るようなキスをしたいけれど、そしたらルルーシュを離せなくなってしまうことを経験上知っているからぐっと堪えた。
唇の表面をなぞるだけの官能を刺激しないキス。そのはずなのに、お互い体の芯が熱くなるのを感じていた。
ルルーシュが焦れったそうに唇を押し付ける。これ以上はまずいと理性を総動員させたスザクは、続きをしたい気持ちを宥めすかしてキスを解いた。
「続きはまた今度」
濡れた唇を親指の腹で拭う。それだけで感じたように瞼を下ろされ、思わず喉を鳴らした。わざと煽っているのではと疑うけれど、ルルーシュの言動はどれも無意識だからタチが悪い。我慢しようと決めたのにもう理性が崩れそうだと危惧したところで紫の瞳が現れた。
「では夕飯にしよう」
腕を解いてあっさり離れた恋人を苦笑いで見送る。恋愛には奥手で今まで経験もなかったと聞くけれど、切り替えの早さは恋愛経験の有無とは関係ないらしい。
あれだけ感じやすい体をしているのにもったいないと、ルルーシュが聞いたら顔を真っ赤にして怒りそうなことを考えながら席に着く。
(おかえりと言ってもらえて、美味しいご飯が出てきて、たまにお風呂を貸してもらってそのまま泊まって……)
こういうのを幸せと言うのだろうか。ふと浮かんだ思いに、スザクは口許を和らげた。
そう、自分は確かに幸せだ。
ルルーシュと出会ったのは本当に偶然だった。運命とも呼べる偶然である。
スザクは何でも屋の会社でアルバイトをしている留学生だ。ブリタニアには四月に来たばかりでまだ半年も経っていない。
アルバイト先として何でも屋を選んだのは単に時給が良かったからだった。実家からの仕送りはあるものの、無理に留学をお願いしたのでせめて生活費ぐらいは自分で稼ごうと思い、時給のいい深夜シフトにしてもらった。
その日、テレビが壊れたから直してくれとの依頼が来たのは夜も遅い時間であった。テレビの修理ならメーカーに頼めばいいのにと思いながら依頼人の家を訪問し、玄関のドアが開いたときに、スザクは彼の家のテレビが壊れてくれたことに感謝した。
依頼人は驚くほど綺麗な人だった。
男であることはすぐにわかったけれど、性別を差し引いても美人と言えた。そして、あっという間に恋に落ちてしまった。
スザクの恋愛対象は女性で、それは未来永劫変わることはないと思っていたが、あっさり宗旨替えするくらい彼に惹かれた。
会社から支給されている携帯の番号ではなく、個人的な番号を教えたのは完全に下心からである。でも、何でも屋に依頼するようなことはそうないだろうし、連絡が来ればラッキーぐらいの気持ちだった。一目惚れはしたけれど、また彼に会える幸運なんてあるはずがない。
しかし、スザクの予想とは裏腹に、それ以来彼は自分を指名してくれるようになった。週に一度が二度三度となり、少しずつ距離を縮め、気付けば友達みたいな関係になっていた。
お客さんに夜食を出してもらったり勉強を教えてもらったり、どれも普通ではありえないことだろう。
もちろん依頼はきちんとこなした。代金も受け取っていた。それでも、ルルーシュ宅を訪問するときは仕事ということを忘れている自分がいた。
そして、あるとき思ったのだ。自分たちは所詮、依頼主と依頼を受けた業者。ルルーシュが呼んでくれなければ部屋を訪ねることもできない関係なのだと。
悩んだ末に、スザクはバイトを辞める決意をした。深夜シフトは翌朝がつらいというのも事実だが、いつまでも叶わない想いを抱えたままでいることも、純粋に自分を信用してくれているルルーシュに嘘をついていることもつらくなってしまった。
だから、さようならを告げようとした。
そしたら告白された。
まるでドラマみたいな都合の良い展開だったけれど、すべては現実に起こったことだ。いまだに信じられない現実だ。
ちなみに辞めると言っていたバイトは、シフトを替えてもらって継続している。ルルーシュも忙しい身なので会うのはどうしても夜になってしまう。今のバイトのおかげでルルーシュと出会えたわけだけど、深夜仕事が入っているから恋人に会えないようでは意味がない。
上司との関係が良好で、これまでの働きも認められたため我儘を聞いてもらえたのは本当にありがたいことだ。
「待たせたな」
「今日は何?」
「今日はカレーうどんだ。うどんばかりで済まない」
「ううん、ここじゃないと食べられないから嬉しいよ」
焼きうどんを食べたいとリクエストしたとき、ルルーシュは麺を多めに取り寄せてしまったらしい。「うどんを使うのは初めてだから失敗したら大変だろう。だから練習用に多く頼んでおいたんだ」と言われたら、残ったうどんの消費に協力しないわけにはいかない。自分のためにわざわざうどんを茹でるところから練習してくれたなんて感激だ。
「でもカレーうどんなんて良く調べたね」
「日本のサイトを検索したんだ。そしたら意外と美味しくて、俺はなぜ今までの人生でカレーうどんを無視して生きてきたのかと後悔したほどだ」
大真面目に語るルルーシュに吹き出す。
「何がおかしい」
「よっぽどカレーうどんが気に入ったんだなと思って」
「スザクは嫌いか?」
少し不安げに訊かれ、首を横に振る。
同じ大学生でありながら個人事業もやっているルルーシュは、頭が良くていつも冷静だ。そんな彼がこちらの反応を窺って不安や心配を覗かせるのはたまらなく可愛い。
「いただきます」
手を合わせてまずはスープを飲む。カレーうどんの美味しさを絶賛したルルーシュが作るスープは絶品だった。日本のお店で食べるより美味しいかもしれない。
空腹だったこともあり、スザクはしばらく無心で食べ続けた。ちゃんと食事はとっているのかとたまに心配されるけれど、これでも食生活には気を使っているほうだ。ルルーシュのご飯が美味しすぎるから無言で食べちゃうんだよと説明してもあまり理解してもらえないけれど。
「ところで、今度の水曜日の夜は空いているか?」
どんぶりの中が半分ほどなくなった頃、ルルーシュが尋ねてきた。
「水曜日?うん、空いてるよ」
「本当に?」
不思議な確認をされて首を傾げる。
「本当だよ。なんで?」
「その……水曜の夜に来てくれないか」
「水曜日限定?」
「いや、もちろんほかの日も来ていいんだが、水曜の夜は絶対に来てほしいんだ」
どこか必死な様子で頼まれ、スザクは頷いた。ルルーシュに誘われて断る理由はない。
「じゃあ今度の水曜日の十九時。それより早くても遅くてもダメだ」
「う、うん……?」
事情はよくわからないが、その時間に来いと言うのなら何が何でも来なくてはいけないだろう。
今度の水曜日、十九時、と頭の中に予定を入れて、スザクは残りのカレーうどんを完食することに専念した。
そして水曜日。腕時計に目をやると約束の一分前だった。
(時間ぴったりだし、夕飯は食べてくるなって昨日メールがあったから何も食べてないし、ルルーシュの指示通りだから大丈夫だよね)
夕飯は食べるなということはお腹を空かせて来いということだろう。何か新作の日本料理でも作ったのだろうかと思いながらインターホンを押す。
ドアの隙間から顔を覗かせたルルーシュは、スザクの姿を認めると表情を明るくさせた。いつもとは違う反応に内心首を傾げるけれど、「時間ぴったりだな」と嬉しそうな声に笑みを浮かべる。
「だって約束しただろう?」
「でもお前も忙しいし、もしかしたらほかの誘いがあるかもしれないし」
「ほかの誘い?」
そんなのないけど、と訝る。
「とにかく入ってくれ」
「うん」
ただいまと言って中に入れば、食欲を刺激するいい匂いがした。これはまた手の込んだものを作ってくれたのかなと期待してリビングまで進んだスザクは、そこで目を瞠った。ついでにぽかんと口を開ける。
テーブルの上にはスザクが期待したような料理が並べられていた。それも何種類も。
まるでおとぎ話に出てくるような豪勢な食卓だ。
「スザクの好きなものを作りたいと思って、でもどれが一番好きかわからないから会話の中に出てきたメニューをとりあえず全部作ってみたんだ。お前の口には合わないかもしれないが……」
「そんなことあるわけないじゃないか。ルルーシュが作ってくれるものならなんでも嬉しいよ。でもなんで僕の好物?」
忙しいと言うならルルーシュだって充分忙しい。手間暇かけてこれほど豪勢な料理を作ったのだから余程の理由があるのだろう。
スザクの問いに、ルルーシュがきょとんとした顔をした。
「今日は誕生日だろう?」
その言葉にスザクはようやく思い出した。
確かに今日は誕生日だ。
自分の。
「もしかして忘れていたのか?」
「忘れてた……」
呆然と言えば可笑しそうに笑われた。
「なんだ、肝心の本人は忘れていたのか。緊張して損した」
「だって日本ならともかく、ブリタニアでお祝いしてもらえるなんて思ってなかったから。でもなんで僕の誕生日を知っていたの?」
ルルーシュに自分の生年月日はまだ教えていない。すると、「学生証」と一言返ってきた。
「この間、部屋で学生証を落としただろう?それで偶然誕生日を知って、せっかくだから何かやりたいと思ったんだ。……でも、やっぱり迷惑だったか?」
「えっ、なんで?」
「お前は友達が多いようだから、大学の皆がパーティーでも企画しているんじゃないかと……。一応、約束がキャンセルになってもいいように心積もりはしていたから、時間ぴったりに来てくれて嬉しかった」
まるで自分のほうが誕生日を祝ってもらうような顔でルルーシュが笑った。
そんな心配しなくていいのに。もし大学の友達がパーティーを開いてくれたとしても、ルルーシュとの約束があれば何が何でも駆け付けるのに。
自分の世界はルルーシュでいっぱいで、ルルーシュしかいなくて、ルルーシュしか欲しくない。どんなに高価な誕生日プレゼントをもらっても、そこにルルーシュがいなければすべてが色褪せてしまう。
だけど、ルルーシュは自分がこんな気持ちを抱えていることを知らない。
それがじれったくて悔しくて、少しだけ寂しくて、スザクは衝動のまま手を伸ばした。
「スザク?」
「僕は君が好きだよ」
腕の中でルルーシュが息を飲んだ。
「好きで好きで、どうしようもないくらい好きで、君なしではもう生きていけないくらい好きなんだ。だから、僕が君との約束を反故にすることなんて絶対ない。それだけは覚えていて?」
切実とも呼べる訴えを静かに聞いていたルルーシュは、ややあってこくりと頷いた。
「ありがとう。すごく嬉しい」
「別にたいしたことは……」
「だって今日一日、僕のことを考えながら用意してくれたんでしょう?」
少しだけからかうように言えば、ルルーシュの耳が赤くなったのに気付いた。触れたら熱いのかなと思い、唇でそっと食む。
「スザク…っ、先に夕食、」
「もう少しだけ。全然ルルーシュが足りないんだもん」
そういえば先日も似たようなやり取りをしたと思い出す。自分はどれだけルルーシュ不足なのか。
だけど、一分一秒でも離れていたらルルーシュが足りなくなってしまう。いっそ同じ存在になれたらいいのに、どうして自分たちの体は別々なのだろう。
緩まない腕に諦めたのか、体重を預けたルルーシュが肩に頬を押し当てた。柔らかい黒髪を掬い、髪の先に口付ける。
「――今日は泊まっていくだろう?」
控え目に問われた内容にスザクは笑みを浮かべた。
「もちろん」
「そうか」
安堵したような溜め息が漏れ、ルルーシュの唇にも笑みが乗る。
やっぱり幸せだ、と思った。
好きな人を抱き締めて、好きな人が作ってくれたご飯を食べて、これ以上幸せなことがあるだろうか。
「ところで、肝心なことを言い忘れていたな」
「何?」
「誕生日おめでとう、スザク」
真っ直ぐ見つめて告げられたお祝いの言葉に、あたたかい気持ちが胸いっぱいに広がった。頬を緩め、返事の代わりに顔を寄せる。
触れた唇の甘さは、一生忘れられない贈り物となった。
(13.07.10)
前篇<<