お湯に浸かってすっかり温まった身体をそっとベッドに降ろした。
前髪を掬えば、乾かしたばかりの髪がさらりと指から落ちる。穏やかな顔をして眠るルルーシュに、スザクは優しい笑みを浮かべた。
風呂の中で眠りこけてしまったルルーシュを浴槽から引き上げ、身体を拭き、寝間着を着せ、髪を乾かすところまですべてスザクがひとりでやった。我ながら甲斐甲斐しいと思ったけれど、いくら疲れ果てているとはいえ、あのルルーシュが一度も目を覚ますことなく身体を預けてくれることが信頼の証のようでちっとも苦にならない。
今はまだ賢帝として、既存のブリタニアを破壊するため昼間は精力的に活動しているルルーシュ。自然、皇帝らしく険しい顔付きをすることも多い彼が、夜はこんなにもあどけない顔だということを知る人間はほとんどいない。抱き合ったあとは特に無防備で、それを眺めていられるのは自分だけに与えられた特権だとスザクは思っている。
「おやすみ」
髪の感触が気持ち良く、いつまでもさらさらと梳いていたいがそうもいかない。
額にキスを落とし、頬を指の背でそっと撫ぜると、自室へ戻るためにその場を離れようとした。
が、くい、と何かに服の裾を引っ張られて思わず足を一歩下げた。見れば、ルルーシュの手がスザクの服を掴んでいた。先ほどまで閉じられていた瞼が、今はうっすら開かれている。しかしとても眠そうだ。
「ルルーシュ、眠いんだろ?もう寝なよ」
指を外すが、今度はその手を存外強い力で握られた。寝ぼけているのだろうか。
「……すざく。どこに行くんだ」
その口調は案の定どこかたどたどしい。やっぱり寝ぼけているんだなと、普段の彼からは想像もできない可愛らしさにスザクの口許が思わず綻んだ。
「部屋に戻るだけだよ」
「ここはおまえの部屋じゃないか」
「ここはルルーシュの部屋だろ?」
「ちがう、おまえの部屋だ」
「……わかった。じゃあここが僕の部屋なんだね」
「そうだ」
こんなところで押し問答をしているわけにはいかないのでとりあえず肯定するが、ここがお前の部屋とはどういうことだろうと内心首を傾げた。しかし、スザクの疑問に気付くことなく、ルルーシュはふわりと笑みを浮かべる。
「だから、どこにも行くな」
「――え?」
「ここで寝ろ」
ぱたぱたと叩かれたのは清潔なシーツ。当然、ルルーシュの隣である。
スザクは目を丸めた。これまで、どんなに抱き合って互いに疲れ果てても、寝るときは自身の部屋に戻っていた。うとうとしかかったときなんて、無情にも帰れと叩き出された。
それが今日は隣で寝ろと言う。一体どういう風の吹き回しか。
(いや、寝ぼけているから単に判断ができていないだけなんだ)
起きたらきっと文句を言われるんだろうなと思いつつ、せっかくの申し出なのでありがたく受けることにした。ルルーシュの隣で寝たくないわけではないのだから、酔っ払い並みに信用できない言葉ではあるが断る理由はない。
スザクは逡巡することなく隣に潜り込んだ。ルルーシュの体温によって温められたベッドの中はとても心地良く、すぐにまどろんでしまいそうだった。すると、左手を取られてきゅっと握りしめられる。
「ル、ルルーシュ?」
いくら寝ぼけているとはいえここまでしてくるのは初めてで、戸惑っているとルルーシュが眉根をひそめた。
「うるさい、俺は眠いんだ。もう寝る」
そんな文句を言って、そのまま瞼を引き下ろしてしまった。ひとり取り残されたスザクは、目の前にある整った顔立ちと握られた左手を交互に見る。
(どうしよう……これはかなり嬉しい)
今ならぐっすりと気持ち良く眠れそうだけど、このまま寝てしまうのはもったいない気もした。
毛布の中から手を伸ばして、ルルーシュの頬をそっと撫でた。風呂上がりなこともあり、普段よりしっとりしている肌はとても触り心地が良い。親指の腹で瞼をなぞり、頬を撫で下ろして形の良い唇へと辿りつく。輪郭を縁取るように触れば、ルルーシュの瞼がぴくりと動いた。
「もう寝るんじゃなかったの?」
笑みを含めて問えば、意外にもはっきりとした紫の瞳が現れた。
「お前のせいで寝られない。くすぐったいからやめろ」
悪態を吐きつつ、その口許はわずかに緩んでいる。だからスザクも静かに笑みを浮かべた。
握られたままの手を引いて指に口付けを落とすと、空いている反対の手でルルーシュの身体を抱き寄せた。腕の中に閉じ込めれば、石鹸の香りがルルーシュの清潔な匂いと混じって鼻孔を擽る。
あまりの幸せに胸がいっぱいになりそうだった。
そして同時に、ひどく泣きたい気持ちにもなる。
自分はこんな幸せを感じてはいけない。こんな穏やかな時間を過ごしてはいけない。この温もりの果てに何があるのかわかっているのならば、今すぐこの手を離さなければならない。そう思うのに、募るばかりの愛しさは止め処なく心を満たしていく。
スザクはルルーシュの匂いを思い切り吸い込んだ。
細胞のひとつひとつにまで行き渡って、自分の中がルルーシュで埋め尽くされればいいのにと馬鹿みたいなことを願う。
(終わりがわかっているのに。いや、わかっているからこそ――)
これはただの焦燥かもしれない。いずれ手の中から零れ落ちてしまう命を惜しんでいるだけで、子供が自分のおもちゃを取り上げられたくないから必死に握り締めているような、幼稚で独善的で自分勝手な想いなのかもしれない。
でも、ルルーシュをたまらなく愛しく感じる気持ちに嘘はない。それだけは間違いなく本物だ。
「明日の午後はどこに出掛けよう。久しぶりの街もいいけど、せっかくだから静かなところがいいな」
スザクは独り言のように呟く。腕の中のルルーシュも返事を返さない。
先ほどは意識がちゃんとしていたようだが、風呂でうとうとしていたくらいだ。相槌が億劫になるほど睡魔に襲われているのだろう。
「ああ、でも、それだといつもの庭園と変わらないのかな。僕はどっちでもいいんだけどさ」
返事がないことをわかってスザクは独り言を続けた。自分では押し殺しているつもりだが、ルルーシュと一緒に出掛けられるかもしれないことに相当浮かれているようだ。今日だって久しぶりの逢瀬なのだから、浮かれないほうが難しい。
このタイミングでスザクが遠出を申し出たのは偶然でも気紛れでもなかった。今は世界征服のための足掛かりを作っている最中で、もちろん急いで計画を進めなければいけないことに変わりはないものの、まだ少しだけ精神的な余裕がある。ルルーシュを誘ったのも、ゆっくりできるのは今のうちだけという気持ちがあったからだ。
だけど、スザクは断られる可能性のほうが高いと思っていた。ルルーシュのことだから、そんなことをしている暇があったら今後の世界のあり方を考えろなどと言うに違いないと、半分は諦めていた。
それが了承の返事をもらえたのだ。やはり、浮かれずにはいられない。
「スザク」
ふいに名前を呼ばれた。
独り言のせいで寝られないとまた文句を言われる。そう思い、誤魔化すように腕の中の身体をきつく抱いた。
「お前の居場所はここだ」
「――ルルーシュ?」
しかし、耳に聞こえたのは予想もしていない言葉だった。
思わず顔を覗き込むが、その目は固く閉ざされていた。ただルルーシュの唇だけが静かに音を紡ぐ。
「お前はここにいればいいんだ。――俺はここにいるから」
そして今度こそ口を噤み、枕に半分だけ顔を埋めると握っている手に力を込めてきた。
「ルルーシュ……」
これは許されているのだろうか。何を、なんて野暮なことは言わない。スザクのすべてに対して、ルルーシュは許してくれているのだろう。
ついこの間まで部屋から追い出されていたというのに、一体どういう心境の変化なのかと不思議に思わないこともない。でも、スザクが日々様々なことに迷っているように、ルルーシュもたくさん迷っているのかもしれない。もしかしたら、同じような焦燥を抱いているのかもしれない。残りの時間を惜しんでいるのかもしれない。
それが哀しくて、少しだけ嬉しい。
枕に埋もれている頭をぐっと引き寄せて、額に額を押し当てる。
幸せだ、ともう一度思った。つかの間の幸せだったとしても、この時間を得られたことに感謝したかった。
終わりのある幸福は、だけど決して不幸ではない。ルルーシュを愛したことも、ルルーシュが愛してくれたことも、嘘ではなく確かな現実だから。
「……ありがとう」
おやすみの代わりに呟いた。返事はなかったけれど、ルルーシュの唇が微かに弧を描いたからスザクも口許を緩めると、二人の身体の間で繋がれた手をしっかり握る。
せめて今だけは離れないように。
そんなささやかな願いを抱いて、そっと瞼を閉じた。
(09.11.15)