Temporary rest 前編

 ぱしゃりと水音がして、すうっと瞼を開いた。
 ほんのわずかな時間だが意識が飛んでいたらしい。こんな場所で眠ってしまっては駄目だと思うのに、一度開いた瞼が重くてまた閉じてしまいそうだった。
 (眠い……)
 少しだけなら眠ってもいいのではないだろうか。浴槽のふちに頭を預けて固定しておけば、誤って風呂の中で溺れることもないはずだ。
 少しだけ、ほんの少しだけ。
 そう思って心地の良いまどろみにルルーシュが身を預けかけたとき、浴室と脱衣所を隔てる扉の開く音がした。次いでシャワーの水が流れる音が聞こえてくる。意識が再び浮上したルルーシュは、固定させていた頭を動かした。
 誰が入ってきたかなんてわざわざ確認するまでもない。
 ここは皇帝の私室に備えられた簡易のシャワールーム。と言うにはあまりにも広すぎる浴室だが、正式な風呂場として設けられている場所はさらに広いので、それに比べれば随分と可愛いものだ。
 皇帝となったのだから、この宮殿内のものはすべてルルーシュが好き勝手に使っていいことになっている。しかし、無駄な贅沢をする性分ではないので、風呂に入るときは最近はほとんどこの“シャワールーム”を使用していた。私室の中にあるものなので脱衣所に侍女を待たせる必要もないし、掃除以外で人が入ってくることもない。
 たった一人を除いては。

「寝ていただろ、ルルーシュ」

 ぼんやりしていた視界に人の影が映り込み、浴槽からざっと水が溢れた。ルルーシュの眉がひそめられる。

「なんで一緒に入っているんだ」

 スザク、とねめつけるような視線を送れば「駄目?」と首を傾げられた。

「当たり前だ!」

 ルルーシュ一人きりだった浴室にスザクが混じり、あろうことか向かい合って仲良くお湯に浸かっている。いくら男二人が入っても余裕のある浴槽とはいえ、普通では有り得ない。眩暈がしそうな状況だった。

「だって二人一緒に入ったほうが早いだろう?」
「大して変わらないだろうが」
「いいじゃないか、広いんだし」
「そういう問題じゃない」
「あ、シーツはちゃんと変えてベッドメイキングもしているから、お風呂から上がったらすぐに寝られるよ」

 さらりと告げられた内容に、ルルーシュは言葉に詰まった。
 皇帝の私室には掃除担当の者が毎日きちんと入っている。当然、ベッドも完璧に整えられていた。それをスザクがわざわざシーツまで変えてやり直さなければならなかったのは、一言で言ってしまえば、――汚してしまったからだ。
 なぜ汚してしまったのか、その原因を思い出しかけてルルーシュは赤面した。

「ルルーシュ?」

 お湯に浸かっているせいだけではない、赤みがさした顔にスザクは首を傾げる。
 ルルーシュはわずかに身体をずらして顔も背けた。大して距離は変わらないが、真正面にスザクがいるという状況はどうにも恥ずかしい。今さら照れるような間柄ではないし、ほんの数十分前までは今以上に恥ずかしいことをしていたのだから本当に今さらだというのに、真っ最中よりも事が終わって冷静さを取り戻したときのほうが居た堪れなかった。
 口元までお湯の中に浸けて誤魔化していると、ふいに水面が揺れ動いた。なんだ?と思って顔を上げれば、目の前にスザクのアップがあってぎょっとする。

「な、なななにっ…」

 いつの間にかスザクが移動していて、ルルーシュの両足を挟むようにすると湯船に手を付いた。
 ルルーシュは反射的に後ろに下がったが、もともと湯船に身体を預けていたのでこれ以上は逃げようがない。どん、と背中を強く打ちつけただけだった。

「どうして逃げるの?」
「に、逃げてなんかいない!」
「じゃあ、なんで動揺しているの?」
「動揺なんてっ…」

 していない、と続けようと思った言葉は、しかし出てくることなく飲み込まれた。
 ぱちりと瞬きをひとつする。翡翠の瞳とまともに見つめ合い、次の瞬間、一気に顔が赤くなった。もともと赤かった顔だが、さらに温度が上がったようだった。
 唇に触れていた感触が離れていくことに一抹の寂しさを感じたけれど、そんな様子は微塵も見せることなくルルーシュはスザクの顔を睨んだ。

「こういうときは目を閉じてほしいんだけど」

 苦笑いを浮かべながら言われ、思わずムッとした。

「目を閉じようが開けようが俺の勝手だ」
「ムードがないなぁ」
「知るかそんなもの。だいたいお前がいきなり、」
「もういいから黙って」

 再び顔が近付いてきて、今度は反射的にきつく目を閉じる。スザクのくすりと笑う声が聞こえたけれど、それを咎める余裕はなかった。
 唇と唇がそっと触れた。ルルーシュが無意識に口を開けば、するりと舌が進入してきた。ぴちゃりと浴室に水音が響く。ベッドの上で貪るようにしていたものとは違う、ただ吐息を分け合うだけの優しいキス。
 ルルーシュは湯の中に沈めていた腕を上げると、スザクの首の後ろに回した。お返しのようにスザクの腕がルルーシュの腰を抱き、唇を舐められる。その感触に背筋を震わせながら、ルルーシュがおずおずと舌先を触れ合わせると、やんわり食まれてそのまま名残惜しげに唇が離れた。
 額と額を合わせる。スザクがルルーシュの濡れた髪を撫で付け、そのまま輪郭を辿るようにして頬を撫でた。

「ちょっとだけ腰上げて?」

 スザクの言葉に、ルルーシュは素直に従う。すると片手で身体を持ち上げられ、スザクの腰を跨ぐように座らされた。まともな思考ならば恥ずかしくて耐えられない体勢だが、今のキスでとろんと霞みがかった頭では羞恥心も薄れてしまったのか、ルルーシュは大人しくしがみつくだけだった。
 その様子に、スザクは後頭部を撫でながら小さく笑った。可愛いなぁなんて思われていることなど露知らず、ルルーシュは心地良さそうに身体を預けていた。お湯の熱さとスザクの身体の温もりと穏やかな時間に、再度眠気が襲ってきそうだった。

「明日の予定は?」

 落ちそうになるルルーシュの意識を繋ぎ止めたのはスザクの声だった。のろのろと顔を上げると、目の前にある肩に手を付いてルルーシュはわずかに身を起こした。

「今のところは午前中だけだ。謁見の予定も入っていないから珍しく暇だよ」
「そっか。ねぇ、じゃあさ、ちょっとだけ遠出しない?」
「はあ?」

 眠気も忘れてルルーシュは呆れたような声を上げた。
 たしかに明日は、半日だけとはいえ久々の休みが取れそうだけど、だからと言って遊びに行くほどの余裕はない。そもそも、自分はともかくスザクの仕事はどうなのか。今は世界征服のための準備を着々と進めている最中で、プライベートを楽しむような気分でもない。
 そんな非難を込めてスザクの目を見れば、困ったような顔をされた。

「ぱーっと遊びに行こうってわけじゃないんだけど」
「当然だ。今のこの状況と俺たちの立場で遊びになんて行けるか」
「うん、それはわかっているよ。だからさ、いつもよりちょっと遠くまで馬を走らせて、ほんのちょっとここを離れるだけでいいんだけど」

 駄目かな?と上目遣いで尋ねられれば、ルルーシュも返答の言葉に詰まってしまう。こんな風に捨てられた子犬のような目をされると弱い。
 ブリタニアの白き死神として恐れられ、今はラウンズを超える皇帝の騎士として尊敬と畏怖の眼差しで見られる彼が、こんな幼い表情をするなんて一体どれだけの人間が信じるだろうか。
 結局、自分はどこまでもスザクに甘いのだとルルーシュは自覚して、はぁと小さく溜め息をついた。

「……お忍びでの視察と名目を付ければ、少しだけ街に出ることもできるが」

 ルルーシュの出した答えに、スザクの顔がぱっと輝く。

「いいの?」
「お忍びとはいえ護衛は何人かついて来るし、出られてもほんの数時間だけだし」
「わかっているよ」
「急な話だから、手配の関係で取り止めになるかもしれないし」
「もちろん、そこまで我儘は言わないよ。駄目ならいつもの庭園に行こう?」

 にこにこと笑みを浮かべるスザクにルルーシュはそれ以上何も言うことがなくなってしまい、仕方なく口を閉ざした。
 何がそんなに楽しいのだろうと呆れつつ、同じように少しだけ楽しくなっている自分がいてどうしようもないなと思う。ルルーシュはスザクの首に再び腕を回した。

「お前の仕事はいいのか?」
「急ぐようなものはないし、ランスロットのほうもしばらく出番はなさそうだし」
「貴族の反乱が収まっているときで良かったな」
「そういう合間を狙って提案したんだけどね。今なら君も少しは時間あるかなって」
「お前にしては珍しく頭を働かせたじゃないか」
「一応、皇帝の騎士なんだから、皇帝が忙しいかどうかくらい把握しているよ」

 拗ねたような応えに、ルルーシュはふふっと笑う。皇帝の騎士とはいえ別々に行動しなければいけない場合も多々あり、最近は仕事でも顔を合わせる機会が少なかった。今日の逢瀬だって一週間ぶりで、普段の自分たちからすればかなり久しぶりのことだ。
 ほんの一週間、肌を合わせる機会がないだけでこれほど恋しくなるなんて、我ながら女々しいなとルルーシュは思った。だけど、残された時間を思えばたった一日だけでも惜しかった。
 スザクの手がゆっくりとルルーシュの背中を撫でる。それが気持ち良くて、ルルーシュは自分の意識が徐々にまどろんでいくのを感じていた。スザクとの会話で覚醒したと思ったが、連日の疲れと久々に抱き合ったことでやはり身体が休息を求めているらしい。目の前の肩に頭を乗せ、体重を預けると身体から力を抜いた。

「ルルーシュ?」

 背中を撫でていた手が頭へと移動する。

「眠い?」

 はっきりとした返事はしないまま、微かに頷く。

「こんなところで寝たら湯あたりしちゃうよ?」
「ん…」

 声は耳に入ってくるけれど、その意味を理解することはもうできなかった。ただ、抱き付いている身体がひどく安心できるということしかわからない。
 仕方ないなぁという声が聞こえ、それに微笑んだのを最後にルルーシュは完全に意識を手放した。
 (09.11.08)