願いをひとつ

 気が付くと僕は自分の部屋のベッドで寝ていた。
 外は明るく、いつの間にか朝になっている。携帯の日付は誕生日の翌日で、僕はベッドを抜け出すと階段を駆け下りてリビングに向かった。
 台所では母さんが朝ご飯の準備の最中で、僕を見ると「あら」と意外そうな声を出した。

「目覚ましが鳴る前に起きるなんて珍しいわね」
「ルルーシュってわかるよね?」
「何よいきなり。おはようが先でしょう」
「ルルーシュのことわからない?」

 僕の剣幕に怪訝そうな顔をしたあと、母さんは首を捻った。

「ルルーシュ君って誰? 新しいお友達?」
「隣の家のルルーシュだよ。僕と同い年でよく遊びに来てたし、僕も向こうの家にいつもお邪魔してたじゃないか」
「お隣の息子さんってそんな名前だったかしら。あんたとは年が離れてるから付き合いはないと思ってたのに、いつの間に仲良くなってたの?」
「だって家族ぐるみで……」
「何言ってるの。お隣はお仕事が忙しくてしょっちゅう家を空けてるから、家族ぐるみでの付き合いなんてないわよ。道で会えば挨拶はするけど、せいぜい顔見知りってところよ。それより朝からどうしちゃったの。お隣と何かあった?」

 嘘や冗談を言っているようには見えない母さんに、僕は首を横に振ると二階に戻った。急いで着替えて鞄を持ち、すぐさま部屋を飛び出した。

「ご飯は? ちゃんと食べなきゃ駄目よ」
「今日当番だからいらない」
「もう、スザク!」

 母さんの声を無視して家を出ると、隣のルルーシュの家を目指した。呼び鈴を何度か押してみるけれど、人が出てくる気配はない。両親は海外出張中だと言っていたのを思い出し、諦めてバス停へ向かう。
 学校に着くと早速ルルーシュのことを聞いてみた。結果は母さんと同じで、誰もルルーシュについて覚えていなかった。

「どっかで聞いたことがあるような……。そういえば、スザクといつも一緒にいたの誰だっけ。思い出せないんだけど、誰かと一緒にいたよな?」

 そう尋ねたのは、ルルーシュが女子に呼び出されるたびに僕に教えてくれた友人だ。必死に思い出そうとする彼に、僕は「ありがとう」と伝えた。

「礼を言われるようなことしたっけ?」
「いつも気にかけてくれて助かったんだ」
「なんだそれ?」
「とにかくありがとう」

 授業が始まって席に着く。
 ルルーシュが座っていた場所は空席だったけれど、そこが空席であることを気にする人はいなかった。
 世界は何ひとつ変わらないのに、ルルーシュだけがいない。誰もルルーシュを覚えていない。ルルーシュの存在だけが消えてしまった。
 泣き喚きたいような気持ちになって、手の中のペンをぎゅっと握る。ルルーシュに関するものはみんなの記憶からも記録からもなくなった。クラスの名簿にルルーシュの名前はなく、一緒に撮ったはずの写真にも彼の姿は写っていない。ただ、なぜか誕生日の贈り物だけは僕の手元に残った。
 いずれこれも消えるのだろうか。誰に贈られたのかも思い出せず、粗雑に扱うようになるのだろうか。
 窓の外を見れば青空が広がっていた。すっかり夏の空だ。
 ルルーシュは暑いのが苦手で、夏になるたびに文句を言っていた。あの記憶も書き換えられたものだと思ったら不思議でたまらなかった。どこからどこまでが嘘で、どこに本物があったのか、今となってはもうわからない。
 (でも、僕の隣にいたルルーシュは確かに存在したんだ)
 胸にぽっかりと穴が開いたような感覚のまま一日を過ごし、学校が終わるとひとりで帰り道を歩く。
 ルルーシュの家に差しかかったとき、大きなスーツケースを持った女性が門を開けるのを見た。あっ、と思った僕は急いで駆け寄ると「すみません!」と声をかけた。

「あら、枢木さんのところの。こんにちは」
「こんにちは。あの、伺いたいことがあるんですけど、息子さんって今どちらにいますか?」
「うちの子? もうずっと海外よ」
「弟さんはいませんよね?」
「ええ、うちは一人っ子。あの子ったら留学して帰ってくるかと思ったらそのまま向こうで働き始めちゃって。だから出張のついでに顔を見てきたの。でもどうして?」
「実は留学にちょっと興味があって、もし日本にいたら話を聞けるかなと思ったんです」
「そういうことなら電話で聞いてみましょうか?」
「いいえ、お忙しいと思うので大丈夫です。いきなりすみませんでした。ありがとうございます」

 頭を下げて家の前を通り過ぎる。背後で門を閉める音がしたのを確かめ、くるりと振り返った。
 昨日、あの家で誕生日を祝ってもらったのに、あそこにルルーシュはいない。息子はいるけれど、長年海外暮らしをしている僕より年上の人だ。

「おめでとうって言ってくれたのにな……」

 僕の中からも少しずつルルーシュの記憶が消えているのを感じていた。
 そうして、いつかはすべてを忘れてしまうのだ。
 忘れたくないのに、僕は忘れてしまうのだ。

***

 僕がラブレターを書いていると知ったら、君は「似合わない」と言って笑うだろうね。
 でも、どうしても書いておきたかったんだ。君のことを全部忘れてしまう前に、僕の気持ちをちゃんと残しておきたかった。
 こうして君の名前を書いている間も君のことを忘れている。今の僕に残っているのは誕生日を過ごした最後のあの一日だけだ。
 君にお祝いしてもらえて僕は本当に嬉しかった。
 せめてあの日のことだけは覚えていたいのに、明日の僕はきっと何も覚えていないのだろう。君に好きだと伝えたことも忘れて、君のいない毎日を過ごすようになるのだろう。
 だけど、どうか知っていてほしい。
 君と一緒にいられて良かった。君を好きになって良かった。
 君を好きになった気持ちに嘘はない。あのとき伝えた言葉は本当だよ。
 僕は君が好きだ。
 大好きなんだ。
 もし一つだけ願いが叶うのなら、僕はまた君に会いたい。

***

 僕の机の引き出しには一通の手紙がある。
 正確にはラブレターだ。
 とても短い内容で、宛先は知らない。相手の名前が一切出てこないからだ。
 僕が書いたはずなのに、書いた記憶のない不思議な手紙。
 手紙の至るところに濡れた跡があり、文字は滲んでいた。泣きながら書いたのか、書いたあとに泣いたのかはわからないけれど、これを書いた僕はその人のことがとても好きだったのだろう。
 記憶にない手紙が出てきて正直困った。こんなものを見つけたら気持ち悪いと感じるのが普通である。記憶にないのだから捨てても誰も文句は言わない。
 それなのに、どうしても手紙を捨てられなかった。これを書いたときの僕の気持ちを一緒に捨ててしまうようで、迷った僕は引き出しに戻した。
 学校で友達と喋っているときも、授業を受けているときも、ひとりで家に帰るときも、あの手紙は意識の片隅にずっと存在していた。
 やがて月日が経ち、僕が手紙を見つけて一年が過ぎようとしていた。
 その間に隣の家族は海外に引っ越した。もともと海外出張の多い夫婦で、このたび二人揃って海外赴任になったそうだ。外国に住むなんて大変だなと思ったけれど、一人息子の近くに住めるって喜んでいたわよと母さんが話していた。
 空き家になった隣家は、しばらくすると買い手がついて新しい家族が住むようになった。僕が学校に行っているうちに引っ越してきて、新しい家具が次々に運び込まれていたらしい。
 挨拶に来てくれたのに、まだ帰宅していなかった僕はお隣さんの顔を見そびれた。子供のひとりは僕と同い年だと聞いている。いつか会えるだろうと思うのに、なかなか機会はやって来ない。
 そんなある日のことだった。
 行ってきますと言って家を出ると、同じタイミングで隣の家から誰かが現れた。反射的に顔を向ける。向こうも僕に気付いたようで、同じようにこちらを見ていた。

「もしかして、枢木さんのところのスザク君?」
「へ?」

 声をかけられて、しかもいきなり名前を呼ばれたので驚く。僕の反応にハッとした彼は、すみませんと照れくさそうに謝った。

「枢木さんから色々と話を聞いていたのでつい」
「あ……、ひょっとしてうちの母さんが」
「はい」

 引っ越してきたばかりの家族に何をベラベラ喋ったのだと、心の中で母さんに文句を言う。どうせ初対面の相手に面白おかしく話して聞かせたに違いない。

「あの、今さらかもしれないけど枢木スザクです。初めまして。ちなみにその制服って……」
「枢木さんと同じ学校です。今日から登校することになったのでよろしくお願いします」
「よろしくお願いします。そういえば、僕と同い年ってほんと?」
「ええ、そうです」
「だったら敬語じゃなくていいよ。ご近所だし、仲良くしてもらえたら嬉しいな」
「俺のほうこそ。引っ越してきたばかりでこの辺りのことはよくわからないから、色々と教えてほしい。えっと……」
「スザクでいいよ」
「では、スザク。俺はルルーシュだ」

 風が吹き、彼の黒髪が揺れる。綺麗な顔には柔らかい笑みが浮かんでいた。
 思わず見とれていると、彼が表情を曇らせたことに気付く。凝視しすぎて不快になったのかもしれない。

「どうかしたのか?」
「何が?」

 彼の手が伸びる。何をするのだろうと見守っていたら、指の先で頬を拭われた。触れた体温に顔がじわりと熱くなる。

「き、君のほうこそどうしたの」
「だって、お前が泣いているから」
「え? 泣く?」

 慌てて頬を確かめると掌が濡れていた。どうして、と呟けばひと筋の涙が落ちた。慌てて手の甲でごしごしと拭う。

「ごめん、本当に何もないんだ、目にゴミでも入ったかな。それより学校行かないと。君も一緒に行く?」

 涙を誤魔化すように聞けば、いいのか? と聞き返された。

「友達と一緒に通っているんじゃないのか?」
「僕ひとりだよ。一緒に行く友達はいないから、ルルーシュと通えたらむしろ嬉しいな」
「そういうことなら……」

 良かったと笑顔を向ければ、ルルーシュも頬を緩めた。
 じゃあ行こっか、と並んで歩く。これが初対面で、こうして一緒に歩くのは今日が初めてのはずなのに、ルルーシュの隣は妙にしっくりした。舌に乗せた名前も不思議と心地よい。
 (ずっとルルーシュに会いたかったような気がする)
 こんなことを口にしたらおかしな奴だと思われるに違いない。でも、ずっと会いたかったという気持ちが自然と湧き起こる。
 また泣いてしまいそうでぐっとこらえていると、「こんなことを言ったらおかしいと思われるかもしれないが」とルルーシュが言った。

「スザクとはずっと会いたかった気がするんだ」
「え?」
「顔も名前も知らなかったのに変だよな」

 苦笑いを浮かべるルルーシュに、僕はぶんぶんと首を振った。

「変じゃない。だって僕も、君に会いたかった」

 (やっと会えた)
 誰かの声が聞こえたようで、僕は何気なく空を見上げた。梅雨の最中の貴重な青空がそこには広がっていた。鮮やかな色が目にまぶしいくらいだ。
 視線を戻した僕はルルーシュを見つめた。溢れそうな愛しさが生まれるのはどうしてだろう。
 理屈ではない。この感情は当たり前に僕の中にあった。彼がここに来るもっとずっと前から僕は知っていた。
 ラブレターの最後に書かれていた一文を思い出す。
 願いはきっと叶ったのだと、僕は僕に伝えた。
 (20.07.10)
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