願いをひとつ

 ときどき夢を見る。
 夢の中に『僕』がいる夢だ。
 夢の中の『僕』はベッドの上で眠っていた。悪い夢でも見ているのか、『僕』はいつも魘されていて、安眠しているようにはとても見えない。
 やがて陽が昇り、『僕』は目を開けた。しばらく天井を眺め、むくりと身体を起こし、自分の両手をじっと見つめたあとにその両手で顔を覆い、誰かの名前を呼ぶ。夢の中で『僕』は毎日それを繰り返すのだ。
 僕は幽体離脱をしているような感覚で『僕』の様子を見ていた。
 僕だけれど、僕ではない夢の中の『僕』。
 何に魘されているのか。何を思い出しているのか。誰を呼んでいるのか。僕にはちっともわからない。
 ただ、酷く哀しんでいることだけはわかった。
 嘆き哀しみ、苦しむ『僕』の感情が僕の中にまで入り込んでくるようで、『僕』の夢を見た朝はとてつもなく重い荷物を背負った気分になる。
 哀しみの原因を僕は知らない。いつか理解する日が来るのかもしれないし、永遠に知ることはないのかもしれない。
 そんな夢を十歳の頃からずっと見てきた。
 玄関を出て右に曲がると、隣家の門に寄りかかる少年がいた。片手に本を持って熱心に読んでいた彼は、僕の足音に気付くと顔を上げた。
 おはよう、と低い声が朝の挨拶をする。寒かったのか、白い息を零す唇は微かに色を失くしていた。

「ごめん、遅刻した! 先に行ってて良かったのに」
「すぐに出てくると思ったんだ。まさか五分も遅刻されるとは」
「寝坊しちゃったんだよ。うわっ、冷たい、もしかして五分以上待ってた?」

 形のいい耳に触れるとびっくりするほど冷えていた。寒いのが得意ではないくせに、友人を置いて先に行くという選択肢を選ばないところが妙に律儀な彼らしかった。

「なんでマフラーしてないのさ」

 細い首は寒そうで、僕のマフラーを巻いてあげながら問いかける。ぐるぐると厳重に防寒された彼は、必要ないと思ったんだ、と答えて歩き出した。

「寒いんだから必要だって」
「バスの中だと暑いだろ」
「暑くなったら外せばいいじゃないか」
「荷物になって面倒だ。それに、こうやってお前が貸してくれるからな」
「もう、人のを当てにするのはやめなよ、ルルーシュ」

 ルルーシュと呼ばれた彼は、僕のほうを見るとマフラーを少し下げて口の端を上げた。

「持つべきものは優しい友達だな」
「おだてたって駄目だからね」

 可笑しそうに笑ったルルーシュが前を向く。その横顔を僕は眩しい気持ちで眺めた。
 こうして一緒にいられることは奇跡だと、高校生になった今でも毎日のように思う。あの夢を見た翌日は特に。
 ルルーシュは幼馴染だ。家が隣同士で、たまたま同い年。両親が共働きという共通点もあり、小学生の頃から学校の登下校はいつも一緒で、留守番をするときはどちらかの家に遊びに行くのが定番となっていた。二人で過ごしていると親も安心するようで、物心ついた頃からの定番は今も続いている。
 幸い、高校も同じ学校へ進学することになったため、うちの母さんは「ルルーシュ君が一緒だと安心だわ」と大喜びだった。そんな母親に喜び過ぎだと呆れてみせたけれど、一番喜んでいたのが僕であることは秘密だ。
 高校の合格発表のときは本当に嬉しかったな、と思い出してこっそり笑う。発表当日、ルルーシュの部屋でサイトにアクセスし、自分の合格を確認したときは泣いてしまったほどだ。
 隣で見守っていたルルーシュはぎょっとしたあとに、「さすがは泣き虫」と笑いながら背中を撫でてくれた。おめでとうの声も、掌のぬくもりも、どれも本当に嬉しくてさらに涙が溢れたことをよく覚えている。
 合格できたことが嬉しかったのは本当だ。高校浪人なんて親が許してくれないし、合格のために必死になって勉強してきたので努力が報われてほっとした。でも、僕が泣いていた理由は別にある。
 (高校でも君と一緒にいたかったから、って言ったら絶対重いだろうな。というかその前に笑われるか。でも仕方ないよ。だって――)
 好きなんだ。
 秘めた想いを心の中で伝える。隣を歩くルルーシュはもちろん気付いていない。
 ご近所さんで幼馴染で親友で、僕にとっては唯一無二の存在。友達の彼を好きだと自覚したのは中学生のときだが、その兆しは小学生の頃からあったのかもしれない。
 当たり前のように隣にいて、四六時中くっ付くように過ごしてきた。ルルーシュとの距離感が近いことをたまにからかわれるけれど、僕にとってルルーシュとその他大勢の人達ははっきりと線引きされているのだから、距離が違うのは当然のことである。
 ルルーシュは僕の特別で、とても大切な人だ。だから、ルルーシュとはいつまでも一緒にいたいと思ったし、いつまでも一緒にいられるのだと子供の頃は無邪気に信じていた。
 しかし高校受験という現実を前にして、それは所詮幼い夢なのだと知った。『いつまでも一緒』を叶えるのはとても難しいと、子供の僕は知らなかったのだ。
 高校はルルーシュが地元の学校を選んでくれたおかげでなんとかなったものの、大学はこんなに上手くいかないだろう。この先、人生における大きな選択はいくつもある。そのたびにルルーシュと同じ道に進めればいいけれど、現実的には不可能だとわかっている。
 進学や就職だけではない。ルルーシュが生涯のパートナーを選んだら、その瞬間に互いの道は分かたれてしまうのだ。
 (僕達が結婚できれば話は別だけど)
 何を考えているのだと小さく溜め息をついた。白く濁った空気はあっという間に透明になり、吐くとまた白くなる。子供の頃はとても不思議で、何度も吸ったり吐いたりしたものだ。

「どうした? 昨夜は眠れなかったのか?」

 僕を心配する声に、慌てて首を振る。睡眠時間はばっちりだよと答えれば、なぜかルルーシュは眉を寄せた。

「たまに疲れているよな」
「どういうこと?」
「普段は健康そのもののくせに、今日みたいに疲れているときがある。単なる睡眠不足ならいいが、もし心配事があるのなら俺に言っていいんだぞ」

 ルルーシュの言葉に目を瞠った。
 疲れているように見えるのはあの夢のせいだ。気持ちの沈みと連動しているのか、あの夢を見た朝は身体が酷く重い。もっとも、体調が悪いわけではないので表向きは普段通りに振る舞っている。両親も学校の先生もクラスメートも、僕の変化に気付いている人は誰もいないはずだ。
 それなのにルルーシュは知っていた。何が原因かはわからなくても、僕がいつもと少し違うことにちゃんと気が付いてくれていた。
 僕だけがルルーシュに特別扱いされているみたいで、嬉しくてたまらなかった。

「っルルーシュ!」
「ほわあぁ!」

 思わず抱き締めると素っ頓狂な声が上がった。
 勉強も料理も勉強もできて、体力が平均以下なのは愛嬌だけれど、ほかはすべて完璧な王子様と言われているルルーシュ。その王子様はときどきこんな風に可愛い悲鳴を上げた。美形の二文字がよく似合うルルーシュからは考えられず、このギャップに幻滅するどころか、逆に可愛いと女子生徒からは密かに人気だ。
 おかげでルルーシュ親衛隊は日々増えていると聞く。しかも、昨年の文化祭で素晴らしい女装を披露したことから、男子の中にもルルーシュならいけるとそっち方面に目覚めた者が複数いるらしい。
 (ルルーシュがカッコイイだけじゃなくて可愛いことはほかの人に知られたくなかったな)
 好きな人が人気者なのは鼻が高いけれど、余計なライバルが増えるのは嬉しくない。
 ずっと僕だけのルルーシュでいてほしかったのに。そんなことを考えるのは我儘というものだろう。

「いきなり抱き付くな! 苦しいから離せ!」

 腕の中でルルーシュがじたばたと暴れる。仕方ないなとからかうように言い、もう一度強く抱くと僕は両手を離した。

「ったく、お前は犬みたいだな」
「犬は酷いよ」
「ご主人様にじゃれ付く犬と同じじゃないか」
「だったらルルーシュがご主人様になってくれる?」
「ばぁか。早く行くぞ」

 はーいと返事をして歩き出す。
 細い身体を抱き締めた感触を思い出すように、ルルーシュを僕の中だけに閉じ込めるように、両手を大事に大事に握り締めて。
 高校一年生が間もなく終わりを迎える頃。
 三月の寒い一日の出来事だった。

「ルルーシュお待たせ! 帰ろ……あれ?」
「あいつなら呼び出されてたぜ」

 教室をきょろきょろ見渡していると、まだ残っていたクラスメートから声がかかった。

「呼び出しって先生?」
「いいや、隣のクラスの女子。どこに行ったかはわからないけど、そこの階段を上ってった」

 こういう事態に慣れっこな彼の言葉でピンとくる。ありがとう! と礼を告げて踵を返せば、ひらひらと手を振り返してくれたのが視界の端に映った。
 教えられた階段を上りながら、二人が向かいそうな場所の当たりを付ける。僕達の教室は三階。その上は上級生の教室があり、さらに上の階には特別室が並んでいる。
 呼び出しの目的はどうせ告白だろう。となれば、二人きりになれる場所でなければ意味がない。放課後の特別室は誰も使用しないので、ルルーシュはその中のどこかにいるはずだ。何度見てきたかわからない現場を目にすることになるのかと思ってうんざりしたけれど、このまま引き返すわけにはいかなかった。
 (今度こそルルーシュがオッケーしたら……)
 嫌な想像が浮かび、ふるふると首を振る。五階に到着し、端から順に教室を覗いて行った。

「スザク?」

 音楽室から次の美術室に移動しようとしたところで聞き慣れた声がした。ぱっと振り返れば、きょとんとした表情のルルーシュがいた。

「こんなところで何してるんだ。忘れ物か?」

 質問には答えずに駆け寄った。肩をがしりと掴めばルルーシュの目が丸くなる。猫みたいな反応で可愛いなと思いつつ、「何もなかった?」と勢い込んで尋ねた。

「何かって?」
「告白されたんでしょう?」
「あ、ああ、そのことか」
「オッケーしたの?」
「なぜオッケーするんだ。一度も話したことがない相手なのに」

 変なことを聞く奴だなと笑うルルーシュに、ほっとした僕は長い息を吐き出した。

「それを確認するためにわざわざここまで来たのか? お前まさか、あの子のことが好きで」
「好きなわけないだろう。君に告白した相手が誰なのかも知らないのに」

 即答した声は少し不機嫌だったかもしれない。僕が好きなのはルルーシュなのに、見ず知らずの女子に想いを寄せていると勘違いされるのは心外だ。
 するとルルーシュが頬を緩めた。安堵しているように見えたのは都合のいい錯覚だろう。

「待たせて悪かったな。帰ろう」
「うん」

 大きく頷き、二人で並んで廊下を歩いた。
 一緒に階段を下りながら、ルルーシュに告白をした女の子は今頃どうしているだろうと考える。
 告白を断ったと知った途端、相手を気にかけるのは卑怯なのかもしれない。相手を哀れみ、見下しているだけなのかもしれない。そういう醜い感情を否定するつもりはなかった。
 僕は汚い。ルルーシュの友達という絶対的なポジションを誰にも奪われたくない一心で、彼に好意を寄せる人達の邪魔をしたのは一度や二度ではないのだから。
 もちろんあからさまな妨害はしていないけれど、声をかけようとしている女の子を見つけてわざとルルーシュを呼び止めたり、告白の最中に偶然を装って現れたり、相手からすれば嫌がらせ以外の何物でもないだろう。
 でも、嫌なのだ。ルルーシュが僕の知らない他人のものになるなんて絶対に嫌だった。だから、ルルーシュが誰かに呼び出されたと聞けばこうして現場に駆け付け、成り行きを見守り、場合によっては邪魔をした。
 そんな僕が振られた女の子のことを考えるのはとんだお笑いぐさである。高みに立って余裕ぶって、ルルーシュの隣は僕だと確かめるのは卑劣極まりない。
 (僕自身に余裕がないせいだ)
 誰かを下に見ることで自分が優位に立とうとするのは、心の底では不安がっているからだ。これまでに振られてきた彼女達は明日の僕かもしれないと、本当はわかっているのだ。
 ルルーシュに気持ちを伝えた彼女達は、友達のポジションにしがみ付いたままの僕よりずっと強くてずっと勇気がある。
 それに比べて、僕は――。

「スザク?」

 呼ばれた名前にハッとする。反射的に隣を見れば、ルルーシュが不思議そうな顔をしていた。

「な、何?」
「それは俺のセリフだ。難しい顔をしているが何かあったのか?」
「僕?」
「お前以外に誰がいる」
「あー、ちょっと考え事してた」
「俺には話せないことか?」
「そうじゃないけど……」

 さすがはルルーシュ。僕のことはお見通しらしい。でも、悩みの原因がルルーシュ自身にあるとは思ってもいないだろう。
 ルルーシュのことを考えていたとは言えないし、隠し事をすれば余計な心配をさせてしまう。どう答えようか迷った末に、実はね――、とルルーシュの耳元に手を当てた。

「今度の試験、ちょっとヤバいかもって心配してた」
「ヤバいってどの科目が?」
「全部」
「冗談だろう?」
「ほんと」

 あははと笑ってみせれば、綺麗な顔に呆れた色が浮かぶ。

「試験対策は万全だと言っていたじゃないか」
「だって、ああ言わないと僕に勉強させるだろう?」
「当たり前だ。そもそも勉強は自分のためにやるのであって、俺が強制的にやらせているわけでは」
「わかってるって。だから心を入れ替えて今日から真面目に頑張ります」
「大丈夫だろうな」
「大丈夫大丈夫」
「この流れでの大丈夫は信用ならないぞ」
「本当に大丈夫だよ。まだ取り返せるし。それより早く帰ろう。僕、お腹すいちゃった」

 ルルーシュの背中を押して教室に向かう。
 内緒話をするように顔を近付けたときも、掌に背中のぬくもりを感じたときも、些細な接触のひとつひとつに緊張し、胸を高鳴らせていることをルルーシュは知らない。
 知らないままでいい。
 何も知らなくていいから、もう少しだけ僕の隣にいてほしい。
 それを望むのはおこがましいことなのか。ささやかな願いだと言えるのか。今の僕にはわからなかった。

「帰りにお前の家に寄るからな」

 ルルーシュがそんなことを言い出したのは翌日のことである。へ? と声を上げてしまった僕に、ルルーシュは帰り支度をしながら「試験勉強するぞ」と宣言した。

「えっ、必要ないよ!」

 慌てた僕が断ると、ルルーシュが不服そうに眉を寄せた。

「勉強できていないと言っていたじゃないか。せっかく合格したのに留年したくないだろう?」
「それはそうだけど……」
「ほら、ぐだぐだ言ってないでさっさと行くぞ」

 教室を出て行くルルーシュを急いで追いかける。咄嗟についた嘘のせいでこんなことになるなんて、話を逸らすために適当に誤魔化した自分を呪いそうだ。
 しかも幸か不幸か、今日に限って家に両親がいない。母さんは学生時代の友達と旅行だし、父さんは二泊三日の出張だ。
 (つまりルルーシュと部屋に二人きり……)
 あらぬ妄想が浮かびそうになり、強制的に頭から追い出す。
 ルルーシュは純粋に僕を心配して勉強を教えてくれるのに、その気持ちを汚すような真似をしたら男としても人間としても最低だ。腹をくくった僕は真面目に勉強しようと誓い、ルルーシュと並んで自宅に向かった。
 いつも乗っているバス。毎日二人で歩いている道。変わり映えのない景色。世界はいつもと同じだけれど、今日は少し緊張している自分がいた。
 勉強をするだけだとわかっている。それでも何かを期待しているみたいで、気恥ずかしいような気分だった。

「おい、スザク」
「なっ、何!」
「何って、俺達の家はこっちだろう」

 ルルーシュが指さす方向を確認し、自分が反対側に歩いて行こうとしていることに気付いた。ごめんごめんと謝り、ちょっとぼーっとしてたと言い訳をする。

「今日のお前、なんだか変だぞ。そんなに試験が心配なのか?」
「確かに試験は心配だけど、僕は普通だよ」
「だったらいいんだが」

 ルルーシュが心配そうに窺う。僕の下心も疚しい気持ちも、紫の瞳にすべて見透かされているみたいで緊張感が増した。僕は笑って誤魔化すと、ルルーシュの姿を視界から無理やり追い出した。
 情けない、と溜め息が零れそうだった。
 片想い歴はすでに五年以上。ルルーシュが部屋に来るのはもちろん初めてではない。二人きりになったことは何度もあるし、手や肩が触れてドキドキした回数も数え切れないほどある。ほかの人間に嫉妬し、僕だけのルルーシュになればいいのにと独占欲を抱いたことは数知れず。
 それなのに、今日はどうしてこんなに緊張しているのだろう。普段通りに振る舞えばいいと頭では理解していても、今日に限ってそれが上手くできない。
 (いや、理由ならわかってるか……)
 今日の昼休みに、知らない女の子から告白された。それが原因だ。
 告白自体はたまにあるので珍しいことではない。好きな人がいるからごめんと断るのもいつも通りだった。いつもと違ったのは、たまたまその現場をルルーシュに目撃されていたということである。
 昨日とは逆の立場になり、なぜか僕は大いに動揺してしまった。ルルーシュほどではないものの、僕もそこそこもてていた。それを口にしたら友人に嫌味かと言われたけれど、事実なので仕方がない。
 ただ、告白されるところをルルーシュに見られたことは今まで一度もなかった。あえて悟られないようにしてきたのだ。
 理由は特にない。強いて挙げるとすれば、ほかの女の子から好意を寄せられている事実を知られたくなかったのかもしれない。
 要は、ルルーシュひと筋だという無言のアピールなのだが、本人には当然伝わっていないので単なる自己満足である。ルルーシュ以外の子に興味はないことを僕なりに証明しているつもりでいたから、自己満足で良かったのだ。
 ところが、告白の現場を初めてルルーシュに見られてしまった。自分は散々盗み見してきたくせに、反対の立場になると動揺が隠せなかった。
 ルルーシュの姿に気付いたのは相手の女の子がいなくなったあとのことで、僕はみっともないくらいにうろたえた。ルルーシュも戸惑っている様子だったけれど、しばらくして「付き合うのか?」と聞いてきた。付き合わないよと反射的に答えれば、そうか――、と笑った彼は不意に真剣な顔をした。

「でも、お前にいつか好きな人ができたら、そのときは応援する」

 何気ない言葉に頭を殴られるような衝撃を受けた。
 ルルーシュが僕のことをなんとも思っていないのは知っている。男同士で叶うはずがないと何度も自分に言い聞かせてきた。
 だけど、本人の口から僕の恋を応援すると言われ、一縷の望みが絶たれた事実を突き付けられてしまった。とにかくショックで、ルルーシュの言葉にどう相槌を返したのかよく覚えていない。
 (失恋した)
 分かり切っていた現実が受け入れられず、午後の授業をどうやって受けたのかも記憶にない。いつの間にか放課後になっていて、家に帰るのすら億劫だと思っていたときに、ルルーシュから家に寄ると言われたのだ。
 たったそれだけで気持ちは簡単に浮上した。ルルーシュが家に遊びに来たことは何度もあるのに、恋人を初めて招くような気分になっている僕は単純だ。失恋したくせに何を期待しているのかと嗤ってしまう。
 (でも、一緒にいられるのはやっぱり嬉しい)
 たとえ望みがなくても、失恋が確定したとしても、好きな人と過ごせる時間は何よりも貴重で大切だ。だからこそ、この時間を無駄にはしたくないと思った。
 いつもは僕の家の前で別れるけれど、今日は二人揃って玄関まで歩く。鍵を開け、どうぞとルルーシュを促した。ドアが閉まった途端、僕の心臓の音はさらに大きくなった。

「先に二階に上がってて。僕、お茶を淹れてくる。いつもの紅茶でいいよね?」
「それなら俺も手伝う」
「いいからいいから。今日のルルーシュは先生なんだからおもてなしさせてよ」
「先生?」
「勉強を教えてくれるんだから先生でしょう?」
「では、家庭教師になった気分で上がらせてもらうぞ」

 肩を揺らしたルルーシュが階段を上がっていく。その後ろ姿を見送ると、僕は鞄を下ろしてキッチンに向かった。
 僕の家にはルルーシュ専用の紅茶が常備されている。いつルルーシュが来てもいいようにと、母さんにねだって買ってもらったものだ。残念ながらケーキはないけれど、もらいものの焼き菓子があったので皿に並べた。
 本当に家庭教師が来ているみたいだとくすぐったく思いつつ、紅茶とお菓子を二階の僕の部屋へと運ぶ。

「お待たせ。ごめんね、お菓子これだけしかなかった」
「そんなの用意しなくていいのに」
「だって先生が来てくれるのに何もないのは失礼だろう?」
「お菓子がないからって怒って帰るような家庭教師じゃないぞ」

 一緒になって笑うと、テーブルに向かい合って座った。

「さてと、ではまずは数学からだな」
「いきなり数学から?」
「前回も赤点ギリギリだったじゃないか」
「あれは苦手な範囲だったから」
「今回も似たような範囲だろう。ほら、早く問題集を開け」

 はーいと返事をすれば、返事は伸ばすなと叱られた。

「まずはここから解いてみろ」
「うん」

 その後、ルルーシュ先生による厳しい指導の下、僕は真面目に勉強に励んだ。途中の休憩を含めて四時間、ルルーシュを意識しては駄目だと自分に言い聞かせた結果、僕にしては驚異の集中力を発揮した。
 気が付けば外はすっかり暗くなり、夕食の時間には遅いくらいだった。

「ごめん、お腹すいたよね。出前取るよ」
「俺も良い復習になって良かった。夕飯はうちに帰るから気にしなくていい」
「今日は父さんも母さんもいなくて、夜は好きなもの頼めって言われてるんだ。軍資金はあるから家庭教師代だと思ってさ。おばさんに言いにくかったら僕が連絡するよ。駄目かな?」

 帰り支度をしようとしているルルーシュを上目遣いに見れば、彼の手がぴたりと止まった。仕方ないなと言うように小さく息をつき、それから可笑しそうに肩を揺らす。

「わかったわかった、母さんには自分で連絡するから」
「ほんと? 何頼む? お寿司? 中華? ピザでもいいよ」

 畳みかけるように挙げれば、ルルーシュは「任せる」と言った。

「じゃあ電話かけてくる。届くまでちょっと時間がかかると思うから紅茶のおかわり淹れてくるよ。ルルーシュは休憩してて」
「ああ」

 いそいそと部屋を出て、一階のリビングにある出前のチラシを引っ張り出した。せっかくだから豪勢にしようと、頭の中で軍資金と相談しながらメニューを絞り込む。下校中はあんなに緊張していたのに、今は恋人と過ごす時間を楽しんでいるような心地で、やっぱり僕は単純だなと苦笑いした。
 ようやく店を決め、電話で注文を終えると今度はキッチンに移動した。ヤカンを火にかけている間、下げてきたカップを洗い、新しいものを用意する。
 (三十分ぐらいかかるって言ってたから、それまでほかに食べるものは……と)
 冷蔵庫を探ると、昨日の残り物である煮物が出てきた。
 ルルーシュはブリタニア人だが、日本暮らしが長いので日本食には慣れている。我が家で食事をしたこともあるので煮物に抵抗はないだろうが、恋人気分のときに出す料理としては少し味気ない。もっとお洒落なものを置いといてくれたら良かったのに、と旅行を楽しんでいるであろう母さんに不満を漏らす。母さんが聞いていたら、だったら自分で作れと言われたに違いない。
 新しい紅茶を淹れると、二人分のカップをトレイに並べる。零さないよう慎重に二階まで上がり、部屋のドアを開けた。

「ルルーシュ?」

 そこにルルーシュの姿はなかった。
 トイレに行ったのか。まさか帰ったのだろうか。焦りから部屋を飛び出そうとしたところ、床の上に足が伸びているのを見つけた。ひとまずカップを置き、それからテーブルの向こう側を確認する。

「寝てる……」

 ルルーシュは携帯を右手に握り締めたまま、床の上で丸くなっていた。唇の隙間からは穏やかな呼吸が一定のリズムを刻んでいる。
 帰ってなくて良かったと安堵した僕は、膝をついてルルーシュの顔を覗き込んだ。
 雰囲気も態度も大人びているけれど、こうして眠る姿は年相応だ。普段の不遜さが消えているため、むしろ幼さすら感じられる。
 可愛いな、と無意識に手を伸ばした。黒髪を掬い、指に絡める。
 さらさらとした感触は僕の髪にはないもので、子供の頃はとても羨ましかった。僕もルルーシュと同じ髪になりたいと親に訴えたところ、「あんたにルルーシュ君の髪は似合わないわよ」と大笑いされて子供心に傷付いたものである。
 いつの日か、僕ではない誰かがこうやってルルーシュの髪に触るのだろうか。寝顔を見て、同じように可愛いと感じるのだろうか。
 (僕のものなのに)
 強烈な嫉妬と独占欲が生まれ、ドロドロとした感情が胸の中から溢れそうになる。
 こんなに好きなのに。こんなに想っているのに。僕にはルルーシュしかいないのに。僕の知らない他人がルルーシュを連れて行くのだ。

「許せない」

 自分の声ではないみたいだった。悪魔の囁きというものが本当にあるのならば、その悪魔はきっと僕と同じ声で僕を唆すのだろう。
 誰かに奪われるくらいなら、先に奪ってしまえと。
 ラグの上に両手を乗せ、上半身を傾けた。部屋中に響いているのではないかと思えるほど心臓の音がうるさい。
 顔を近付けると僕の唇にルルーシュの息が触れ、たまらない気持ちになった。

「ルルーシュ――」

 声にならない声で囁いたとき、目の前に紫色が広がった。
 何が起こったのかすぐには理解できず、理解した途端、僕は飛び跳ねるように後ずさった。身体がテーブルにぶつかり、倒れたカップから紅茶が零れる。
 琥珀色の液体がラグを濡らすのを現実逃避のように眺めた。顔からは血の気が引き、寒くもないのに指先は震えていた。

「スザク」

 身を起こしたルルーシュに名前を呼ぼれる。びくりとした僕は、震えを誤魔化すように両手を握り締めた。

「今、何をしようとした」
「何って……」
「答えろ」

 ルルーシュが静かに問う。怒っているのか、軽蔑しているのか。どちらとも取れる口調に、僕は顔を俯けるしかなかった。
 何をしようとしたのかは明らかなのに、声にすることができない。

「答えられないのなら質問を変える。なぜこんなことをしようとした」

 やはり声は出なかった。
 俯いたままでいると、不意に空気が動いた。
 え? と思ったときにはルルーシュが目の前にいて、僕はまた逃げようとした。しかし、手首を掴まれて叶わない。僕より非力な手を振り払うのは簡単なはずなのに、指の一本一本が皮膚に食い込むようで離せなかった。

「教えてくれ、スザク」

 懇願にも似た声音に、僕はとうとう観念した。何をしようとしたのかはどうせバレているのだ。今さら隠し立てたところで意味はない。

「好き、なんだ、ルルーシュのことが」

 途切れ途切れの告白にルルーシュは目を丸くし、それから嘆息した。
 予想通りの反応だ。長年友達だと思っていた相手に、しかも男に好意を寄せられ、気持ち悪いと思われた。そんなことは最初からわかっていたのに、僕の心臓はきりきりと痛みを訴えていた。

「ごめん、気持ち悪いよね、男に好かれるなんて普通は嫌だし、その相手がずっと一緒にいた友達だなんて冗談にもならない……」

 声がどんどん小さくなり、とうとう口を噤んだ。
 たった一瞬の気の迷い。どうしてあのときの衝動を抑え切れなかったのか。大事に守ろうとしてきた友情すらも失うという結末に、今すぐ死んでいなくなってしまいたい気分だった。

「――もう時間切れなんだな」

 ルルーシュが何かを呟いた気がして顔を上げる。
 紫の瞳が僕をじっと見ていた。逃げ出したくてたまらないのに、その瞳から目が離せない。
 次の瞬間、ルルーシュの手にぐっと引かれ、顔と顔が近付く。

「俺のことを好きだと言ったな。それはつまり、俺と付き合いたいってことか」
「それは……」
「俺に好きな奴がいてもそう思うか?」
「――え?」

 何を言われたのか理解できなかった。
 理解したくなかった。
 ルルーシュが口の端を上げ、僕の目を覗き込む。

「俺には好きな相手がいる。それでもいいと言うのなら付き合ってもいい」
「どういう、意味」
「言葉通りの意味だ。俺が好きなのはお前じゃない。お前はそんな俺と付き合えるか?」

 ちっとも理解できなかった。ルルーシュに好きな人がいるなんて、にわかには信じがたい。でも、こんなことで嘘をつく彼ではないだろう。好きな人がいると偽った上で僕と付き合う必要性もない。
 (そうか、ルルーシュには好きな人が……)
 強張っていた身体から力が抜けた。昼間に失恋したと思ったせいか、改めてその現実を知らされてもあまりショックは受けなかった。いや、ショックを受け過ぎてこれ以上の現実を直視したくないだけなのかもしれない。
 いずれにしろ、僕の心は不思議なほどに凪いでいた。好きな気持ちを必死に押さえ付けていた日々がなんだか虚しくて、馬鹿らしささえ感じられる。

「どうしてそんなことを聞くの。君には好きな人がいるのに、なんで僕と付き合おうって思えるの」
「叶わないとわかっているからな。お前はただの身代わりだ」

 そう言い放ち、可笑しそうに笑ったルルーシュは僕の知らない表情をしていた。

「ああ、それからお前とキスはしない。キス以上のことももちろんするつもりはない。手を繋いだり抱き締めたりはしてもいいが、それ以上は駄目だ」
「それってなんの意味があるの?」
「義理立てだよ、一応。キスは本当に好きな相手としたいだろう? だが、お前にとっては俺と付き合ったという事実が残る。それでは不満か?」

 悪びれる様子もなく、ルルーシュは平気で僕を傷付ける。こんなに不誠実で、こんなに酷いことを言うなんて知らなかった。これがルルーシュ以外の人間だったらふざけるなと怒鳴り、今すぐ部屋から追い出していただろう。

「――それを守れば、本当に付き合ってくれるの?」

 ルルーシュの背中に手を回し、胸の辺りに耳を押し当てる。一定の間隔でリズムを刻む心臓からは、彼が何を考えているのか知ることはできなかった。

「お前に嘘はつかない」
「だったら、身代わりでいいから僕と付き合ってよ」

 腕の中の身体がほんの一瞬、固まったように感じたのは気のせいだろう。大胆な提案をしてきたルルーシュが今さら僕の言葉で戸惑うとは思えない。

「契約成立だな」

 これは契約なのかと嗤いたい気分だった。念願の恋人になれたというのに、誤った選択をしたときの苦い後悔が浮かぶ。
 確かに僕は契約した。悪魔の契約だ。
 それでも僕は、僕の知らない誰かからルルーシュを奪いたかったのだ。
 ルルーシュと付き合うようになったものの、今までと何かが大きく変わることはなかった。
 毎日一緒にいて、たまに出かけて、たまにどちらかの部屋に遊びに行く。それは友達だった頃と少しも変わらず、付き合うとはなんだろうと今さらながらに疑問に思った。
 ましてや、ルルーシュは僕のことが好きなわけではない。付き合うことの意義と定義がますますわからなくなりそうだ。
 変わった点をあえて挙げるのならば。僕の優越感だろうか。
 ほかのみんながどれほどルルーシュを好きでいても、ルルーシュの心の中に別の誰かがいたとしても、実際に付き合っているのは僕だ。それだけは絶対であり、決して覆らない事実である。
 (つまり、ルルーシュの言葉は正しかったってことか)
 この付き合いに意味はない。でも、ルルーシュと付き合ったという事実が僕には残る。その事実にこそ意味があるのだ。
 なんだか禅問答みたいだなと胸の内でぼやき、隣に座るルルーシュをこっそり盗み見た。
 付き合い始めて最初の土曜日。梅雨真っ盛りの今日は朝から雨で、しかもだんだん酷くなってきている。
 お邪魔しますと挨拶をして僕の家に上がったルルーシュは、いつもと変わらない様子だった。「ゆっくりしてってね」とルルーシュを歓迎した母さんは、自分の息子とその幼馴染が恋人になっているとは夢にも思っていないだろう。そう考えたらなんだかとても不思議な感じがした。
 悪いことをしているわけではないけれど、ほんの少しの後ろ暗さがあってなんとなくバツが悪い。僕の複雑な気持ちを察したのか、ルルーシュは二階に行く途中で「帰ったほうがいいか?」と尋ねてきた。
 嫌なら付き合うのをやめるか? と遠回しに聞いていたのだろう。僕は反射的に首を横に振った。

「帰らないで」

 口から出てきたのは、自分でも驚くほど情けない声だった。そんな僕を笑うでも馬鹿にするでもなく、ルルーシュはただ一言「わかった」と告げると再び階段を上がっていった。
 部屋に入ると途端に緊張が生まれた。友達が恋人になっただけなのに、自分の世界が別世界になったようだ。
 一方のルルーシュはやはり普段を同じ様子で、僕のベッドに寄りかかると本を読み始めた。いつもの僕達の過ごし方でいいのだと思ったら急に肩から力が抜けた。ルルーシュは僕のことをちっとも意識していないのだと落ち込むような気持ちにもなったけれど、僕達の付き合いは契約なんだからこれでいいじゃないかと自分に言い聞かせた。
 横に並んだ僕は、雨音をBGMにゲームを始めた。やがてルルーシュが僕の身体に寄りかかり、肩には頭を乗せてきた。しばらくすると眠くなったようで、現在は目を閉じて休憩中だ。
 これだけを見ればいかにも恋人っぽいけれど、僕達にとっては珍しくもなんともなく、付き合う前からの日常でしかない。
 (何が変わったのかやっぱりわからないな)
 もし普通に付き合えていたら、こういうときはルルーシュを抱き寄せたりキスを仕掛けたりして甘ったるい空気になるのだろうか。
 シャツから白いうなじが覗いているのが目に入り、悪戯心とも呼べるものが湧き起こる。ゲーム機を床に置いた僕は、恐る恐る手を伸ばしてルルーシュの右肩を抱いた。ルルーシュは目を開けないどころか、甘えるように僕の肩に頬を押し付けてきた。
 調子に乗った僕は右手に力を込めると、もう片方の手でルルーシュの指に触れた。指と指を絡めてみても、やはりルルーシュは抵抗しない。
 キスは駄目。キス以上も駄目。でも、手を繋いだり抱き締めたりするのはいい。義理立てだと言っていたとおり、好きな人のために初めてを守りたいのだろう。
 つまり僕のことは好きでもなんでもないのだと改めて思い、嫉妬や苛立ちが浮かぶけれど、今この瞬間、ルルーシュのもっとも近くにいるのは僕だということもまた事実だ。
 (ルルーシュはその人に告白したのかな)
 キス以上を許さないことで相手への誠意を見せながら、好きでもない人間と付き合う。それはとても矛盾していた。
 どういうつもりで僕と付き合ってもいいと思ったのだろう。好奇心か。悪意か。幼馴染への憐憫か。どれもしっくり来るようで、どれも正しくない気がする。
 不意にルルーシュが小さく笑った。どうしたのかと顔を覗き込んでみれば、くすぐったい、と言われた。
 どうやら考え事をしながらルルーシュの指を弄っていたらしい。指を絡めるだけでは飽き足らず、手の甲をなぞったり、爪の形を確かめるように指先で辿ったり、指と指の間を何度も触ったり、無意識とはいえ恥ずかしいことをしていたと慌てて手を引く。
 するとルルーシュの手に力がこもって、僕は思わず動きを止めた。
 紫の瞳が僕を見上げている。なぜか不服そうだ。

「離れる必要はない」
「でも……」
「手は繋いでいいと言ったじゃないか」

 それだけを伝えるとルルーシュはまた目を閉じた。僕の身体にもたれかかり、僕の肩を枕にして、お気に入りのぬいぐるみを抱くように僕の指を離さない。
 どうしたものかと考えた僕は、考えても埒が明かないと考えることを放棄した。指先に力を込め、一緒になって目を瞑る。
 互いの心臓の鼓動が服越しにとくとくと伝わってきた。
 生きているのだと実感する。僕も、ルルーシュも、生きている。
 なぜだろう。そう考えたら泣きたい気持ちになった。泣いて泣いて泣き喚いて、生きているルルーシュの体温を感じたい。
 鼻の奥がつんとして、閉じた眦に涙が浮かんだ。僕の涙に気付いたはずはないのに、ルルーシュの左手に力がこもった。

「俺はここにいる」
「――うん」

 唐突な言葉。普段ならば何を言っているのだと笑っていたかもしれない。でも、今の僕の胸にはすとんと落ちた。
 ルルーシュはここにいる。そんな当たり前なことが酷く安堵できて、安心した。
 そうして目を閉じているといつの間にかうとうとしていたようで、僕の意識は夢と現実の間を行き来していた。

「眠ったのか?」

 ルルーシュの声は聞こえるけれど返事ができない。
 ふと何かが頭に乗った。ルルーシュの手だ。僕の癖毛を指で弄り、小さい子供にいい子いい子とするように頭を撫でられた。僕は子供じゃないのにと思う反面、気持ちがいいからもっと触ってほしいと矛盾した気持ちになる。
 やがてルルーシュの手は僕の頬をゆっくりなぞり、顔の輪郭を確かめるみたいに両手で包み込まれた。

「スザク」

 僕の名前を呼ぶ声はとても優しくて、とても切なそうだった。
 どうして泣いてしまいそうな声で僕を呼ぶのだろう。何が悲しいのだろう。
 ルルーシュの悲しみは全部取り除いてあげたい。この世界のすべてから守ってあげたい。君のことを守りたい。そんなことを思ったらまた泣きたくなってしまった。
 (僕はただ、君と一緒にいたいだけなのに)
 夢の中の『僕』を思い出す。
 もしかしたら、彼も誰かを守りたかったのかもしれない。誰かと一緒にいたかったのかもしれない。でも、守れなかったのかもしれない。一緒にいられなかったのかもしれない。
 あの『僕』は大事な何かを失ったのだ。
 それが彼自身の行いのせいなのか、彼が責任の一端を担っているのか、あるいは不可抗力だったのか、僕には原因なんてわからない。『僕』と直接言葉を交わせない限り、永遠に知ることはないだろう。
 ただ、深い悲しみの理由が大切な人を失ったことだとしたら、『僕』の気持ちがすべて理解できると思えた。
 ルルーシュの指先が僕の唇をゆっくり辿る。それからまた頬に触れ、首筋から胸へと下りて行き、最後に心臓の上に手を置いた。僕が生きていることを確かめるみたいに、掌全体で鼓動を感じている。

「すまない、俺の我儘に巻き込んでしまって。でも、もう終わりだ。これでおしまいにする。――ありがとう、スザク」

 何かを懺悔したルルーシュは、僕の隣に再び腰を下ろした。僕の指と自分の指を絡めて大事そうに握り締め、再びもたれかかってくる。
 (すまないって何が? 君は何を謝ったの?)
 確かめたいのに僕の意識は沈んでいく。底なし沼にはまり、藻掻けば藻掻くほど下に引っ張られるようだ。
 夢と現実が混じり合い、どんどん境界がなくなっていく中で、指先に触れるルルーシュのぬくもりだけが僕にとっては確かなものだった。
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