花撫子

 お客様がいらっしゃいました、と部屋にやって来た執事はひどく慌てた様子だった。

「こんな時間に客?」

 首を傾げて時計に目を向ける。時刻は深夜で、ほんの五分前に日付が変わったばかりだ。どんな急ぎの用かは知らないが、訪問するにはいささか非常識な時間だ。
 一体誰がと問いかける前に、早くお願いしますとぐいぐい背中を押された。主人に対する乱暴な行動は常にはない様子で、どうしたのかと訝しがる。

「だから誰が、」
「殿下です!」
「殿下って、どの殿下?」

 この帝国には皇子が大勢いる。しかし、イレブン出身のナイトオブラウンズの屋敷まで来るような酔狂な皇子がいるだろうか。
 (まあ、心当たりがないわけじゃないけど……まさかね)
 ないない、それはないと心の中で首を振る。
 出自にこだわる人間が多い皇宮の中で、優秀な人間ならばどんな人種でもどこの出身でも重用してくれる人をたったひとり知っている。帝国の皇子という高貴な生まれでありながら、身分の低い人間に対しても分け隔てなく接する彼の人をスザクはとても好ましく思っていた。だが、その人がこんな真夜中に訪ねてくるかどうかはまた別の話だ。

「殿下と言ったらルルーシュ殿下しかいらっしゃらないでしょう!とにかくお早く!」

 そういうわけなので、執事の口から思い描いていた人の名前が出てもすぐに信じることはできなかった。同僚のジノあたりが悪戯で執事を巻き込んでいるだけではないかとすら思った。
 だから、客間のソファで足を組んで座る皇子殿下を見つけたとき、スザクはあんぐりと口を開けてしまった。

「本当にルルーシュ殿下……?」

 間の抜けたことを呟けば、ルルーシュが不機嫌そうに眉を寄せた。

「ここにいる私が偽者に見えるのか」
「い、いえ、そういうわけではないのですが……、でもなぜ?」
「迷惑は承知の上だ。だが、どうしても今日中に片付けておきたかったからな」

 話しながらルルーシュはタオルでごしごしと髪を拭いている。そういえば、先ほどからしとしとと雨が降り出していたことを思い出した。

「傘はお持ちじゃなかったのですか?というか、お付きの人間は?まさか殿下おひとりでここに?」
「質問が多いぞ」
「はぐらかさないでください。あんな事件があったばかりだというのに無防備すぎます。アリエスの者は殿下がここにいらっしゃることを知っているのですか?」
「咲世子には伝えているから問題ない。ジェレミアも車で待機している。一人で行こうと思ったら護衛を連れて行けと泣きつかれたからな」
「当たり前です!殿下はご自分の立場をもっと自覚するべきです!」

 自分のことに頓着しないのは彼のいいところであり、欠点でもある。
 頭の回転が恐ろしく早く、若干十七歳でありながら帝国宰相の右腕を務めていて、ほかの兄弟たちより抜きん出ているルルーシュは次期皇帝の呼び声も高い。最有力候補は兄のシュナイゼルだが、彼が「皇帝の椅子にはこだわらない」と発言したことから、弟のルルーシュを推すのではないかと皇宮内ではもっぱらの噂だ。
 そんな状況が面白くないのか、ほかの皇子皇女や彼らのパトロンである貴族たちの中にはルルーシュを妬む者が少なくない。彼の母親が庶民出身であることも妬みを増長させていて、ルルーシュを狙った暗殺未遂事件は後を絶たなかった。先日も視察先で命を狙われる事件が起きたばかりだ。
 が、当人はけろりとした様子で、一人こっそり宮殿を抜け出すこともしばしばだった。護衛長を務めているジェレミアの気苦労はいかほどかとスザクは少し同情していた。
 そんな彼が心配だから皇子相手に思わず怒鳴ってしまったのだが、ルルーシュは何を怒られたのかわかっていない様子で小首を傾げていた。

「私がどうなろうとお前が気にすることではないだろう」
「だから――っ」

 反論しかけて、しかしスザクは一旦言葉を飲み込んだ。代わりに溜め息を吐き出す。

「気にするに決まっているでしょう」
「それは私がこの国の皇子だからか」
「皇子とか皇子じゃないとかそういう問題ではありません。あなたが心配だから気にしているのです」

 つかつかと近寄り、彼の手からタオルを奪った。そして濡れた髪を優しく拭く。

「お願いですから無茶はしないでください」
「お前の屋敷を訪ねるのは無茶なことなのか」
「来てくださるのはもちろん嬉しいですが、何もこんな時間にいらっしゃらなくても」
「お前は早寝早起きしていそうだからな。迷惑だったらもう来ない」
「ですからそういうことではなくて……」

 普段は察しのいい皇子様なのに、今日はやけに突っかかるというか聞き分けが悪い。
 深夜に訪ねてくること自体が珍しく、どうしたのだろうと顔を覗き込んでみるが俯けられてしまって表情は窺えない。

「私だけではありません。ジェレミア殿も咲世子さんも、シュナイゼル殿下もナナリー殿下も、もちろん皇帝陛下もマリアンヌ様も、皆様が殿下のことを心配されています。物騒な事件も多いですし、早く騎士を持たれたらどうですか」

 ルルーシュの肩がぴくりと動く。

「ジェレミア殿は駄目なのですか?あんなに殿下に心酔されているのに」
「――お前はいいのか」
「え?なんですか?」

 声が届かなくて聞き返す。ルルーシュの反応はない。

「とりあえずマントを脱いでください。すぐに乾かしますから」
「いい。帰る」
「でも何かご用件があったのでは?」
「もう終わった」
「殿下!」

 おもむろに立ち上がり、すたすたとドアに向かって進むルルーシュの手を慌てて取った。

「離せっ、不敬だぞ」

 振り返ることなく言い放たれた言葉にスザクは違和感を覚えた。たまに拗ねられることはあるけれど、こんな風に一方的に拒絶されたことはない。
 自分の発言が彼の逆鱗に触れたのだろうか。しかし、今の短いやり取りの中でどこに原因があったのか皆目見当もつかない。

「殿下、落ち着いてください」
「俺は落ち着いている」
「だったらこちらを向いてください」

 ルルーシュは視線を落として黙り込んだままだった。

「本当に何があったのですか?」
「……お前にはわからないことだ」
「そうですね、自分はあまり察しがいいほうではありませんから」
「そんなことでよく帝国の騎士が務まるな。だからさっきみたいな――」
「さっき?」

 聞き返せばまた口を噤まれてしまった。これでは埒が明かないと、スザクはルルーシュの前に回って顔を覗き込んだ。

「ルルーシュ殿下」

 そっと名前を呼べば、夜の闇の中でも美しく輝く瞳がスザクを捉えた。
 頭が良くて、普段は帝国宰相の補佐として敏腕を振るっていて、時に冷酷とも取れる判断ができて、でも一度懐に入れた人にはどこまでも甘くて、自分に厳しくて、本当はとても優しい人。
 彼に出会えただけでもブリタニアまで来た価値が充分ある。
 可能ならば彼の一番近くで彼を守りたいと思うけれど、自分は皇帝直属の騎士。ルルーシュと知り合う前だったとはいえ、選択したのは己だ。簡単に主を鞍替えするような騎士は信用されないだろうし、ルルーシュの名に傷を付ける恐れもある。
 だからこそ、自分が馬鹿な選択をする前にルルーシュには騎士を選んでもらいたいのだが、スザクの思惑とは裏腹に彼はなかなか決めてくれない。何がそこまで頑なにさせているのだろうか。

「――お前は酷いな」
「自分が、ですか?」

 それは心外だと零せば、ルルーシュはどこか諦めたような笑みを浮かべた。

「今日が最後のチャンスだからなけなしの勇気を振り絞って訪ねてきたというのに、お前は心ないことばかり言う」
「心ないって……。先ほどもおっしゃっていましたが、今日は何かあるのですか?」

 スザクが把握している限り、朝から晩まで特別な行事は入っていないはずだ。ルルーシュだけの予定ならばあるだろうが、それなら自分が関わることはない。
 首を傾げると、ルルーシュの視線が上がった。

「お前にとっては迷惑でしかない話だと思う。嫌なら忘れてくれて構わない。だけど、一度だけ……、一度だけでいいから訊かせてくれ。答えはイエスかノーのどちらかだ」

 真剣な問いかけに余計な質問は憚られ、声を出すことなく静かに頷いた。

「皇帝の騎士と力ない一皇子の騎士、お前はどちらを選ぶ?」
「え?」
「皇帝の騎士を辞めて、俺の騎士にならないかと訊いている」

 ルルーシュの問うている意味がすぐに理解できなかった。
 たとえ冗談でも彼はこんなことを口にする人ではない。ましてや内容が内容だ。皇帝陛下への大いなる不敬と捉えられてもおかしくない。
 それをどうしてルルーシュが。

「やはり嫌だよな。苦労して手に入れたラウンズの席なのに、たいした力もない皇子の騎士だなんてお前の名前にも経歴にも傷が付く。すまない、今のは忘れて、」
「待ってください!」

 勝手に自己完結しようとしているルルーシュを慌てて止めた。相手が皇子ということも忘れて無遠慮に肩を掴めば、細い体がびくりと震える。

「嫌だと誰が言いました?」
「でも、お前は困っているではないか」
「それは困りますよ。だって自分は陛下の騎士なのに、今の殿下のお言葉が嬉しいと思ってしまったのですから」
「へ……?」

 紫の瞳が丸まる。普段のルルーシュからは想像できないあどけなさに思わず笑みを浮かべた。

「今のご質問、イエスと答えたらあなたは本当に自分を騎士にしてくださいますか?」
「そんな……、でも、」
「今から話すことは陛下に対する裏切りです。首を刎ねられてもおかしくないことです。だけど、あなたは冗談や戯れで騎士にならないかと口にするような方ではないと信じているから、自分もあなたに応えます」

 ルルーシュが突拍子もない質問をした理由も背景も何もわからない。信じていると言いながら、もしかしたら本当に単なる冗談なのかもしれない。あまり考えたくはないが、発言の裏に何かの思惑があるのかもしれない。
 でも不安そうに揺れる瞳を見ていたら、発言を探ることはひどく馬鹿らしいと感じた。
 言葉を素直に受け取り、その問いかけに素直に答えることがきっとルルーシュの望みだ。

「自分の答えはイエスです。自分は陛下の騎士ではなく、あなたの騎士であることを選びたい」
「スザク……」
「それで、殿下は本当に自分を騎士にしてくださるのですか?そもそも、どうして急にこんなことを?」

 目線だけを逸らした目の前の人は逡巡していたけれど、やがて言いにくそうに口を開いた。

「――先の皇宮内の不正事件は覚えているだろう?あれの解決に私が貢献したことで、父上から褒美をもらえることになった」
「褒美ですか?」

 騎士と褒美との間に関連性が見えず、首を傾げた。自分が褒美の対象になったのだろうかと考え、いやそんなまさかとすぐに打ち消す。

「父上が、褒美になんでも好きなものをやると言い出した。それで、ラウンズをもらってもいいのかと冗談半分で訊いたらいいと言われて、だから、その……」
「自分を褒美に欲しいと?」
「…っ、だから冗談だったんだ!ナイトオブセブンでもいいのかと訊いたらあのクソ親父がセブンでもスリーでも誰でもいいと言って、その期限が今日までだったのだ!」
「言葉が悪いですよ。というか、僕を騎士にしたいのは冗談だったのですか……?」

 父親に褒美をやると言われて仕方なく言ってみただけなのだろうか。彼の騎士になれると喜んだ自分が途端に滑稽に思え、落ち込みそうになった。
 すると、肩を掴んでいた両手をがしりと掴まれる。

「違う!お前が欲しいのは冗談じゃなくて本気だ!だからこうして事前に本人の了承をもらいに来たのではないか!」
「え?」
「あ……」

 ルルーシュの顔がしまったと言っていた。そのまま逃げ出そうとする腕を今度はスザクが掴む。

「本気って、本当に本気なんですか?」
「う、うるさい!」
「はっきりおっしゃっていただかないと困ります。僕だって今後の身の振り方を考えなければいけないのですから。それとも殿下は、僕が陛下の騎士のままでいいと思っているのですか?」

 顔を近付けて畳みかけた。ルルーシュが困ったように眉を寄せる。皇宮内や貴族の前では常に凛としている彼のこんな表情を目にできるのは役得で、ついつい頬が緩みそうになった。

「では聞くが、そういうお前は迷惑じゃないのか」
「迷惑ならば最初から頷きません」
「だが、お前はいつもいつも俺に騎士のことをうるさく聞いてくるじゃないか」
「あれは……、僕があなたの騎士になれるなんて思ってもいなかったからですよ。あなたの一番そばにいてあなたをお守りしたいけど、それは絶対に叶わない願いでした。だから、信頼の置けるジェレミア殿ならば殿下をお任せできると思ったんです」

 話しながら、あれ?と気付く。

「殿下が拗ねていらしたのって、もしかして僕がジェレミア殿の名前を出したせいですか?」

 指摘すればルルーシュの頬が赤く染まった。この反応は初めて目にするもので、彼が今夜訪ねてきてくれたことに心の底から感謝した。

「拗ねてなどいない!」
「それならもっと早い時間にいらっしゃれば良かったではないですか。しかも訪ねてきたときは堂々としていらしたのに、拗ねて帰ろうとするなんて」
「だから拗ねていないと言っているだろう!」
「でもどうして僕なんですか?陛下のお言葉ではありませんが、ナイトオブスリーやほかのラウンズという選択肢もあったでしょう」

 疑問を口にしただけなのに、なぜかまた不機嫌な雰囲気が漂ってきた。

「やっぱりお前は酷いな」
「ええっ?」
「帰る。今度は邪魔するなよ。それから、午前中の謁見でお前をもらうから覚悟しておけ」

 部屋を出て廊下をすたすた行くルルーシュのあとを追いかける。
 玄関まで降りると、車の前にはジェレミアが待機していた。どこか恨めしげな目を向けられたのは気のせいだろうか。

「――スザク。ああは言ったが、嫌なら断ってくれていいんだからな」

 顔を逸らしたまま告げられた配慮にスザクは首を振った。

「喜んでお受けいたします」
「本当に……?」
「本当に、です」

 頬を緩めればルルーシュが安堵したような表情を浮かべた。その顔に心の中が温かくなる。

「そうか……、ありがとう」

 横顔だけ見せたルルーシュは微笑んだようだった。おやすみ、と一言だけ口にして車に乗り込む。
 静かに走り出した車体を見送り、スザクはおもむろに天を仰いだ。雨はもう上がったみたいで、頬には何も当たらなかった。
 (ルルーシュ殿下の騎士、か)
 突然伝えられた言葉は現実味がなく、夢を見ているような気分だ。
 だけど、朝になれば本物の現実になるのだろう。そう思うと気持ちが高揚し、とても眠れそうになかった。

「やっと、殿下の騎士になれる」

 小さく呟いた声は夜の闇に溶けて消えた。
 叶わないと思っていた願いが手の届くところにある。こんなに喜ばしいことがあるだろうか。
 (これ以上を願ったらばちが当たりそうだな)
 今はこれだけでいい。
 ルルーシュの隣にいられるだけでいい。充分過ぎるほど充分だ。
 だから、好きだという気持ちは大事に心に留めておこう。

* * *

「お話は無事に済みましたか?」
「ああ」
「では、枢木卿は殿下の騎士になられるのですね」
「――ああ」
「個人的には大変残念ですが、殿下にとっては喜ばしいことですね。おめでとうございます」
「…っ、いいから前を向いていろ!」
「イエス、ユアハイネス」

 ジェレミアの横顔はどこか笑っていて、ルルーシュは苦虫を噛み潰したような表情のまま窓の外に視線を向けた。

「あの馬鹿」

 ぽつりと呟く。思い出すのは今日から自分の騎士になる男。
 勇気を振り絞って訪ねたというのに、すっかり調子を狂わされてしまった。
 (からかわれているのでは……。いや、あれは単なる天然か)
 どうしてスザクを選んだのかなんて教えられるわけがない。
 (父親の騎士に懸想したなど口が裂けても言えるか、馬鹿)
 心の中で悪態を吐き、雨の上がった夜空を見上げた。そして横髪にそっと手を伸ばす。
 この髪に、腕に、スザクが触れた。彼を騎士にするという願いも叶った。
 (だから今はこれだけでいい)
 車の振動に身を任せて瞳を閉じる。瞼の裏に映ったのはスザクの笑顔。耳に残るのは名前を呼ぶ声。
 今はこれだけで充分だ。
 だから、好きだという気持ちは自分の中だけに隠しておこう。
 (13.09.02)