初めに聞こえたのは蝉時雨だった。
何年間も土の中で過ごし、ようやく地上に出てきたかと思えばたったの数週間で死んでいく蝉たちの鳴き声は、限りある命を儚く散らしていく声のようにも聞こえる。
薄っすらと瞼を押し開けば、夏の日差しが目に眩しかった。じりじりとした太陽の光が肌を焦がすようで、額にじっとりと汗が浮かぶ。
「あつ……」
手の平で顔に日陰を作り、スザクは小さく呟いた。
暑いなんて感覚はいつ以来だろうと思う。日常を過ごすのは主に政庁の執務室と自室で、最近では緊急の事態が起こらない限りは滅多に外に出ない。どちらも空調が一定に保たれていて、もう何年も暑いと感じたことはなかった。夏の暑さも、冬の寒さも、建物の中から想像するだけだ。快適ではあるけれど、人間らしい感覚をひどく欠落させていくような気がして、たまには外の温度を感じることも必要だなと心の中で独りごちた。
足を進めると靴に踏みしめられた草がかさりと音を立てる。
(ここはどこなのだろう)
たしか自分は政庁の執務室にいたはずだ。今日はこのあとナナリーに付き添ってEUへと向かう予定で、そのための荷物の準備をしていた。出立までは一時間ほど余裕があり、珍しく時間がぽっかり空いた。最近、少し寝不足気味だったから、少しだけ休もうと思ってソファに横になったところまでは覚えている。
そして、気付けば森の中にいた。
(夢――か?)
夢にしては蝉の声も夏の日差しもやけにリアルだ。しかし、夢でなければこんなことは現実に有り得ない。
スザクは改めて自分の格好を眺めた。眠る前までの服は考えるまでもない。ゼロの仮面に、ゼロの服。横になるためマントは脱いでいたが、仮面は自室以外では必ず付けているし、人の気配に聡い自分から誰かが仮面を外したという可能性はない。
それならば、なぜ自分は普通の服を身に付けているのだろう。まだ“枢木スザク”であったころ、たまにプライベートで外に出るときに着ていた私服だ。顔を隠すものも何もない。
今の自分が素顔を晒すことの危険性。それは誰よりもよくわかっている。そもそも夢でなければ執務室からどことも知れない森の中へ移動できるわけがない。だからこそ、これは現実には有り得ないことなのだ。
(きっと夢だ)
スザクはそう納得した。
夢だと思えば、少し大胆なこともできるような気がする。久しく感じていなかった素肌に触れる外気はじっとりとした暑さを伝えていて、決して快適ではないけれど思わず頬が緩んだ。
子どものころに感じた暑さ。毎日のように外を駆け回っていた夏の日。何年ぶりになるかわからない感覚は、あっという間に遠い記憶を呼び起こした。
(懐かしい……)
純粋にただの子どもでいられたあのころ。初めて友達と呼べる存在を得て、自分はとても浮かれていたと思う。それまでひとりで遊んでいたのが一気に三人になったのだ。楽しくないわけがない。
日本のことを知らない彼らに日本の遊びを教え、日本の夏休みの過ごし方を教えた。初めて触れるものに彼らは驚いたり不思議がったり、喜んだりした。その喜ぶ顔が、自分はとても嬉しかった。
初めての友達。
彼らは自分にとって宝で、何よりも守りたいものだった。
(ただ、守りたいだけだったんだ)
もしも過去に戻ることができるのなら、どの時点に戻ってやり直したいと思うだろう。
(――くだらないな。そんなこと、考えてもなんの意味もない)
スザクは緩く首を振ると大きく一歩踏み出した。
そうして開けた視界に、息を呑む。
「ここは……」
見間違うはずがない。しかし、夢にしてはやけにリアルすぎてにわかには受け入れられなかった。
似たような景色をたまたま夢に見ているだけだ。そう思って足を進めるけれど、先へ行けば行くほどまさかという思いは確信へと変わる。
「枢木、神社」
最後にここを訪れたのはもう何年も前のことだ。
現在の枢木神社がどういった形で残っているのかスザクは知らない。神楽耶あたりがもしかしたら手を回して保存してくれているかもしれないが、詳しく聞いたこともないし、聞くこともできないので詳細は不明のままだ。
枢木神社。
夏の匂い。
懐かしい風景。
夢なのか現実なのかスザクには判断ができない。
そのとき、背後でがさりと音がして人の気配を感じた。
「……!!」
顔を見られてしまうという恐れに身体が強張った。それなのに勢いよく振り返ってしまったのはほとんど反射神経である。
しかし、振り返った先を見てスザクは唖然とした。驚きのあまり心臓が止まりそうだった。
スザクの真正面にいる彼も目を見開き、こちらをじっと見ている。
「……ルルーシュ」
スザクは口の中で名前を呟いた。
目の前にいる彼は、スザクが初めて出会ったときの彼だった。
(ああ、やっぱり夢だな)
紫の瞳。艶やかな黒髪。まだ幼い体つき。その顔は幼いながらもはっとするほど美しかった。怜悧な色を浮かべる瞳とビスクドールのように整った顔立ちは、子ども心にどきどきさせられた。
腕や足にところどころ擦り傷ができているのは、近所の子どもたちにまた苛められたからだろうか。自分と仲良くなってからは彼に手を出す人間はいなくなったと思っていたのに、知らないところでまだいじめを受けていたのか。
(僕に言ってくれれば良かったのに)
ルルーシュを苛める人間なんて、自分がひとり残らず懲らしめてやるのに。
そこでようやくスザクは自分の姿かたちを思い出した。ここにいるルルーシュは10歳の子どもだが、彼の前に立つ自分は大人だ。
「あ、……え、っと」
なんと声を掛けたものか、スザクは咄嗟に声が出てこなかった。
不思議なことに、子ども時代のルルーシュが目の前にいるという非現実的な出来事に驚くよりも、無様な様子は見せたくないという思いのほうが強かった。夢だと思い込んでいるからだろうか。
わたわたとするスザクに、ルルーシュの眉が不審そうに顰められた。その様子に、幼いころの彼は周囲の人間に対して警戒心を剥き出しにしていたことを思い出す。
日本という異国に人質として送られ、たったひとりで妹のナナリーを守るために必死だったルルーシュ。しかし、そんな彼が唯一警戒心を解いてくれたのがスザクだった。スザクにだけはナナリーのことを任せてくれて、彼の信頼を勝ち得たことが幼いスザクには嬉しかった。
とはいえ、今ここにいる自分は10歳の自分ではない。たとえ正直に名乗ったところでルルーシュは信じないだろうし、新手の刺客かとますます警戒心を強くする恐れがある。
(神社に参拝に来た一般人を装うのが一番いい方法か)
ルルーシュに声を掛けたい気持ちはあるけれどこの場は無視してやり過ごすしかないと、スザクは神社の拝殿がある方向へ足を向けた。
「あの」
そのとき、自分以外の声がした。小さな声だったというのに、驚きで思わず身体がびくりと震えた。
「もしかして、スザクの親戚の方でしょうか?」
「え?」
問いかけにスザクは振り返った。まだ高く、幼さを感じさせる声。
「その、間違っていたらすみません」
ルルーシュが少しだけばつの悪そうな顔をしている。思わず声を掛けてしまったことを悔いているのか。それとも、見ず知らずの人間に失礼なことを訊いてしまったと悔いているのか。どちらだろう。
「……いや、間違っていないよ」
気付けばそう答えていた。答えて、自分の言葉にスザクは愕然とする。
何を言っているのか。違うと否定してこの場をすぐに去るのが最善なのに、どうして自ら関わろうとするのか。頭の冷静な部分は警告を発していたけれど、ここでルルーシュと会話をするという誘惑には勝てそうにない。
(どうせこれは夢なんだ)
夢ならばどう行動しても構わないだろう。自分に都合の良いように結論付けて、スザクは身体を正面に向けた。三歩だけルルーシュとの距離を縮める。
「君はスザクの知り合い?」
「友達、です」
「そう」
友達という答えにスザクは顔を綻ばせた。本人の口から何度も聞いたことのある単語だけれど、第三者(少なくとも今のルルーシュにとっては)である自分に、自分のことを友達と言ってくれるのは嬉しかった。
「僕はスザクの従兄弟なんだ。といってもあちらは本家でこちらは分家、家も遠いから滅多に会いに来られないけど」
「今日は何かご用事が?」
「うん、ちょっと呼ばれて。それにしても、君は僕がスザクの親戚だってよくわかったね。彼に何か聞いていた?」
絶対にそんなことは有り得ないとわかっていながら尋ねてみれば、案の定ルルーシュは首を横に振った。
「何も聞いていません。スザクに従兄弟がいることも初めて知りました」
「一年に一度、会うか会わないかの従兄弟だからね。でも、それならどうして僕が親戚だと思ったの?」
「似ていると思ったからです」
「似ている?」
ルルーシュがこくりと頷く。
「顔が似ているから。……それに、瞳の色も」
なるほど、とスザクは理解した。このころのルルーシュにしては珍しく初対面の人間と気軽に会話を交わしていると思ったら、相手が自分の知っているスザクとどこか似た雰囲気があったからなのか。それだけ幼いころの自分はルルーシュから信頼されていたのだと、思えば自然と笑みが浮かびそうだった。
「そんなに似ているかな?」
「はい」
「僕はあんなにやんちゃなつもりはないんだけど」
おどけた調子で言えばルルーシュがくすくすと笑った。
「スザクは特別に乱暴者なんです。人の話をよく聞かないし、突飛だし、頑固者だし」
散々な言われようだなと苦笑いを浮かべた。確かに、初対面でいきなり殴りかかってくるような子どもは、ルルーシュの10年の人生の中で初めて出会う種類の人間だっただろう。妹と二人きりで心細かっただろうし、これから住む家が朽ちかけた土蔵でショックを受けていたところに突然現れた日本人の子ども。当時は二人の事情を知らなかったとはいえ、本当に申し訳ないことをしてしまったと思っている。
「スザクがいろいろと迷惑をかけただろう?ごめんね」
今さら謝っても仕方ないが、過去の自分の所業が恥ずかしくて謝った。すると、ルルーシュはびっくりしたような表情をした。
「?どうかした?」
「あ……いえ」
「素直に言ってくれていいんだよ。僕は日本人だけど、君の敵じゃない。君が喋ったことを枢木首相や枢木家の人間に告げ口しようだなんて思わないよ。――と言っても、さっき知り合ったばかりの人間じゃ信じられないかもしれないけど」
「そんなこと、ないです」
「無理しなくていいから」
「本当です!」
今度はスザクが目を丸くした。日本人、しかも枢木家に関係する人間なんて本心では嫌だろうとこちらから距離を取ったつもりだが、思いがけず強い口調で否定された。
「でも僕は枢木の人間だよ?」
少し意地の悪い聞き方かもしれない。でも、もしスザクの知らないところでルルーシュがこんな風に枢木家の人間と接していたならば問題だ。スザクにとっては実家だが、彼らがブリタニアから来た兄妹を疎ましく思っていたことは知っている。そして、彼らが直接兄妹に危害を加えないとも限らない。だからスザク以外の人間を簡単に信頼してはいけないと、ルルーシュに忠告しておかなければならなかった。
「それは知っています」
「だったらどう対処するのが一番か、聡明な君ならばわかっているよね?」
気付けばスザクは必死になっていた。これは夢だというのに。いや、たとえ現実だったとしても、これは過ぎ去った遠い過去だというのに。ここでどんな助言をしようと、自分たちが迎える未来は変わらないというのに。
どこか焦燥感を覚えるスザクの心中に反し、ルルーシュはのんびりと小首を傾げた。
「あなたは僕のことを知っているのですか?」
「――え。あ、ああもちろん、君は枢木家の客人だからね」
「でも、さっき“スザクの知り合いか?”と聞いてきましたよね」
「さっきのは……君たちに無闇に接触することは禁止されているからだよ。所詮、僕は分家の人間だから」
「そうなんですか」
納得したというように頷くルルーシュ。
スザクはホッと胸を撫で下ろした。まさかそんな質問がくるとは思っていなかったので行き当たりばったりで答えたが、なんとか誤魔化せたようだ。
(夢の中でこんなに必死になって、何をしているんだろう僕は……)
ざっ、と強い風が吹いた。
そこでようやく、ルルーシュが左手に白い布を持っているのをスザクの目が捕らえた。風に吹かれてはたはたと舞っている。
「それは?」
指摘すると、「あっ」とルルーシュが声を上げた。
「早く戻らないと」
「え?」
「干していたタオルが飛ばされてここまで追いかけてきたんです。何も言わずに走ってしまったから、ナナリーとスザクが心配しているかもしれない」
ただの布だと思っていたものはどうやらタオルだったらしい。洗濯物を干している途中で飛ばされたのか、たまたま飛ばされるのを目撃したのか。どちらにしろ焦るルルーシュの様子が目に浮かぶようで、笑ってはいけないと思いつつスザクの口許に笑みが浮かんだ。走るのはスザクの得意分野なのだからスザクに頼めばいいのに、ルルーシュの中にそのような考えはないようだ。
ルルーシュが洗濯物を干す光景はスザクの日常だった。自分はといえば、彼の側で言われるがまま手伝いをしたり、ナナリーの遊び相手になったりしていた。
よくよく思い返してみれば、ルルーシュの姿はまさに「お母さん」と呼べるものだった。目の前にいるまだ小さな彼がこのころから家庭的だったというのは、裏の事情を抜きにすればとても微笑ましい。だが、それは同時に、否が応でもそうせざるを得ない環境にルルーシュが置かれていたということでもある。
頼る人間などなく、たったひとりの妹を守るために必死だった10歳の子ども。
(こうして見ると、記憶の中よりもずっと小さい……)
出会ったときの自分たちはほぼ同じ背丈だったし、大人びた言動をするルルーシュの背中はときどき大きく感じられることがあったから気付かなかったけれど、よく見ればまだ小さな子どもだ。こんな子どもを世界は見捨てたのだ。
スザクは無意識に手の平を握り締めていた。
「僕、もう戻ります」
その声にハッとする。
「ああ、そうだね。僕もそろそろ行かないと。あ、そうだ、僕がここに来たことをスザクには内緒にしてくれるかな?」
「どうしてですか?」
「今日は秘密の集まりで来ただけだから、知られるとマズイんだ」
あまり好きな言い方ではないが、大人の事情というやつだ。そのことを暗に伝えると、ルルーシュはすぐに理解して頷いてくれた。
「じゃあ。――ルルーシュ」
面と向かって名前を呼ぶのは少し緊張した。
ルルーシュは一礼して踵を返す。が、何かを思い出したようにぴたりと動きを止めた。
「……さっき言おうとしたことですが」
目線を下げ、少しだけ言い難そうに言葉を紡ぐ。
“さっき”とはどの“さっき”だろうとスザクが首を傾げれば、紫の瞳が真っ直ぐにこちらへと向けられた。
「僕はスザクから迷惑をかけられたなんて思ったことはありません。確かにときどきびっくりさせられることはあるけど……、でも、彼といたらとても楽しいです」
そうして、頬を緩める。スザクは惚けたようにルルーシュの笑う顔を見ていた。
「では、失礼します」
「――うん。元気で」
元気で。
無意識にそんな別れの言葉を告げていた。
もう一度ぺこりと頭を下げたルルーシュは、来た道を駆けて戻っていく。その後ろ姿が木々に隠れて見えなくなるまで、スザクはぼんやりと立ち尽くしていた。
ルルーシュの姿が完全に見えなくなった途端に、蝉の鳴く声が大きく聞こえた。ルルーシュと話している間は不思議と耳に入らなかった鳴き声。まるで二人の会話を邪魔しないよう鳴き止んでくれていたみたいだ。
「僕も、帰らないと……」
どこへどう帰ればいいのかわからないままスザクは呟いた。
もしこれが夢ならば、夢から覚めた瞬間にすべて忘れてしまう。幼いルルーシュと会ったことも、ルルーシュと会話を交わしたことも、すべて忘れる。
夢なのに、それがひどく残念だった。
(09.09.23)