君を待つ

 遠くで海鳥の鳴く声がした。
 波の音が聞こえる。
 閉ざしていた瞳を開ければ、目の前には青い空と青い海、白い雲がまるで絵画のように広がっていた。
 首を上げると、そこには夏の太陽がじりじりと地上を照らしている。だけど、不思議と暑さは感じなかった。海の近くだからなのか。

「電車、来ないなぁ」

 ぽつりと呟いたスザクは、ベンチに鞄を置いて立ち上がった。座りっぱなしですっかり固まってしまった筋肉を動かすためにストレッチをする。
 波の音。鳥の声。自分が踏みしめる地面の音。それ以外は何もなかった。
 夏休みの補習で学校へ行くために電車を待っているが、もうかれこれ三十分以上やってこない。時間を間違えただろうかと時計を見るが、自分は遅刻していない。ならば遅刻しているのは電車か。もしくは車掌がせっかちで、出発時間よりも前に駅を出てしまったのか。事故という可能性もあるけれど、ここにはお知らせの電光掲示板も駅員もいないのでわからない。携帯で運行状況を見ようにも、ローカルすぎてそもそも電車情報にここの線が登録されていない。

「仕方ない、待つか」

 一通りのストレッチを終えると、先ほどまで腰掛けていたベンチに戻る。
 コンクリートで固められた駅のホームは電車一両分の幅と長さしかない。そこにベンチと駅名の書かれた看板と電灯、その三つだけがあった。単線の駅の、ちっぽけなホームである。駅舎どころか改札すらない。料金は電車に乗ったときに払うのだが、これほど古びた鉄道がいまどきあるのかと、ほぼ毎日利用しているスザクですら驚くほどだ。
 よく言えばのどかな風景、悪く言えばド田舎。こんなところ、本当は高校進学と共にすぐに出て行ってやりたかった。何がしたかったわけでもない。ただ、出られるのならばなんでも良かった。
 でも、結局スザクは町に一つしかない高校へ進学した。
 不本意ではあったが、自分の好きな相手がそこに行くと言うのだから仕方ない。恋の前では多少の我慢も必要なのだ。もっとも、相手とは恋人同士でも何でもなく、スザクのただの片思いなのだけれど。
 そのことを話すと、大抵の人間が呆れてくれた。

「なんだ、乗り遅れたのか?」

 背後からかけられた声に、スザクは背筋をぴんと伸ばした。だるそうに海を眺めていた表情を改め、さわやか好青年を意識しながら振り返る。

「違うよ、僕は時間通りに来たのに電車のほうが来ないんだ」
「ふうん」
「本当だって、ルルーシュ」

 その名前を呼べば、くすくすと笑いながら少年が隣に座った。

「まあ信じてやるよ」
「信用ないなぁ」

 ルルーシュ・ランペルージ。スザクと同じクラスで、席も隣同士、住んでいる家も隣同士といういわゆる幼馴染だ。
 そして、スザクが地元の高校に通うことを決めた原因でもある。

「で、どれだけ待ってるんだ?」
「もう三十分は経ってるよ」
「お前の足なら走って行ったほうが早いんじゃないか?」
「ええっ、いくら僕でも炎天下の中を走りたくないよ」

 げえ、という顔をしてみせればルルーシュが可笑しそうに笑う。

「今日は部活があるからと先に出たのに、これなら一緒に行けば良かったな」
「うん」

 何もないときは家から駅まで二人一緒に行く。今日は補習の前に部活の用事があったから一本早い電車に乗るつもりだったのに、こんなことならルルーシュと家を出る時間を合わせれば良かった。そうすれば、一緒にいられる時間がもう少し増えたのに。愚痴っぽく思ったことはもちろん声には出さない。仲の良い幼馴染だが、高校生にもなって四六時中くっ付いているというのは不審がられるだろう。
 適度な距離を保ちつつ、でも決して離れず、その微妙な距離感が大事だった。
 隣のルルーシュをちらりと窺う。夏の最中だというのに、その横顔には汗一つ浮いていない。肌も日に焼けていないし、暑さを少しも感じていないのかけろりとした顔をしている。
 容姿端麗、頭脳明晰、絵に描いたような人物であるルルーシュは、この片田舎にはひどく不釣り合いだった。彼には都会のほうがしっくりくるし、成績のレベル的にも物足りないだろうと思っていたから、地元の高校に進むと聞いたときは驚いたものだ。おかげで、どうやって地元を出ようか考えていたスザクは慌てて進路変更をした。
 (やっぱり、ナナリーがいるからかな)
 ルルーシュにはナナリーという妹がいる。とても愛らしく、思いやりのある少女だ。小さいときから身体が弱く、ルルーシュ一家が引っ越してきた理由は彼女の療養のためと聞いた。ルルーシュはナナリーを溺愛しているから、それで地元を離れたくないと思っているのだろう。もしかしたら大学も家から通えるところを選ぶかもしれない。
 (ここは離れたいけど、ルルーシュとは離れたくないし……)
 まだ本格的な進路の話はしていない。しかし、いずれ真剣に考えなければいけないときが来るだろう。そのとき自分はルルーシュと一緒にいることを選択すべきなのか、それともあくまでルルーシュの傍にいることを選択すべきなのか、スザクにはまだ結論が出せていなかった。

「……電車、本当に来ないな」
「へ?あ、う……うん」

 独り言のように呟いたルルーシュは、海の先をじっと眺めていた。そこに何があるのか、スザクには見えない。
 ふいに、何故かルルーシュが遠くに行ってしまいそうな気がして、身体ごとルルーシュのほうを向いた。

「きょ、今日さ、数学の小テストがあるよね」
「ん?勉強していないのか?」
「今日はばっちりだよ」
「今日だけなのか」

 胸を張れば、ルルーシュが笑みを零す。一体いつから好きなのかもう覚えていないけれど、この笑顔が理由の一つであることは間違いないと思う。
 ルルーシュの笑った顔が、スザクは何よりも好きだった。

「来月の試験勉強はちゃんとしているか?」
「夏休み明けの試験だろ?なんで学校が始まってすぐに試験やんなきゃいけないんだろ」
「文句を言うな、そろそろ本格的に受験勉強をしないといけないんだから。そういえば、部活はいつまで続けるんだ?」

 スザクは陸上部に入っている。本当は幼い頃から道場に通っている剣道をやりたかったのだが、田舎の小さな高校には剣道部がなく、足が早いという理由だけで仕方なく陸上部にしたのだ。

「三年の春までかな。一応、試合が五月だから」
「乗り気じゃなかった割には意外と真面目にやっているじゃないか」

 部活を選ぶ際、散々駄々をこねていたのを覚えているのだろ。陸上部なんか入ってもつまらない、だったら部活は何もしないと言っていたスザクに、せっかくの高校生活なのだから自分の能力に合った部活をやってみるのもいいじゃないかと諭したのはルルーシュだ。

「別に真面目じゃないよ。ただ、やるからには負けたくないってだけ」
「そういうのを真面目と言うんだよ」

 少し眉を下げて笑ったルルーシュが手を伸ばしてきた。びくりとなって固まっていると、綺麗な指がスザクの髪に触れる。

「ゴミ、付いてたぞ」
「あ……」
「お前はいつまで経っても子供みたいだな」

 ルルーシュの顔が間近に迫ったことと子供扱いされたことの両方が恥ずかしくて、スザクはむうっと口を尖らせた。

「ルルーシュはいつも恰好付けてるよね」
「俺は普通だ」
「嘘だぁ。ルルーシュが普通なら、僕はどうすればいいんだよ」
「スザクはスザクだろう?俺と同じようにする必要はない」

 そういう当たり前なことをさらりと言えるところが恰好良いのだ。
 (ずるいよな。僕は君だけを追いかけているのに、君は一人でずっとずっと先を行っているんだ)
 追い付いたと思ったときにはまた先を行っている。掴もうとしても掴まえられず、手の中には何も残らない。
 近くて、とても遠い。

「ところで、来月のナナリーの誕生日は空いているか?」
「もちろんだよ」
「じゃあ、うちに来れないか?両親がちょうど出張中で、家には俺達しかいないんだ。だからスザクが来てくれると嬉しいんだが、迷惑か……?」

 いつも自信満々なのに、時折こうして不安そうな顔をする。それに男心がくすぐられているとは、ルルーシュ本人は気付いていないだろう。

「まさか!行く、絶対行くから!」
「そうか、良かった」

 安堵の笑みを浮かべる顔に、ルルーシュから頼まれたら絶対断らないのにと思ったことは内緒にした。
 でも、いつかもしこの想いを告げられることがあれば、そのときは必ず伝えようと思う。ルルーシュに話したいことはたくさんあるのだ。
 その一つ一つをいつの日か伝えることが出来たら、どんなにか幸せだろう。
 (いつになるかはわからない。でも、いつか必ず――)
 そのとき、遠くから警笛の音がした。ようやく電車が来たようだ。
 時計を見ると、ここで待ち始めてすでに一時間が経過している。これならルルーシュの言う通り、走って行ったほうが早かったかもしれない。

「やっと来たね」
「ああ」

 一両編成の電車がホームに止まった。
 何故か乗客は一人も乗っていなかった。あまりに電車が来ないので諦めて別の交通機関に切り換えたのだろうか。
 スザクはホームから足を離し、電車の中に乗り込んだ。
 振り返ると、ルルーシュはホームに立ったまま動こうとしない。

「乗らないの?」
「俺はいいんだ」
「どうして、忘れ物でもした?この電車を逃したら次にいつ来るかわからないよ」

 スザクの科白にルルーシュは首を振った。その顔は哀しそうに、でも少し嬉しそうに笑っていた。

「あまりにも電車が来ないから、お前はもう戻りたくないのかと思って少し焦った」
「ルルーシュ?」
「でも、戻る意志はちゃんとあったんだな。安心したよ」

 何を言っているのかわからず首を傾げる。
 宝石みたいな紫色の瞳がスザクの翡翠を捉えた。まるで母親が子供を見守るような、そんな温かさがあった。

「スザク。その電車は生きている人間しか乗れないんだ」
「え……?」
「行き先は、現世だよ。だから死んだ人間は乗ることが出来ない」
「何を言って……だってルルーシュは生きているじゃないか、僕と一緒に、」

 手を伸ばしかけたとき、再び警笛がなった。発車の合図だ。
 ルルーシュを残したまま電車に乗るわけにはいかない。そう思うのに、何故か足は竦んだように動かなかった。

「お前も本当はわかっているんだろう?」
「わからない、わからないよ…っ!」
「……いつか、お前があちらの世界で自分の成すべきことを全うして、本当にこちら側に来たときは、こんな風に当たり前に話せたらいいな」
「ル、ルーシュ」

 二人の間を切り裂くように扉が閉まる。スザクは電車の一番後ろまで行くと開いていた窓から顔を出した。
 ルルーシュはホームに立ったまま電車を見送っていた。

「ルルーシュ!ルルーシュ…!」

 離れていく距離が歯痒くて、だけどこの電車を止めることも電車から降りることも出来ない。
 自分は何も出来ない。

「ルルーシュ……っ、好きだ、好きだよルルーシュ!僕はずっと君だけが好きだ、だから、僕が戻って来る日までそこで待っていて!必ず迎えに行くから!」

 叫んだ声が届いたのかどうかはわからない。でも、ルルーシュの顔が一瞬ぽかんとして、次いで茹で蛸のように真っ赤になったからきっと聞こえたのだろう。
 真っ赤な顔のまま、スザクを見送ってくれていた。

「ルルーシュらしいや……」

 泣き笑いの声を漏らし、ルルーシュの姿が見えなくなるまでスザクは窓にしがみついていた。やがて景色が青から緑一色になり、電車が木々の間を通る頃、ようやくそこから離れて座席に座る。
 先ほどまで高校の夏服を着ていたはずなのに、ふと目を下ろせば見慣れた衣装に包まれていた。
 かたん、かたん、と一定のリズムを刻みながら、運転手も車掌もスザク以外の乗客も乗せないまま電車が走る。
 急に眠気に襲われて、スザクはそっと目を閉じた。電車の振動が心地良い。
 耳の奥には海鳥の声と波の音と、それからルルーシュの声が残っている。
 久しぶりにゆっくり眠れそうな気がして、スザクはそっと頬を緩めた。

「馬鹿だな、お前が来るまであと何十年あると思っているんだ。それまで俺はここで待っていなければいけないのか?」

 腰に手を当て、やれやれと溜め息をつく。でも、その口許は小さく笑っていた。

「――仕方ないな。どこかの体力馬鹿のためにあと50年くらい待っていてやるか」

 だから好きだと言ったことも忘れるなよ。
 笑みを浮かべたまま顔を上げる。
 そこには、真っ青な空がどこまでも果てしなく続いていた。
 (10.09.28)