「ったく、あのブリタニアの大使が!」
忌々しそうに吐き捨てられた言葉と、ドタドタとした足音が聞こえてきて、僕は思わずソファから立ち上がった。
そのタイミングで荒々しくドアが開き、リビングに入ってきた父と目が合う。僕の姿を認めた父は眉を上げただけで、何も言わずにどかりとソファに腰を下ろした。
顔を合わせてしまったわけだし、一応挨拶をしておくかと、僕の存在を無視する父親に「おかえりなさい」と声をかけた。しかし、それに対する返事は素っ気ないものだった。
「こんなところで油を売っている暇があるのか。来週は試験だろう」
「今から勉強するよ」
「だったら早く部屋に戻れ」
はーいと答えながら心の中で舌を出した僕は、こんなところに長居は無用と父からそそくさと離れた。
入口に立っていた秘書が申し訳なさそうに頭を下げたのに会釈を返し、そっとドアを開ける。
「外務大臣では話にならない、総理でなければ話をしないと言っていたくせに、会談の一時間前に延期の連絡を入れてくるとはふざけていると思わんか」
「それにつきましては抗議しましたが、次の会談の日程調整ものらりくらりとかわされるばかりでして……」
「我が国は舐められているんだ。ブリタニアの皇子が大使に就任したからもっと話が進むかと思ったが期待外れだな。第二皇子のシュナイゼルが出てくるよりマシとは言え、第三皇子のクロヴィスだろう? あれは政治音痴と聞いているぞ。本当に大丈夫なのか」
「確かにクロヴィス殿下は政治はあまり得意ではないようです。ただ、芸術方面に明るいのでそちらから攻めていく方向で現在検討しておりまして――」
続く言葉を遮るように扉を閉めた。
父さんまた荒れてるなぁと独りごちながら自分の部屋へ向かう。長い廊下は踏み締めるたびに足の裏で微かな音を立てていた。
庭には石灯籠の仄かな灯りがぼんやり浮かび、真っ暗な空にはお月様がぽっかり浮かんでいる。実に風流な景色は、日本文化に興味津々のブリタニア人の友人には好評だが、生まれたときからここに住んでいる僕にとっては何もかもが重苦しく感じられた。
日本国首相を父に持ちながら、僕の政治に対する興味は薄かった。父親が首相だからこそ興味を持てないと言ってもいい。
昔はそれなりに尊敬していた父だけど、成長するに従って大人の嫌な部分も知るようになった。
表沙汰にできないような話やこっそり交わされる約束など、家の中にいたら人間の汚い部分ばかりが嫌でも目に付いた。まだ小さい僕にお年玉をくれた先生たちも、その裏では私腹を肥やすことに精を出しているのだろうかと思ったら、世の中の何もかもが信じられなくなってしまった。
そういうわけで、十七歳の僕は擦れた高校生となった。
もっとも、非行に走ったり悪い仲間とつるんだりするのは興味がないので、心が擦れているだけで表向きはごくごく普通の真面目な高校生である。
(ブリタニアの皇子様ってどんな人なんだろう)
部屋に戻っても当然勉強はしない。椅子に座って教科書は開いたものの、肘をついてただペラペラと捲るだけだ。
世界史にも日本史にもブリタニアの名前は出てきた。
正式名称は神聖ブリタニア帝国。皇帝が治めるその国は超の付く大国で、かつては世界地図がブリタニア一色に染まったそうだ。
大昔は日本もブリタニアの属国となり、日本人はブリタニア人に虐げられていたらしい。
しかし、僕の生まれるずっと前に当時のブリタニア皇帝が政策を転換し、すべての国を解放した。このことで日本を始めとする国々は主権を取り戻し、現在の世界の形が出来上がった、というのが教科書に載っている内容だ。
現在でも日本の街にブリタニア人が多く見られるのは昔の名残で、ブリタニア由来の学校や施設も多い。僕の学校にもブリタニア人が多く在籍していて、日本人の友達もブリタニア人の友達も同じくらいいる。過去のしがらみなどなく、実に平和だ。
そんな僕たちが昔は敵同士で、戦争をしていたというのはなんだか不思議な感じがした。
(皇子って言うくらいだから、きっと華やかでキラキラしてるんだろうな)
今のブリタニア皇帝には百八人の皇妃がいるらしい。世の中にはたったひとりの妻にすら苦労している夫もいるのに、やはり世界の覇者ともなればそのくらいの甲斐性が必要なのかもしれない。
妻が多ければ子供も多いのが当然だろう。皇子皇女の人数は数えればわかるのだろうが、一人一人の顔と名前を探すほどの熱意も興味もない。
ただ、公に顔を出していて、一般人でも顔と名前が一致する皇族は意外に少なかった。僕でも知っているのが帝国宰相のシュナイゼルと、皇帝に代わって軍を率いているコーネリア、そして先日、日本大使に就任したばかりのクロヴィス。せいぜいその三人だ。
僕がニュースを知らないだけかもしれないが、ブリタニア人のクラスメイトの口からもその三人ぐらいしか名前が出てこなかった。世界のブリタニア皇帝の子供でも、出来の良い者はなかなかいないらしい。
となれば、枢木ゲンブのひとり息子が多少不出来でも仕方ないなと思い、僕は大きく伸びをした。
「お風呂入ろ」
やる気がないのにだらだら机の前にいても無駄だと判断して、開いただけの教科書を閉じた。
(毎日つまらないな)
何か刺激が欲しい。事件とか、運命の出会いとか、映画みたいな出来事に遭遇してみたい。
そう思った自分に馬鹿じゃないかと笑った。映画みたいなことがそうそう起こるわけがない。
淡々とした日常は飽きるほどにつまらないけれど、裏を返せば日本が平和な証拠だ。
(平和なのが何より)
だから、映画みたいなことは現実に起こらなくていいのだ。
次の土曜日。僕はぶらぶらと街を歩いていた。
家にいても息が詰まるだけなので朝から飛び出してきたのだが、こういう日に限って友達は誰も捕まらない。みんな、塾だバイトだデートだと何かと忙しいらしい。
暇なのは僕だけかと思うと、せっかくの青春を無駄遣いしているような気分になった。
(映画も観たいのは特にないし、買い物はこの間したから今は欲しいものないし、ご飯を食べるのはまだちょっと早いし)
たまには趣でも変えて美術館にでも行ってみようか。動物園や水族館はさすがに一人では行きにくいけれど、美術館なら高校生一人でもさほど目立たないだろう。
この辺りに桜の名所があったから、そこをぶらぶら歩いて美術館まで向かおう。
ようやく目的を見つけた僕は方向を変えて大通りを下った。それから左に曲がり、階段を下りようとしたところで不審者を見つけた。
不審者と言っても、凶器を持った怪しい人とか露出狂とかではない。相手は同い年ぐらいの、後ろ姿から推測して恐らく男だ。
彼は植え込みの陰に隠れて先ほどから何やら窺っている。その様子が不審で、周囲を歩いている人たちもちらちらと彼を見ていた。
何をしているのかは知らないがあまり関わらないほうが良さそうだと思い、彼から少し距離を取ったのと、くるりと振り返った彼が勢いよく駆け出そうとしたのは同時だった。
真正面から彼とぶつかってしまい、ほわぁっ! と素っ頓狂な声が上がった。ぶつかられてもまったく動じなかった僕とは正反対に、目の前の体が後ろに吹っ飛びそうになる。
僕は咄嗟に手を伸ばし、彼の腕を掴んで引き寄せた。それから腰を抱いて相手の体を支える。
「すみません、大丈夫ですか?」
いきなりのことによほど驚いたのか、腕の中の彼は俯いたまま微動だにしない。
(まさか怪我してないよね? 相手からぶつかってきても、相手が怪我をしたら僕のせいになるんだっけ?)
騒ぎになったらまた父さんがうるさいだろうなとげんなりしていたら、ぼそぼそとした声が聞こえた。それは、危ないじゃないか、という意味のブリタニア語だった。
「え?」
日本人じゃない? と思ったタイミングで彼の頭が上がった。そこにあったのは、これまでいろんな女性を見てきた僕でも見惚れてしまうほど綺麗な顔だった。
僕を見てハッと見開かれた目はこれまた美しい紫色で、ガラス球のように透き通った瞳に吸い込まれそうだ。
家柄のおかげと言うべきか、パーティーや会合などの席で女優やモデルといった人たちに会う機会は多い。さすがにプロだけあって美人ばかりだけど、驚くほどの美人というのはまだお目にかかったことがなかった。。
だけど、目の前にある顔は純粋に綺麗だと思った。息を呑み、精巧に作られた人形のような造形をまじまじと見つめる。
「俺の顔に何かついているのか」
彼の口から発せられたのは日本語で、あれ? と僕は首を傾げた。
「日本語……」
「話せるに決まっているだろう。それよりそろそろ離してくれないか」
道の真ん中で抱き合っていたことに気付き、慌てて手を離す。仕立ての良さそうなジャケットを整えた彼は、ちらりと僕を見てきた。
「すまなかったな」
「いや、よけられなかった僕も悪いから」
いきなり突進してきた相手のほうが明らかに悪いのに、なぜかそう答えていた。
「怪我はしてない?」
「ああ」
答えながら彼は後ろを気にしていた。釣られるように同じ方向へ目を向ければ、黒いスーツに身を包んだ複数の男たちが辺りをきょろきょろしているのが見えた。
ちっ、と舌打ちが聞こえ、「ぶつかって悪かったな」と言った彼が僕の横を通り過ぎようとした。
このまま行ってしまう。そう思ったら妙な焦燥感のようなものを感じ、僕は手を伸ばして彼の腕を再び掴んだ。すると、秀麗な顔が不愉快そうに顰められた。
「ちょっと待って」
「謝罪が足りないと言うのか。すまないが今は急いでいるんだ」
「違うよ、そうじゃなくて」
自分が何を口走っているのかよくわからないまま次の言葉を告げようとしたとき、あっちだ! と叫ぶ声が聞こえた。見れば、先ほどの黒いスーツの男たちがこちらに向かって走ってくる。
「え? 何?」
「もたもたしているから見つかったじゃないか! いいから手を離せ」
「えっと、とりあえず逃げればいいの?」
「はあ? なんでお前まで――」
彼の言葉が終わらないうちに走り出す。掴んだ手はしっかり握ったまま。
この辺りは大通りから一歩中に入ると細い路地が複数ある。開発されて新しいビルが立ち並ぶ大通り側とは逆に、懐かしさを感じる古い町並みが広がっていた。
元の住人がいなくなり、一昔前は空き家が増えていたそうだが、自分の店を持ちたいという夢を持った人のために空き家を改装して貸し出すという取り組みが行われていて、裏通りにも人が戻って来たらしい。また、日本っぽい町並みは外国人観光客に人気で、カメラを首から下げた人たちとよくすれ違う。
だけど、僕たちは小洒落た店や趣のある家々には目もくれず、角を何度も曲がってひたすら走り続けた。
僕に無理やり連れて行かれる形になった彼は、初めこそ何やら喚いていたけれど、今はすっかり大人しくなっていた。ぜえぜえという苦しそうな息が聞こえてきて、走る足もだんだん遅くなる。
「もう、いいから、止まれ…っ」
後ろから切れ切れに訴えられ、僕はおもむろに足を止めた。振り返ると、膝に手を付いた彼が肩で大きく息をしていた。
「大丈夫?」
「大丈夫な、わけ、あるか……ったく」
文句は見事な日本語である。最初の第一声がブリタニア語だったから、流暢な日本語がまだ信じられない。
ようやく呼吸を整えた彼が顔を上げた。相変わらず綺麗な顔だ。走ったせいで少し乱れた髪は、むしろどことなく色気を感じさせた。
(って、相手は男だろ)
綺麗とか色気とか、男に使う単語ではない。でも、綺麗なものは綺麗なんだから仕方ないと思う自分もいた。
「君、追われてるの?」
単刀直入に聞くと、彼が肩を竦めた。
「追われていると言うか逃げていると言うか。あいつらはまけたからそれについては感謝しているが、見ず知らずの人間といきなり一緒に逃げるなんて馬鹿じゃないのか。危機感がなさすぎる」
「つい逃げちゃったんだよね」
「何がついだ。俺が警察から逃げている殺人犯だったらどうするつもりだ」
「でも、せっかく縁ができたのにあれでおしまいなのはもったいなかったから」
どういう意味だと彼が眉を寄せる。どういう意味だろうと僕は曖昧に笑った。
「とにかく、お前は無関係だ。ここまで一緒に逃げてくれたことは感謝するが、あとは一人で行く」
「駄目だよ、一人じゃ危ないって。さっきの人たち、君を探してるんでしょ?」
「それがわかっているならもう関わるな。本当に俺がやばい人間だったらどうするんだ」
「本当にやばい人間なら僕のこといちいち心配してくれないよね? いいから一緒に行こう。君ってブリタニア人だよね? 日本に住んでるの? それとも初めて?」
「おい、人の話を聞け!」
彼の手を掴めば、三度目はさすがに振り払われた。
「あいつらに見つかったらお前も何をされるかわからないんだぞ。自分の人生を台無しにしたくないだろ? だったら早く行け。無関係な人間を巻き込むつもりはない」
「君、所持金は?」
「お前、本当に人の話を聞いてないな」
「巻き上げるつもりじゃないから安心して。でも、逃亡するなら所持金は必要だろ? 見たところ荷物も何も持ってないけど、このあとどうやって逃げるの?」
「カードはある」
「それだけ? あんな風に追ってくる相手ならカードの利用を停止させていたり、カードから足が付いたりするんじゃない? 逃亡にはやっぱり現金がないと」
「何が言いたいんだ」
「僕なら現金持ってるよ」
彼が不審そうな顔をした。しばらく僕をじっと見つめたあと、小さく息をつく。聞き分けのない子どもを相手にする大人のような態度だ。
「現金がないのは確かに不便だな。それに、日本は滞在一週間目だ。地理には疎いから現地の人間がいたら何かと助かる。というわけで、お前を案内役に雇いたい」
「ついでにボディガードもできると思うよ。体力と体術には自信あるから」
「それはいいな。じゃあ、今日一日のボディガードを頼もうか。報酬はあとで支払う」
「報酬目当てじゃないからいらないよ」
「そういうわけにはいかない。巻き込む以上、なんらかの礼はする」
意外に義理堅いらしい。それ以上に、意外に人を信じるんだなと思った。
こちらから言い出しておきながら失礼な感想だが、さっき出会ったばかりの日本人をこんなにあっさり信じるなんて、彼のほうこそ僕がやばい人間だったらどうするつもりなのだろう。
(こんなに綺麗だとあちこちでナンパされそうだから、僕が傍にいるのは大正解だけど。ま、僕もナンパしたようなものだけど)
あれこれ理由をつけているが、要はナンパだ。
彼に一目惚れした。
もちろん本気の恋愛感情ではないものの、生まれて初めて見惚れた相手ともっと一緒にいたいと思ったのは本当である。
ぶつかるというアクシデントがなかったら永遠に出会わなかった相手だ。このままここでお別れしたら一生後悔するだろう。
「じゃあ、設定を考えようか」
「設定?」
「逃げるなら周りに馴染んだほうがいいでしょ? 来日したばかりの君を案内する日本人の友人ってのが無難だけど……」
ふと、斜め前の店が目に入った。そこは女性向けの洋服を取り扱っているようだ。店頭にはディスプレイされた可愛らしい小物がある。
しばらく店を眺めたあと、彼に目を戻した。黒のジャケットに黒のスラックスという出で立ちは彼によく似合うが、似合いすぎていて逆に目立つ。ブリタニア人だから手足はすらっとしているし、何よりその容貌だ。ただ歩いているだけで注目を浴びるだろう。
「とりあえず変装かな」
「変装?」
「さっきの連中は君のその格好を覚えているだろ? 服を変えるだけでも随分印象が変わると思うんだ」
「それは言えてるな」
「だからさ、友達じゃなくて恋人って設定にしない?」
「は?」
「女装しろって意味じゃないから安心して」
「安心できるか! なんだその恋人というのは」
「まあいいから、とにかく着替えてみようよ」
「本当に人の話を聞かないやつだな!」
ぎゃあぎゃあ喚く彼を連れて店に入る。彼ならば男と言えば男、女と言えば女だと思われるだろうという予想は当たり、店員は彼を僕の彼女と思い込んでくれた。
ブリタニア人の彼女でいつもこんな男みたいな格好なんですけど、せっかくだからちょっとでも日本の可愛いものを着せてあげたいなと思って、と適当なことを喋っていたら隣から射殺されそうな視線を送られた。
しかし外面はいいようで、店員の顔が向いたときだけはにこにこと人当たりの良い笑みを浮かべている。日本語がわからないふりをしているのは、ただ単に面倒だからだろう。
そうして僕と店員の二人で選んだ服を押し付けられ、渋々着替えた彼が試着室から出てくると二人分の歓声が上がった。
スカートだけは絶対に嫌だという彼の断固たる反対により、細身のジーンズを選んだのだが、ロング丈のニットがミニワンピースのようでお尻をすっぽり隠していて、それがたまらない可愛らしさを生み出していた。
あまり女の子らしくならず、でも今の格好よりは女の子っぽく、という僕の希望は見事に叶ったわけである。
店員に絶賛されながら店を出た僕たちは、見た目だけはすっかり恋人のようになっていた。少なくとも、何かから逃亡している人物と、そのボディガードを請け負った人間には見えないだろう。
「なんだか落ち着かない……」
隣を歩く彼が居心地悪そうにニットの裾を弄っている。そういう仕草をするとますます可愛くなっちゃうんだけど、という感想は胸の中に収めて僕は笑顔を向けた。
「似合ってるよ」
「どうも」
「男にも女にも見えるから大丈夫だって」
「それのどこが大丈夫なんだ」
「変装は完璧ってこと」
最後の仕上げと、小さな頭にニット帽を被せる。
「顔が隠れなきゃ帽子の意味がないだろ」
「じゃあついでに眼鏡もかける?」
店でこっそり買っていた眼鏡を取り出せば、彼が呆れたような顔をした。
「いつの間に……」
「伊達だから度は入ってないよ」
差し出した眼鏡を見て少し考えた彼は、文句も言わずに受け取った。眼鏡が加わるとさらに印象が変わる。
着せ替え人形で遊ぶ気分ってこんな感じかなと、彼が聞いたら怒りそうなことをこっそり思って口元を緩めた。
「服が変わるとやっぱり違うね」
「変じゃないか? こういう服は初めて着るから勝手がわからないんだ」
「普通にしてたらいいよ。で、あとはね――」
彼の私服が入った紙袋を左肩にかけ、空いた右手を伸ばす。そうして繋いだ手と手を掲げて見せた僕は、「これで恋人の出来上がり」と茶化すように言ってみせた。
相手は男だ。恋人設定とは言え、無理やり押し付けたものだから彼が嫌がればそれまでである。先ほどは振り払われたから今度もそんな反応が返ってくるかなとダメ元で繋いだ手は、しかし予想外に離れることはなかった。
ほんの少しだけムッとしながらも、その頬は微かに赤い。意外な反応に思わずぽかんとすれば、彼がふいと顔を逸らした。
「人目を避けるためだ。仕方ないから付き合ってやる」
「えっと……ありがと」
あんなに嫌がっていたのにどういう風の吹き回しだろう。恋人設定が有効だと認めたのか。それとも、逃げるためには手段を選ばないことにしたのか。
(一緒にいられるならなんでもいいや)
少し迷ったあと、思い切って指を絡めてみた。いわゆる恋人繋ぎというやつだ。
彼は特に反応しなかったけれど、指先にわずかに力を込めてくれた。それだけで僕には充分だった。
「ねえ、こんな格好しているわけだし、せっかくだからデートしようよ」
「デートって……」
「恋人なんだからデートでしょ? どこか行きたいところある? それともお腹空いた?」
考える素振りをした彼は、辺りを見回してから左斜めを指した。
「あれが食べてみたい」
「クレープ、好きなの?」
「日本に行ったら食べてもらいたいリストの中に入っていたんだ」
「リストって何?」
「妹が作ってくれたんだ。日本に行くんだから美味しいものを食べてきてほしいって」
「へえ、わざわざ作ってくれるなんていい妹さんだね」
妹を褒められたことが嬉しいのか、彼がふわりと微笑んだ。出会って以来、初めて見る笑顔は蕩けそうで、それだけで彼が妹のことをとても可愛がっていることがわかった。
僕には兄弟がいないのでお兄ちゃんや妹という感覚がわからないけれど、仲の良い兄妹がいるのは羨ましかった。
「そのリスト、クレープのほかには何があるの?」
「ほかはたこ焼きとかソフトクリームとか。あとは和菓子の店もあったな。芸術品みたいに綺麗なお菓子を作ってくれる店があるらしいんだが、知ってるか?」
店名を聞き、ああ、あの店ねと頷いた。
「たまに買ってもらうから知ってるよ。あそこは美味しいからオススメ」
「そうか。やはりナナリーの目に狂いはなかったな」
自分が褒められたように喜ぶ彼は本当に妹のことが好きらしい。ナナリーというのが妹の名前なのだろう。
「じゃあまずはクレープを食べて、それから和菓子に行こう。店がちょっと離れてるから電車で移動して――」
「電車に乗れるのか?」
「うん」
「電車か、いつかは乗ってみたいと思っていたがまさかこんなに早く乗れるとは。人にぶつかってみるものだな、ありがとう」
「う、うん」
電車でこんなに反応されるとは驚きだ。もしかしたら彼はとんでもないお坊っちゃんなのではないか。着ていた服も年の割にはかなり上等だったし、粗野に振る舞っているようでその仕草の一つ一つには上品さが窺える。
(違う意味でやばい人だったりして)
思わず辺りを見回し、黒いスーツが見えないことに安堵した。
あまり目に付かないほうがいいかと店内のイートインスペースに彼を座らせ、二人分のクレープを買いに並ぶ。何味がいい? と聞いたとき、トッピングを見て迷わず「プリンがいい」と答えた彼は恐らくプリン好きだ。
(プリンが好きなら専門店に連れて行ってもいいけど、甘いものばかりだと飽きるかな)
時間があったら提案してみようと決め、出来立てのクレープを彼のところに運んだ。生まれて初めてクレープを目にしたのかと思うほど彼は感激してくれた。
「こういう形のクレープは初めてだが面白いな」
「中からクリームが飛び出さないように気を付けてね」
どうやら彼は何もかもが初心者らしく、その様子を親のようにはらはらして見守る。幸い、僕が心配するような事態にならなかったのは、彼が食べ方まで上品だったからだ。
「美味しい?」
「味は悪くないが、クリームが多いからもうちょっと減らしたほうがいいな」
「厳しいね」
「でも、こんな風に誰かと一緒に食べるのは楽しい」
少しはにかんだような横顔に、僕はクレープを食べるのを忘れてぼんやり見つめた。
「何かついてるか? クリームか?」
「あ、ううん、なんでもない」
「お前、俺の顔ばかり見てくるな。ブリタニア人はそんなに珍しいのか?」
まさか見惚れていましたとは言えず、笑って誤魔化す。
「別に珍しくはないよ。ブリタニア人の友達がいるからね」
「そうなのか?」
「学校にもブリタニア人は多いし。日本人と半々って感じかな」
「ちゃんと仲良くしてるんだな」
「当たり前だよ」
街を歩けばいろんな国の人がいる。日本はブリタニアの属国だったからブリタニア人が多いけれど、ほかの国から来た観光客もよく見かけた。いまどきブリタニア人だからという理由だけで珍しがる人はいない。
「でも、日本人の中にはブリタニア人を目の敵にしている者もいるんだろう? 昔の戦争とか植民地時代のことを今でも許してないって」
「お年寄り世代だとわからないけど、僕たちの世代はそんなことないよ。だいたい、日本がブリタニアの属国になっていたのってもう百年以上前のことだよ。その頃に生まれていたとしてもまだ赤ちゃんでしょ? さすがに自分の経験として覚えている人はいないよ」
「じゃあ、日本人がブリタニア人を恨んでいるという話は……」
「誰だって好き嫌いはあるから、中にはブリタニアが嫌いな人もいるだろうけど、みんながみんな恨んでるってことはない。少なくとも僕は嫌いじゃないよ。恨んでいるなんて誰から聞いたの?」
「いろんな情報の中にそういう話があったんだ。でも、こうして一緒にクレープを食べているんだから野暮な質問をしたな」
すまないと言って、彼はクレープに齧り付いた。
(まさか日本人はブリタニア人を恨んでいるから僕に何かされるんじゃないかと思ってたのかな)
警戒した様子はまったくなかったけれど、心のどこかでそういう疑念はあったのかもしれない。誰が彼にそんな嘘を吹き込んだのかと、顔も知らない相手にむかっ腹が立った。
そして、僕はどうしてこんなに憤慨しているのだろうとふと疑問が浮かぶ。
彼に嫌われたくないからだと気付いたとき、まるで本当に恋をしたみたいだと思った。
紙コップの水を飲む横顔はどこまでも綺麗だけど、その喉仏は確かに男のものだし、いくら美人でも男とはさすがに付き合えないと自分自身を笑い飛ばそうとしたのに上手くいかない。
(どうしよう。本気で好きになったかも)
愛の前では性別も国境も人種も関係ないと言うが、そのすべてが揃うとさすがに手強い。
しかも、相手はどこの誰かもわからない人間だ。本当にお尋ね者かもしれないし、恐ろしく身分の高い人間かもしれない。好きになるにはリスクの高すぎる相手だ。
友人が隣にいたら「愛にハードルは付き物だ」と背中をばんばん叩いてくるかもしれないが、あまりに高いハードルはできればご遠慮願いたい。映画みたいな出来事を夢見ていたくせに、現実にそれが起こると拒否するのだから我ながら現金なものだ。
店内が混んできたのでゴミを捨てて外に出る。彼のリクエストである和菓子屋に行くため駅を目指していると、「あれは観覧車か?」と隣から聞かれた。
ビルとビルの間に見えるのは赤い観覧車だった。
「もしかして観覧車も初めて?」
「ああ。写真では見たことがあるが、実物は初めてだ」
観覧車すら初めてとは、今までどうやって生きてきたのだろう。逆に何が初めてではないのかと聞いてみたい。
「乗ってみる?」
「いいのか?」
「もちろん」
彼の表情が輝いた。生まれて初めて遊園地に行く子供みたいで可愛い。
すっかり恋人設定に慣れたのか、店を出た僕たちの手は自然と繋がれていた。早く行こうと彼に引っ張られ、これじゃあ本物のデートだなとくすぐったい気分になる。恋人にしようと決めたのは僕なのに、僕のほうが少し照れていた。
過去に何人か彼女はいたけれど、こんな風にデートを楽しんだことはない。何より、彼ほど好きになった相手がいない。
どの相手も僕ではなく枢木の名前が目当てだったし、そういう相手ばかりだったから僕のほうも真剣に付き合う気にはなれず、長くて一ヶ月、短いと一週間でさよならしていた。
僕たちが本物の恋人だったらいいのに。彼の手を握り締める右手に無意識に力がこもった。
今日出会ったばかりの素性も知らない相手に本気になるなんてどうかしている。枢木家嫡男としての冷静な僕はそう言っていた。
父親の目を気にしてこれから先も無難に生きていくつもりか。やっと好きな人ができたのに、自分の気持ちと向き合いもせずに逃げ出すのか。ただの枢木スザクである僕がそう言っていた。
(無理だよ。好きなんて言えるわけがない)
彼は行きずりの人で、これはうたかたの恋だ。明日になれば何もかも忘れてしまう。
だから、彼とは今日限り。
奇しくも今日はエイプリルフールだ。嘘の恋人を演じるにはちょうどいい日だろう。
観覧車の真下に到着すると、二人でチケット売り場に並ぶ。周りはカップルだらけだけど、すっかり溶け込んでいる僕たちがなんだか可笑しかった。
「高校生を二枚お願いします」
彼の年齢は聞いていないが、多分同じ高校生だろうと決め付けて高校生用チケットを頼んだ。すると、売り場のスタッフに「カップルですか?」と聞かれた。はい、と迷わず答える。
「今日はカップル限定で百円引きになっています」
二人で二百円引きになったチケットを受け取って歩き出す。もちろん手を繋いで。
ふと隣の彼と目が合い、一緒になって噴き出した。
「僕たち、カップルだって」
「ちゃんと恋人に見えて良かったな」
「二百円引きって高校生には大きいよ」
喋りながら観覧車の入口に向かう。列はスムーズに進み、あっという間に順番が来た。
彼をエスコートして乗り込むと、ぐらぐら揺れる不安定な足元に彼が僕にしがみ付いてきた。咄嗟の支えにされただけだとわかっているけれど、頼られたことが素直に嬉しい。
「こんなに揺れるものなのか?」
「座っちゃえば平気だよ」
揺れるのがよほど嫌なのか、正面にちょこんと座った彼は借りてきた猫のように大人しい。
「そんなに怖がらなくても」
「怖がってない」
「ほら、ちゃんと外見て。今さらだけど、まさか高所恐怖症ってことはないよね?」
「高いところは平気だ」
「じゃあ景色を楽しもうよ」
「観覧車とは景色を楽しむものなのか?」
どうなのかなと首を傾げた。観覧車に乗るのは子供のとき以来だから、そう問われると答えに困る。
「そもそも観覧車は誰と乗るんだ?」
「子供のときなら家族で、大きくなったら恋人?」
「友達とは?」
「ノリで乗ることはあるかもしれないけど、僕はお断りかな。こんな狭い場所に男同士で来てもむさ苦しいだけじゃん」
「今も男同士だろ」
「だって君は――」
口を噤み、改めて彼を見る。
不意に悪戯心が湧いた。どうせ今日一日なのだからと自棄になったとも言える。
「ねえ、いいこと教えてあげようか。観覧車のてっぺんで、あることをしたら願いが叶うんだ。試してみない?」
「あることって?」
「てっぺんに着いたら僕がやってあげるよ」
そうか、じゃあ頼む、と何も知らない彼が答えた。騙していることに罪悪感はあるが、最初で最後だからと言い訳をする。
ゆっくり動く観覧車がやがて頂上付近に来た。僕は腰を上げ、彼の座席に手を付いた。
「目を閉じて、心の中でお願い事をするんだよ」
頷いた彼が瞼を下ろす。印象的な瞳が隠れても彼の美しさは変わらない。その造形の素晴らしさに溜め息が零れそうだ。
ゆっくり顔を近付けた僕は、彼の唇に自分の唇を押し付けた。
三秒間のキス。
慎重に離れたのと同時に紫色の瞳が現れ、きょとんとした様子で見つめられた。にこりと笑いかければ、ようやく何をされたのか気付いたらしい彼が驚愕の表情を浮かべる。
「な…っ」
反射的に腰を浮かせかけた体を抱き寄せる。その衝撃に乗り物が揺れ、腕の中の彼が固まった。
「動くと危ないって言っただろ」
「お前、い、今、何を」
「キスだよ」
彼を膝の上に乗せたまま囁けば、白い頬が一気に赤くなった。初々しい反応に笑みが漏れる。
「僕たち恋人でしょう?」
「だからって、ここまでしなくてもいいだろ!」
「ブリタニア人ってキスには慣れてるんじゃないの?」
「俺は慣れていない!」
そうなの? と問えば、彼がそっぽを向いた。
「こういうことをするなんて、お前はさぞかしもてるんだろうな」
「別にもてないよ。近付いてくる女の子は多いけど、みんな僕じゃなくて僕の後ろにあるものが目当てなだけだし」
「目当てとは?」
「ま、色々とね。これで意外と不自由な身なんだ」
曖昧に笑えば、なぜか彼は哀しそうな顔をした。どうしたのかと思っていると、おもむろに眼鏡が外される。
「――なあ、下に着くまであとどのくらいだ」
「五分ぐらいかな」
「そうか。あまり地上に近いと人に見られるし、せいぜい二分ってところだな。ちゃんと計っておけよ」
何を? と疑問に思ったのと同時に顔が近付いた。
彼のほうからキスをされている。それに気付いて頭の中が真っ白になった。
先に仕掛けたのは自分なのに、相手からキスをされることは想定していなかったから今度は僕が固まってしまった。
だけど放心したままなのは男がすたると、彼の腰をさらに抱き寄せ、左手は後頭部に当てた。体が密着し、興奮が高まる。
顔を交差させながら口付けていると、たどたどしく彼が唇を開いた。その隙間から捻じ込むように舌を入れる。
「ふぁ、ッ、ん……、ンぅ」
唾液の絡む濡れた音が狭い空間に響き、自分たちがひどく淫猥なことをしている気分になった。
彼も興奮しているのか、頬を上気させて必死に応えようとする姿は艶かしい。ここが観覧車でなければ間違いなく押し倒していただろう。
しかし、地上がだいぶ近くなり、僕はなんとか理性を取り戻した。触れていた舌を名残惜しく感じながら離す。
「ァ……」
切なそうな声を漏らして彼が息を整える。僕は彼の濡れた口元を舐め、下唇を柔らかく食んだ。
最後に細い体を抱き締めれば、彼も僕の背中を抱き返してくれた。互いの心臓がどくどくと鳴っている。
「二分だ」
無情な宣告をした彼が腰を浮かした。僕は引き留めずに腕の力を抜いた。
残りの三分間、二人ともずっと黙っていた。気まずさからの沈黙ではない。体に残った熱と互いの体温を噛み締めるための時間だった。
観覧車を降りればすべてが終わる。なぜかそんな予感があった。
その予感が正しかったことは、出口と書かれたゲートを出たところで知ることとなる。
彼の斜め後ろを歩いていた僕は、突然立ち塞がった男によって歩みを止められた。
「お迎えに上がりました、ルルーシュ様」
膝をつき、深々と頭を下げる相手に彼が溜め息をつく。
「鬼ごっこは終わりか。兄上が気付いたか?」
「ルルーシュ様の御不在にすっかり取り乱されております」
「今日だけならばれないだろうと思ったが、お前たちに悪いことをしたな」
「いえ、お止めしなかった私に責任があります」
「私のせいだとはっきり言え。お前は真面目すぎるんだ、ジェレミア」
「ルルーシュ様にそうおっしゃっていただけるのは光栄です」
「まったく、嫌みも通じない。――二分だけ待ってくれ」
彼がくるりと振り返り、僕のほうに歩いてきた。道を塞いでいた男が後ろに下がる。
「ここまで付き合ってくれてありがとう。楽しかった」
何を言えばいいのかわからず、僕はふるふると首を振った。彼は困ったような顔で微笑んだ。
「約束通り報酬は支払う」
「お金なんかいらないよ。報酬をくれると言うなら、もう少しだけ僕と一緒にいて」
「それはできないんだ、すまない」
「だったら、また会ってくれないかな」
少し考えた彼が、そうだな、と呟いた。
「良い方法を思い付いたら実行してみよう。そしたら会ってくれるか?」
「もちろんだよ。どんな方法でも君に会いに行くから」
「そうか。またお前に会えたら俺も嬉しい。じゃあな――、スザク」
綺麗に笑って彼は背を向けた。その場にいた人間たちが彼のあとに付き従う。まるで彼が王様のようだ。
「――あれ? そういえば、なんで名前……」
彼が僕の名前を口にしたことに気付いたのは、一行の姿がすっかり見えなくなった頃だった。一度も教えていないのに、なぜ彼は僕の名前を呼んだのだろう。
「ルルーシュ様、か……」
それが彼の名前らしい。
ルルーシュ、と口の中で大事に呟き、右手を握り締めた。彼の手をもう握れないのかと思うと寂しくて、振り切るように歩き出した。
どこの誰かもわからない、一日だけの恋人。
でも、いつかきっとまた会える。僕はその予感を信じることにした。
「スザク! どういうことだ!」
帰るなり父親に大声で呼ばれ、嫌々書斎に行くと今度はわけのわからないことを問い詰められた。
なんでもブリタニア大使との会談が再セットされたが、一つの条件を出されたらしい。
それは、首相令息の枢木スザクを同席させるというものだった。
お前は何をやらかしたんだと怒鳴られたけれど、身に覚えのないことで首を傾げるしかない。こちらは傷心だと言うのに、がみがみと説教されるのも不愉快だ。
「あちらはあちらでおまけがついてくるし、一体どうなっているんだ。ええと、名前はなんと言ったか」
「ルルーシュ殿下です」
秘書の答えた名前にハッとする。まさかと思ったけれど、もしかしてという期待が膨らんでいく。
「クロヴィス殿下最愛の弟のようで、若干十七歳でありながら政治手腕を買われていて、あのシュナイゼル殿下からの信頼もあついとのことです」
「そんな人間、聞いたことないぞ。作り話じゃないのか?」
「あまり目立つことを好まない皇子のようで、今まで表舞台には上がってこなかったそうです」
「じゃあなんで今回は出てきたんだ。しかも噂では、クロヴィスを裏で操っているのはその弟らしいじゃないか」
「あくまで噂ですが、会談を延期にしてきたのも弟のルルーシュ殿下の入れ知恵のようでして。ただ、こういう話が今回一気に漏れてきたのは非常に怪しく、どこまで信憑性があるのかは……」
「その上、スザクを呼べと来た。あいつらの魂胆はなんなんだ」
父は苛々しているが、僕はそれどころではなかった。
(君がルルーシュ殿下……?)
部屋には返しそびれた彼の服がある。良い方法とはあれを口実にでもするのだろうかと思っていたが、彼は僕の想像以上の方法を見つけたらしい。
「会談はいつですか」
不機嫌な父を無視して秘書に問えば、明日だと教えられた。
明日。四月二日。
僕は思わず笑い出した。父も秘書も怪訝な顔をしているが、この嬉しさと可笑しさを説明することはできない。
四月一日限りの偽りの恋人と四月二日に再会する。
(嘘を本当にしようってこと?)
それとも僕はまだ嘘をつかれているのだろうか。
いずれにしろ、明日になればすべての真実がわかる。
(早く君に会いたいよ、ルルーシュ)
こんなに待ち遠しい明日は生まれて初めてだ。
「こちらの要求通り、枢木首相の息子が来るそうだ。これでいいんだろう? ルルーシュ」
「はい。ありがとうございます、クロヴィス兄上」
「でもなぜ首相の息子を? 日本との交渉は先延ばしにするんじゃなかったのかい」
「彼にはちょっとお世話になりまして。それに、交渉先延ばしの件はシュナイゼル兄上からの指示でしたが、兄上には日頃散々こき使われているので、たまには俺の我儘を聞いてもらおうかと思って。彼への報酬の件もありますし」
「なんの話かな?」
「兄上は知らなくていいことですよ。ところで、エイプリルフールの翌日をなんと言うか知っていますか?」
「藪から棒だね。エイプリルフールの翌日に名前があるのかい?」
「何もありませんよ。でも、エイプリルフールについた嘘を真実にする日、ってことにしたらいいと思いませんか?」
「嘘を真実にする日か。ルルーシュもなかなかロマンチストだね」
「兄上ほどではありませんけど。でも、たまにはいいでしょう」
くすくす笑ったルルーシュが窓の外に目を向けた。眼下にはトウキョウの夜景が広がり、地上に星が降ったようだ。
あの明かりの下に彼がいる。そう思うだけ愛しい気持ちが胸に広がった。
「俺は、観覧車での願い事が叶えばいいなと思っているだけです」
(17.04.01)