僕はそれを運命と呼ぶ

 手を伸ばし、隣で眠っている身体を抱き寄せた。
 線が細くてお世辞にも抱き心地がいいとは言えない。柔らかい胸もない。それどころか手のひらで触った場所は真っ平らだ。
 (肉付きが良くて大きな胸のほうが好きだなぁ。でも……)
 僕の好みからはかけ離れている身体なのに、抱き締めているとひどく安心する。とても心地よい。ずっと抱き締めていたい。そんなことを夢見心地で考えながら、僕の手は薄い胸を何度も撫でていた。
 肌の感触を手のひら全体で堪能する。顔を近付けると、後ろ髪を鼻先でかき分けて首の後ろに唇を寄せた。
 昨日もこんな風に身体の至るところにキスしたっけ。そう思い、噛み付くように滑らかな皮膚に吸い付いた。

「ン……ぅんっ」

 途端に色っぽい吐息が聞こえた。
 なんて良い声だろう。恥じらい、必死に声を押し殺し、だけど抑えきれない喘ぎが唇の隙間から漏れていたことを思い出す。彼の声をもっと聞きたくて、わざと意地悪をしてたくさん啼かせたのだ。
 (……ん? 彼?)
 何かがおかしいと気付いた。でも、寝ぼけた頭は『何か』の正体を正確に思い出してくれない。なんだっけ、と夢うつつに考えている間も腕の中の身体をいやらしく触っていると、突然手の甲をつねられた。

「いった!」

 叫び声を上げて慌てて手を離すと、「この変態が」とやけにドスのきいた声が耳に届いた。こんな低音の女の子がいるだろうか。
 そこで僕はようやく覚醒した。

「え……?」

 先ほどまで抱き締めていた身体がむくりと起き上がる。その上半身は明らかに女性のものではなく、僕の頭はしばしフリーズした。

「朝っぱらからどこを触っている。万年発情期か。これだから誰彼構わずナンパするような軽い男は嫌なんだ」

 軽蔑したように一瞥してくる顔はビックリするほど綺麗だった。百人中百人が美人と認めるような美貌だ。
 しかし、いくら美人でも男と女は間違えない。目の前の彼は女性と見紛う美しさだが、それでも裸になればさすがにわかる。にもかかわらず、この状況はどういうことか。

「えっ……と、どちら様ですか」

 僕が尋ねた刹那、彼の顔から表情が消えた。だけどそれはほんの一瞬で、僕が次にまばたきをしたときにはうっすらとした笑みが浮かんでいたから見間違いだろう。

「随分な挨拶だな。それがナンパ男の流儀か」
「ナンパ男って」
「あるいは、そうやってしらばっくれることで昨夜のことをなかったことにしようという魂胆か。だとしたら下手な計算だな」
「いや、本当に覚えていなくて」

 その途端、紫の瞳に剣呑な色が浮かんだ。

「最低だな」

 侮蔑の言葉が胸に突き刺さる。美人に叱られると喜ぶ人種もいるようだが、残念ながら僕にそういう趣味はないので、一方的に罵られて落ち込みそうだ。

「本当に覚えていないのか。この状況を見ても?」

 彼が身体の向きを変える。真正面から目にした上半身に僕は息を呑んだ。
 白い肌には赤い痕が散っていた。ひとつではない。無数にある。

「全部お前のせいだ。おかげでしばらく人前では着替えができない」

 せせら笑う彼を前に、僕は呆然となった。
 数え切れないほどのキスマークは細い身体のあちこちにある。全部僕がやったのかと信じられない気持ちの一方、先ほどまで寝ぼけた状態で彼を触っていたことを思い起こし、やっぱり僕かもしれないという気持ちにもなっていた。
 何も覚えていないのに、目の前の身体に夢中になった感覚がある。少なくとも、あの気持ち良さは夢ではなかった。
 しかし――。

「君、男だよね……?」

 馬鹿みたいな質問をすれば彼が眉を寄せた。

「俺が女に見えるのか」
「見えないけど、でも……」
「言っておくが、先に声をかけてきたのはお前だからな」

 まさか、と言いかけて口元を覆った。おぼろげな記憶が蘇ってきた。
 昨日は実家の父親から連絡があり、つまらないことを散々聞かされてうんざりして、むしゃくしゃした気分を晴らすために行きつけのバーに行ったのだ。
 店に着いたのは深夜で、終電はとうに終わっている時間だった。タクシーを拾って自宅に帰る気にもなれず、このまま朝まで飲んで始発で帰ろうと思っていたとき、僕と同じように独りで飲んでいる客を見つけた。なんとなく気になって相手を窺っていたら、ふと目が合った。ふわりと笑いかけられ、胸が高鳴った。
 それをきっかけに話しかけ、意気投合し、良かったらこのあと僕の部屋で飲み直さないかと誘った。ある意味、お約束のパターンだ。
 (それからタクシーでうちまで連れてきて、それで、僕は……)
 その後の行動を思い出し、顔どころか全身から血の気が引いた。
 玄関のドアを閉めると同時に細身の身体を壁に押し付けたこととか、キスをしながら鍵を閉めたこととか、キスだけで腰を抜かした彼を抱き上げてベッドに連れて行ったこととか、せめてシャワーを浴びたいと訴える彼を押し付けて無理やり行為に及んだこととか、陽が昇る頃になっても彼を離さなかったこととか。
 己のとんでもない所業に頭の中が真っ白になる。謝ることも言い訳することもできず、ベッドの上で石のように固まっている僕を見てどう思ったのか、彼が溜め息をついた。

「もういい」

 ベッドから下りると、彼が床に落ちているシャツを拾い上げた。

「服を貸してくれないか」
「へ……?」
「皺になっていて着られないんだ」

 視線の先にあるのはスーツで、ああ彼も社会人なのかとどうでもいいことを考えた。

「えっと、下着は」
「人のものを履けるか」
「まだ封を開けてないのがあるから。服はとりあえずパーカーと……」

 急いでズボンを履くとクローゼットを開け、彼に似合いそうな服を探す。
 (ジャージは駄目だな。彼に着せたら申し訳ない気分になる。僕よりだいぶ細いからサイズが合わないかもしれないけど、多少だぼっとしても大丈夫そうなのは……)
 いくつか見繕い、好きなの着ていいよと渡す。着替えを眺めているわけにもいかないので、顔を洗うために僕は洗面所へ向かった。
 寝起きの顔で寝癖も酷いが、鏡に映った自分はやけにすっきりした様子だ。我ながらわかりやすい、と情けない気分になる。
 部屋に戻ると、彼は白いシャツのボタンを留めているところだった。スーツの下に着ていたシャツかもしれない。

「洗濯するよ」
「必要ない」

 だよね、と心の中で相槌を打つ。合意もないままセックスした相手の家でのん気に洗濯なんかしたくないだろう。

「顔洗うならこれ使って」

 タオルを渡せば、彼は無言で洗面所に行った。彼が帰ってくるのを待ちながら二人で寝ていたベッドに目を向ける。あそこで彼と抱き合ったのが嘘みたいだ。
 (でも、夢じゃないんだよな)
 男に興味はないのに、彼のことは抱きたいと思った。ベッドまで我慢できずに玄関先でキスをしてしまうほどには欲していた。なんの免罪符にもならないけれど、彼だから抱いたのだ。

「紙袋をもらえないか」

 その声にハッとして振り返る。紙袋? と首を傾げると、スーツを持って帰りたいんだと言われた。

「それなら僕がクリーニングに」
「必要ない」

 二度目の拒絶だ。嫌われて当然だとわかっているけれど、それでもダメージは受ける。

「探してみるからちょっと待ってて」

 ちょうどいい大きさの紙袋を見つけて彼に渡す。きちんと畳んだスーツを黙々と仕舞うと、彼は鞄を持って立ち上がった。じゃあな、とだけ言って玄関に向かう身体を慌てて引き止める。

「送るよ」
「必要ない」
「僕が送りたいんだ」

 三度目の拒絶は僕のほうが拒んだ。

「それと、もし良かったらお昼でも」

 紫の瞳が試すように僕を見た。一晩中、無体を働いた男が今度は何をするつもりかと言いたげな視線だ。

「君を誘ったのは、ナンパとかそういう軽い気持ちからじゃない。そもそも僕は男が好きなわけじゃないし、ただの遊びで男を抱こうなんて考えないよ」
「何が言いたい」
「だから――、君のことが気になったから声をかけたんだ」
「何も覚えていなかったくせに」
「それは飲み過ぎて記憶が飛んでただけで……、いや、そんなのはただの言い訳だよね。君を不快にさせたのは事実だ。ごめん」

 抱いた相手のことを忘れるなんて最低だ。謝って許されることではない。彼が僕を軽蔑するのも当然のことである。
 ごめんと再び謝り、顔を俯けた。こんな最低な男とは一分一秒でも一緒にいたくないだろう。ならば、すぐにでも彼を帰してあげるべきだ。

「お前は強引なのか頼りないのかわからないな」
「ごめん」
「それは聞き飽きた。送ると言うのならこれを運べ」

 スーツの入った紙袋と鞄を渡される。

「あと、美味しいランチができる店を知らないか」
「ランチ?」
「モーニングには遅すぎるだろう?」

 時計はすでに正午を過ぎている。だからランチの時間で間違いないのだが、僕と一緒でいいのだろうかと思っていたら彼が口の端を上げた。

「それで許してやる」
「へ?」
「早くしろ」

 短く言うと、彼は靴を履いて玄関のドアを開けた。慌てて僕も靴を引っかけ、戸締りをすると彼のあとを追いかけた。

「何が食べたいの?」
「特にない」
「ジャンルは?」
「どれでもいい」
「そう言われると難しいんだけど」

 彼の好みを知らないし、どういう店を希望しているのかもわからない。頭の中でいくつか候補を選びながらふと隣を窺えば、細い首が目に入った。
 襟からわずかに覗く部分が赤かった。あれも自分がやったのかと思うと居たたまれない。酔った勢いとは言え、昨夜の僕はどうかしていたのだと頭を抱えたくなる。

「マフラー買おうか?」

 首が寒そうなのと、キスマークを隠す方法は何かないかと考え、気付けばそんなことを口にしていた。すると、彼が胡乱な目付きをした。

「口止め料のつもりか」
「違うよ。寒そうだなと思っただけで、それ以上の意味はないから」
「どうだか」
「本当だって」
「信じられるか」

 最初の行いが悪かったせいで何をしても裏目に出てしまう。自業自得ではあるが、少しくらい信じてくれてもいいのにと悲しくなってきた。

「――だったら、ネクタイにしてくれないか」

 しかし、続いた彼の言葉に僕は顔を明るくさせた。

「ネクタイでいいの?」
「ああ。ちょうど新しいのを買おうと思っていたし」
「だったら駅前の店に寄ろう。あ、ランチが先か。とりあえず店に入って、それから」

 初めて反応をもらえたことが嬉しくてあれこれ予定を立てていると、隣で彼が笑っているのに気付いた。美人が笑うと周りに花が咲いたようだ。
 (そうだ、僕は)
 彼が浮かべる柔らかい表情に惹かれた。この笑顔を独占できる人間が羨ましいと思い、誰のものにもしたくない、僕だけのものにしたいと醜い独占欲を抱いた。
 だから僕は、彼を抱いたのだ。

「どうした?」

 風が吹き、黒髪がさらさらと揺れた。頬にかかる髪を鬱陶しそうに耳にかける彼の手を、僕は無意識に掴んだ。紫色の瞳が不思議そうに僕を見ている。

「ル――」

 自分が何を声にしたのか僕にはわからなかった。
 ただ、彼が驚いたように目を瞠っていた。次の瞬間、泣き出しそうな顔をして、それからなぜか頬を赤くする。
 その反応の意味がわからずにいると、離せ、と短く言って彼が手を振り払った。

「どうせお前は……」

 何かを言いかけ、しかし彼は口を閉ざした。代わりに溜め息をひとつ吐き出す。

「ネクタイ。買ってくれるんだろう」
「あ……、うん」

 先に歩き出した彼を追いかける。せっかく笑ってくれたのに、恐らく僕のせいでまた怒らせてしまった。
 (君のことが好きなだけなのに)
 きっといろんなことを間違えてしまったのだ。綺麗な彼を手に入れたいと願い、無理やり手折った報いだ。
 だから、僕は彼の名前を聞くことができなかった。名前も知らないまま別れ、彼とはこの先もう二度と会うことはないのだろうと思った。

***

「は? 社長室?」

 すぐには相手の所属を理解できず、社長室ってなんだっけ? と馬鹿なことを思うくらいには動揺していた。
 枢木さん内線ですと回され、はい枢木ですと電話に出た相手は社長室の秘書だった。入社式以来、会ったことのない社長がなぜ僕を呼び出すのだろう、何かやらかしたっけ、でもまったく記憶にないどうしようとぐるぐる考えながら幹部専用のフロアに向かう。
 絨毯の感触を靴の裏に感じながら社長秘書室を尋ねると、すぐに社長のもとへ連れて行かれた。

「やあやあ、忙しいのに悪いね。とりあえず座ってくれたまえ」

 気さくに話しかけてきたのは我が社の社長、クロヴィス・ラ・ブリタニアである。芸術や文化関係の才能に秀でているらしいが、普段社長に接する機会などないので、噂やメディアの情報ぐらいしか把握していない。要は、よく知らない相手である。
 応接用のソファに腰を下ろすと、向かい側に座ったクロヴィスが優雅に足を組んだ。

「今度、うちで新プロジェクトが立ち上がるのは知っているだろう? 君の実家とも提携する大規模なプロジェクトだ」
「はい」

 実家の名前を出され、僕は思わず膝の上の両手を握った。
 外資企業の中でも特に有名なこの会社に入れたのは、簡単に言ってしまえばコネである。しかも、ある日父親から命令されて仕方なく入社するという屈辱的な事情があった。
 周りから見ればなんとも羨ましく、恵まれた境遇だろう。こんな大手に楽して入れたのに、一体何に文句があるのかと言われるに違いない。
 しかし、僕はずっとやるせないものを感じていた。結局、自分は父親の操り人形なのだ。不満を抱きながら、幼い頃から今まで父親の敷いたレールの上を生きてきた。
 思春期の頃はそれなりに反抗心もあったけれど、社会というものを知り、枢木家という強大な後ろ盾の存在は呪いであると同時に、普通の人間には得がたいものであることも痛感した。今となっては、いつか父親を見返してやろうという気概もなくなった。
 そうして溜まった鬱憤を晴らした結果が、先日の彼との一夜なのだと思えば情けなくてたまらない。

「そのアドバイザーとして、ブリタニア本社から我が弟を副社長で迎えることになったんだ」

 社長の声に意識を戻す。弟ということは一族の人間だろう。この会社はブリタニアに本社があり、世界各地に支社を置いている巨大グループだ。その一族の人間ともなれば権力は絶大である。

「そこで君には、副社長の秘書兼サポート役になってもらいたい」
「えっ? 僕がですか?」

 わざわざ社長室に呼び出された理由をようやく知るが、あまりに突飛な話でぽかんとした。真っ先に浮かんだのは、どんなわがまま御曹司が来るのだろうということだった。
 僕自身、御曹司という立場にあるけれど、この一族とは規模が違う。その上、相手はいきなり副社長を任命されてやってくる人間だ。
 要するにお坊っちゃんのおもりじゃないかと思えば、今からうんざりしてしまう。しかし、社長命令ならば従うしかない。嫌なら辞めるしかないが、そんな勇気は当然なかった。

「社長のご指示でしたらお受けしますが、なぜ僕なのか理由だけでも教えていただけないでしょうか」
「ん? 君達は知り合いじゃなかったのかな?」
「知り合い?」
「ルルーシュがそう言っていたんだけどな。日本でのサポート役が欲しいからぜひ君をと、彼直々の指名だ」

 ルルーシュというのが社長の弟の名前らしい。だけど、そんな名前の知り合いはいない。
 (あれ……? でもどこかで聞いたような……)
 違和感のようなものを覚えていると、「とにかく本人に会ってみればいい」と言われた。

「いつお会いするのですか?」
「今だよ」

 今って今? とぎょっとしていたら社長室のドアがノックされた。秘書が顔を覗かせ、ルルーシュ様がお見えになりましたと伝える。

「噂をすればだ。入っておいで、ルルーシュ」

 一人の男性が社長室に足を踏み入れる。その人物を確かめた僕は、驚愕に大きく目を見開いた。

「ちょうど枢木君に秘書の件を話していたところだよ」

 紹介された新副社長が僕を見て、それからにこりと笑った。
 完璧な笑みだ。完璧すぎてぞっとするほどに。

「お会いできて良かった。初めまして、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアです」
「おや、枢木君とは初対面なのかい? てっきり知り合いだとばかり思っていたのに」
「もちろん知っていますよ。枢木家のご嫡男なのですから」

 彼の口から枢木という名前と、嫡男という単語が出たことに唖然とした。調べればすぐにわかることではある。でもあの日、彼は一度も僕の名前を呼ばなかった。
 (もしかして、僕の正体を知りながら近付いた……? だけど、なんのために? 今日ここで会うなら意味がないし、メリットもない)
 なぜ、と疑問がいくつも浮かんで頭の中を埋め尽くす。
 白いシーツに散らばった黒髪と、何度も覗き込んだ紫の瞳と、ひと目見たら忘れられない美貌と、別れた日に贈ったネクタイが巻かれた首元と、僕がこの目で見てこの手で感じたすべてが目の前にあるのにちっとも現実感がなかった。
 これは運命か、それとも壮大な復讐か。
 少なくとも、ロマンチックな再会でないことだけは確かだろう。

「これからよろしく、枢木君」

 握手を求めて手が差し出される。なんとか立ち上がった僕は右手で握り返した。

「初めまして、枢木スザクです。どうぞよろしくお願いします」

 僕を見つめる紫の瞳からはなんの感情も窺えない。そこにあるのが好意なのか悪意なのか、何ひとつ見えない。
 だけど、僕の顔は自然と微笑んでいた。
 (また君に会えた)
 握った手にほんの少し力を込めれば、彼が怪訝そうな表情を浮かべた。不快にも思える顔に、しかし僕は笑みを深めた。胸の中の愛しさを隠して彼を、ルルーシュを見つめる。
 運命か、偶然か、計略か。彼の思惑はわからないままだ。
 でも、永遠に会うことはないはずの彼と再会できた。今はそれだけで充分だ。
 ならば――。
 僕はこれを運命にしてみせる。
 (19.03.26)