友達、はじめました

 大学の仲間で温泉に行こうという話になった。
 ブリタニア人のルルーシュにとって温泉は馴染みがないものだ。しかも夏に温泉なんて、とあまり乗り気ではなかった。
 だけど、講義の班分けが同じメンバー五人で親交を深めるのもいいじゃないかと説得され、それもそうだと頷いたのが三週間前。
 都心から車で二時間ほどの温泉街は趣があって、たまには日本の文化を体験するのも悪くないと思ったし、誘ってくれたメンバーに感謝もした。
 (それも一時間しか持たなかったがな)
 湯に顔の半分を浸け、心の中で盛大に溜め息を吐き出す。
 ブリタニア人ではあるが湯船に入る習慣は好きなほうだ。温泉も嫌いではない。
 しかし、自分を誘ったメンバーたちの目的が不届きなものであった場合、話は別である。
 (合同コンパならぬ合同温泉だと?だったら最初からそう言え)
 もっとも、最初からそう聞かされていたら決して温泉に行こうとは思わなかっただろう。
 同じ講義を受けている女子たちに温泉旅行を誘ったが、あちらの要求が「ルルーシュくんを連れて来てくれるなら」ということで、つまりは人寄せパンダ的な扱いだったのである。しかも、本当の目的を話したら絶対に断られるからと、女子が来ることは内緒にされた上での温泉旅行だ。横暴にも程がある。
 それを知ったルルーシュは当然怒った。が、彼らに当たり散らすのも子どもっぽいと、仕方なく夕食までは一緒に過ごした。やけに浴衣をアピールしてくる女子や、早速酔っぱらって無駄に絡んでくる仲間たちに辟易しながらも一時間は我慢した。
 しかし我慢できたのは一時間だけで、あとは勝手にやってくれと宴会状態になった座敷を抜け出し、こうして一人温泉に逃げてきたのだった。
 (またあそこに戻らなければいけないのかと思うと憂鬱だ……)
 こんなことなら最初から断っておけば良かったと何度目になるかわからない後悔に、何度目になるかわからない溜め息が漏れた。若干熱めの湯に気泡が浮かんでは消える。
 幸いとも言うべきか、季節は夏なので夜風に当たっても風邪を引くことはない。全員が寝静まるまで館内か外で時間を潰すしかなさそうだ。
 湯船から上がると、一度冷たいシャワーを浴びて脱衣所へ向かった。長く湯に浸かり過ぎていたので全身がのぼせたように火照っていた。眩暈のように頭がくらくらするのは本当にのぼせているのかもしれない。
 浴衣を着ると、さてどこへ行こうと考えながら出口まで歩く。
 髪が完全に乾いていないのは気になったが、どうせしばらく時間を潰さなければいけないのだからこのままでもいいかと、几帳面なルルーシュにしては投げやり気味に思った。
 部屋には戻れないし、温泉に浸かり過ぎて少し気分が悪いし、行くところはないし、髪は濡れているし、本当に最悪だ。
 ぺたぺたとスリッパを鳴らして廊下を進む。館内は冷房が効いて少し寒いくらいだった。半纏を持ってこなかったのは失敗だ。
 ふと、左斜めに気配を感じて顔を向けた。
 携帯を操作しながら壁にもたれ掛かっている男の顔は見覚えがあるもので、誰だろうと目を凝らした。そしてその正体に気付いて心臓が高鳴った。
 (枢木スザク…!)
 どうして彼がここに。いや、彼だって温泉ぐらい来るだろう。しかしタイミングが悪い。なぜ今日なんだ。
 ふいに彼が顔を上げた。
 目と目が合い、ルルーシュはぎくりとしてすぐに視線を逸らした。少し緊張しながら彼の前を通り過ぎる。

「偶然だね」

 それが自分に掛けられた言葉とは気付かず、三歩ほど歩いたところで「ルルーシュ・ランペルージじゃなかったっけ?」と聞こえてハッと振り返った。

「良かった、人違いしたかと思った」
「なんで俺の名前……」
「君の名前を知らない人は大学にいないと思うけど」
「それはどうも。だが俺はお前の名前を知らない」

 嘘だけど、とは心の中で付け加えた。

「本当?僕も結構有名人だと思っていたんだけどまだまだだな。でも、こんなところで君に会えるなんてすごくラッキー。君も温泉旅行?」
「まあそんなところだ」
「友達と一緒?それとも彼女?」
「どっちだっていいだろう。もう行っていいか」

 お前は友達と彼女、どちらと一緒なのだ。気になるけれど口にはできなかった。
 だって、もし彼女と言われたらショックでますます気分が落ち込みそうだ。
 (何もこんなときに片想い相手と会わなくたっていいだろう)
 自分の不運を嘆いても状況は変わらない。やはり今日は最悪だと天を仰ぐ。
 何を隠そう、枢木スザクはルルーシュが片想いしている相手だ。一年の講義が同じだったのがきっかけで好きになったから、もう二年も片想い中である。
 彼とは大学が一緒というだけでほかの接点は何もない。だからこうして言葉を交わしていることは奇跡に近いのだが、なぜ今このタイミングなのだ。
 今の自分はきっと酷い表情をしているだろう。これ以上は顔を見られたくなくて、立ち去ろうと足を踏み出したところで腕を掴まれた。

「何を、」
「枢木スザクだよ」
「は?」
「僕の名前。スザクって呼んでいいよ。君のことはルルーシュでいい?」
「勝手に決めるな。第一、お前を名前で呼ぶ必要なんて」
「いいじゃない、こんな場所で出会えたのも何かの運命だと思わない?」
「思わない!」
「そうだ。せっかくだからちょっと飲もうよ。アルコールが苦手ならジュースでもいいけど。僕の部屋こっちなんだ」
「おい!俺は行くとは一言も…!」

 腕をぐいぐい引かれ、否応なしに連れて行かれる。
 踏みとどまろうと足に力を込めたが、くらくらする感じが酷くなって膝から力が抜けた。

「っと、危ないなぁ。もう酔ってる?」
「そんなわけあるか……」

 すんでのところでスザクに腰を支えられ、ルルーシュは無意識に彼の腕を浴衣越しに掴んだ。

「顔赤いね。もしかしてのぼせた?」
「おそらく……」
「いくら温泉が気持ち良いからって一時間以上は入りすぎだよ。やっぱり僕の部屋に行こう。少し休んでから戻ったほうがいい」

 スザクの言葉に何か引っ掛かるものを感じたが、今は思考が上手くまとまらなかった。
 それに座敷では合コンと称した宴会がまだ続いているはずだから戻れない。まさかロビーのソファで横になるわけにもいかず、ここはスザクの勝手な誘いに乗ることにした。
 抱えられるようにエレベーターに乗り込み、最上階で下りる。部屋数の少ないフロアに、スザクが泊まっているのはもしかしたら随分といい部屋なのかもしれないとぼんやりする頭で思った。
 (学生のくせに生意気なやつ)
 悪態が出てくるのは今日一日の不幸のせいであり、完全な八つ当たりだった。
 たどり着いた部屋は和洋折衷のシックな造りで、自分が泊まる予定にしていた四人部屋よりも広い。やはり高い部屋のようだ。
 二つあるベッドの右側に体を下ろされ、ルルーシュはそのまま横になった。他人の部屋で行儀が悪いのは重々承知しているが、今はただ座っているだけでもつらい。

「水、飲める?」

 スザクの問いかけに小さく頷けば、彼はどこかへ消えてしまった。足音をなんとなく耳にしながら冷たいシーツに頬を押し当てる。
 (気持ちいい……)
 唇から漏れた吐息が熱く感じられた。
 しばらく横になっていると足元がぐらぐら揺れるような感覚は収まり、代わりにひどい眠気に襲われた。張っていた気が緩んだせいかもしれない。

「ルルーシュ?寝ちゃったの?」

 声を出して返答する気力はなく、首だけをかろうじて横に振った。

「水持ってきたけど起きるのは無理そうか」

 水、という単語を耳にした途端に喉の渇きを覚えた。手を伸ばしてベッドをぱたぱた叩くと苦笑いする気配がして、わかったよと答えが返ってきた。
 唇に柔らかい何かが触れたのと、咥内がぬるい水で満たされたのは同時だった。

「ん……っ」

 久方ぶりの水分にこくりと喉を鳴らして嚥下する。一口では物足りなくて、唇を薄く開けば再び水が与えられた。
 それを何度も何度も繰り返し、ようやく満足するとルルーシュは体から力を抜いた。
 濡れた唇を拭われる感触が気持ち良い。

「おやすみ、ルルーシュ」

 その声がとても優しくて、おやすみと返す代わりに口許を和らげた。ずっと続いていた不快感は不思議と消えてなくなっていた。
 そして次に目が覚めたときには部屋の中は薄暗かった。
 ベッドルームの間接照明だけが淡く足元を照らし、ルルーシュは自分がどこにいるのか一瞬わからなくなる。

「気分はどう?平気?」

 聞こえてきた声に、そう言えばスザクに介抱されたのだと思い出した。
 自分にとっては片想い相手だが、彼にとっては初対面に近い相手だ。いくら同じ大学の人間とは言え、ここまで良くしてもらったことを申し訳なく思う。

「ああ、もう大丈夫だ」
「それは良かった」
「迷惑をかけたな。ベッドまで占領してしまってすまない。誰かと一緒に泊まっているんだろう?」

 こんな高級な部屋に一人で泊まる人間はいない。きっと彼女に違いないと思い、胸の奥がちりっと痛んだ。

「ベッドの心配はいらないよ」
「でも、」
「一応相手はいたけど、もう帰ってもらったから」
「帰った?」
「それより、体調が大丈夫なら起きて少し話でもしない?君の友達が待っているなら無理には引き止めないけど」

 座敷での騒ぎを思い出し、ルルーシュは首を横に振った。あそこにはしばらく戻らないつもりで出てきたのだ。

「良かった。じゃあこっちにおいでよ」

 誘われるままベッドルームを出ると、景色が一望できる大きな窓の前のソファに誘われた。
 最上階だけあって展望は最高だ。こんなところに恋人同士で泊まれば彼女はきっと喜ぶだろう。

「一緒に飲もうと思っていたけど、今はソフトドリンクのほうが良さそうだね」

 グラスに注がれたのはオレンジジュースで、勧められるままに口を付ける。冷たい液体が喉を通り、その心地良さに小さく息を吐き出した。

「でも本当に戻らなくていいの?」
「元はと言えばお前のほうから誘ってきたんだろう。今さら何を言っている。それに、部屋には夜中まで戻るつもりはないから別にいいんだ」
「戻らない?なんで?」
「……色々あるんだよ。それより、こんな部屋に一人で泊まるなんて道楽にも程があるな」
「うち、家がお金持ちだからさ。おかげで将来の玉の輿を見込んだ女の子が頼まなくても寄ってくるから選り取りみどり」

 どこか自虐的な言い方に、大学でのスザクの噂話を思い出す。
 女の子にもてていつも彼女を絶やさない彼のことを妬んでいる男子は多い。ルルーシュ自身、その噂に何度も傷付いた。
 だけど、スザクがどういう気持ちでいるかを考えたことは一度もなかったかもしれない。

「それにしても、フロントで君を見かけたのはラッキーだったな。夏に温泉なんてと思っていたけど来て良かった」
「帰して良かったのか。その、一緒に来た相手……」
「一緒に温泉に行きたかったわけじゃないし。タクシー代を渡したときはさすがに怒っていたけど」
「当たり前だろう。ここまで来て帰れなんて」
「でも楽しくない相手と一晩も一緒なのは誰だって嫌だろう?」

 楽しくない状況になって逃げ出してきたルルーシュは何も言えなかった。
 事情は知らないが、相手を無理やり帰したスザクは酷い。しかし、黙って部屋から消えてしまった自分も同じようなものだ。

「ルルーシュは友達と一緒だからそんな気持ちにはならないか。ごめんね、変なこと言って」

 無言を否定と捉えたのかスザクが謝った。
 先ほど無理やり腕を引いた強引さは今はなく、こちらを気遣うような態度になぜか落ち着かなくなる。焦燥にも似た気持ちに、ルルーシュは手の中のグラスをぎゅっと握った。

「違う……、違うんだ」
「何が?」
「俺も仕方なく温泉に来て、温泉自体は悪くないんだが、騙されたと言うかあまり面白くない状況になって、それで部屋から逃げてきたんだ。どこかで時間を潰そうと思っていたから、お前に声を掛けられて本当は嬉しかった」

 そうだ、嬉しかったのだ。
 スザクとは縁がないまま大学生活を終えてしまうのだろうと心のどこかで諦めていたから、声を掛けてもらって嬉しかったし、一緒に飲もうと誘われたことも嬉しかった。
 これがほかの人間なら、なんて軽い男だろうと思ったかもしれない。どんなに気分が悪くてもついて行くことはなかったはずだ。
 だけど、相手がスザクというだけですべてが嬉しくなってしまう。

「スザク?」

 反応がなく、何かおかしなことを口にしただろうかと窺うように横を見る。
 スザクはこちらをじっと見つめていた。その視線とまともにぶつかり、心臓が高鳴る。

「――どこかで時間を潰して、それでどうするつもりだった?また部屋に戻るの?」
「それは……皆が寝た頃に」

 答えながら、あの様子では徹夜で飲み明かすこともあり得るかもしれないと気付いた。そしたら今度こそ宴会から抜け出せそうにないと思ってげんなりする。

「だったらこのままここにいなよ」
「え?」
「この通り、広い部屋に僕ひとりだしベッドは空いているし。朝まで二人きりで一緒に過ごそうよ、ね?」

 スザクの顔が近付く。間近に迫った爽やかな笑顔をルルーシュはぽかんと見た。
 自分たちはほとんど初対面だ。彼にとっての自分は単なる同級生でしかなく、現時点では友達ですらない。
 それにもかかわらず、困っている自分に声を掛けてくれるスザクはなんて――。

「スザク、お前いいやつなんだな」
「……へ?」
「俺なんかのためにベッドを貸してくれるなんてすごく優しいな。ありがとう」
「う、うん……」
「色々と甘えてしまって申し訳ないが、お前が問題なければ一泊させてもらってもいいか?」

 片想いの彼と一晩ずっと一緒にいられる。そう思うだけでルルーシュの中の憂鬱な気持ちはすべて消え去ってしまった。代わりにそわそわと浮き立つ気分だ。

「こういうのをまずはお友達からって言うのかな……」
「どうかしたか?」
「ううん、なんでもない。ただ、新鮮だなぁって思っただけ」

 くすくすと笑うスザクに首を傾げた。

「飲み物のおかわりいる?オレンジジュースのほかにも色々あるよ。あっちに冷蔵庫があるから好きなの持ってきなよ」
「ああ」

 ソファを離れて指し示された冷蔵庫へと向かう。
 溜め息ばかりの温泉旅行だったけれど、まさかこんな幸運が転がっているとは思いもしなかった。
 夜はまだ長い。
 しかしチャンスは一度しかない。

「覚悟していろよ、スザク」

 この一晩でせめて友達ぐらいにはなってやろうと意気込んで、ルルーシュは小さく呟いた。

* * *

 (これは結構、強敵かもしれないなぁ)
 冷蔵庫へと向かう背中を見送り、スザクは心の中でぼやいた。
 フロントでルルーシュを見かけたのは偶然だ。彼の後ろ姿を発見したときはまさかと目を疑った。
 しかし、そのあとのことはどれも作為的なものである。
 一緒に泊まる予定だった相手を帰したのも、廊下で声を掛けたのも、すべては彼に近付くためだ。声を掛けるためだけに一時間も大浴場の前で待っていたと言ったらルルーシュはどんな顔をするだろう。
 彼女と呼ぶほどでもない遊び相手に、「やっぱり気が乗らないから帰って」とタクシー代を渡したときは立腹された。でも温泉に乗り気でなかったのは事実だし、向こうは枢木スザクと付き合ったというステータスが欲しかっただけなのだからお互い様だ。
 (どさくさ紛れにキスまでしちゃったんだけど、全然気付いてないなぁ)
 これだけ雰囲気のある部屋で朝まで一緒に過ごそうと誘ったのに健全な反応が返ってきた。
 いくら男同士とは言え無防備すぎないか。しかもかなり鈍い。
 (ま、そういう相手を落とすのも悪くないか)
 なんの損得勘定もなしに「優しい」と評価してもらったのは初めてで少しくすぐったい。金や親の権力を目当てに近付いてきた人間とは違い、ルルーシュは何もかもが純粋でとても新鮮だ。
 親切にしてくれた相手が実は自分に恋愛感情を抱いていると知ったらショックを受けるだろうか。
 だけど、彼を諦めるつもりは毛頭なかった。

「覚悟しておいてよ、ルルーシュ」

 まずはお友達から始めて徐々に攻略していこう。
 口許に笑みを乗せ、スザクはルルーシュの背を追いかけた。
 (13.09.11)