誰何を問う声にスザクは目を閉じて小さく息を吸い込んだ。
この部屋に入るときは心を落ち着かせなければならない。いや、この部屋だけではない。彼と会う前はいつもそうだ。
ゆっくり瞼を開く。部屋と廊下を隔てる扉を親の仇みたいに見つめ、今度は息を吐き出した。
「ナイトオブセブン、枢木です」
鋭い口調にならないよう努めて声を出す。
それから数秒後、ドアが内側から開いて部屋の主が姿を見せた。
少年とも少女ともつかない中性的でひどく整った顔は、今は無粋な眼帯によって半分が覆われている。
どうしてそんなものを付けなければいけないのか、本当の理由を彼は知らない。知る必要もない。
「よく来たな、スザク」
にこやかに出迎えてくれた人物に笑みは返さず、そのまま中に入った。
「事前に連絡してくれればお茶でも用意したものを」
「いえ、護衛である自分にそのような手間をかけていただく必要はありません」
殊更丁寧な受け答えに彼が少し寂しそうな顔をする。
「前にも言ったが、私とお前の仲だろう。そんな他人行儀な話し方は、」
「そういうわけにはいきません。あなたは皇帝陛下直々に任命されたこの国の軍師なのですから」
「軍師と言っても、ほんの一年前まではしがない貴族の息子だったんだ。私の父親が皇帝と旧知の仲だったおかげで両親が死んだあとも何かと目をかけてもらい、戦場にも出ることができた。軍師という地位は私の運と実力で勝ち得たものだが、だからと言って友達だったお前がそんな態度を取る必要はない」
友達、という単語に心が冷える。
確かに自分は彼の友達だった。彼に騙され、都合よく利用された友達だ。
「何より、ラウンズは皇帝に次ぐ地位だ。軍師なんかよりずっと位が高い」
「私の役目はあなたの護衛です。しかも陛下からの信頼が厚いあなたを陛下直々のご命令で守るよう命じられています。つまり、護衛対象であるあなたは私よりも上の立場。ラウンズであることは関係ありません」
「お前がそこまで言うなら……」
肩を落とし、諦めたように笑う彼に苛立ちが募る。「以前」の彼ならばこんなところで諦めなかった。たとえ相手が日本人であろうと、こいつは自分の友達だと皆の前で言える強さがあった。
でも、目の前の彼は――。
(ダメだ、考えるな)
自らに言い聞かせ、余計な雑念を振り払う。
「ところで時間はあるか?」
「少しでしたら」
「ならばちょっと歩かないか?たまには外の空気を吸いたい」
「しかし、」
「薬は先ほど飲んだばかりだ。安心しろ」
にこりと笑う顔をじっと見つめた。
ここ数日、体調が優れずずっと部屋に籠もっていたとの報告を受けている。実際に体のどこかが悪いと言うよりは、精神的なストレスによるところが大きいのだろう。
だが、これから彼には数日に及ぶ長旅が待っている。到着したら早速作戦指揮を執ることになるはずだ。
今後のことを考えれば少しは歩かせたほうがいいかと判断し、スザクは頷いた。
「では外に参りましょうか、――ジュリアス様」
その名を知る者はこの帝国内にいない。当たり前だ。そんな名前の人間はどこにも存在しないのだから。
彼は言わば架空の人物だった。あるいは生きている幽霊か。
ジュリアス・キングスレイ。
それが、かつてルルーシュ・ヴィ・ブリタニアでありゼロでもあった男の名前である。
ゼロ、つまりルルーシュを捕らえた功績で枢木スザクはナイトオブラウンズの地位を手に入れた。友達を売るのかと訊かれて迷いなく肯定した。
そもそも彼は友達ではない。友達だった人間だ。
すべては過去と言っていたのは彼なのに、父親の前に引きずり出されてもなお「友達」と口にした彼はどこまで自分を馬鹿にしているのか。
しかし彼には感謝しよう。彼のおかげでナイトオブワンが一歩近付いたのだから。
ひとつだけ誤算があったとすれば、それはラウンズとしての初任務の内容だ。
ルルーシュをルルーシュたらしめる記憶は皇帝のギアスによって書き換えられた。彼は皇子であったことやゼロであったこと、大事な妹であるナナリーのことを忘れた。只人となった今、彼にはなんの力もないはずだった。
だが、皇帝は息子の優秀な頭脳を利用することを決めた。
帝国に反逆していた彼が帝国のために働く。これ以上の皮肉と屈辱はないだろう。
そのために与えられたのがジュリアスという新しい名前と軍師の地位、そしてユーロピア遠征だ。もちろん軍師としての実績は捏造されたものだし、経歴もすべて嘘である。
ジュリアス・キングスレイという個は、頭のてっぺんから足のつま先まで何もかもが嘘でできている人間なのだ。本当の彼は彼自身の肉体ぐらいしかない。
いい気味だと思った。ナナリーのために生きていた彼が妹を忘れ、帝国への抵抗も忘れ、嘘で塗り固められた人生を真実と信じて皇帝に仕える。哀れでたまらなかった。
でも、溜飲を下げたのは一瞬だけ。
皇帝が彼に与えるものの数々はどれも破格の待遇で、本当に使い捨ての駒として扱っているのだろうかと疑問を抱くくらいだった。
彼の存在を隠すための屋敷は、皇帝がひとりで密かに過ごす際に使う別荘みたいなもので、帝国内でも特に口の固い使用人たちが宛てがわれている。
衣装はまるで皇族服のようで、聞けば今度の遠征には皇族専用列車を出すと言う。
しかも護衛としてのラウンズだ。いくら自分がかつての友達でゼロを捕らえた張本人だとしても、ラウンズが皇帝や皇族以外の護衛につくことはそうそうない。
これでは彼の立場を邪推しろと言っているようなものだが、皇帝は気にも留めていない様子だった。本当に彼は罪人なのかと疑いたくなる。
「スザク?」
名前を呼ばれ、ハッと思考を止めた。見れば、隣の彼が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か?ラウンズになったばかりで色々と気苦労が多いのではないか?」
「いえ……、大丈夫です」
今は『友達』と一緒に屋敷の庭を歩いているところだ。設定を忘れて素に戻るなと己を叱咤した。
「今日はご気分がよろしいようですね」
雑念を振り払うため当たり障りのない話題を振る。
「ああ、最近はずっと続いていた頭痛も治まって調子がいい。これならユーロピアへの遠征も問題ないだろう」
「しかし油断は禁物です。あなたはずっと病気で臥せられていたのですから、薬は忘れずに飲んでください」
これも『設定』のひとつだ。
小さな顔のほとんどを隠す眼帯。病気によって視神経を侵されたため、ほとんど見えていない視力がさらに落ちないよう光を遮断する目的がある、ということになっていた。
彼の言う頭痛も本当の病気からくる頭痛ではなく、恐らくは皇帝のギアスによって記憶を書き換えられ、これまでの人生すべてを失うような状態となっていることに対する拒絶反応だ。
頭痛だったりひどい錯乱状態だったりと症状は様々だが、いずれもギアスに抵抗する最後の悪足掻きで、もう少し時間をかければ無意識の拒絶もなくなるに違いないとの話であった。
もちろんそんなことを本人は知らないので、記憶の欠落や自分自身の不安定さから発作のようなものを頻繁に起こしている。そのため精神安定剤を必ず飲ませるようにとの指示なのだが、本人には頭痛を抑えるための薬と嘘をついていた。
「お前が毎週持ってくる薬は忘れずにちゃんと飲んでいる。心配するな」
「それならよろしいのですが」
薬の詳しい成分までは聞いていないが、何も知らず、何も疑わず、怪しげなものを言われたとおりにきちんと飲んでいる彼はつくづく哀れだ。
「ところで、ユーロピアにはいつごろ発つのだ?」
「陛下からのご命令はまだありませんが、今月末ぐらいになるかと思います」
「我らに与えられた命はユーロブリタニアを名乗っている連中の監視だ。ユーロピアの制圧は急ぐ必要はない。が、私の立案する作戦に狂いはないし、お前のナイトメア操縦能力はブリタニアでも抜きん出ている。私とお前がいればあっと言う間にユーロピアを滅ぼせてしまうかもしれないな」
口元に笑みを浮かべ、今後の作戦計画を語る彼の顔はどこか生き生きしていた。
(ああ、またこの顔だ)
雄弁に語る彼をスザクは昏い瞳で見つめた。
ジュリアスには守るべきものがない。ナナリーという最大の弱点もない。捨てられた皇子として隠れる必要もない。
だからこそ、自分の能力を最大限に発揮できる場を渇望している。己の力を最大限に引き出せる機会を切望している。
彼の経歴は作られたものだが頭脳は本物だ。自分の考えた作戦を語って聞かせる姿はゼロとして活動していたときを彷彿とさせ、そのたびにスザクの心は黒く塗り潰されるようだった。
しかし、彼の中に不安がないわけでもないらしい。時折襲われる発作に、失ったと思い込んでいる視力。
自分自身の不安定さに怯え、二人きりのときはひどく頼ってくる。一方で、人前では不安を悟られたくないのか、自信過剰で尊大な態度を取る。
二面性とも呼べるそれは、彼の不安定な部分を露呈しているようでもあった。
(弱々しくて頼りないところを見せたかと思えば、君が嫌った貴族みたいに傲慢に振る舞う。どちらも僕の知っているルルーシュとは違う)
だけど、どちらもルルーシュの中に元からあったものなのかもしれない。
たとえばナナリーという存在がなければ、彼はもっと人に頼ったかもしれない。
たとえば母親が健在で皇子としてずっと生きていれば、彼はもっと皇族特有の高慢さがあったかもしれない。
どれもがひとつの可能性だ。今とは違う人生を送っていたら現れたかもしれない性質だ。
ふいに風が吹く。眼帯に飾り付けられた紫の宝石が揺れて一瞬目を奪われた。
彼の瞳と同じ色の宝石。わざわざこれを選んだ皇帝は余程の悪趣味か、あるいは殊更息子を可愛がっているのか、その心をスザクは知らない。知らなくていいことだ。
「花が、」
ぽつりと声が聞こえ、釣られるように空を見上げる。
薄紅色の花びらがはらはらと舞っていた。
「似ているな」
「え?」
「昔、お前と一緒に見た花に似ている。ブリタニアにはない花だったから私にはとても珍しかったんだ。地上に落ちる前に花びらを掴めば願いが叶うなんてお前が言い出して、二人で一緒に馬鹿みたいにはしゃいだだろう?ピンク色が可愛いから集めて持って帰ったらきっと――」
そこで彼の声が途切れた。何かを言おうとして、しかし言葉を忘れたように目を見開く。
「ジュリアス様?」
呼びかけに応えない彼は、どこか遠くを凝視していた。
「なあスザク……、お前と私はどこであの花を見たんだ……?」
白い指先がかたかたと震えていた。いつもの発作だと気付き思わず舌打ちする。
「覚えているのに覚えていないんだ……。お前は私の友達で、でもいつどうやって知り合ったのか、どこであの花を一緒に見たのか、あの花を持って帰った相手は誰だったのか、それが確かに過去の出来事であることは覚えているのに、肝心なことを覚えていないんだ」
「ジュリアス様、落ち着いてください」
「スザク、私は誰なんだ?何も覚えていない、お前と一緒にいた記憶はあるのに、覚えていない、何も覚えていない…っ」
自分の手のひらを見つめながら、譫言のように覚えていないと繰り返す彼。
やがて震えは全身に広がり、両手で顔を覆うと苦しみ出した。
「私は……、違う、俺は、俺は…!」
「ル――っ」
無意識に本当の名前を呼ぼうとし、スザクは愕然として立ち竦んだ。
違う、彼はルルーシュではない。ジュリアス・キングスレイという人形だ。かつての友で、ほかの誰よりも愛していた人ではない。
糸が切れたように彼の体から力が抜け、ぐらりと傾いた。そこでようやく我に返ったスザクは慌てて細い体を抱き留める。
「――ジュリアス様」
今度は間違わずに呼べたことに安堵するような、落胆するような気持ちだった。
紫の瞳がのろのろとこちらを見上げた。
「スザ、ク……、私は、」
「あなたはジュリアスです。ジュリアス・キングスレイ。それがあなたの名前です」
「ジュリアス……」
「そうです、ジュリアス様。暖かいとは言え、急に外の風に当たったので体が驚いたのでしょう。このままお運びしますからどうぞ楽にしてください」
ぼんやりとスザクの顔を眺めていた彼は、疲れたように瞼を下ろした。そのまますうっと意識を失うのがわかった。
背中と膝の後ろに手を回して抱き上げる。腕の中の体はとても軽く、彼の妹と変わらないのではないかと思うほどだった。
血管が透けて見えそうな瞼に唇を近付け、その寸前で留まる。
(何をしているんだ、俺は)
顔を上げたスザクは、目線を険しくして抱く腕に力を込めた。ぐったりとしている美しい顔をちらりと見やり、屋敷へ戻るために歩き出す。
(薬の量を増やしてもらったほうがいいかもしれないな。このままではユーロピア行きもままならない)
これから彼には偽りの軍師としてブリタニアのために大いに活躍してもらわなければならない。
彼の指揮で戦うのは不本意だし、その身を守る役目を与えられたことも不本意だが、皇帝が彼を生かすと言うのなら騎士としてそれに従うまでだ。
視界の端に儚く舞う花びらが映った。彼はきっとこう言いたかったのだろう。
「桜の花に似ているんだよ、」
唇だけで彼の本当の名前を呼ぶ。
聞き咎める者は誰もいないが、少なくともスザクの中でその名は禁忌だ。
(君を本当の名前で呼ぶことはもう二度とないのだろうか。それとも――)
日本で見た懐かしい花の名を彼は知らない。だから彼は自分の知っている彼ではない。
「おやすみなさいませ、ジュリアス様」
再び戦場に戻るその日まで、束の間の休息を。
(13.10.06)