突発的な事態には慣れているはずだった。
日本がブリタニアに占領されて以来、平穏と呼べる時間はほとんどなかったし、軍人としていつ命を落としてもおかしくない状況で生きてきた。
世界が平和になった今も気が休まるときはない。ゼロとしての重責、間違った選択はできないという緊張感、それらが常に僕の肩に重く伸しかかる。
だから、多少のことでは動じない。
そのはずだった。
「これはどういうことなんだ」
僕の低い声に、物陰から姿を現した少女は肩を竦めた。
「僕の記憶が正しければ、君は半年前に姿を消したはずだけど。ルルーシュと一緒に」
「ジルクスタンで会ったときとは大違いだな。多少は丸くなったかと思っていたが、相変わらずの執着っぷりだ」
「なんのことだ」
「ルルーシュと離れて寂しいなら寂しいと言え」
「はあ?」
「無自覚か。タチが悪い」
「君と言葉遊びをしている暇はないんだ。これでも一応、忙しい身だからね。要件があるなら早くしてくれないかな、C.C.」
C.C.と呼ばれた彼女は、やれやれとわざとらしく溜め息をついた。
「まったく、感動の再会だというのに。ジルクスタンのときとは別人なんじゃないか?」
「あのときはナナリーの救出という最優先事項があったからだ。君のほうこそ以前と変わらないみたいだけど」
「私もあのときは優先事項があったからな」
「だったらお互い様だ。だけど、君とはもう少し話をすれば良かったと別れたあとに思ったよ」
「ほう、なんの話だ?」
「それより君の要件が先だ。早くしてくれと言っただろう。ルルーシュに関わることとはどういうことなんだ」
積もる話はある。だが、のんびりお茶をしながらお喋りを、という状況ではなかった。
(恐らくは彼女も)
どうやって番号を調べたのか、C.C.からプライベート回線で連絡が入ったのは昨日のことだ。
『至急会って話がしたい。ルルーシュに関する重要なことだ。お前以外の人間は寄越すな。お前が来られないのならこの話はなしだ』
そんな脅し文句を言われては行くしかないだろう。
会議と打ち合わせをいくつか延期したり、視察の日程調整をしたりと、ただでさえ多忙なのに余計な雑務を増やされて文句の一つや二つは言いたいところである。しかし、ルルーシュが関わるのならば従うしかなかった。
何より、彼女の声の調子がこれはただの冗談や悪戯ではないことを伝えていた。何があったのかは知らないが、ルルーシュの身に何かが起こったことだけは確かだ。
そうして指定された時間に指定された場所へ来てみれば、C.C.だけが待っていた。無理なスケジュール調整をさせられた上に、肝心のルルーシュの姿がどこにもないことが僕の機嫌を悪くさせ、「これはどういうことなんだ」と低い声が出てしまったわけである。
僕を一瞥したC.C.は、ついて来い、と短く言うとくるりと背を向けた。古びたアパートの階段を上り、二階の一番奥のドアを開ける。さほど広くない部屋の左側にはさらにドアがあった。
鍵を取り出しながら、「ここがブリタニアでなければお前には頼らなかったんだが」と彼女が言う。
「どういうこと?」
「ブリタニアは悪逆皇帝のお膝元だった。ほかの国ならルルーシュの顔を見ても他人の空似で済ませられるが、ブリタニア国内だとルルーシュを直接目にしたことのある人間も多いし、悪逆皇帝憎しの風潮が強い」
「まさかルルーシュの正体がバレたのか」
最悪の事態が頭に浮かび、背筋がぞっとした。
ルルーシュは世界征服を果たした独裁者だ。悪逆皇帝の名前は今も残り、彼が死んだあとも憎む人は多い。
もし生きていることがわかれば世界は再び混乱に陥るし、ルルーシュ自身、無事でいられるとは思えない。いくらコードがあっても、身体が傷付けば痛みは感じる。
もしもルルーシュが捕まって拷問を受けるようなことがあれば――。
すると、C.C.が首を振った。
「ルルーシュの正体についてはバレていないから問題ない。ただ、万が一のことを考えて隠してある」
「隠れているということか?」
「まあそうではあるのだが……。とにかく見ればわかる。お前はまだ会っていないから驚くかもしれないが、カレン達から話は聞いているだろう? 心が行方不明になったルルーシュのことを」
その言葉に僕は目を瞠った。
まさか、と呟いたのと同時に鍵が回り、ドアが開けられた。なんの変哲もない狭い部屋だ。長期旅行者向けのようで、家具はベッドと椅子と棚しかない。
そんな部屋の隅っこで、ベッドの陰に隠れるようにして人が蹲っていた。壁のほうを向いているので顔はわからない。
枕を抱えるその背中は震えていた。
「ルルーシュ、スザクが来たぞ」
C.C.が近付いて肩に触れる。途端に叫び声が上がった。
「大丈夫だ、安心しろ。スザクはお前に害をなす者ではない」
幼い子供が母親から離れたがらないように、必死な様子でC.C.にしがみつく。大丈夫だとC.C.が繰り返した。
その光景を呆然と眺めていると、彼の顔がこちらを向いた。恐怖に取り乱し、何かにひどく怯えている顔だった。
「ル――」
僕の声は喉に張り付き、足は床に縫い留められたみたいだった。指先すら動かせず、ただ立ち尽くすことしかできない。
そんな僕を、空っぽな瞳がじっと見ていた。
***
「ねえ、ご飯食べないの? お腹空いただろう?」
声をかけても返事はなかった。もとより彼は言葉を発さない。
言葉が彼の何よりの武器だったのに、その言葉を失ってしまっている状態に胸が痛む。
しかし、今はそれよりも大きな問題があった。
「何が一日もすれば懐いてくるだよ。警戒心の塊じゃないか……」
溜め息をついて床に座り込むと、ソファにもたれかかって項垂れた。
心が行方不明となってしまったルルーシュを預かって二日。
ルルーシュは僕を怖がり、ちっとも寄ってこない。こちらが少しでも近付けば泣き、叫び、逃げ出そうとする。
今のルルーシュにとって、C.C.は母親のような存在だ。そして僕は、C.C.とルルーシュを無理やり引き離した極悪非道な人間といったところなのだろう。
なんで僕がこんな役回りを、とまた溜め息が漏れた。
C.C.からの呼び出しでブリタニアの郊外に赴き、そこで虚ろな状態となったルルーシュに会ったときは衝撃を受けた。話には聞いていたが、実際にこの目で見るとショックであった。
事情を聞けば、ギアスユーザーを追ってブリタニアに入国したところ、対象と接触したのをきっかけにルルーシュの心は再びCの世界に迷い込んでしまったらしい。
どういう仕組みなのか僕にはまったくわからないが、ルルーシュを元に戻すため、C.C.はそのギアスユーザーを捕まえに行くらしい。
「そのために咲世子やジェレミアに協力を求めたが、ルルーシュを置いていくわけにはいかない。アーニャやシャーリーではこのルルーシュの世話は荷が重いだろうし。というわけで、ルルーシュを匿う先としてもっとも適していたのがお前だったわけだ」
つまり僕は余りものってこと? と思ったものの、ゼロの側が世界でもっとも安全な場所であるという判断は否定しないつもりだ。
(あのルルーシュがこんなことになるんだもんな……)
ゼロレクイエムからの再会を果たしたあと、ルルーシュはC.C.と共にどこかへ行ってしまった。人の理から完全に外れてしまった俺はお前達のところにはもういられない、と言って。
あれから半年が過ぎた。以前と変わらずゼロとして生きる僕だけど、心持ちは以前と大きく違っていた。
世界のどこかにルルーシュがいる。
そのたったひとつの事実は、僕に大きな安堵をもたらした。
ルルーシュが生きている。これだけのことでこんなにも世界は変わって見えるのかと、僕自身が一番驚いていた。
(勝手なものだな。ルルーシュのいない世界を生きていくんだって、覚悟してゼロレクイエムを成し遂げたはずなのに)
あのときの覚悟は本物だった。死のうとしたルルーシュの覚悟も本物だった。
でも、ルルーシュは生きていた。たとえ人ではない存在になってしまったとしても、生きているという事実は変わらない。
そして、僕はルルーシュが生きていることが無性に嬉しかった。
再会した直後は混乱し、僕に内緒で生き延びていたのか、僕に何もかも押し付けたのか、また裏切られたのかと怒りのほうが強かったけれど、冷静になって状況を理解すれば、僕の中でもっとも大きかったのは『ルルーシュが生きていて良かった』ということだった。
ルルーシュのいない世界で、ルルーシュのいない世界を守って生きていくつもりだったのに、ルルーシュが生きていることを喜んでしまった。
(結局僕は、ルルーシュなしでは生きられなかったのかもしれない)
ルルーシュを殺し、ひとりでこの世界を生きていた時間を思い出す。
周りにはたくさんの人がいて、僕をゼロだと知っている人もいて、その上で協力してくれる人が大勢いたのに、そんな中でも僕は孤独を感じていた。独りなのだと思っていた。
(僕にとっての世界は、ルルーシュだったんだ)
ルルーシュを殺したあとでそんなことに気付いた。ルルーシュを一番必要としているのは僕だったのに、僕がこの手でルルーシュを――。
不意に何かが髪に触れ、ハッと顔を上げる。目の前の身体があとずさった。
ぺたんと尻餅をつき、怯えた目で僕を見て、それから恐る恐るといった感じで手が伸びる。
「ルルー、シュ?」
右手で僕の頭を撫でながら、その左手は胸の辺りでぎゅっと握られていた。逃げ出したいのを必死に我慢するように。
「僕を慰めてくれてるの……?」
返事はない。ただ、よしよしと何度も頭を撫でている。
鼻の奥がつんとした。
これはルルーシュなのだと思った。
僕のことが怖いのに、落ち込んでいる僕を慰めてくれているのだ。
(そうだ、ルルーシュはいつだって、僕を)
たまらなくなって抱き締めれば、腕の中の身体は怯えるように震えた。身体を硬くしているのに、それでも僕から逃げようとはしなかった。
「ルルーシュ――」
涙に濡れた声で呼べば、ルルーシュの手が僕の背中に回った。大丈夫だと、怖くないよと言うように。
(自分のほうが怖がっているくせに)
今のルルーシュは赤ん坊のようなものだ。自らの感情を隠すことがない。
怖いものは怖いし、悲しいときは悲しいし、お腹が空いたときはお腹が空いたと訴えるし、眠たいときは眠るのだと聞いている。
ならばこのルルーシュは、僕を慰めるために抱き締めてくれているこのルルーシュは、一体どんな感情を抱いているのだろう。
「んー……」
むずかるような声がした。ルルーシュがもぞもぞと身体を動かし、僕から離れようとしている。
腕を緩めて様子を見ると、視線はテーブルのほうに向いていた。
「ご飯?」
僕の言葉が聞こえているのかいないのか、その目はテーブルの上に置かれた食事を真っ直ぐ見ている。
やっぱりお腹が空いていたのかと苦笑いした。つい今し方、僕のことを慰めたのに、そんなことはもう忘れたらしい。
「ちょっと待って、温めてあげるよ」
ルルーシュのためにいろんなものを用意していたけれど、なかなか食べてくれなかったのですっかり冷めている。
皿を持ってキッチンに行くとルルーシュがついてきた。ちらりと窺えば、僕の動きを観察している。まるで自分の食事を盗られないか心配しているみたいだ。
「勝手に食べたりしないよ」
声をかければ不思議そうに首を傾げられた。
「あ、そうだ、冷蔵庫に……」
温め直している間に少しでも食欲を満たしてもらおうと、冷蔵庫から冷えた器を取り出した。乗っているのはプリンだ。食事を用意してもらうときに、迷わず頼んだものだった。
スプーンを取り、はいと渡そうとして慌てて引っ込めた。危ないから道具の類は持たせるなと言われていたのを思い出す。
箸やフォークはもちろん、使い方によってはスプーンも充分凶器になる。刃物のように先の尖ったものに限らず、少しでも身体を傷付ける恐れがあるものは遠ざけておけというのがC.C.からのアドバイスだ。
注意点はほかにもあって、ドアは必ず鍵を閉めろとか、勝手に外に出ないように見張っていろとか、赤ん坊以上の警戒ぶりである。
(いや、自由に動き回れる分、赤ん坊よりタチが悪いのか)
詳しくは聞いていないが、ふらりと姿を消したルルーシュを探し回り、大変な目に遭ったこともあるらしい。
C.C.はC.C.で苦労したのだと思えば、僕達には内緒で動いていた彼女を責めることはできない。何より、彼女がいなかったらこうして生きてルルーシュと再びまみえることはなかったのだから、彼女に対する感情は複雑だった。
「あーっ」
ルルーシュの声で我に返り、ごめんごめんと謝った。
「プリン、好きだったろう?」
スプーンで掬うと、その口元に持っていく。しばらくプリンをじっと見ていたルルーシュは、唇を開いて顔を近付けた。
口の中のプリンはすぐになくなったようで、僕の袖をくいっと引っ張って催促された。
「慌てなくてもプリンはまだあるから」
プリンを掬い、口まで運び、ルルーシュが食べ、また掬って口に運ぶ。器のプリンがなくなるまでそれを続けた。
一連の流れはまるで餌付けのようで、赤ん坊の世話というよりは物慣れない猫を少しずつ手懐けるような感覚だった。
(ってことをルルーシュに言ったら絶対に怒られるだろうけど)
最後の一口を食べてしまうと、ルルーシュがしょんぼりと肩を落とした。そんなにプリンが気に入ったのだろうか。
「ご飯が終わったら僕の分をあげるから」
無意識に手を伸ばし、ルルーシュの頭を撫でる。それは幼い子供にするような仕草で、僕自身が驚いていた。
空っぽで無垢な瞳が僕を見上げる。僕の中の何もかもを見透かすように。
「ルルーシュ……」
このルルーシュはルルーシュであって、ルルーシュではない。でも、ルルーシュなのだ。
禅問答のようなことを強く実感した。
(君は自分が生きていたことを許せないのかもしれない。でも、僕は君が生きていて良かったってやっぱり思うんだ)
そして、君が何者になろうと、僕にとっては確かにルルーシュなのだ。
***
何度もまばたきをした。
自分の置かれた状況がすぐには把握できず、目の前の顔をまじまじと見つめる。
(なぜスザクがここに……?)
この場合、なぜ俺がここに? と言うべきなのか。
身体の下にあるのはベッドらしい。そこでスザクと俺が一緒に寝ていて、スザクの両手は俺の身体に回っている。何が起こったのかまったくわからない。
(確か、ギアスユーザーを追いかけてブリタニアまでやって来て、そいつと接触した際にまたCの世界に意識が行っていたはずだが……)
大したことのない相手だと油断した。しかし、俺の意識が戻っているということは、C.C.が上手く対処してくれたようだ。
またひとつ借りができたと息をつき、改めて現状を確認する。
恐らく、俺の身体を隠すために選ばれたのがここなのだろう。スザクならば俺のことをよく知っているし、ゼロの部屋は世界でもっとも安全な場所だ。
(だからって世界の英雄に子守りをさせるな。スザクにまで借りができてしまったではないか)
身じろぎして手を動かすと、眠っているスザクの頬にそっと触れた。
ジルクスタンで再会したときにも感じたが、記憶の中にある顔よりも大人びている。
(それだけの時間をお前は独りで生きてきたんだな)
たった一年や二年だとしても、ゼロとしての責務を負いながら過ごす時間は決して短くなかっただろう。
スザクは泣き言らしい泣き言を口にしなかったけれど、つらいことはたくさんあったはずだ。
(仮面を託したことをお前は押し付けだと思ったかもしれない。でも、そこはお前の居場所でもあるんだ)
俺が生きていたのならば俺がゼロをやるべきだとスザクは言った。だけど、ゼロはもうスザクのものだ。今さら俺が奪うわけにはいかなかった。
死に場所を求めていた彼に生きる目的を与えたと、そんなおこがましいことは思わない。
ただ、スザクに生きてほしかった。
あのときも今も、俺が願ったのはそれだけだ。
(さてと、どうして同じベッドで寝ているのかについてはわからないわけだが……)
俺を寝かし付けようと添い寝でもしていたのかもしれない。
自分のほうが熟睡していたら意味がないじゃないかと肩を揺らす。この状況の理由がなんであれ、気持ち良さそうに寝ているところを起こすのは忍びない。
それに、俺の意識が戻ったことは今ごろC.C.にも伝わっているだろう。こうしてスザクと過ごせる時間もあとわずかだ。ならば、もう少しだけ温かいまどろみの中にいてもいいだろう。
スザクの背中に手を回す。すると無意識なのか、スザクの腕に力がこもった。
心地よい拘束に身を委ねた俺は、目を閉じて口元に笑みを浮かべた。
次にお前の目が覚めるそのときまでここにいるから。
だから、もう少しだけ。
西の空の夕暮れが薄紅色に空を染め上げ、柔らかく世界を包み込んでいた。
(19.03.26)