「いらっしゃいませ」
店内へ入ったのと同時に響いた声に、スザクはそっと笑みを浮かべた。
マニュアル通りの挨拶だとわかっているけれど、自分ひとりに向けられたものであることは確かで、この一瞬だけは自分が特別な存在になれたような錯覚を抱ける。
真っ直ぐ向かった先にはレジが三つ。店員は三人。
幸いなことに、今朝はどのカウンターにも人は並んでいない。スザクは迷うことなく一番右のレジの前に立った。
ランペルージ、と書かれた名札を胸に付けた人が接客スマイルを浮かべる。
「いらっしゃいませ。店内でお召し上がりですか?」
「はい。モーニングセットのAでお願いします」
「ドリンクはいかがいたしましょう」
「オレンジジュースで」
「かしこまりました」
料金を告げられ、財布を取り出したスザクは彼の手に直接お金を渡した。
手がわずかに触れるこの一瞬が至福の時である、と言ったら変態かと思われるだろうが、心の中で考えるだけなら自由だ。
「ハンバーガーは後ほどお持ちしますので席でお待ちください」
「はい」
トレーにオレンジジュースだけを乗せてテーブル席へと足を向けた。カウンターが見える位置に腰を下ろし、鞄と上着を置く。
これがスザクの毎朝の日課だ。
自宅からほど近いファーストフード店で、大学に行く前の一時間ほどを毎日のように過ごしている。
しかし、それはこの店のモーニングセットが目当てだからではない。朝食を食べるだけなら、値段がお手頃でもっとボリュームのある店はほかにもある。
しかも大学は一限目から入っているため、ここに寄るには早く家を出なければならない。出来ることなら家でもっと寝ていたいのに、毎朝眠い目を擦って頑張って通っているのは、この店が特別ご贔屓だからというわけでもない。
理由はただ一つ。
「お待たせしました。モーニングセットAのハンバーガーです」
ぼんやりしていたら、いつの間にかテーブルの前に彼が立っていた。先ほどレジで対応してくれた彼だ。
スザクは勝手に緩みそうになる頬をなんとか抑え、「ありがとう」と礼を告げた。
「どうぞごゆっくり」
にこりと笑った彼が背を向ける。その後ろ姿を夢見心地で見送ると、渇いた喉を潤すためにオレンジジュースを一気に半分ほど飲んだ。
この店に通う理由。それは彼、『ランペルージ』さんに片想いしているからだった。
平日の朝にバイトに入っている彼とは、当然平日の朝でなければ会えない。だから苦手な早起きをしてこの店で朝食を食べているのだ。
彼を知ったのは三ヶ月ほど前のことである。
友人たちと夜を徹して遊んだ後、何か飲みたいと思っていたら店の看板が目に入った。飲み物を飲むだけなら自動販売機で買えばいいのだが、そのときは椅子のある場所で休みたい気分だった。
冬の寒い早朝。有名チェーン店の煌々とした明かりが眩しく、まるで街灯に群がる虫のようにふらふらと店内に入った。
いらっしゃいませと少し低めの声に顔を向けたスザクは、目を瞠って固まった。あとから入った客が邪魔だと言わんばかりにぶつかってきたことも気に留めず、食い入るように彼を見つめた。
雪のように白い肌も、宝石のような紫の瞳も、制服の帽子から覗く黒髪も、スザクの目にはすべてがとても美しく映った。声の高さから男だろうと思ったけれど、中性的な姿は性別を曖昧にさせていた。
「お客様?どうされましたか?」
その問いかけが自分に向けられたものだとわかった瞬間の気持ちは言葉では言い表せない。
短いフレーズは接客のうちの一つでしかなく、内心では挙動不審な客を訝しんでいたかもしれない。だけど、彼に声をかけられたというそれだけの事実がスザクをたまらなく幸せにさせた。
その後、どうやって注文を伝えてお金を払ったのかは記憶が曖昧だ。徹夜による寝不足と一目惚れによる衝撃で気付けば自宅にいた、というのは笑い話のような実話である。
そうして三ヶ月前の真冬の早朝、スザクはひとりの少年に恋をしたのだった。
名字はネームプレートに『ランペルージ』と記されていたのですぐにわかった。毎日店に通うことで彼のシフトもだいたい把握した。一歩間違えばストーカーだが、名字以外の個人情報は知らないし、毎日モーニングセットを頼んで彼を見つめるついでにハンバーガーを食べるだけならば店にとってはむしろお得意様だろう。
だから彼の名前も年齢も知らないし、ほかの客や店員の目がある中で声をかけることも出来ない。もし運良く外で彼と遭遇したとしても、声をかけたところで向こうはスザクの顔など覚えていないだろう。
自分たちはあくまで客と店員。それ以上でもそれ以下でもない。
彼の受け持つレジに並んで注文することが小さな幸せだと思っているのだから、彼の横顔を眺めるぐらいは許してほしい。
そんなことを思いながら、今日もスザクはハンバーガーに齧り付いた。
一人で悶々としている間も客は途切れず、彼は極上の笑みで出迎えている。ここは特等席だけれど、密かに嫉妬と戦わなければいけない試練の場所でもあった。
自分が彼を好きになったように、ほかにも彼を好きな客がいるかもしれない。そいつは自分のように毎日通っていて、彼の気を引こうとしているかもしれない。彼も相手のことが気に入ってその手を取ってしまうかもしれない。
くだらない妄想だと言われればそれまでだが、なかなか距離を縮められないじれったさにネガティブな感情が生まれるのは仕方がなかった。
ふと時計を見れば、電車に乗らなければいけない時間が近付いていた。ただでさえ一限目の講義は気が乗らないのに、彼とお別れだと思うと憂鬱が増した。
手を拭いて席を立ち、上着を羽織るとトレーを片手で持ち上げた。返却台に向かおうとしたところで見慣れた制服が視界に入る。
「すみま……」
ぶつかりそうになったのは彼で、謝罪の言葉が途中で止まってしまった。
「申し訳ございません。あ、こちらはお預かりいたします」
にこやかに手を差し出され、スザクはぼんやりトレーを差し出した。カウンターやテーブル越しよりもずっと近い距離に、高鳴る鼓動の音が聞こえそうだ。
「あ……、ありがとう」
「いってらっしゃいませ」
笑顔のまま丁寧に頭を下げられ、同じようにぺこりと会釈をするとそのまま店を出た。途端に冷たい風が頬を撫でたけれど、今はちっとも寒さを感じない。
(いってらっしゃい……か)
にやけそうな口許をコートの襟で隠す。
駅へと向かう足取りはとても軽く、先ほどまでの憂鬱はいつの間にか消えてなくなっていた。
* * *
その日の早朝もいつもと同じようにいつもの店に足を運んだ。暦の上では春だけど、暖かい日と寒い日が繰り返し訪れていてまだコートが手放せない。
店の前で小さく気合いを入れると自動ドアを潜った。
「いらっしゃいませ」
彼の美声に心地良さを感じながらいつものメニューを頼む。モーニングの中で一番ボリュームがあるのが注文したセットなので、毎日同じものになっているけれどスザクはあまり気にしていなかった。
オレンジジュースの乗ったトレーを持って席に向かい、そこで「あれ?」と思わず立ち止まる。
普段なら朝から賑わっている店内は、珍しいことに今朝はしんとしていた。ほかに客の姿はなく、いるのはスザクだけだ。
(実は今日はお休みだったとか……。いや、こうしてちゃんと注文できたんだからそんなはずないか)
珍しいこともあるものだと思いながら、広々とした空間でやはりいつもと同じ場所に座る。自分以外に客がいないというのは気持ちが良かった。
客がいないせいかカウンターには彼ひとりだ。おかげで誰にも邪魔されずに片想い相手の横顔を盗み見ることが出来た。
朝からラッキーだと口許に小さく笑みを浮かべ、ストローを咥える。外の気温が低いのだから暖かい飲み物を頼めば良かったと後悔したのは最初の一口だけで、暖房の効いた店内と彼への気持ちで体はすぐに温まった。
「お待たせしました」
今日も彼によってハンバーガーが運ばれる。
ただの偶然なのだろうが、スザクのもとにはいつも彼が来てくれた。もちろんほかの客のところにも品物は運ぶし、店員なのだからそれが当然なのだが、混んでいても空いていても毎朝必ずハンバーガーを手渡ししてくれることにささやかな幸せを感じているとは、まさか彼は思ってもいないだろう。
「ありがとう」
このあと彼は、「どうぞごゆっくり」と告げて笑ってくれる。今日もそのつもりでいた。
「……?」
しかし、今日はいつもと違った。
ハンバーガーを渡した彼は、立ち去ることなくテーブルの前に立ったままだ。眉を寄せ、何か言いたげな表情にスザクは首を傾げた。
「あの」
彼が重々しく口を開く。
気付かないうちに良からぬことを仕出かしてしまっただろうかという懸念と、彼のほうから自分に話しかけてくれたという喜びに心臓はばくばくと鳴っていた。
「ここでバイトをしている俺が言うのもなんですが、毎日の朝食がそれなのは体に悪いと思いますよ」
「へ?」
「味付けが濃すぎるし、栄養バランスも悪いし、野菜を摂るならともかくここの食事で野菜たっぷりなメニューなんてないし、オレンジジュースと言っても百パーセントなわけではないし」
「え……えっと、あの……」
憧れの彼が自分に話しかけている。その感動に浸る余裕もなく、スザクは秀麗な顔をぽかんと眺めた。
なんだかよくわからないけれど、どうやら自分は説教されているらしい。この店の食事について、この店のアルバイトである彼に。
「こんな食事ばかりだとそのうち体を壊しますよ」
「で、でも、お店としては売り上げが上がればそれでいいんじゃない?僕ひとりの売り上げなんて微々たるものだろうけど」
店側に立った意見を言えば彼の眦が上がった。美人は怒っても綺麗というのは本当なんだと、今の状況にそぐわないどうでもいいことを考える。
「あなた一人が来なくなったくらいで傾くような会社なら放っておいてもそのうち潰れます。俺はただ、あなたのことが、」
途中まで言いかけて、彼がハッとしたように口を噤んだ。次いで顔を青くしたかと思えば、スザクの真っ直ぐな視線に気付いた途端、柔らかそうな白い頬を赤く染める。
一連の変化をスザクは感動にも似た気持ちで見つめていた。
あなたのことが。そのあとはなんと続けるつもりだったのか。
(勘違い……してもいいのかな)
種類はともかく、少なくとも好意は持たれていると自惚れていいだろうか。
ただの客の食事内容なんて普通は気にするものではない。ましてや、体調を心配する言葉を一店員がかけてくるとも思えない。
千載一遇のチャンス、という言葉がスザクの頭の中に浮かんだ。このチャンスを逃せば次のチャンスは永遠に訪れない、そんな気もした。
逃げ出しかけた彼を掴まえる。離さないように、でも力を込めすぎて傷付けないように、細心の注意を払って右の手首を握った。
「好きです、あなたのことが」
迷っている暇はなかった。
自分の気持ちを伝えようと決意したわずか数秒後に出てきたのは、ひどくストレートでわかりやすい告白の言葉。
彼は目をまん丸にさせていた。綺麗な顔が今はとてもあどけなくて幼ささえ感じた。
しかしそれ以上の反応はなく、スザクの中で不安がどんどん大きくなっていった。
勢いよく告白したものの、やはり直球すぎたか。所詮、自分たちは客と店員で、それ以上の関係になるなんて無理だったのか。
ここに通うのは今日が最後だな、と落胆したとき。
「なんで、俺なんですか」
「なんでって訊かれても、君に一目惚れしたからとしか言えないんだけど……」
「ひとめぼれ?」
復唱され、こくりと頷く。
「この店で初めて君を見たときから好きだった。だから毎日通っていたんだ」
「毎日……」
「君に会って、たとえ注文のやり取りだけでも話したかったから毎日通った」
彼が目を瞠る。これ以上は瞳が零れ落ちてしまうのではないだろうかと心配になるくらいだ。
「ねえ、さっきなんて言おうとしたの?あなたのことが、の続きを教えてくれない?」
「それは、」
紫の綺麗な瞳が泳ぐ。その頬はまだ赤くて触ったら火傷しそうだ。
彼の手首を通してお互いの心音が伝わった。
「いらっしゃいませー」
カウンターから聞こえてきた声に二人ともハッとした。スザクは思わず手を離し、彼はようやく解放された手首を左手で握り締めている。
「――あと三十分、なんです」
「三十分?」
「そしたら、バイトが終わるから、だから……、迷惑でなければ、店の表で待っていてください」
切れ切れの言葉は彼の緊張を表わしているようだ。
「君は、」
「ルルーシュです」
「え……?」
「俺の名前です」
はにかんだ笑みを浮かべると、彼はレジへと足早に戻ってしまった。
今までの閑散ぶりは何だったのか、次から次へと客が来て席の半分があっという間に埋まる。二人きりになれる時間を誰かが意図的に作っていたみたいだ。
ざわめきの中、椅子に座り直したスザクはぼんやりとカウンターを眺めた。
三十分後。
バイトの終わり。
店の表。
ルルーシュ。
断片的なフレーズが頭の中でぐるぐると回る。
(これってもしかして……)
過度の期待は禁物だと言い聞かせながらも、高ぶる気持ちは抑えられない。
(ルルーシュ。ルルーシュ)
教えてもらった名前を心の中で大切に呼んだ。
三十分後に彼に会ったら、そのときは真っ先に自分の名前を教えよう。そしてもう一度好きだと伝えるのだ。
いらっしゃいませから始まった恋は、春を迎えるその前にようやく一歩踏み出そうとしていた。
(13.3.23)