通り雨だった。
部屋の窓を開けたスザクは、頬を撫でる風に雨のにおいが混じっていることに気付いた。
「朝から晴れていたはずだけど……」
なんとなく天を見上げる。
小さな雫がぽつりぽつりと落ち始め、それからざっと雨が降り出すまでにさほど時間はかからなかった。
雨か──、と呟いて窓から掌を出す。
城内でもっとも奥まった場所にあり、限られた者しか立ち入れないエリアで、さらに隠し通路や隠し扉をいくつもくぐり抜けてようやくたどり着ける一室は、外部からは完全に遮断されていた。ここまで来られるのは皇帝とその側近ぐらいなものだ。
しかし、世の中に絶対はない。皇帝暗殺のために忍び込んだ暗殺者がスザクの姿を見ないとも限らない。
もしスザクを目撃すれば相手は驚き、こう思うだろう。
死んだはずの騎士がなぜここにいるのか、と。
(その前に僕が相手の息の根を止めているけど)
濡れた手を引っ込め、窓を閉める。
足元の絨毯は雨で色を変えていた。ルルーシュに見つかったら怒られるだろう。でも今日はもう会うことはないのかと落胆するように思い直し、スザクはくるりと背を向けた。
「雨を眺めながら物思いとは、お前も風流なことをするんだな」
そしたら当の本人がいて息が止まりそうになった。
「なんだ、本当に気付いていなかったのか? 人の気配には敏感なのに珍しい」
「……っびっくりするじゃないか!」
「お前がぼうっとしていたから悪い」
「部屋に入る前にノックしろって人には言うくせに」
「ノックならした。だから、気付かなかったお前が悪いんじゃないか?」
ソファに座り、手元には本を持ったルルーシュがスザクを見上げて笑う。人の悪い笑みだ。
ムッとしたスザクはそれ以上は何も言わずに足を進め、ルルーシュの正面にどかりと腰を下ろした。
「で、何か用?」
「特に用はない。ちょっと息抜きに来ただけだ」
「だったら自分の部屋でいいじゃないか」
「気にするな。すぐ出て行く」
気にするなと言われても気になってしまう。
そもそも、彼は多忙のはずだ。まだやることが残っていると言って、連日睡眠時間を削って仕事をしていた。
(今日だって、朝、顔を合わせたのが最後だと──)
そんなにやることがあるのならずっと君がいればいいじゃないか。ずっとここにいればいいじゃないか。
不意に浮かんだ言葉を飲み込み、何かを隠すようにスザクは両手を組んだ。
「お前は暇か?」
「暇じゃないよ」
「だが、空を見る暇はあると」
「僕も息抜きだよ」
ふぅん、と相槌を打ってルルーシュは本に目を落とした。
何を読んでいるのかはわからない。明るい色の表紙はやけに目に鮮やかだ。
雨に閉じ込められた世界はモノトーンだけど、ルルーシュの手元だけが赤い。
「それ何?」
「暇つぶしになるかと思って適当に持って来た」
「暇なの?」
「暇ではない。息抜きだ」
同じやり取りを繰り返しているような気がした。
暇なのか。暇じゃないのか。
いや、そんなことはきっとどうでもいい。
訪問の理由も、会話のきっかけも、会話の中身も、ごくごくありふれたものであればそれでいいのだ。
ルルーシュはきっとそれを望んでいる。
「お茶でも淹れようか?」
「俺がやる」
「僕が淹れるって言ってるのに」
「お前が淹れたら渋みと苦みしかない代物になるだろ」
「酷いなぁ」
「でも、俺が淹れたあとに一杯だけ淹れてくれ」
さり気なく頼んだルルーシュが腰を上げる。
えっ? とスザクは彼の背中を目で追いかけた。
隣室には簡易キッチン、と言っても皇帝の住まいなので簡易と呼んだら一般市民から怒られるほど広々としたキッチンが備え付けられていた。そこへルルーシュが消えたのを確かめ、スザクは姿勢を元に戻した。
とても落ち着かない気分だった。
普通にしているつもりだけど、朝からずっと落ち着かない。緊張感を孕んだ空気がこの部屋を埋め尽くして息苦しいくらいだ。
しかしそれは、針一本を刺せば途端にしぼんでしまうような危うい空気でもある。
どんな強敵を前にしても緊張感とは無縁だったのに、今になって指先が震える緊張を味わうなんて皮肉なものだ。
組んだ両手に力をこめる。
(何をすればいいんだっけ)
段取りはすべて頭に入っている。やるべきこともわかっている。手順は身体に覚え込ませたし、そのあとのことも当面は問題ない。
なのに、頭の中が真っ白だ。
どのくらいぼんやりしていたのか、ぽんと肩を叩かれてスザクは勢いよく振り返った。
目の前にはルルーシュのびっくりした顔があって、呆気に取られたまま見上げた。
「驚いた……。目を開けたまま寝ていたわけじゃないよな?」
「まさか。ルルーシュじゃないんだからそんな器用なことできないよ」
「俺はちゃんと目を閉じて居眠りしていた」
「そこ堂々と言うところじゃないんだけど。それよりどうしたの?」
「どうしたは俺のセリフだ。お茶の準備ができたから呼んだのに返事がないと思えば、お前、今日はなんだか変だぞ」
「そんなことは──」
テーブルに並ぶカップをぼんやり眺めながら、スザクは一旦口を閉じ、それからもう一度ゆっくり開いた。
「いや、そんなことあるのかな」
素直に吐露すれば、ルルーシュが目を瞠った。
薄い唇が微かに震え、何かを呟いたようだ。しかし、外からの雨の音にかき消されてスザクの耳には届かなかった。
何? と聞き返してはいけない気がして、スザクはカップを両手で持ち上げた。
掌がじんわりと温まる。空調は一定の温度を保っているはずなのに、身体がやけに冷えていた。
ルルーシュは何も言わずにソファへと座った。二人で向かい合い、しばし無言で紅茶を飲んだ。
おいしい、と呟けば「当然だ」と返ってきたので思わず笑った。
「ルルーシュって本当に自信満々だよね」
「なんだ、いきなり」
「すごいなと思って」
彼が首を傾げると、黒髪がさらりと揺れた。
白い肌に黒い髪がかかるのを見るたび、綺麗だなと感じていた。
普段のルルーシュを特別綺麗だと思うことはないから、学校でみんなが口々に「かっこいい」だの「美形」だの言っているのを見て、ルルーシュはルルーシュだろう? とスザクはいつも不思議だった。
ただ、ふとした仕草や横顔を無意識に綺麗だと思ったことはある。
日本人とはほんの少し深みが違う黒髪は、彼の白い肌に良く映えた。紫の瞳とのコントラストも格別で、紫が高貴な色であることをスザクはルルーシュで実感した。
もちろん、本人に直接伝えたことはない。そんなことを言っても笑い飛ばされるか、気味悪がられるか、いずれにしろ本気で受け取ってはくれないだろう。
スザクも本気で伝えるつもりはなかった。男友達相手に美辞麗句を並べたところでなんの意味もないのだから。
「僕にルルーシュみたいな自信はないよ」
「それは嫌味か。ほかに敵なんかいないって顔でランスロットを乗り回しているくせに」
「僕、そんな顔してないけど。というか、ルルーシュだって見る機会はないだろ?」
コックピットにいるのだからパイロットの顔は外からはわからない。すると、「モニターで見ることがある」と返された。
「録画してお前に見せてやれば良かったな」
「やめてよ。自分の顔なんか見たって面白くない」
これからはますます見ることはないんだし、と続けそうになって口を閉ざした。
また沈黙が落ちる。カップの中身はすっかり空になっていた。
「じゃあ、今度は僕が淹れるね」
二つのカップを持ってキッチンに向かう。
雨の音はだいぶ小さくなっていた。じきに止むだろう。
以前、教わった手順を思い出しながら紅茶を用意する。繊細な作業は不得意ではないし、一人で生活していた時期が長いのでキッチンに立つことも慣れているのに、こうして丁寧に紅茶を淹れているとなんだかおかしな感じだった。ルルーシュのための一杯なのだと思ったら妙に緊張もした。
淹れ終わると二人分の紅茶を運ぶ。
ルルーシュはソファを離れ、窓辺に立って空を眺めていた。
「雨、止んだぞ」
「通り雨だったからね」
「この程度なら地面の状態も問題ないし、パレードも決行できるな」
安心したように言っているけれど、ルルーシュのことだから天候の把握は完璧だろう。雨がすぐに止むことは最初からわかっていたに違いない。
「ほら、虹が出ている」
カップをテーブルに置き、スザクも窓に寄ってみた。ほっそりとした指が示す先に、淡い七色の帯が架かっていた。
「虹なんて見るの久しぶりだな」
「お前には情緒というものがないからな」
「空を見る余裕がなかっただけ」
「忙しさにかまけて周りの景色を見ないことを情緒がないと言うんだ」
「情緒ってそういう意味だっけ?」
不服そうに問えば、ルルーシュは小さく笑った。
「一日のうちのほんの一瞬でもいいんだ。何かを見て、それを綺麗だと感じることは大切だ」
「ルルーシュは毎日そんなことを感じてるの?」
「ああ。今日は虹を見られた。明日はもっと綺麗なものを見られるかもしれないと思ったら楽しいじゃないか」
明日。
彼がさり気なく口にした単語がやけに頭に響く。
次に降る雨も、次に架かる虹も、ルルーシュが目にすることは二度とないのだ。
唐突に思い至り、足元から得体の知れない何かが這い上がってくる感覚がした。
細胞のひとつひとつを浸食していくような、何か。
(ああ──、これは恐怖だ)
ルルーシュが死ぬことは最初から知っているのに、たった今、初めて気付いたような恐怖。
雲間から射し込む光と淡い虹を見たまま、スザクは拳を握り締めた。
「紅茶が冷めるよ」
それだけをかろうじて言うと窓に背を向けた。足元の絨毯はまだ湿っている。
スザクを追いかけ、ルルーシュもソファに座り直した。カップを手に取るとひと口飲む。
どんな評価が下されるのかと待っていたら、ルルーシュは微かに笑みを浮かべただけで感想は何も言わなかった。
美味しいのか不味いのか、どちらなのかはわからない。でも、ルルーシュが満足してくれたであろうことは悟った。
悟って、泣き出したい気持ちになった。
馬鹿だなと思う。今日は感情の変化がおかしい。こういうのを情緒不安定と呼ぶのではないか。
スザクがぐるぐると考えている間も、ルルーシュは大切そうにゆっくりと紅茶を飲んでいた。惜しむように口を付け、そのたびに愛おしげに両手でカップを包み込む。
静かな部屋で二人きり。
世界の何からも、誰からも邪魔されることなく、たった二人で過ごす時間。
まどろみのように心地よく、とても穏やかな時間。
この時間が永遠に続けばいいのに、という愚かな考えはすぐに振り払った。たとえ夢想でも考えてはいけないことだ。
だから、秒針の音に耳を傾けて、これは限りある時間なのだと己に言い聞かせる。
そのあとも二人は口を開かなかった。
話すべきことはすべて話した。たくさん言葉を交わした。
もう充分とは言い切れないのかもしれないけれど、今の自分達には充分だとお互いがわかっていた。これ以上はただの未練だ。
ルルーシュがカップをソーサーに戻すと微かな音がした。
それが合図だった。
「では、俺は戻る。邪魔をして悪かったな」
立ち上がったルルーシュはスザクを見下ろし、口元に笑みを乗せてから歩き出した。
釣られるようにスザクも立つ。
焦燥感に駆られるようにルルーシュを追いかけ、咄嗟に細い手首を掴んだ。
「君は僕のことを好きだった?」
もう少し、あと少しだけ話がしたかった。
ただ、口から出てきた言葉はある意味ひどく平凡で馬鹿げた内容だ。最後の最後にこんなことを質問しなくてもいいじゃないかと、スザクの中で別の自分が呆れていた。
でも、最後だからこそ聞いておかなければいけない気もした。
歩みを遮られたルルーシュは、立ち尽くしたようにしばらくその場で動きを止め、それからゆっくり振り返った。
「なんだ、藪から棒に」
「どうなの?」
「好きに決まっているだろう。友達なんだから当たり前じゃないか」
やけにあっさり口にされ、スザクは軽く眉を寄せた。
「素直過ぎて気持ち悪い」
「人に質問しておいてそれか。失礼なやつだな」
「だって、ルルーシュはもっとこう、いろんなことをこねくり回してわざと遠回しに伝えるタイプだろ?」
「お前、人をなんだと思っている。だいたい、お前はどうなんだ」
「僕?」
「俺のこと、好きだったのか?」
ルルーシュのほうから質問されることは想定しておらず、すぐには言葉が出てこない。
一瞬の自失から我に返ったスザクは口を開きかけた。
好きだったよ。
心の中で答えた。
それを伝えるのは簡単だ。友達として好きなのだと言えばいい。
(でも、僕の意味は違うから)
きっとルルーシュはそれを望んでいない。スザクも望んでいない。
最後まで二人は『友達』であり続けなければいけないから。
だから、スザクは答えの代わりに笑みを浮かべた。
「内緒」
「はあ? 人には聞いておきながら──」
「君は僕の友達だ」
答えはそれでいいだろう?
ルルーシュがじっとスザクを見つめる。菫色の瞳はやはり綺麗だった。
綺麗な瞳が映し出す世界はとても綺麗なのだろうと思わせるほど、彼の瞳は綺麗だ。
ルルーシュのすべてが綺麗だ。
「そうだな、俺とお前は友達だ」
ルルーシュが笑い、本当にもう行かなければいけないから、とスザクの手の甲に触れた。
そろりと力を抜く。
スザクの指はルルーシュの手首を滑り、掌をなぞり、最後に指先を触れ合わせ、そうして離れた。
「じゃあな、スザク。また明日」
「うん。また明日」
背を向けてルルーシュが部屋を出て行った。あとに残されたのはスザクだけ。
右の手を握り締めると、そこにはまだ彼の体温が残っていた。
(あったかい)
雨の名残が窓を伝い、涙のように流れ落ちていった。
***
靴音を鳴らしながら廊下を歩いていたルルーシュは、不意に足を止めて窓から外を覗いた。
そこにはまだ虹が架かっていた。
「綺麗だな、スザク」
彼に届くことはないけれど、彼に伝えたかった。
(お前には綺麗なものをもっとたくさん見てほしいんだ)
この世界の美しさを。この世界の素晴らしさを。
どんなに絶望しても世界はとても綺麗だ。
それはもしかしたら残酷なことなのかもしれない。
つらく過酷な人生の中で、野に咲く花の美しさなどなんの意味もないのかもしれない。
空の青さも、虹のきらめきも、ただそこにあるだけの無意味なものなのかもしれない。
だけど、知っていてほしい。
あなたの前に広がる世界はいつだって美しいのだと。
(だって、俺はお前が──)
スザクが触れた指先を唇に押し当て、ルルーシュは微笑んだ。
最後に触れた手は温かかった。
あの体温がそばにいてくれたから、怖いものはもう何もないのだ。
雨あがりの空には、青い絵の具を刷いたような綺麗な色がどこまでも続いていた。
(18.05.20)