「殿下ー!ルルーシュ殿下ー!」
毛足の長い高級絨毯を踏みしめながら、主の名前を呼ぶのは枢木スザク。
ここ神聖ブリタニア帝国で、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア皇子殿下の第一騎士を務める男だった。
「すみません、ルルーシュ殿下をお見かけしませんでしたか?」
「いいえ、こちらにはいらしていないと思います」
申し訳なさそうに謝る女中に礼を言い、廊下を突き進む。
「また逃げられてしまった……」
スザクははあ、と溜め息を吐いた。
容姿端麗、頭脳明晰という言葉がぴったりで、ブリタニア国中の女性達の憧れであるルルーシュ殿下。まだ要職には就いていないが、人当たりも良く、ロイヤルスマイルも完璧で、帝国宰相として辣腕を振るっている第二皇子のシュナイゼル殿下にも引けを取らない。すでに宰相の右腕のような働きをしていて、来年辺りには宰相補佐として表舞台に上げるのではないかと噂されていた。まさに完璧の二文字が似合う人物。
しかし、そんな皇子殿下の趣味が離宮内での雲隠れであることは、アリエス宮で働く者たちの間でしか知られていない。今日も今日とて部屋を抜け出しどこかへ消えてしまい、お茶を運びに行ったスザクが捜索に出ているのである。
「ルルーシュ殿下ー!」
不作法であることは承知しつつ、大きな声で名前を呼びながらアリエス宮の中を探して回る。
「枢木殿!」
背後から名を呼ばれて、スザクは振り返った。スザクよりもさらに大きな声の持ち主は、ジェレミア・ゴットバルト。ルルーシュ皇子殿下の第二騎士である。ルルーシュが幼いころから忠誠を誓っていた彼は、突然現れた日本人のスザクを目の敵にしていた。自分が第一騎士に選ばれなかったときはショックのあまり一週間ほど屋敷に引き籠っていたが、スザクの忠誠心や身体能力の高さ、さらにはルルーシュからの信頼の厚さを目の当たりにし、共に主を守る仲間として次第に心を許すようになってくれた。今では良き同僚だ。
「殿下はいらっしゃったか?」
「いえ、まだ」
「今日こそはと思っていたのに、今日も駄目だったか……」
ジェレミアががっくりと項垂れている。いい歳をした大人の男が沈んでいる様は鬱陶しいことこの上ないが、ジェレミアの気持ちを考えると無下にもできず、スザクはただ苦笑いを浮かべた。
忠誠心の塊である彼は、殿下にお出しする飲み物も自分が淹れなければと思ったらしく、手ずからお茶を淹れるようになった。しかし、ルルーシュが口を付けたのはたったの一度きりで、今ではお茶が出される前に姿を消すようになってしまった。こんなことがすでに四週間も続いている。
ジェレミアのお茶が嫌だから逃げているのでは?というのが周囲の見解だが、常に一生懸命なジェレミアに対して誰も教えることができない。最近では、主従によるかくれんぼを微笑ましく見るのがアリエス宮での日常になっていた。
とはいえ、これ以上凹まれては今後の公務に差し支える。
「チャンスはまたありますよ。僕はこっちを探してきますから、ジェレミア卿はあちらを見てきてください」
「承知した」
返事とともに捜索へ向かったジェレミアを見送り、スザクは庭に降り立った。アリエス宮の庭園はブリタニア随一で、ここに立つたびにスザクは落ち着いた気持ちになる。そのことを伝えたとき、ルルーシュはひどく嬉しそうに笑ってくれた。スザクがこの庭を好きなのは、あのときのルルーシュの顔が思い出されてやまないからかもしれない。
庭を突き抜け、奥へ奥へと進む。しばらく行くと薔薇に囲まれた場所に出た。薔薇のアーチを潜ればぽっかりと空間が広がり、中心にはベンチがひとつあった。
そこに、スザクの探し求めていた人がいた。
「やはりここにいらっしゃいましたか。――ルルーシュ殿下」
ベンチに寝転んでいたルルーシュがぱちりと目を開く。薔薇の赤に負けないくらい美しい紫がこちらに向けられた。
「遅い」
不機嫌そうに一言だけ言うとおもむろに起き上がった。スザクはベンチの前に膝をつくと、少し乱れたルルーシュの髪を整えた。
「これでも早く辿り着けたほうなのですが」
「道草をしているからだ」
「文句をおっしゃるなら、かくれんぼはやめてください。そろそろジェレミア卿が本気で泣いてしまわれます」
「逃げなければお茶を飲まなければいけないではないか。あいつの淹れたお茶は苦くて不味いんだ」
嫌そうな顔をされ、スザクは眉尻を下げる。
「そうおっしゃらずに。ジェレミア卿のお茶が苦いのなら、殿下が指南して差し上げればよろしいではないですか」
「なぜ俺が教えなければならない。自ら研究してもっと美味しいお茶を淹れるのが忠義というものだろう」
言葉はひどいが、その顔はとても穏やかである。
手を差し伸ばすと、それに捕まってルルーシュが立ち上がった。
「戻るぞ」
「はい」
今までベンチでまどろんでいたのが嘘のように颯爽と足を進める。スザクも後に続いた。
「あと三十分ほどでシュナイゼル殿下がお見えになります」
「昨日も会ったというのに、また来るのか。兄上も暇だな」
「殿下のことがお好きなのですよ」
「冗談を言うな。俺を呼びつけるのならともかく、帝国宰相が離宮に自ら足を運んでどうする」
スザクは苦笑いを浮かべた。切れ者として国内外で高い評価を受けているシュナイゼルもルルーシュにかかれば形無しである。
「そうだ、もう一度隠れてしまおうか」
「殿下こそ御冗談はやめてください。そんなことをされたら私の首が飛びます」
「別にいいではないか。そしたら堂々と騎士を辞められるぞ」
振り返ったルルーシュが悪戯っぽく笑いながら告げる。その目が思いのほか真剣で、自然とスザクも表情を引き締めた。
「自分に騎士を辞めろとおっしゃっているのですか?」
「辞めろとは言っていない。だがここはブリタニア、お前は日本人。ブリタニア人なんかに忠誠を誓わなくてもいいんだぞ」
それはスザクが第一騎士に選ばれたときにも言われた科白だった。
一生日本には帰れなくなるかもしれない。本当に後悔しないのか。
そんなことを気にしてくれる皇族は初めてで、スザクはルルーシュに気に掛けてもらえただけで有頂天になりそうだった。わけあってブリタニアに渡り、軍に入り、たまたまルルーシュの目に止まった。それだけでも幸運なことなのに、一介の日本人である自分をルルーシュは第一騎士にしてくれた。これ以上の希望を言ったら罰が当たるだろう。
スザクはルルーシュを敬愛していた。
見目麗しい者が多いブリタニア皇族の中でも特に秀麗な顔をしており、頭の良さは帝国宰相にも劣らない。少々口が悪いのは愛嬌である。
時には非情な決断を下すこともあるから皇子は冷たい人間だと陰で言う者もいるが、実際の彼はとても優しかった。公私の別ははっきりしていて、自分に厳しすぎるほど厳しい面を持っているものの、一度懐に入れた人間に対しては限りなく甘かった。スザクを始め、ジェレミアやほかの人間たちがルルーシュに忠誠を誓うのは、ひとえに彼自身の人柄のおかげである。
そのルルーシュが、家族以外でもっとも近い位置に置いたのがスザクだった。これを幸福と呼ばずに何と呼ぶのか。
「自分は殿下の騎士です。何があってもお傍を離れることはありません」
「……だが、それは俺が皇族だからだろう?もし皇族でなくなったら、お前もここにいる者たちも皆すぐに離れて行ってしまうに違いない」
ルルーシュはどこか痛みを堪えたような顔をした。
(この方は一体何を言い出すのだろう)
まるで自分の皇位継承権にしか価値がないと思っているような発言に、スザクは眉をひそめた。
「ご無礼をお許しください」
ルルーシュとの距離を縮めると、返事を待たずに手を取った。そして、両手でそっと包み込む。
「スザっ…」
「確かに殿下が皇族でなければ、騎士としては傍にいられません。しかし、騎士でなくなったとしても、自分は殿下から決して離れません」
「何ら利益がなくても?」
「忠誠心の中に損得勘定は入っていません」
きっぱりと言い切るが、ルルーシュはまだどこか疑っているような表情をしていた。これだけ皆から慕われていながら、自分の価値にまったく気付いていないのが信じられない。
(本当に自分に向けられる好意には鈍感な方だ)
仕事では厳しい顔をしている主が、素の部分では実は天然なのが可愛らしい。だが、あまり鈍感すぎるのも困りものである。
「殿下がかくれんぼをされるとき、自分が真っ先に殿下を見つけられるのはなぜだと思いますか?」
問えば、ルルーシュが小さく首を傾げた。あどけない仕草だった。
「お前は鼻が利くからだろう?」
真面目な口調で答えられ、スザクは笑った。
「そうですね、鼻の良さではほかの人に負ける気はしませんね。でも、もっと大きな理由があります」
そのとき、ざぁ、と風が吹いた。ルルーシュの艶やかな黒髪が乱れる。その隙間から見える紫は何よりも美しい色だった。
この瞳が自分を見てくれるのならば、どんなことでもできるとスザクは思う。
「殿下がいつも見つかりやすい場所にいてくれるからです」
ルルーシュがハッとした。その頬が微かに染まったように見えたのはスザクの目の錯覚ではないはずだ。
「必ず庭のあの場所にいるのはどうしてですか?」
「そ、それは、あそこが隠れやすいからで…!そういうお前こそ、あの場所をなぜほかの者に教えない!俺がいつもあそこにいると知っているのなら、アリエス宮全体を探すふりなどしなくても、もっと楽に見つけられるではないか!」
「そんなことを教えたら、殿下と一緒にいられる時間がなくなってしまうではないですか。ところで、自分が殿下を探しているふりをしていると、どうしてご存知なのですか?」
ルルーシュの顔がしまったと言っている。スザクはにこりと微笑んだ。
「自分が来るのを待っていてくださったのですか?」
「な…、そんなことっ」
「光栄です」
さらに笑みを深めれば、ルルーシュが口をぱくぱくとさせる。何と言って反論すればいいのかさっぱりわからないといった様子だ。
冷静沈着な皇子殿下がこんな表情をするなんて、家族以外はきっと誰も知らないだろう。
スザクはルルーシュの手を恭しく掲げ持つと、甲の部分にそっと唇を落とした。ルルーシュの身体がびくりと震える。
親愛や忠誠の証のキスならば数え切れないほどされてきただろうに、これほど反応するのはどうしてか。スザクは上目遣いにその顔を見つめた。
すると、明らかにわかるほどルルーシュの顔が真っ赤になった。ばっ、と手を振り払い、思いきり眉を寄せる。
「――戻る!」
一言だけ告げると、肩を怒らせて歩き出した。
「イエス、ユアハイネス」
口許を緩め、スザクも後に続いた。
少しからかい過ぎたかなと反省する。でも、あんなに可愛らしい反応を見られたのだからと後悔はしていない。
スザクはルルーシュを敬愛していた。同時に、愛してもいた。
口に出したことはないけれど、ルルーシュは気付いているようである。そして、ルルーシュも自分のことを嫌ってはいないと、確かめてもいないのにスザクは確信を持っていた。
隠れ先が見つかっても決して場所を変えないこと。スザクに見つかるまでは決して戻らないこと。何より、スザクが姿を現したときに見せる表情。花が綻んだような笑みは、好きだと直接伝えられるよりも強く気持ちを伝えていた。
あまり早く見つけに行ってしまうとかくれんぼの意味がなくなってしまうからいつも頃合いを見計らって足を運ぶのだが、薔薇の園へと一歩一歩近付くたびにスザクは胸を高鳴らせるのだ。
(手の甲にキスをしてあれだけの反応をされるのに、これで好きじゃないって言われたらショックで立ち直れないな)
遠くからジェレミアの声が聞こえた。ルルーシュの姿をようやく見つけ、泣き出さんばかりに喜んでいる彼の様子が目に浮かぶようだ。
ルルーシュが立ち止まったのでどうしたのかと思えば、げんなりした顔をしていたのでスザクは苦笑いをする。
「お茶が嫌なら、嫌だとはっきりおっしゃればいいではないですか」
「そんなことを言ったらあいつが泣くだろう」
茶化した物言いは、しかし自分のために一生懸命なジェレミアを傷付けたくないという配慮が窺えた。やはりルルーシュは優しい。
「では、自分もお茶に付き合います。それで我慢していただけませんか?」
譲歩を提案すると、ルルーシュがスザクを見据えた。
「……まあ、考えてやる」
「ありがとうございます」
愛好を崩せば、照れ隠しのようにルルーシュがムッと口を引き結んだ。その耳はまだ少し赤い。
再び歩を進めた主に従い、共に離宮へと戻る。かくれんぼの時間は終わりだった。
だけど、明日もまたルルーシュはふらりと姿を消してしまうのだろう。スザクが鬼となって見つけに行くまで、薔薇に囲まれた場所で待っていてくれるのだろう。
(好きですよ、ルルーシュ殿下)
その言葉を告げるのは、もう少し先のこと――。
(09.11.28)