目を覚ました瞬間、頭を抱えたくなった。
何かの間違いではないかと目を擦り、まばたきも繰り返してみたけれど、隣で眠っている男の姿は消えない。どうやら本当に現実らしいと認識した俺は、叫び出しそうになった口を両手で塞いだ。
やってしまった。
咄嗟に浮かんだのはそのフレーズで、普段ならばくるくると良く回る頭は真っ白になっていた。
「うーん……」
唸るような声が聞こえて我に返る。男が寝返りを打ち、俺のほうに身体を向けた。
――ここにいては駄目だ。とにかくこのベッドを抜け出し、部屋を出て、こいつに二度と会わないように細心の注意を払って、それから……。
一瞬のうちに今後の行動を組み立てると、隣の男を起こさないよう静かに身を起こした。すると肩からシーツが落ち、自分が裸であることにぎょっとする。なぜ裸なのかは考えたくもない。
ふと、腕の内側が赤くなっていることに気付いた。よくよく見れば胸や腹部にも赤い痣みたいなものが浮かんでいて、なんだろうと擦ってみた。痛みや痒みはない。どこかでぶつけたのかと首を傾げた。なんとも不思議な痣だが、今は逃げるほうが先だと広いベッドをゆっくり移動する。全体的に筋肉痛で、身体の節々が痛んだ。しかし、そんなものはただの錯覚だと自分に言い聞かせる。
ようやく端まで行くと、ベッドから静かに足を下ろした。ほっとして安堵の息をつく。
「勝手にいなくなるなんて酷いじゃないですか」
「ひっ――!」
いきなり手首を掴まれ、俺は引き攣った声を上げた。恐る恐る振り返れば、眠っていたはずの男が寝転んだまま俺を見上げていた。熟睡していたくせに、いつの間にベッドの端まで移動したのか。
「ナイトオブセブン……」
「僕のことはスザクとお呼びくださいとお願いしているのに。それと、一夜を共にした相手を残して勝手に帰るのはマナー違反ですよ」
「っな、何がマナー違反だ! それを言うならまずは自分自身の最大のマナー違反を反省したらどうだ」
「僕がマナー違反をしましたか?」
何を責められているのかわからないととぼけられ、頭に血が上るのを感じた。
「体調不良の人間を捕まえてベッドに引きずり込んだことだ!」
さあ、これにどう言い訳する。回答次第では皇族に対する侮辱としてこの男を非難し、金輪際、俺に近付かないようにさせることも可能だ。さっさと答えろと目で促せば、俺をじっと見つめていた彼がにこりと笑った。
「その前に、隠されたほうがよろしいかと」
「はあ?」
「見えてますので。皇族の方は着替えを使用人に任せるものですから、今さら人に見られても殿下は気になさらないのかもしれませんが」
男の視線を追って首を下に向けた俺は、慌ててシーツを引き上げた。下着まで穿いていなかったなんて聞いていない。この男が寝ている隙に逃げるつもりだったので、自分が裸だろうがなんだろうが気にしていなかった。知っていたのなら先に言えと、心の中で怒鳴り付ける。
「俺は着替えを手伝ってもらうことはない!」
あえて的外れなことを叫べば、そうなのですね、と男が起き上がった。俺の手は掴んだままだ。
「いずれにしろ、殿下のお召し物はお預かりしているので今すぐ着られるものはありませんよ」
「なんだと」
「汚れていたので綺麗にさせていただきました」
「汚れ……?」
「はい。ワインを零されたのを覚えていらっしゃいませんか?」
「覚えてない」
咄嗟に嘘を答えた。男は笑みをたたえて俺のほうに顔を寄せた。
「覚えてないのに、裸で寝ていたことについては驚いていないのですね」
「なんの話だ」
「だってそうでしょう? 男同士とはいえ、普通こういう状況で目が覚めたらもっと驚いたり狼狽したりするはずです。それなのに殿下はちっとも驚いていらっしゃらない。むしろこの場から一刻も早く逃げ出そうとしていた。つまり、昨日のことを覚えているという証拠ですよ」
顔を覗き込まれ、無意識に後ずさる。だが、手を付いたのは空中で、バランスを崩した俺はベッドから落ちそうになった。反射的に目を瞑ったのと、男に抱き留められたのは同時だった。
怖々と瞼を押し上げる。男の顔がさらに近くなっていた。
「危ないですよ。昨日の疲れも溜まっているでしょうし」
「疲れだと?」
「慣れない運動をされてお疲れではないのですか?」
揶揄する言葉にカッとなったけれど、息を飲み込んで平静を装う。
「だから俺は覚えていないと言っているだろう。お前が何を言いたいのかわからない」
「なるほど。あくまで白を切るおつもりですか」
「しつこいな。いいから離せ」
「離したら殿下は逃げてしまうでしょう?」
「当たり前だ。こんな場所に一分一秒でもいたくない。というか、ここはどこだ」
「僕の部屋です」
「お前の?」
「ええ、ですから――」
腕をぐいっと引っ張られた。気が付いたときにはシーツの上に逆戻りしていて、彼に見下ろされていた。
「ここで僕が何をしたとしても、殿下がどんなに叫ばれても、誰も助けには来ませんよ」
緑の瞳に仄暗い色が浮かび、背筋がぞくりとした。肌が粟立つ。だけど、俺は知っていた。これは恐怖ではない。
期待だ。
気持ちとは裏腹に、俺の身体は昨日の夜を思い出して期待していた。
俺の両手をシーツに縫い付け、彼が上半身を倒した。鼻先が今にも触れそうなほど近付き、吐息が唇にかかる。身体は硬直したように動かず、ぎゅっと瞼を閉じた。
「――冗談ですよ」
不意に気配が遠ざかり、拘束も解かれた。腕を取って身体を起こされる。
「お召し物をご用意しますのでお待ちください。お身体は昨日のうちに綺麗にしていますのでご心配には及びません」
シーツの上に放り出されていたバスローブを取り上げた彼は、俺の肩にそれをかけながら淡々と告げた。
それはつまりお前が俺の身体を洗ったということか? と思い至ったときには彼はベッドを下りていた。裸の背中を向けた彼に、思わず顔を背けた。着替えをしているようで、静かな寝室にシャツの擦れる微かな音がする。
「お茶をお持ちしますね。それから朝食も」
「必要ない」
「そんなことをおっしゃらず」
「こんな場所に一分一秒でもいたくないと言っただろう」
「昨夜のことは覚えていらっしゃらないのに?」
「だから……っ、何があったのかは知らないが、犬猿の仲であるお前と誰が一緒にいたいと思うものか」
「ですが、犬猿の仲の相手を詳しく知ることもたまには必要でしょう?」
「なんのために」
「そうですね、たとえば弱みを握るために?」
「俺の弱みを握ったつもりか」
口元を歪めれば、彼が小さく笑った。優しくて穏やかで、愛しさを抱いているような微笑みに、俺は状況も忘れてしばし見とれた。
「弱みではありませんが、殿下が普段はご自分のことを『俺』とおっしゃっていることがわかったのは収穫でしょうか」
「それのどこが収穫だ」
「お飲み物は紅茶でよろしいですか? それともコーヒー派?」
こちらの質問にはちっとも答えようとしない男に舌打ちする。くすくすと楽しそうに笑われるのが腹立たしい。
「紅茶にしろ」
「かしこまりました。殿下が紅茶派だと知ったのも収穫のひとつですね」
「どうでもいい情報だな」
「そんなことはありません」
すっかり着替えを終えた彼がベッドをぐるりと回り、シーツに片膝をついて両手を置いた。
「あなたのことはなんでも知っておきたいのです」
「だからそれは弱みを握りたいからだろ」
「いいえ。殿下の魅力を把握しておきたいからですよ」
ふん、と鼻で笑う。
「そこら辺の令嬢にも同じことを言っているんじゃないのか。モテる男は大変だな」
どうせこのベッドで一夜を共にした女性も大勢いるに違いない。そして俺はその中のひとりでしかない。だから、勘違いはしない。
「朝食を食べさせたいのなら早くしてくれ。俺はアリエスに戻りたいんだ」
「お帰りはうちの車でお送りいたします」
「俺の車はどうした」
「パーティー会場を抜けるときに帰っていただきました。ちなみに、うちに一泊されることはアリエスにはご連絡していますのでご安心を」
「安心できるか。とにかく服だ」
「イエス、ユアハイネス」
皇族を敬うはずの言葉なのに、俺をからかう口調に聞こえるのはきっと気のせいではないだろう。
「すぐにお持ちしますのでもう少々お待ちください、ルルーシュ殿下」
柔らかく囁いた彼がベッドを離れ、今度こそ寝室を出て行く。ひとりになった空間でしばらくぼんやりしていた俺は、後ろに倒れるとベッドに沈み込んだ。
やってしまった。
目覚めた直後と同じフレーズが頭に浮かぶ。
彼とは気が合わない。考え方も性格も正反対で、だから仲が悪い。正確には、俺が一方的に喧嘩を売っている。だけど、それが単なる照れ隠しと自己防衛であることを誰が想像するだろう。
嫌っているふりをし続けてきた。この感情は危険だとわかっていたから、ずっと彼を遠ざけてきた。にもかかわらず、そんな相手と一夜の過ちを犯してしまった。
不正絡みの調査のために参加したパーティーで、迂闊にも酒を口にしたのが最初の失態。それに混ぜられていた薬で意識が朦朧となったことも、危ういところを偶然居合わせた彼に救われたことも、飲まされた薬が催淫剤と呼ばれる類いのもので普段の理性が働かなかったことも、彼が俺の手を取ってこのベッドに連れてきたことも、彼に頼み込んで俺のほうから彼を求めたことも、何もかもが失態で悪い夢のようだ。
こういうとき、酒と薬の効果で昨夜の記憶は都合良くすべて忘れるのがセオリーではないのか。自分が口走ったことも、本能のままに彼を欲しがったことも、彼がどんな風に俺を抱いたのかも、全部綺麗に覚えているなんて想定外である。薬のせいだと言い訳しようにも、頭にこびり付いた記憶があまりに生々しい。
――あんなのは単なる応急処置で、皇族の俺に命じられたからあいつは嫌々従っただけだ。
命令でもなければ男を抱こうとは思わない。今だってその延長だ。俺のことをもてなそうとしているのは皇族だからという理由だけで、ただの一般人だったら今頃はベッドも屋敷も追い出されているだろう。離宮までわざわざ送り届けようとするのだって、彼にとっては仕事のようなもの。だから勘違いはしない。期待もしない。
手の甲を額に押し当て、深々と息を吐き出す。
あんな奴、早く忘れてしまえ。こんな気持ち、早く捨ててしまえ。そう思い続けてきたのに、このザマか。
「俺は馬鹿か」
ぽつりと零して身体を丸くする。酷く疲れた気分だった。未練がましく抱え続けている想いも、自分の愚かさも、昨夜の記憶も、どうして消えてくれないのだろう。
「スザク――」
彼の前ではあえて呼ばないようにしている名前を口にする。
妹や彼の同僚のように気軽に名前を呼べたら良かったのに。だけど、俺がこの気持ちを抱いている限り、それは叶わない夢だった。
アリエスに戻ったらいつもの俺に戻ろう。彼とは距離を置き、もう二度と二人きりにならないよう細心の注意を払い、必要以上の接触を避けることを心がける。今までだってそうしてきたではないか。
先ほどまで彼がいた場所をそっとなぞった。シーツはすっかり冷たくなっていたけれど、同じベッドで一緒に寝ていたのだと思えば切ないような苦しいような心地になった。
スザク、ともう一度だけ呼んで目を閉じた。慣れない行為に身体はまだ疲れているのか、すぐに瞼が重たくなる。うつらうつらとした意識の中で、ドアの開く音を聞いた気がした。だが、それはきっと夢だったのだろう。
「ルルーシュ殿下、新しいお召し物を――。紅茶のご準備も出来ていますが、もう少しあとにしましょうか」
夢だったから彼の声を聞いたに違いない。
だから、柔らかく髪を梳かれたことも、頬を撫でられたことも、優しく名前を呼ばれたことも、きっと俺の願望を反映した夢だったのだ。現実では起こり得ない、幸せな夢。口元を笑みの形にして、俺はまどろみの中に沈んでいった。
そうして次に目覚めたとき、俺は再び頭を抱えることとなる。
「お早いお目覚めで」
ベッドの脇に置かれた椅子に腰かけ、あの男がにこりと笑った。手に持っているのは端末で、俺が起きたことに気付くとすぐに電源ごと落とした。中身は次の作戦の概要か何かだろう。皇族相手でも機密事項は決して漏らさないところはラウンズとして正しい行動だ。
「俺は眠っていたのか」
「ええ、少々。お疲れだったのでしょう」
意味深な言い回しだけれど、いちいち反応してやるつもりはない。黙っていると、服を抱えた彼がベッドまで運んできた。
「ひとまずこちらにお着替えください。昨日のお召し物は後日うちの者から届けさせます」
「わかった。ところで今は何時だ」
「午後の一時です」
「は……?」
聞き間違えたかと思って顔を上げると、彼が笑みを深くした。
「ちなみに、先ほど殿下とお話ししたときは朝の七時頃でした。というわけで、朝食ではなく昼食を召し上がりませんか? 飲まず食わずで眠っていらしたのですからさすがに空腹でしょう?」
「朝食を無駄にしたんじゃないのか」
「ご心配なく。僕が全部いただきましたので」
「それは……悪かったな」
さすがにばつが悪くて謝った。他人のベッドを占領して昼過ぎまで惰眠を貪っただけでも失礼なことなのに、せっかく用意してもらった食事を無駄にして申し訳ない。
「叩き起こせば良かったじゃないか」
「気持ち良さそうに眠っていらっしゃるのにそんなこと出来ません」
「俺は皇族だからな。当然か」
自虐気味に零せば、とにかくまずはお着替えを、と彼が表情を柔らかくさせた。
「お手伝いしましょうか?」
「必要ない」
「では、御髪を整えるのは」
「それも必要ない」
どれもこれも即座に断れば、彼は可笑しそうに肩を揺らした。
「奥のドアが洗面台に繋がっていますので、髪を整える際はご利用ください。では、僕は隣でお待ちしています」
端末をきちんと回収してから寝室を出て行く。その姿が見えなくなると、俺は文字通り頭を抱えた。一体何をしているのだと喚きたい気持ちを抑え、代わりに髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。すぐさま逃げ出して彼とは今後一切の関わりを断とうと決めたのに、断つどころか世話を焼かれてばかりだ。
「あいつもあいつだ。皇族だからと気にかけているのかもしれないが、なんでわざわざ俺が起きるのを待っているんだ」
彼が座っていた椅子を恨めしげに眺める。これは完全に八つ当たりだ。ラウンズの彼が皇族に対して最大限のもてなしをするのは当然のことで、適当に扱えと命令したところで不可能なことはわかっている。彼の対応に不満を抱くのは皇族のわがままというものだろう。
皇族だから優しくされている。気にかけてくれている。それを忘れてはいけないのだ。
用意してもらった服に袖を通し、顔を洗うために洗面台へと向かう。鏡に映った顔は明らかに寝過ぎていて、みっともない素顔を晒したことが恥ずかしくてたまらなかった。
冷水で顔を洗い、身なりを整える。軽く頬を叩いてから気持ちを入れ替えると、ようやく寝室を出た。
「待たせたな」
「いいえ。お気になさらず」
窓辺に佇んでいた彼が振り返り、頬を緩めた。
「お食事のご用意が出来ていますのでどうぞこちらへ」
視線を向ければ、テーブルにはすでに皿が並べられていた。良い匂いに刺激されたのか、急に空腹を覚える。
「いつもここで食事を?」
「普段は食堂です」
「だったらそちらで良かったのに」
「せっかく殿下と二人きりになれるのですから、そんなもったいないことはしません」
「なるほど、そういうセリフを意中の女性に言っているわけか」
「言ってませんよ」
椅子を引かれたので腰かける。彼が正面に座り、いただきましょうの声で遅い昼食が始まった。
「殿下がどういう勘違いをされているのかは存じ上げませんが、この部屋にお招きしたのは殿下が初めてです」
「よく言う。お前の噂を耳にするぞ。ナイトオブセブンは女をとっかえひっかえしていると」
「どこでそんな噂を?」
「皇宮ではよくある噂だろう。ああいう連中はあることないこと言いふらして回るのが趣味なんだ」
「そうおっしゃるのに、殿下は僕の噂を信じるのですか?」
「さあな。本当だろうと嘘だろうと俺には関係のない話だ」
ナイフとフォークを動かしながら言葉を交わす。時折彼の視線を感じたけれど、気にせず食事を進めた。これを食べなければ帰れないから仕方なく食べているだけだと言い訳する。誰への言い訳なのかは自分でもわからなかった。
「ところで、今年のバレンタインデーはどうされるのですか?」
「なんだいきなり」
突然話題が変わったので眉を寄せる。質問の意図を問えば、彼はスープを飲んでいた手を止めて目を細めた。
「僕も噂を耳にしたのですよ。ルルーシュ殿下は毎年バレンタインになるとアリエスの者や政庁の職員にお手製のお菓子を振る舞われると」
「振る舞っているわけではない。私の部屋や執務室の前を通りかかった者は自由にお菓子を持って行っていいと言っているだけだ」
「それを振る舞うと言うのですよ。しかも、親しい方には個人的にお配りになっていらっしゃるとか」
「兄上や妹達がせがむから仕方なく渡しているだけだ。子供の頃からの習慣みたいなもので特別なことではない」
「ですが、ジノやアーニャにもお渡ししているのですよね? 彼らは殿下のご兄弟ではないのに」
彼の言いたいことが見えてきた。ジノやアーニャにお菓子を渡しているのだから自分にも渡せと要求しているのだろう。やけにしつこく絡んでくると思ったが、要するに子供っぽい嫉妬だ。
「まさか天下のナイトオブラウンズがお菓子をねだっているわけではないよな」
「そのまさかですよ。毎年毎年、殿下のお菓子を同僚に見せびらかされて自慢されるのが大いに不満なんです」
「子供みたいな張り合いだな。お前ならほかの相手からいくらでももらえるくせに」
「そうでもありませんよ。ブリタニアのバレンタインは特別感のあるイベントではないでしょう? 日本ではチョコレートを渡すという文化が独自に発展していますが、ブリタニアではチョコレートに限定されていませんし」
「日本ではどういう相手に渡すんだ?」
「昔は女性が好きな男性に渡すのが定番でした。今はそういう空気もだいぶなくなって、渡したい相手に自由に贈っているようですが」
なるほどと相槌を打ち、さてどうすると思案した。彼に渡すこと自体はやぶさかではない。バレンタインを言い訳に贈り物を渡せる。だが、必要以上の接触は避けようと決めたばかりなのに、求めに応じてお菓子を渡すのはあまりに意志が弱すぎないか。
――いや、スザクはジノ達から自慢されるのが癪に障るだけで、俺のお菓子そのものにこだわっているわけではない。その他大勢に配るのと同じだと考えれば誓いを破ることには……。
言い繕っている時点で誓いを破っているも同然だが、不都合な事実からはあえて目を逸らした。
「仕方ないな。ラウンズ内で不毛な争いをされても面倒だから、今回は特別にお前の分も用意してやろう」
「本当ですか?」
途端に彼の顔が輝いた。そんなにチョコレートが好きなのかと思わず肩を揺らす。
「絶対ですよ。忘れないでくださいね」
「わかったわかった。ジノとアーニャに持って行くついでにちゃんと渡してやる」
「ついでは嫌なんですが……」
「不満なのか?」
「いいえ。食後の紅茶はいかがですか?」
席を立った彼に問われ、頼むと答えた。向けられた背中を眺めてこっそり溜め息をつく。
色々と上手くいかない。二度と彼に関わらないという誓いは早々に崩れてしまったし、接触を減らすどころか今後も増えそうな予感がする。彼とのやり取りよりも政治の駆け引きのほうがよほど気楽で簡単だ。
――だが、その接触を嬉しいと思ってしまう自分がいる。
身体は疲れているし、寝過ぎた頭はまだ少しぼうっとしていた。早くアリエスに戻って今日は一日休もう。そう決めたところで彼がカップを運んできた。手ずからお茶を淹れてくれたらしい。
どうぞと柔らかく笑んだ顔を見上げ、どうもと素っ気なく返した。それは俺の精一杯の虚勢だった。
***
嫌だという気持ちが表情に出ていたのだろう。弟の反応がよほど面白かったのか、普段はあまり声を出して笑わない次兄が珍しく吹き出した。
「せっかくの綺麗な顔が台無しだよ、ルルーシュ」
「寝言は寝ているときに言ってください」
「自分の顔を武器として使うのに、その美醜にはまったく頓着しないところは君らしいね」
「そんなことより、今のお話は本気ですか」
「ああ、本気だよ」
次兄のシュナイゼルがゆったりとした動作で両手を組む。意識しているのかどうかは知らないが、こういう些細な仕草のひとつひとつに皇族らしさが感じられるところはさすが帝国宰相と言うべきか。
「私は行きませんよ。ほかの誰かに頼んでください」
「ルルーシュが適任だと判断したから任せたいんだ」
「適任者ならほかにもたくさんいるでしょう。そもそも私の護衛をナイトオブセブンに頼む必要性がわかりません」
「今回のターゲットは君にご執心だ。潜入調査として君ほど相応しい人物はいないが、何か起こったときのために優秀な護衛は必要だよ」
「弟を囮に使うつもりですか」
「君なら私の意図は最初からわかっていただろう?」
意図ならばターゲットの名前を聞いた瞬間に理解した。問題なのは仕事の内容よりも護衛の人選だ。
「でしたら、なおさらナイトオブセブンは不要です。ラウンズがいたら警戒してターゲットが近寄ってこない」
「しかし、君の身の安全を考えるのなら彼は必要だと思うよ」
「弟の身の安全を考えるのなら、そもそもこんな仕事を依頼してこないでください」
不満をぶつければ、兄が肩を竦めた。
「君達は良いコンビだと思ったんだけどね」
違うのかい? と問いかけてくる顔は相変わらず笑顔だが、目の奥は笑っていないように感じられる。兄のこういうところが苦手だ。
「私とナイトオブセブンは犬猿の仲だとご存知でしょう」
「そうかな。君が一方的に避けているようだけど、心の底から嫌っているとは思えないな」
「兄上の目にそう映っているだけです」
「しかし、先日の一件も君達のおかげで無事に解決したそうじゃないか。強い酒を口にして酔ってしまったことは君らしくない失敗だが、ナイトオブセブンが介抱して事なきを得たと聞いているよ。アリエスには送らずわざわざ自分の屋敷で休ませるとは、君達が本気で嫌い合っているとすれば彼は余程出来た人間ということになるね」
「それは私が皇族だからやむを得ずの対応でしょう」
「護衛には君のところのジェレミアもいたのに?」
「知りませんよ、ナイトオブセブンが何を考えているかなんて」
吐き捨てるように言った。大体、弟に潜入捜査を依頼してくること自体が有り得ない。そういうのは軍の関係者か警察がやることで、皇族が率先して片付ける仕事ではない。先日も似たようなことをしたじゃないかと言われそうだが、俺の意志で潜入するのと兄の依頼で潜入するのとでは意味合いもモチベーションもまったく違う。
それでも、ただの潜入調査ならばここまで頑なに拒絶しなかっただろう。護衛がナイトオブセブンだと言われた時点で、この依頼は断るという選択肢しかないのだ。
「とにかく私は、君と彼が良いコンビだと見込んでいるよ。それに枢木卿も先日のことを気に病んでいて、次は正式な護衛としてルルーシュの側にいたいと言っているんだ」
「はあ?」
思わず声を上げれば、異母兄の笑みが深くなった。
「彼は父上の騎士だからね。事前確認を取っておくのは当然だろう?」
「勝手なことをしないでください! ナイトオブセブンの確認を取るのならその前に私の了解を取るのが筋というものでしょう」
「だってルルーシュは嫌がるからね」
「当たり前です。現にこうして嫌がっています。ナイトオブセブンだって皇族の護衛を押し付けられて迷惑しているはずです」
「むしろ彼のほうから護衛を買って出たんだけどね。皇族の護衛自体は珍しい仕事ではないし、彼は乗り気なんだからいいじゃないか」
「良くありません!」
兄は譲らないつもりのようだが、俺も決して譲るつもりはない。彼とはもう二度と関わらないと決めたのだ。バレンタインのチョコレートという約束は交わしてしまったものの、それ以外の接触は極力減らそうと心がけている。にもかかわらずどうして外野が余計なことをするのだと舌打ちしたくなった。そのタイミングで、兄に仕えるカノンがやって来た。
「シュナイゼル殿下、お客様がいらっしゃいました」
「良いタイミングだね。通してくれ」
「客ですか? でしたら私は帰ります」
敵前逃亡は俺の嫌うものだが、この場は適当に誤魔化して話を有耶無耶にしてしまうのが最善だと判断した。依頼と言っても所詮は口約束。宰相の立場から命じられたわけでもないので、兄の頼みを聞かなくても問題はなかった。当日、迎えが来たとしても体調不良だと無視してしまえばいい。
兄の返事を待たずに立ち上がった俺は、しかしカノンの案内で部屋に入ってきた人物を目にして固まった。
「忙しいのに呼び出して悪かったね」
「いえ、お気になさらないでください。ところで……」
宰相の部屋で俺と遭遇するとは思っていなかったのだろう。彼も戸惑った様子だ。
「枢木卿も座ってくれないかな」
席を勧められ、隣の椅子に彼が腰かける。いつまでも突っ立っているわけにはいかず、俺も渋々座り直した。
「先日の話をルルーシュに相談していたんだ。ターゲットはパーティーを隠れ蓑に薬の取引をしているということだから、それなら君とルルーシュが適任だとね」
「兄上、さっきのお話はお断りすると言っているじゃないですか」
「――と、我が弟は言っているんだが、君は皇族の護衛なんて押し付けられた仕事で迷惑だと思うかな?」
「兄上!」
「いいえ、迷惑だなんて。むしろルルーシュ殿下の護衛を務めることが出来て光栄です」
「そういうことだよ、ルルーシュ」
「この場でラウンズの彼が拒否できるわけないでしょう」
「ご心配には及びません。自分は迷惑とは思っていませんし、ルルーシュ殿下の護衛でしたらいつでも歓迎です」
「ということだ。本人が了承しているのに君が一方的に拒絶するのは失礼と言うものだよ」
「しかし……」
「ああそうだ、言い忘れていたが、もし君が今回の依頼を引き受けてくれるのなら新型ナイトメアのテストを見学してもいいよ」
「えっ」
「間近で実機を見たいと言っていただろう? 本来なら未成年の君には許可できないんだが、私の権限で特別に施設に入れてあげよう」
「そんなもので釣るのは卑怯ですよ!」
「私としてはむしろ報酬のつもりだよ」
「だからって――」
「どうしても駄目でしょうか?」
緑の瞳が窺うように俺を見てきた。白き死神と恐れられている男が捨てられた子犬みたいな顔をするなと怒鳴りたい。
「っ、わかった! わかったから勝手にすればいいだろう!」
やけくそ気味に吐き捨てれば、童顔が嬉しそうに笑った。本当にあの白き死神なのかと疑いたくなるほど笑顔が可愛らしい。
「ありがとうございます、ルルーシュ殿下」
「決まりだね。裏取引が見込まれるパーティーは二週間後だ。細かい打ち合わせは二人で進めてくれるかな」
「二人で? 兄上が計画を練ってくれるのではないのですか」
ぎょっとして兄のほうを見ると、シュナイゼルはカノンに何やら伝えてから俺に向き直った。すでに次の仕事モードに入っている顔付きだ。
「概要はさっき説明したとおりだよ。君の裁量に任せるから、兵士の人数や配置などで必要なことがあればカノンに伝えなさい。好きなように手配してあげよう」
「ですが」
「私は会議が入っているからそろそろ行くよ。あとは若い二人で進めてくれたまえ」
何が若い二人だ、お見合いの仲人のセリフかと突っ込みたかった。
兄はさっさと席を立ち、「私が戻ってくるまでこの部屋は好きに使っていいよ」と言い残して出て行った。頭を下げたカノンがいなくなると、二人きりの微妙な空気が流れる。
「そんなにお嫌ですか? 自分が殿下のお側にいることは」
先に口を開いたのは彼だった。嫌ではない、と言いかけた口を閉ざして椅子に座り直す。
「――決まったことは仕方ない。兄上からの依頼でもあるし、仕事はきちんとこなすつもりだ」
「では、当日の流れを決めましょうか。と言っても、ターゲットである伯爵がそう簡単に尻尾を出すかどうか」
「出すかどうかではなく、出させるんだよ」
「どうやって?」
「私が囮になる。あの伯爵は私に執心しているらしいから適当に誘ってボロを出したところで捕まえてやる」
とはいえ、いきなり接触したら怪しまれるだろう。適度な距離を保ちつつ、あちらから声をかけてきたタイミングを利用するしかないか。だが、俺に執心しているらしいというのはあくまで噂だ。どこまで信用していいものか。単なる噂の可能性もあるし、俺のほうから接触を図ることも想定しておかなければいけない。なんなら事前にお茶に誘って相手への親しみを演出しておくのも手か――。
そんなことをつらつら考えていると、隣がやけに静かなことに気付いた。彼からの返事がない。まさか寝ていないよなと横を向けば、表情を落とした顔が俺をじっと見ていた。目が据わっているように感じるのは気のせいか。
「ご執心の意味はご存知ですか?」
「は?」
「伯爵が殿下にご執心というのはどういう意味なのかご存知ですか?」
「どういうって、俺がまだ子供でしかも母親が庶民だからほかの皇族よりも利用しやすいと考えているのだろう」
「なるほど、そういう認識ですか……。自分は囮には反対です」
「私に意見するつもりか」
「自分は殿下の護衛です。殿下を危険な目に遭わせるわけにはいきません」
「悪いが、お前の言うことを聞くつもりはない。これが一番効率の良い方法だし、囮の件は兄上も承知のことだからな」
「シュナイゼル殿下が?」
「まさか帝国宰相の作戦に反対しないよな?」
足を組んで問いかける。ラウンズといえども帝国宰相の言葉に逆らうことは難しい。それを理解した上での質問で、半ば脅しのようなものだ。案の定、彼は言葉に詰まっていた。帝国宰相の意見に刃向かうのはさすがに躊躇われるのだろう。
「――そういうことでしたら自分は何も申し上げません。ただし、ひとつだけお約束してください」
「内容によるな」
「伯爵とは決して二人きりにならないでください」
「二人きりにならなければ囮の意味がないだろう」
「薬の違法取引をやっているような相手です。二人きりになったら何をされるかわからないのですよ」
「危険は承知の上だ」
「いけません」
「お前に指図される謂れはない」
「自分は殿下の護衛だと申し上げたはずです。事前に危険を遠ざけるのも護衛の任務です」
この堅物がと舌打ちする。一度限りの護衛のくせに真面目なのだ。
――兄上の頼みで仕方なく俺の護衛をするくせに。
もしくは、帝国宰相の依頼だから下手なことは出来ないと慎重になっているだけか。先ほどの脅しが自分に返ってきたようで、面白くない気持ちが広がる。
「仕事を任されたのは私だ。私の言うことが聞けないのならばお前を置いていくだけだ」
「ルルーシュ殿下」
「本気だからな」
睨むように見つめ合う。先に折れたのは彼のほうだった。小さく息をつき、「わかりました」と物分かりの良い返事をする。大方、わがままな皇族だと呆れているに違いない。
「ですが、自分は殿下のお側から離れるつもりはありません。見て見ぬふりはしますが、殿下を誰かと二人きりにはさせませんので」
だから俺に指図するなと言いかけたけれど、俺が自分の仕事をやろうとしているのと同じで、彼は護衛の仕事を全うしようとしているだけだ。それを一方的に拒絶するのも皇族のわがままになるのだろう。
なんと答えようか悩んだ末に、好きにしろとだけ返した。
「はい、好きにします」
これまでの難しい表情が一転、彼が笑顔になった。護衛がそんなに楽しいのか。
――スザクが俺の護衛か。
たとえ任務の一環だったとしても、パーティーの間は彼が側にいてくれるのだと思ったらやはり嬉しくて、それは紛れもなく俺の本心だった。
***
そうして仕方なく引き受けた潜入調査は、拍子抜けするほど簡単に終わった。ターゲットがあっさり尻尾を出してくれたおかげだ。
会場には変装した兵士や警察が身分を偽って紛れ込み、屋敷の周りも厳重な警戒態勢を取っていた。幸い、異変に気付く者はひとりもいなかった。これまで見逃されてきたことから気の緩みがあったのだろう。仲間の警察幹部がすでに逮捕されていることも知らず、パーティーの出席者は堂々と取引を行っていた。
これなら現行犯逮捕で問題ないと判断した俺は、雑談をしていたターゲットにそれとなく薬をねだった。事前準備のおかげで男はなんの疑問も抱かず、「私の部屋で特別に調合したものを差し上げましょう」とやに下がった顔で笑い、俺の肩を抱いてホールを離れた。男について行くふりをすると、離れた場所にいた彼がさり気なく動いたのがわかった。
「これは一回使えば病みつきになる最高級の上物です」
連れて行かれたのはごてごてとした装飾が施された部屋だった。香と呼ばれるものを焚いているそうで、甘ったるい匂いが纏わり付く。
「副作用は?」
「害になるようなものはまったく使っていませんからご安心ください」
「使用方法はどうなっている? 特殊な使い方をするものだと家族に見つかるかもしれない」
「それもご安心ください。錠剤ですので注射器や特殊な器具は不要です。万が一見つかっても単なるサプリで誤魔化せます」
「なるほど。それなら心配いらないな」
「殿下はいかほどご入り用で?」
「とりあえず一度試してみたい」
「では、お試しで一週間ほど使用できる量を差し上げましょう」
「代金はいくらだ?」
「通常料金ですとこのくらいですね」
男が金額を提示した。それは貴族でも高いと感じるほどの値段だった。なるほど、ボロ儲け出来るわけだなと納得する。
異母兄から顧客名簿を入手したところ、破産したり自分の娘を身分違いの相手と結婚させたりしている貴族が複数いた。結婚はあくまで表向きで、娘達は恐らく売り飛ばされたのだろう。ほかにも犯罪を犯したり金銭絡みのトラブルを起こしたりと問題が多く、そういう事態を兄は重く見ているようだ。だからって俺に仕事を押し付けるのはやめてくれと、ここにはいない兄に文句を言う。
「支払いは現金か?」
「そうですね。ですが、殿下には贈り物としてお渡ししましょう」
「見返りは?」
「見返りだなんて」
「あるのだろう? いいぞ、お前の希望を聞いてやる」
「よろしいのですか?」
「誕生日以外で贈り物は受け取らない主義なんだ」
「殿下は品行方正な方なのですね」
「品行方正な人間がこんな場所にいると思うか?」
相手に近付いて上目遣いに言えば、男が豪快に笑った。
「まずは現物を見せてくれないか。どういうものか自分の目で見ておきたいんだ。受け取りはお前の希望を叶えたあとでいい」
「もちろんですとも」
胸ポケットに手を突っ込んで鍵を取り出した男は、机の一番下の引き出しからケースを引っ張り上げた。中には包装シートに包まれた錠剤がずらりと並んでいる。
「確かに見た目はサプリと変わらないな」
「ええ、たとえ見つかったとしてもバレることは絶対にありません。先ほども申し上げたとおり、こちらは最上級の商品ですから特別な方だけにしかお渡ししていないのです」
「つまり私は特別だと?」
「殿下のようにお美しい方には、今後も通常の一割程度の値段で継続して差し上げますよ」
「大盤振る舞いだな」
「その代わり、多少の報酬をいただければと。殿下もきっとご満足いただけるはずです」
男の手が俺の顎にかかる。軽く持ち上げ、もう片方の手で腰を抱き寄せられた。
「――いいぞ」
俺の言葉を承諾の意味と勘違いしたらしい男がにやりと笑う。その瞬間、部屋の扉が音を立てて倒れた。なだれ込んできたのは兵士達で、俺から引き剥がした男をあっという間に拘束する。
「な、なんだ貴様らは! 人の屋敷で無礼だぞ!」
「違法薬物取引の現行犯で逮捕する」
声の主を探した男は、相手の顔を確かめると青ざめた。
「ナイトオブ、セブン……」
「会場にいた売人も常連客も逮捕済みだ。観念しろ」
「俺は殿下とお話ししていただけで――、殿下! どうかお助けを!」
「生憎、私は犯罪に加担するつもりはない」
「ですが、これについては殿下も同罪でしょう!」
「私に購入するつもりがあるのならそうだろうな」
「まさか最初から騙そうとして……」
「連れて行け」
冷たく告げれば、兵達が男を両脇から抱えて連行していった。部屋の中は入念に調べられることとなり、俺は廊下に出た。頑丈な扉は見事に壊れていて、どんな重機を使えばこうなるのだと呆気にとられた。
「急いで突入する必要があったので、つい壊してしまいました」
「お前がやったのか? どうやって?」
「もちろん足です」
何がもちろんだと呆れた目を向ける。そういえば、ナイトオブセブンの身体能力は異常なほど高いと評判なのだ。だが、ナイトオブワンでも鉄製の扉を足で壊すことはないだろう。
「それより殿下、なぜもっと早く突入の合図を送ってくださらなかったのですか」
「タイミングは私に任せると言ったのはお前だろう。現物をこの目で見なければ逮捕の決め手にも欠ける」
「しかし、あと少し遅かったら危ない目に遭っていたかもしれないのですよ」
「大したことはない」
「あんな風に触られて?」
周りには兵士や警察が大勢いるので声を大きくすることはないけれど、緑の瞳には怒りの色が浮かんでいた。なぜ俺の行動にいちいち腹を立てるのか不思議だ。
「お前には関係ない」
これ以上のやり取りは無用だと背を向ける。近くの兵士に指示を出した彼は、すぐに俺のあとを付いてきた。
「自分の心配は殿下にとってご迷惑ですか」
「迷惑とは言っていない。必要がないだけだ。私が何をしようとお前にはどうでもいいことだろう」
「どうでも良くありません。もっとご自分を大切にされてください」
「なぜお前にそんなことを言われなければいけない」
くるりと振り返れば、思いがけず真剣な表情と向き合った。瞳に先ほどの怒りはなく、代わりに慈しむような色があった。
「自分が殿下を大切に思っているからです。大事な方の身を案じるのは当然のことでしょう?」
「馬鹿馬鹿しい」
何が大切だ。何が大事な方だ。たった一度寝ただけのくせに、恋人のようなことを言うな。
吐きかけた暴言をぐっと我慢した。どんな思惑があろうと彼が心配してくれているのは事実で、人の好意を無下にするのは最低だ。何より、好きな相手に酷い言葉を投げ付けることはしたくなかった。
「だが、忠告としては聞いておいてやる」
彼がふわりと表情を緩めた。優しい微笑みはまるで俺のことを本当に想っているみたいで、胸の奥が熱くなる。咄嗟に視線を逸らせば、お疲れではありませんか? と尋ねられた。
「殿下はアリエスにお戻りください。自分がお送りします」
「お前は残らなくていいのか」
「自分はあくまで殿下の護衛です。陣頭指揮はほかの者がやっているので問題ありません」
「そうか。では送ってくれ」
騒々しい屋敷を抜け出し、用意された車に乗り込む。アリエスまでの道のりは静かで、俺も彼も口を開かなかった。疲れのせいもあるけれど、彼と二人きりという状況に数週間前のことが嫌でも思い出され、居たたまれない気持ちに襲われた。後部座席から運転手の姿は見えないため、車内が密室のような状況になっているのも良くなかった。
顔が熱い。心臓がうるさい。片想いを募らせた結果、身体だけでも関係を持とうと考え付いたことが卑しく、理性を失った己が恨めしくてたまらない。ぼんやりと夜空を眺めながら、零れそうになった溜め息を押し殺した。
「ルルーシュ殿下」
「ほわあっ!」
耳元で声がして、驚きに飛び上がった。先ほどとは違う意味で心臓がバクバクと鳴っている。
「い、いきなり声をかけるな!」
「何度かお呼びしてお伝えしましたよ。アリエスに到着したと」
「え?」
窓の外を見れば、夜の闇の中に見慣れた城があった。もう着いたのかと安堵するくせに、もう着いてしまったのかと落胆する気持ちも浮かび上がる。
彼の任務はここまでだ。早く帰って休みたいだろうし、ラウンズは忙しいのでほかの仕事が残っているかもしれない。だけど――。
「今夜のお前の仕事はもう何もないんだよな?」
「はい」
「明日は?」
「明日は午後からです」
「随分とゆっくりなんだな」
「今回は殿下の護衛という立場ですから。自分で報告書を書かなくていいのは楽ですね」
冗談っぽく答えた彼に、ならば――、と切り出す。落ち着いたばかりの心臓がまたうるさく鳴り始めた。
「お茶を用意するから少し休んでいかないか。お前だって疲れただろう?」
前を向いたまま伝える。彼がどんな表情をしているのか、確かめるのが怖かった。
やはり迷惑だろうか。早く帰りたいのに面倒なことを言われたと思っているだろうか。自分から誘ったくせにもう後悔し始めていて、そんな自分がじれったい。
「よろしいのですか?」
彼の声にハッとして横を向く。こちらの申し出がよほど意外だったのか、目を丸くしていた。
「なんだその顔は」
「あ――、いえ、まさか殿下からお茶に誘っていただけるとは……」
「嫌なら帰っていいんだぞ」
「帰るなんて言うわけありません」
「だったらついて来い」
シートベルトを外している間、素早く車を降りた彼がドアを開けた。使用人達に出迎えられて城の中に入ると、ナイトオブセブンを部屋まで案内するよう伝える。
「私はお茶の準備をしてくるから少し待っていてくれ」
「えっ? 殿下がご準備されるのですか?」
「人のためにお茶を淹れるのは好きなんだ」
いいから待っていろと言い残して厨房に向かう。お湯や茶器の用意は使用人に任せ、俺は厨房の奥に向かった。ひんやりとしたその場所にはチョコレートが並んでいる。ときどき料理をする物好きな皇子のため、厨房には俺専用のスペースや道具が備えられていた。バレンタインのような行事や誰かの誕生日になるとこうしてお菓子を作るのが恒例だ。
今回はバレンタイン前日に潜入調査が入り、早めに仕上げておこうとパーティーの前に完成させたのだが、彼がアリエスに来たのは良いタイミングだった。
――あいつのお願いとはいえ自分から渡しに行くのは照れくさいからな。だが、お茶のついでということにすれば問題ない。
護衛として仕事をしてくれた礼でもあると、誰も聞いていないのに弁解する。
一人分のチョコレートを箱に詰め、ティーセットを運ぶ使用人と共に自室へ向かった。座っていればいいのに、彼は椅子の横で律儀に立っていた。
「待たせたな」
「自分もお手伝いします」
「お前は客だ。客は黙って待っていろ」
使用人が出て行くと、二人分のお茶を用意してテーブルに並べる。最後にチョコレートの箱を置いた。
「こちらは?」
「バレンタインは明日だが、別に構わないだろう?」
「それじゃあ、もしかして」
「お前のリクエストだからな。今夜はもう遅い。持って帰って明日食べればいい」
「はい」
彼が嬉しそうに笑うので、俺の胸はふわりと温かくなった。椅子に腰を下ろし、今夜の労をねぎらって紅茶を傾ける。
「ご苦労だったな」
「自分は大したことはしていません」
「扉を壊していたじゃないか」
「あれは殿下を救出するためのやむを得ない行動です」
「状況は隠しマイクで伝わっていただろう。そういえば返すのを忘れていたな」
襟元には相手に気付かれないよう小型のマイクが付けられていた。音声を聞けるのは彼だけだが、いつまでも身に付けておきたいものではない。
襟に手を伸ばすと不意に手首を掴まれた。びくりと顔を上げれば、随分と近いところに彼の顔があった。ここまで近いのはあの夜以来だと思い、急に頬が熱くなる。
「自分が外します」
「あ、ああ」
キスをされる。一瞬でもそう考えてしまった。彼は真剣な表情でマイクを外しているだけだ。にもかかわらず、不埒な想像をしている自分がとても恥ずかしい。
冷静になろうと努めるけれど、鼓動はずっと速くてうるさいくらいだった。服越しに彼の手の感触は伝わってこないはずなのに、直接触れられたあの夜を思い出す。
――やっぱり駄目だ。
忘れようとした。忘れてしまいたかった。でも、忘れられない。
好きなのだ。叶わない想いだとわかっていても、彼を好きな気持ちを捨てることはできない。
「取れましたよ」
スイッチは切れているのでご安心くださいと笑い、彼が離れる。気付いたときには追いかけるように手を伸ばしていた。ハッとしてすぐに引くと、今度は彼の手に捕まった。
視線が絡み合う。静寂に包まれた部屋の中で、互いの息遣いだけが伝わってきた。
「あ……、ち、違うんだ、私は」
「何もおっしゃらないでください。これは僕の勝手です」
「ナイトオブセブン――」
「スザクとお呼びください、ルルーシュ殿下」
一度目は不測の事態だった。すべては薬のせいだった。
だけど、二度目はもう言い訳が出来ない。
スザク。
掠れそうな声で小さく呼べば、唇が優しく押し当てられた。
キスを交わす音が耳に響く。恥ずかしくてたまらないのに、ただ触れ合わせているだけなのがもどかしい。
無意識に彼の服を掴むと背中に腕が回り、強く抱き締められた。二人の距離がなくなり、互いのぬくもりと心音が混じり合う。
――俺は馬鹿だ。
馬鹿で、どうしようもないくらいに愚かだ。
それでも彼を手放すことは出来なくて、彼をもっと感じたくて、俺はスザクの首の後ろに両手を回した。
(22.02.14)