Paradise Lost

 夏の暑い日に、向日葵の幻を見た気がした。
 連日の猛暑の中、名誉ブリタニア人ばかりで組まれた部隊は今日も訓練をさせられていた。いや、訓練とは名ばかりの単なるしごきだ。
 ブリタニア人の上官はテントの下で涼みながら元日本人たちを怒鳴りつけ、嘲笑い、時には手や足を出していた。
 (水が飲みたい……)
 朝からずっと同じ訓練の繰り返しだ。外に出たときはまだ昇ったばかりだった太陽も一番高いところを通り過ぎ、じりじりと地上を焦がす。口の中はからからで、酷い渇きに気が狂いそうだった。
 この間、休憩があったのは昼食時間を含めた二回だけ。炎天下での訓練は苛酷を極め、すでに何人もの人間が倒れていた。
 いっそ倒れて意識を失ってしまえば楽だと誰もが一度は思うだろう。しかし、倒れたら倒れたで不衛生な部屋に押し込められるだけだ。そこで感染症にかかって重症化し、命を落とす者も少なくない。空調はきかず、まともな食事も与えられず、奇跡的に生還した人間は生き地獄だったと顔を強張らせて語っていた。
 だからと言って、勝手に水を飲んだり怠けたりしたらさらなるしごきが待っている。彼らは人を人とも思わない。そもそも、ナンバーズは家畜以下の存在としか認識していないから鬼のような所業を平気でできるのだろう。
 地方の辺鄙な場所に配属されているブリタニア人兵士はフラストレーションが溜まっているらしく、日頃の鬱憤を日本人を虐めることで晴らしている部分もあった。素行が悪いから辺境の地にいるのか、辺境の地にいるから素行が悪くなるのか、どちらが先なのかはわからない。
 いずれにしろ、彼らはたいした実績もなく、今後も出世は見込めないような軍人だ。軍のトップにはもう少しまともな人間がいると思いたいが、末端がこれでは組織そのものが腐っている可能性もある。
 (同じブリタニア人なのにルルーシュやナナリーとは全然違う)
 あの兄妹は無事に保護され、今ごろは空調が完備された清潔な部屋で平穏に過ごしているだろうか。隙間風や雨漏りのない普通の場所で普通に生きられているだろうか。
 二人のことは気になるものの、今現在はただの名誉ブリタニア人でしかないスザクに元ブリタニア皇族の兄妹のその後を知る術はない。
 桐原に連絡を取れば近況ぐらいは把握できるかもしれないが、万が一、ブリタニア軍に知られればスパイの疑いをかけられるかもしれないし、彼らの身を危険に晒す恐れもある。今のスザクにそこまでのリスクを背負うことはとてもできなかった。
 (元気でいてくれればいい。二人が元気でいてくれれば、それでいい)
 上官の激しい叱責と共に痛々しい悲鳴が聞こえた。また誰かが殴られているようだ。しかし、それに同情する気持ちを持つ者はいない。自分でなくて良かった。誰もがそう思っている。
 ここは地獄だ。
 日本人のままでいることを選んでも、名誉ブリタニア人になることを選んでも、イレブンと呼ばれる日本人たちに平穏は訪れない。安息の地は奪われてしまったのだ。
 どこへ行っても地獄ならば、いっそ死んでしまいたい。それが、ここにいる全員の共通の思いではないだろうか。
 (僕がその地獄を作った)
 罪には罰が与えられなければいけない。罪人は罰を受けなければいけない。それが、父を殺したあの日からスザクがずっと考えていることだった。
 顎を伝った汗が乾いた地面に落ちる。ぽつぽつと広がった黒い染みは、しかしすぐに蒸発してなくなった。
 集合の号令にのろのろと顔を上げ、重い足を動かす。ふいに一陣の風が吹いて砂嵐が起こった。目を閉じてやり過ごす。
 再び開けた視界の先にあるのは、いつもと変わらない一面の焼け野原。

「あ……」

 荒涼な大地の向こうに、黄色いものが見えた気がした。慌ててまばたきをするとそれはすぐに消えてなくなった。
 安堵するような、落胆するような、様々なものが入り交じった感情に泣き出したい気持ちがこみ上げ、振り払うように頭を振る。焼け野原をじっと見据え、スザクは止まっていた足を踏み出した。
 配属替えにより、トウキョウ租界へ行くこととなるのはそれからさらに一年後のことだった。
 あのとき、スザクたち名誉ブリタニア人に苛酷な訓練を課した上官たちはその後、テロの対応に当たった際に命を落としたと聞く。同じ部隊に所属していた仲間は、ばちが当たったのだと彼らの死を喜んでいた。
 もし本当に天罰があるのだとしたら、自分にはどんな罰が下されるのだろうと思ったことをスザクは口にしなかった。
 この世界は地獄だ。誰もが人を恨み、憎み、呪詛を吐いている。だけど、地獄の中にも綺麗な世界があったことを知っている。
 自らの手で永遠に失ってしまった楽園のような世界が、確かにあったのだ。
 (あれはルルーシュと一緒に見た向日葵だった)
 そして、スザクが向日葵の幻を見ることは二度となかった。

* * *

 ベッドに横たわる青白い顔を見下ろす。日に何度も倒れてすっかり窶れた顔は、それでもその美しさを損なうことはなかった。悪魔はいつでもどんな状況でも人を惑わす美しさを持っているのかもしれない。
 微かに呻く声と共に、薄い瞼がゆっくり開かれた。現れたのは容姿の美しさに相応しい澄んだ紫の瞳だった。

「スザク……?」

 掠れた声に呼ばれ、スザクは口許に笑みを浮かべてみせた。

「俺は……」
「海辺を散歩している途中で倒れたんだ。気分はどう?」
「大丈夫だ。そうか、俺はまた倒れたのか。すまない、迷惑をかけて」
「迷惑なんかじゃないよ。水でも飲む?」
「ああ」

 起き上がろうとするルルーシュの背中を支え、クッションや枕を敷き詰めて凭れさせるとスザクは水差しを取った。水を注ぐ音が静かな部屋に響いて聞こえる。
 はいと渡したグラスをルルーシュは両手で大事そうに持った。何か映っているのかその水面をじっと見つめていたが、しばらくして口をつけると一気に飲み干した。

「お腹はまだ空かない? 今日はロロが作ってくれるって言っていたけど」
「ロロが? それなら食べないわけにはいかないな」

 偽りの弟の名前が出た途端、青白かった表情にわずかな生気が戻る。胸の中に苦いものが広がったことには気付かないふりをしてスザクは笑みを深めた。

「あまり無理はしないでね」
「心配するな。本当に具合は悪くないんだ。たまにちょっと眩暈がするだけで体のほうはまったく問題ないし、食欲だってある」
「だったらいいんだけど」
「スザクは心配性だな」

 くすくす笑ったルルーシュに肩を竦めた。開けていた窓から夜風が入り、少し肌寒い。部屋を横切って窓を閉める。
 真っ暗な空には月と星の光しか見えなかった。時折波の音が聞こえるけれど、暗闇の中なのでどこが海岸線なのか目を凝らしてもよくわからない。
 (こんな場所でルルーシュを静養させようだなんて、皇帝の考えていることは僕にはまったく理解できないな)
 ブラックリベリオンからすでに数ヶ月が経っている。そのときに負った怪我が原因で記憶に障害が起こり、しばらくここで静養している、というのが現在のルルーシュの認識だ。
 しかし、スザクがルルーシュを連れてここに来たのはほんの三週間前のこと。それより前はユーロピア制圧のためにユーロ・ブリタニアへ派遣されていた。
 ルルーシュの父であるシャルル皇帝は息子の記憶を書き換え、ジュリアス・キングスレイという名でユーロ・ブリタニアに送り込んだ。しかし、予想外にルルーシュがギアスに抵抗し、結果、意識と記憶とに激しい混乱を生じさせた。そのため、ユーロ・ブリタニアでは不覚にも幽閉の身となってしまった。
 このままではC.C.をおびき寄せる餌にもならないと、ブリタニア本国に戻ったルルーシュは再びギアスをかけられ、今はただの一般人として十七年間生きてきたことになっている。
 (ギアスとは恐ろしいな)
 ルルーシュは自我を失いながらも抵抗し、それでも完全に己の記憶を取り戻すことができなかった。そして今はナナリーの代わりにロロという弟役を傍に置いて、違和感を覚えながらも表面上は平穏に過ごしている。
 何もかもが偽り。何もかもが嘘。
 (まるで僕たちの関係みたいだ)
 カーテンを強く握り締めたスザクは、何事もなかったような顔でベッドの脇に戻った。

「寒くない?」
「ああ、そういえば少し……」

 カーディガンを取り、細い肩に掛けてやった。ふと、視線を感じて目線を下ろせば、ルルーシュがこちらをじっと見ていた。首を傾げながら椅子に腰掛ける。

「こういう気遣いもできるようになったんだな。昔は乱暴で、繊細なものを扱うのは苦手だったくせに」
「酷いなぁ、それいつの話? 僕だってちゃんと成長しているんだよ」
「出会ってもう七年も経つからな。スザクがすっかり大人しくなっていたのには驚いたぞ。初めて会ったときは殴り合いの喧嘩をしたのに、今ではすっかり平和主義者だ」
「いきなり殴ったのは悪かったと思うけど、いつまでも根に持つのはやめてよ」
「別に根には持っていない。懐かしい思い出話じゃないか」

 朗らかに笑うルルーシュの中で自分たちの思い出はどのような形で残っているのだろう。今の彼が感じている懐かしさは、本来の彼が抱いていた懐かしさとは恐らく違うものである。
 二人で共有した記憶を覚えているのはこの世界で自分だけ。そう思った途端、スザクは帰る道を忘れてしまった迷い子みたいな途方に暮れた気持ちになった。

「お前は昔から運動神経が良くて、大きな樹の上にも簡単に登っていたな」
「ルルーシュも一緒に登ったじゃないか。そのあと下りられなくなったけど」
「うるさい。人には向き不向きがあるんだ。だいたい、なんの必要性があって人間が木に登らなければいけないんだ。そういうお前は、本当に大雑把でがさつだったよな。いつだったか、俺が洗濯したレースのハンカチを取り込んだときに――」

 それまで饒舌に語っていたルルーシュの言葉が途切れた。また発作かとスザクは反射的に腰を浮かせた。
 過去の思い出を語るとき、時折ルルーシュは酷く混乱した。元の記憶との齟齬が頭の中で生じ、必死に整合性を取ろうとしているのだろう。
 それは、押さえ付けられた本当のルルーシュが表に出たがっているようにも見えた。

「――スザク」

 彼の両手がかたかたと震えていた。震えを押さえようと腕を回して自らの体を抱き締める。

「レースのハンカチなんておかしいよな、俺もお前もロロも男なのに、どうして俺はそんなものを持っていたんだ。それだけじゃない、長い髪の毛を結んであげた記憶もあるんだ。でも、長い髪をした人間は俺たちの周りにはいなかった。なのに、どうしてこんなにもリアルに思い出せるんだ。まさかロロに女の子の格好でもさせていたのか? いや違う、あれは、」
「ルルーシュ!」

 肩を掴み、強く揺さぶる。
 茫然とした瞳はスザクを捉えていなかった。ただ、どこか遠い場所を見つめていた。
 軽く舌打ちしたスザクはルルーシュの後頭部に手を当てると自分のほうに引き寄せ、そのまま乱暴に唇を押し当てた。

「ン、ぅ……」

 冷たい唇に熱を分け与える。それは欲を引きずり出すというより、親が子どもの体を温めるのと同じような意味しか持っていなかった。
 ここに来たばかりの頃、錯乱したルルーシュを宥めるために衝動的にキスをした。以来、彼が己を失うたびにこうしている。
 王子様のキスで目覚めるお姫様でもあるまいし、と胸の内で嗤った。こうしたら本当のルルーシュが帰ってくるのではないか。自分はそんな期待を心のどこかで抱いていないか。

「ふ…ッ、んぅ」

 唇をこじ開けて咥内に忍び込む。口蓋をねっとり舐めると、怯えたように逃げる舌を絡め取った。お互いの唾液が混じり合い、濡れた音が耳を犯す。
 これは愛情ではない。ましてや愛でもない。ただの義務的な行為だ。
 ルルーシュの手が縋り付くようにスザクの服を掴んだ。その指先はまだ震えていて、安心させるように上から握り締めた。

「ァ……」

 咥内の隅々まで確かめたあと、濡れた唇の端を舌先で拭ってようやくキスを解く。
 微かに息を乱したルルーシュは、上半身を倒すとスザクの肩に頭を凭れさせた。呼吸するたびに上下する背中をゆっくり撫でてやる。
 二人とも言葉はなく、互いの心音と息遣いがとても近く感じられた。

「……何?」

 ルルーシュの声が聞こえた気がしてそっと尋ねる。ルルーシュは体を預けて目を閉じたまま、わずかに唇を開いた。

「向日葵」

 ぽつりと呟かれた単語に心臓が冷えるような感覚がした。まさかまた、という思いがよぎる。あのときと同じように、ユーロ・ブリタニアで見せたように記憶が退行したのか。
 スザクは身を固くして次の言葉を待った。

「本当は、さっきまで向日葵畑の夢を見ていたんだ。お前と俺の二人で一緒に向日葵畑で遊んだ夢を」

 淡々と紡がれる声はいつものルルーシュで、少なくともあのときみたいな混乱はないようだと胸を撫で下ろす。

「――懐かしいね」
「ああ」

 とくり、とくりと規則正しい心臓の音が聞こえた。自分たちが生きている音だ。

「帰りたいな、スザク」
「え……?」
「帰りたいな」

 それきりルルーシュは口を噤んだ。瞼は下ろされているけれど意識はあるようで、スザクは華奢な体をただ抱き締めた。
 (僕たちは正反対で、進む道も選んだ方法も何もかも違うのに、こんなにも一緒だ)
 ルルーシュの言う「帰りたい」が何を意味しているのかはわからない。日本に帰りたいという意味なのか、七年前の夏の日に帰りたいという意味なのか、彼の深層心理に何があるのかスザクには知る由もない。
 ただ、自分たちは一緒だと思った。
 自分たちはもうどこにもない向日葵の幻を見た。
 あの夏も、幸せだった子ども時代も当の昔に失われてしまったのに、あの日々に帰りたいと心の奥底で願っている。
 (でも、それを壊したのは君じゃないか、ルルーシュ)
 いっそひと思いに殺せれば良かった。
 友情も憎しみも愛しく思う気持ちもすべて捨てて、ルルーシュを殺せれば良かった。そうすれば、少なくとも今ここでこうして苦しむことはなかった。
 でも、自分はルルーシュを殺さない選択をした。それを選んでしまった以上、彼の生死を握るのは自分ではない。彼には生きて罰を受けてもらうのだ。
 ルルーシュではなくなってしまったものを腕の中に抱き、スザクも静かに目を閉じた。
 (君を殺せば、僕のこの渇きも癒えるのだろうか)
 失ってしまった楽園には、向日葵の花が今も綺麗に咲いているに違いない。
 (15.10.24)