奈落の底

 自分がどこにいるのかわからなくなることがある。
 ここはどこなのか、自分は何をしていたのか、自分は誰なのか、何もかもわからなくなることがある。
 真っ暗闇の中に取り残されたような感覚はひどく恐ろしく、助けを求めたくても誰の名前を呼べばいいのかわからない。
 だけどひとりだけ、黒く塗り潰された記憶の中でひとりだけ、名前と顔を覚えている人間がいた。たまに乱暴なところがあるけれど、いつも優しく、一緒に過ごした日々はとても楽しく、きらきらと眩い幸せに満ちた世界。
 その中に彼がいた。彼だけが自分の中で確かな存在だった。

「スザク……」

 混濁した意識のまま唯一覚えている名前を呼んだ。スザクと呼べばいつだって彼は駆け付けてくれた。そのはずだった。

「水をくれないか、水を……、頼むから、水を……」

 喉が渇いてたまらない。水が欲しい。渇きを癒したい。
 水を。
 水を。

「スザク」

 手を伸ばしてグラスを探すけれど、指先は何も掴めない。頭の中をぐちゃぐちゃにされて掻き回されるような感覚にきつく目を閉じる。噛み締めた唇から漏れた呻き声が自分のものかどうかもわからなかった。
 (お前は誰だ)
 自分は誰だ。
 ここでスザクの名前を呼んでいるのは。スザクに水を求めているのは。一体誰だ。
 (俺は、どうしてここにいるんだ。たしかトウキョウ租界で、いや、神根島で、スザクと一緒に……)
 神根島とはどこのことだろう。どうしてそんな場所にスザクといたのだろう。
 何も思い出せない。思い出そうとするたびに誰かに邪魔をされる。お前は眠っていろと、何もかも忘れていろと誰かが囁いている。

「――スザク」

 救いを求めて名前を呼ぶ。だけど、とうとう彼が応えることはなかった。
 意識が遠くなり、体がぐらりと傾ぐ感覚がした。
 冷たい床に打ち付けられる瞬間、誰かの手が支えてくれたことに気付くことなく『ルルーシュ』は記憶の奥底へと消えていった。
 抱き上げた体はとても軽かった。精神が疲弊すれば体に不調が出るのも当然だ。しかし、それを自業自得だと嘲笑う余裕はスザクにはなかった。
 ソファに寝かせた体を無表情に見下ろす。何がスザクだ、と胸の中で呟いた言葉は憎しみに塗れていた。
 ブラックリベリオンからすでに数ヶ月。神根島で捕えたルルーシュを皇帝に売り渡し、その報酬として得たラウンズの地位。そして、ラウンズとしての初仕事がなんの皮肉かルルーシュの護衛だった。
 ジュリアス・キングスレイと彼は名乗った。皇帝により記憶を書き換えられ、ルルーシュであったこともゼロであったことも忘れた彼は、皇帝の忠実な犬となっていた。
 あれほど父親を憎んでいたルルーシュが皇帝に跪いた姿を見て、改めてギアスという力の恐ろしさを知った。同時に、人を騙し、意のままに操ってきた彼がギアスに屈服し、惨めな傀儡となっていることに己の復讐が成し遂げられたのだと思った。でも、それは一瞬だった。

「のこのこと出てきては僕に助けを求めて、いい身分だな」

 ルルーシュ、と小さく呟いた声には底冷えするような響きがあった。
 目の前にはルルーシュがいる。いくら記憶を弄ろうと、どんな名前に変えようと、姿形がルルーシュのままならばそれはルルーシュだ。ユフィを殺し、自分を裏切り、抱いていた理想をすべてぶち壊した悪魔のような人間だ。
 この体の中に悪魔が眠っている。今は皇帝に従順で、皇帝のために働くことに喜びすら抱いているけれど、いつその悪魔が目を覚ますかわからない。
 その証拠に彼は時折スザクを認識していた。水が欲しいと縋り、助けを求めている。高潔で誇り高く、人前では決して涙を流さなかったルルーシュが泣いて水を欲しがっている。ほかの誰でもない、枢木スザクに。
 己の所業を忘れているからこそ平気で名前を呼べるのだと唇を噛んだ。
 (どうして僕のことは忘れてくれなかったんだ)
 傲慢で狡猾なだけのジュリアスだったらもっと割り切れた。彼はルルーシュとは別人だと思えたし、護衛するのは皇帝命令だから仕方ないと諦められたに違いない。
 だけど、ときどき顔を覗かせるルルーシュの意識がスザクを混乱させた。ギアスに抵抗するように現れるルルーシュは、自分たちの間に何が起こったのかを忘れている。ただ喉の渇きを訴え、救いの手を求める。それが払いのけられるとも知らずにスザクだけを求めている。

「――無様だな」

 軽蔑を込めて吐き捨てた言葉はしんとした空間にやけに大きく響いた。
 客人の間と呼ばれるだだっ広い部屋には何もない。まるで自分の中の虚無を見せ付けられているようであまり好きではなかった。
 ソファの上では意識を失ったジュリアスが穏やかな呼吸を繰り返している。ときどき悪夢を見るのか、魘されて飛び起きることもあるけれど、今は静かな眠りに落ちているようだ。
 しばらくその顔を見ていたスザクは、足を動かすと背を向けた。自分の役割は彼の監視兼護衛だが、四六時中べったりくっ付いている必要はない。危険が迫ったときにその身を守ればいいだけだ。
 (殺したい相手を守ることが任務だなんて、こんな最低なものはないな)
 もし運悪く死んだとすればそのときはそのときだ。
 皇帝命令を全うできなかったでは申し開きができないし、仕方がなかったという言い訳で許されるとも思えない。最悪は死罪だ。
 それでも、ルルーシュが死んでしまっても構わないとスザクは思っていた。
 本国への定期的な報告を終え、薄暗い部屋に戻るとすでにジュリアスは目覚めていた。ソファにもたれ、ユーロ・ブリタニアから提供された電子資料に目を通している。ほんの一刻前まであんなに苦しんでいたのに、何も知らずに軍師の顔に戻っている彼を見ると怒りとも苛立ちとも言い難い感情に襲われた。
 そもそも彼は、自分が何度も倒れていることをどう思っているのだろう。彼が目覚める瞬間を傍で見ていたことはあるが、不思議そうに辺りを見回すだけで、起き上がるとすぐにその前の作業に戻るだけだ。どうしてベッドで寝ているのかと疑問を抱いたり、意識を失う直前のことを覚えていたりする様子はなく、まるでそういうものだと認識しているようだった。もしかしたら、ときどき倒れてしまう体質という設定にでもされているのかと思うと嗤えて仕方がない。
 声をかけることなく定位置に戻ったスザクは、彼の後頭部を見下ろした。

「情報が足りないな。わざと報告しないことで不都合な事実を隠すつもりか。まったく幼稚な連中だ。この部分について詳細を持って来いと言っておけ」

 こちらを見ないまま、名前すら呼ばないままジュリアスが資料を差し出した。スザクは黙ってそれを受け取った。
 二人きりのとき、自分たちの間で業務以外の会話はない。スザクのほうから話しかけるつもりはもちろんないが、彼のほうも枢木スザクに興味は持っていないようで個人的なことを聞かれたことは一度もなかった。朗らかな会話を求められても困るからこれはこれで良かったと思うものの、口を開けば尊大な態度で人に指図してくるので若干辟易している。
 一介の軍師でありながら、立場としては自分より上であるラウンズに命じるなんて普通では考えられない。ルルーシュという元の性質が起因しているのか、それとも王笏を持たされたことで己の優位性を信じているのか、いずれにしろ面倒で厄介なことに変わりはなかった。
 (そういえば、ルルーシュも人に頭を下げるのは嫌がったな)
 しかし彼の場合は自らのプライドがそうさせていただけで、人の権力を笠に着て威張り散らすことはむしろ毛嫌いしていた。
 見た目が同じだけで、やはりルルーシュとジュリアスは違う。そのことを確認してどこか安堵している自分に気付き、スザクは顔を歪めた。

「ユーロ・ブリタニアも無能な者ばかりだな。そのくせ本国に敵対心を抱き、張り合おうとするなど愚かにも程がある。だが、使えそうな人間がいないこともないようだ。シン・ヒュウガ・シャイング、イレブンでありながら総帥にまで上り詰めた才覚は恐らく本物だ。ナイトオブラウンズになった貴公と似ているな」

 小さく笑った彼がわずかに首を動かした。スザクから見える横顔はルルーシュそのものだった。ルルーシュとは違うと確信したばかりなのに、ルルーシュの姿がだぶる。

「どうだ、同胞に会えて嬉しいか」
「自分とシャイング卿の境遇は違いますので」
「確かにそうだな。シャイング卿は養子とは言え由緒あるシャイング家の人間。一方、貴公はただの名誉ブリタニア人。だが、安心しろ。皇帝陛下は寛容なお方だ」

 だから、と続けた彼の瞳が細められた。

「エリア十一で失態を犯した皇女の騎士というだけで通常は出世の道を閉ざされるものだが、皇帝陛下は貴公の実力を買っておいでで、こうしてラウンズに取り上げた。私はその実力を認めているつもりだよ、枢木卿」

 楽しそうに笑う声をスザクはどこか遠くで聞いていた。目の前が赤くなり、腸が煮えくり返る。この場で彼に手をかけなかったことが奇跡に近い。
 (同じだ。やっぱりお前はルルーシュと同じだ)
 ジュリアスとルルーシュは違う。しかし、ジュリアスの人格はルルーシュの本質なのかもしれない。
 ルルーシュという人間が腹の中でずっとそう思ってきたから、ルルーシュという理性を失くした彼は平然とこんなことを言えるのかもしれない。
 (お前の本質は変わらない)
 人格を変えられようと、異なる記憶を植え付けられようと、その肉体に宿った本質は変わらない。
 ルルーシュはルルーシュだ。
 (でも、俺が殺すのはお前じゃない、ジュリアス)
 ジュリアスを殺しても意味はない。そこにルルーシュはいないのだから。
 だから早く戻ってくればいい。ルルーシュと同じ色の瞳を見返してスザクは心の中で薄笑いをした。
 早く戻って来い。ジュリアスなんてつまらない人格に乗っ取られて大人しくしているような君じゃないだろう?
 皇帝を崇め、唯々諾々と従い、皇帝の権力をひけらかすことを本当の君が認めるわけがないだろう?
 ナナリーのことを忘れ、プライドをずたずたにされ、それでも屈することなく反抗するのが君だろう?
 だから早く戻って来い。
 (君が戻ってきてくれないと、僕が君を殺せないじゃないか)
 次に君が過ちを犯したら、そのときは僕が間違いなく君を殺そう。僕が君を正してあげよう。
 だって、僕たちは友達なのだから。
 (15.05.17)