※『最上のひとときを』の続きです。
「枢木卿って意外と奥手だったんですね」
高校生の少女の口から出てきたとは思えない指摘に、僕は何度か瞬きをした。しかし戸惑ったのは一瞬で、すぐに我に返ると「なんのことですか」と笑みを浮かべてみせる。
「しらばっくれる気ですか」
「そうおっしゃられても心当たりがないので」
「チョコレート、もらいましたよね。バレンタインに、ルルーシュ殿下から」
言い聞かせるようにフレーズを区切っているのはわざとだろう。どうですか? と顔を覗き込まれても笑い続けるしかない。
「いただいたのは事実です。でも、それと奥手とどういう関係が?」
「まだしらばっくれるんですね。これだから大人って」
「ですからなんのことだか自分にはさっぱりで」
なおも否定すると、アッシュフォード家の令嬢でこの学園の支配者とも呼べる生徒会長、ミレイ・アッシュフォードが不服そうな表情をした。
「枢木卿は年上の殿方ですし、過去には貴族のご令嬢達と浮名を流したこともあるからもっと手が早いのかと思ってました」
「それは酷い言われようですね。第一、浮名を流したというのは誤解です」
「あら、一夜限りのお付き合いも含めたらかなりの人数になるんでしょう?」
「誰がそんなことを言っているんですか。誤解ですよ。確かに声をかけられたことはありますけど、どれも丁重にお断りしました」
ルルーシュ殿下の名代としてパーティーに出席し、そこで女性に声をかけられた経験は何度かあるものの、誘いを受けたことは一度もない。しかし、そのせいで僕が遊び人のような噂を流されるのは心外だ。大方、僕の印象を害することでルルーシュ殿下を貶めようとする卑劣な人間の仕業だろう。
「自分には想い人がいるから、というのがお決まりの断り文句ですよね?」
「ご存知なんですか」
ティーカップを持ち上げた生徒会長が笑顔になる。もちろんです、と答えてカップを傾ける仕草はとても品があった。お祭り好きで、派手なイベントを企画しては生徒達を困らせる彼女だが、こういうところは貴族の令嬢だと密かに感心した。
「鎌をかけたんですか」
「まさか。鎌をかけられて困ることがありますか?」
「いいえ」
「で、最初のお話に戻るわけですが、枢木卿は奥手なんでしょうか」
さて困ったと、誤魔化すように紅茶に口を付けた。
彼女の発言の意図はわかっている。わかっているからこそ下手なことは答えられない。
「ご質問に答える前に、殿下からチョコレートをいただいたことをなぜミレイ様がご存知なのですか?」
「殿下に直接伺ったからです」
「殿下から?」
「ええ。だって日本のバレンタインについて教えたのは私ですから。殿下って秘密主義に見えて、意外とこういうことは素直にお話ししてくださるんですよね」
笑みを深めた彼女に、なるほどと納得した。
バレンタインと言えば日本ではチョコレートが定番だけど、ブリタニアにそういうものはない。だから、殿下が僕のためにわざわざチョコレートを作ってくれたと知ったときは驚いた。
しかし、その出来事を殿下が自ら暴露するとは思えなかった。生徒会長に誘導尋問されたか、しつこく追及されて仕方なく打ち明けたか、もしくは特に隠す必要もないので話しただけなのか。いずれにしろ僕も殿下も生徒会長の掌の上で踊らされていたというわけだ。
「ミレイ様は策士ですね」
「お褒めにあずかり光栄です」
皮肉が混じっていることには気付いているだろうに、さらりとかわすのはさすがである。
「チョコレートの謎が解けたところで、私の質問に答えてくださる気にはなりましたか?」
「その前にもうひとつ。ご質問の意図がわかりません」
「意図をご説明したほうがよろしいですか?」
彼女の視線が生徒会室の隅へと向けられた。釣られるように僕も窺う。
そこではルルーシュ殿下と生徒会メンバーのニーナが頭を突き合わせて何やら議論していた。物理のことで聞きたいことがあるのだと言っていたが、漏れ聞こえてくる会話は難しすぎて何を話しているのかちっとも理解できない。あれは本当にブリタニア語かと疑いたくなるほどだ。
「――そうですね。ある意味スキャンダルですから、ミレイ様がなぜそんなことを知りたいと思われるのか把握しておく必要はあるかと」
本気で彼女を疑い、警戒しているわけではなかった。しかし、場合によってはただの雑談では済まされないこともある。
何せ、話題の対象は皇族だ。この国では皇族の一挙手一投足が注目され、どんな些細なことでもニュースとして取り上げられる。色恋沙汰となれば殊更面白おかしく書き立てられるだろう。そんなものに自分の主を巻き込むわけにはいかない。
すると彼女はカップを置き、不意に真剣な表情を浮かべた。
「マリアンヌ皇妃が庶民出身ということで、そのご子息の殿下は昔からご苦労が多かった。嫌なこともたくさんあったでしょう。それでも人前では決して弱音を吐かず、妹のナナリー様を必死にお守りしてきた殿下のお姿を私は知っています。殿下はとても優秀な方です。そんな殿下を政治の道具として利用しようと考える人間は多い。だからこそ、殿下には公私共に支えとなってくれる方がいてほしい。幸せになっていただきたい。アッシュフォードの人間だからではなく、個人的な感情からそう願っています。ですから――」
彼女はそこで一旦視線を下げた。呼吸を整えたあと、再び顔を上げて射抜くような視線を僕に向ける。
「殿下が、殿下の好きな方と一緒にいたいと思われるのならば私はその恋を応援します。ですが、もしそのお相手が殿下に対して不誠実ならば、私はその方に殿下のお心を煩わせるような真似はなさらないでくださいと申し上げるつもりです」
いきなり何を言い出すのですか、と返そうとして僕は口を閉ざした。
明るくて何事にも物怖じせず、言いたいことはなんでも言うタイプ。お祭り好きで突飛なイベントを思い付いては突発的に実行するところが殿下曰く困りものではあるが、学園の生徒会長として信頼が厚く、面倒見も良い。それがミレイ・アッシュフォードの印象だ。個人的にもルルーシュ殿下のことを気に入っているようで、副会長に無理難題を押し付けながらも何かと気にかけてくれている。
その彼女が真剣な面持ちで語った内容はとても冗談には思えず、笑い飛ばすことができなかった。
「ミレイ様のご意見には自分も同意します。殿下のお心を煩わせるものがあってはいけない」
「なるほど。お考えはよぉくわかりました。で、枢木卿は奥手なんですか?」
また最初の質問に戻ってしまった。彼女の追及をかわすことは不可能らしい。どうしたものかとこっそり溜め息をつく。
そんな僕に何を思ったのか、生徒会長が口の端を上げた。先ほどまでの真剣な表情が嘘みたいだ。
「私は意外だと感じただけです。こういうことは年上の殿方がリードしてくださるものと思っていましたから、まさか半年近く経っても進展がないなんて驚きです。ですから枢木卿は奥手な方なのかと疑ってご質問したのです」
「えっと……、『こういうこと』の意味がわかりかねます」
「誤魔化されなくても大丈夫ですよ。私はルルーシュ殿下と枢木卿の味方です。皇宮中に言いふらしたり、これをネタに脅したりするようなことはありません。――と申し上げてもすんなり信じてくださるとも思っていませんが。とにかく、私は枢木卿を応援していますとお伝えしたかったのです。そんなに警戒されないでください」
「はあ……」
どう反応するのが正解なのだろう。恐らく、いや、十中八九、彼女には僕と殿下の気持ちがバレている。それ自体は特に騒ぎ立てることではない。彼女を信用していないわけでもない。今の言葉通り、人に言いふらすような真似もしないと信じている。
ただ、この話は僕だけの問題ではなかった。僕はともかく、殿下の気持ちを勝手に暴くのは無礼というものだ。たとえ僕達の気持ちが同じであることがわかっていたとしても。
「殿下達のお話が終わったみたいですね。では、私達のお茶会もお開きにしましょう」
カップを置いた生徒会長がにこりと笑みを浮かべた。
「今のお話、殿下には内緒にしておきますのでご安心ください」
「それはありがとうございます。ところで、なぜ急にこんなお話を?」
「だってじれったいんですもの」
「それだけですか?」
「それだけです」
やれやれと肩を竦める。自分の気持ちがバレバレだったことも、年下の女性にけしかけられたことも、情けなくて恥ずかしい。
「――でも、ミレイ様は本当によろしいのですか?」
何が、とは伝えなかった。
主語のない言葉の意味を彼女は正確に汲み取ってくれたらしい。微笑んだ表情はやけに大人びていて、そしてどこか寂しそうだった。
「私は家の都合で殿下との婚約を解消した身です。今さら人の恋路を邪魔するような野暮なことはしません。それに、殿下に幸せになっていただきたいという言葉は本心ですから。お気遣いいただきありがとうございます」
ルルーシュ殿下のほうを見やったあと、彼女は笑みを深めた。学園の生徒会長らしい、いつもの笑顔だ。
「というわけで、私は枢木卿を応援しているのです。殿下はあのとおり、とっても鈍い方なのでしっかりなさってくださいね」
僕の肩をぽんぽんと軽く叩き、彼女はソファから立ち上がった。
「あっ、お話は変わりますが、枢木卿は何か欲しい物はございますか?」
「欲しい物?」
「ええ、欲しい物」
話題が唐突に変わり、僕は首を傾げた。
「できればお金では買えないものがいいですね」
無意識に思い浮かべたのはひとりの人物の顔だった。我ながらおこがましいと頭の中からすぐに追い払い、代わりに苦笑いを顔に張り付けた。
「今すぐ欲しい物はないですね」
「そうですか。では、質問を変えます。お誕生日のプレゼントとしてもらって嬉しいものはなんですか?」
ああそういうことか、と合点した。来月は僕の誕生日だ。生徒会からなのか、生徒会長自身からなのか、僕に贈り物を用意してくれるらしい。
「だったらケーキ、ですかね」
「ケーキなら頼まなくても用意してもらえるのでは?」
「ぱっと思い付いたのがケーキだったんです。それにバースデーケーキってなんだか特別じゃないですか。デコレーションとかネームプレートとかも特別感があるし」
「枢木卿ってネームプレートに名前を書いてもらいたいタイプだったんですね」
生徒会長が悪戯っぽく笑う。我ながら子供みたいだが、咄嗟に出てきたのがケーキなのだから仕方ない。バースデーケーキに特別感があるのは本当だし、もらって困るものでもないのでいいだろう。
「わかりました、ケーキですね。確かに承りました。当日を楽しみにしておいてください」
貴族の令嬢らしくお辞儀をした彼女は、くるりと振り返ると今度は生徒会長の顔になった。
「ルルーシュ、ニーナ、そっちはもう終わったんでしょう? そろそろこっちの仕事に取りかかってもらいたいんだけどいいかしら」
「俺達がいなくても勝手に進めてくれていいんですよ、会長」
「ダメダメ、ルルーシュがいないと話がちっとも進まないのよ」
「とか言ってサボりたかっただけでしょう」
書類を片手にルルーシュ殿下がやって来た。腰を上げた僕に、そのままでいいと告げる。
「ミレイに付き合わせて悪いな。変なことを言われなかったか?」
「いいえ、何も。美味しいお茶とケーキをごちそうになっただけです」
「それなら良かった。お茶のおかわりを淹れるから、もうしばらくここで待っていてくれ」
「お茶でしたら自分が」
「気分転換をしたいんだ。それよりこれを預かっていてくれ」
「こちらは?」
「ニーナの講義の要点を書き出したものだ。物理は専門ではないから勉強になった。さすがは物理の先生だよ。これを応用すれば次の作戦時に使えるから今度兄上に――、だから怖い顔をするなと言っているだろう」
苦笑い交じりに苦言を呈され、申し訳ありませんと頭を下げる。自分では無意識だったけれど、眉間に皺が寄っていたらしい。
「俺だっていつまでも子供のままではいられないんだ。仕方ないと諦めろ」
「わかっています」
「――いいや、お前はわかっていない」
ぽつりと零すとルルーシュ殿下はティーポットを持ち上げて行ってしまった。物言わぬ背中は心なし怒っているようだった。
殿下を不快にさせたことは心苦しい。だけど、騎士としては心配にもなる。上手くいかないなと息をつき、僕はソファに座り込んだ。
(奥手というわけではないけど七歳も年下の殿下にそうそう手は出せませんよ、ミレイ様)
心の中で先ほどの質問に答える。それから何度考えたかわからないことを思った。
僕は一体どこで間違えてしまったのだろう。
***
ひとりで泣いている子供を見つけた。それがすべての始まりだ。
偶然出会い、話を聞いて慰めた相手がブリタニアの皇子様だったのは奇跡とも呼べる出来事だったのだろう。野心溢れる人間ならばこの出会いを利用して出世を目論んだに違いない。しかし当時の僕は相手が皇族とは知らず、貴族の子供が家出のようなことをしたのだろうとしか思っていなかった。
自分がとんでもない人物と言葉を交わしたと知るのは、子供との出会いから二年ほどが経った日のことである。
ナイトメアのシミュレーション中に非常事態だと突然呼び出され、僕は客室に向かった。部屋の前で待っていたのは上司のロイドさんで、僕が現れるとぐいぐい腕を引っ張ってきた。
「君さ、何を仕出かしたの」
「なんの話ですか」
「それは僕が聞きたいよ。なんだって突然マリアンヌ皇妃がやって来るんだよ」
マリアンヌ皇妃。彼女の名前は日本人の僕でも知っていた。
庶民から皇妃になった人物で、かつては皇帝の騎士を務めていたという異色の経歴の持ち主だ。その女性が僕を訪ねてわざわざ特派までやって来たそうだが、もちろん僕にはなんの心当たりもない。名誉ブリタニア人の僕がブリタニア皇妃と知り合いになる機会など皆無だし、離宮で過ごしている彼女のもとに僕の情報が届く可能性もゼロに近い。
知らないところで何かやらかして苦情を言いに来たのだろうか。苦情だけならいいけど、なんらかの罪状を突き付けられて逮捕されるのでは。
「ま、考えても仕方ないか。粗相だけはしないようにね。なんたって相手はあのマリアンヌ皇妃なんだから」
最悪の事態を想像して青くなっていることなどお構いなしにロイドさんがドアを開けた。無理やり客室に押し込まれると、応接用のソファで美女が足を組んで座っていた。
「お待たせしましたぁ、こちらが枢木准尉です」
「あら、強面の子を想像していたんだけど意外に童顔なのね。そういえば顔写真を見るのを忘れていたわ。いくつ?」
年齢を聞かれているのだと瞬時に悟り、十九です、と答えた。ほとんど条件反射であった。
「あっそ。じゃあほとんど大人と言ってもいい年齢ね。ルルーシュの護衛としてはちょうどいいかしら」
「護衛……?」
皇妃の瞳が僕を捉える。勝手に口を挟んだことを咎められたのだと謝れば、いちいち畏まらなくても大丈夫よと笑われた。気分を害したわけではなさそうだ。
「今度うちの息子に騎士をつけようと思っていて、それで候補者に声をかけて回っているところなの。どうかしら、あなたやってみない?」
「あのぉ、皇妃のご子息の騎士ということは専任騎士ということでしょうか」
ロイドさんが質問を投げかけると、皇妃は足を組み直した。
「そ。ちなみにうちの子は十二歳。十九歳のあなたからしたらお子様でしょうけど、ただのお子様じゃないの。頭は良いし弁は立つし、とにかく優秀。私の息子なのに運動方面がからきしなのは残念だけど、その分頭脳が補ってくれているからいいでしょう。私のこと親馬鹿だと思わないでね。息子を正当に評価しているだけだから」
これはただの息子自慢だろうかと思ったことが顔に出ていたのかもしれない。にっこりと笑顔で付け加えられる。
「子供だと舐めてかかったら痛い目に遭うから言動には気を付けてね。ま、あなたの場合は心配いらないでしょうけど」
皇妃が何かをテーブルに置いた。革製の書類入れだ。
「あなたの将来の主になるかもしれない相手の情報よ。候補者になるかどうかはそれを見て決めてちょうだい」
失礼いたしますと中の書類を取り出した僕は、名前と共に載っていた皇子の写真に目を瞠った。思わず顔を上げれば、皇妃が楽しそうに笑っていた。
「どう? その気になった?」
「あ、あの、これは一体」
「あなたのことは調べさせてもらったわ。二年前にね」
「二年前……もしかして……」
「ええ、あなたがルルーシュと出会ったその日のうちに」
「ちょっとちょっと、どういうこと。君、ルルーシュ殿下といつの間にお知り合いになってたの」
あの子はルルーシュという名前なのか、お人形みたいな子にぴったりの響きだなとどこか冷静に思いつつ、上司に事の経緯を説明する。
「知り合いと呼べるほどの関係ではありません。僕は単なる通りすがりです。二年前だからロイドさんは覚えてないかもしれないですが、お使いで資料を届けに行った日の帰りですよ。たまたま見かけた子供が転んだから助け起こして、ちょっと話をしただけです。でもまさかお相手が皇子殿下とは知らず……申し訳ございませんでした!」
勢いよく頭を下げる。きっと騎士候補というのはただの名目で、皇子に無礼を働いた不届き者を捕まえに来たのだ。逮捕に二年もかかった理由はわからないけど、犯人の僕を泳がせていたのかもしれない。どんな処罰が待っているのかと想像して背中に冷や汗が流れる。
「あら、謝る必要はないのよ。あの子が身内の人間以外で仲良くしたのはあなたが初めてだし、珍しいこともあるものねと楽しく報告を聞かせてもらったわ」
くすくすと笑う皇妃に、どうやら処罰の恐れはないらしいと安堵する。同時に、どこまで把握されているのかと別の不安が湧いてくる。
二年前の出来事は今でも良く覚えていた。
林の奥で泣き声が聞こえてきたときは人攫いかあやかしかと疑ったけれど、小さな子供が隠れて泣いているのだとわかって無性に庇護欲を掻き立てられた。特別子供が好きなわけではないのに、ひとりでぽつんと座り込んで静かに泣いているのを目撃したらとても放ってはおけなかった。
初めは大いに警戒されたものの、僕が無害だと判断してくれたのだろう。その子は少しずつ心を開いてくれた。こんな弟がいたらすごく可愛がってべたべたに甘やかしただろうなと想像し、彼と話している間、僕はブリタニアでの生活のつらさをしばし忘れた。
洋服の質や話し方から子供が上流階級の人間であることはすぐに見当が付いた。名誉ブリタニア人の僕とは縁のない相手で、馬に乗った彼を見送ったあとはもう二度と顔を合わせることもないとわかっていた。
彼との出会いはおとぎ話の一節に出てくるようなもの。目を開けたらすぐに覚めてしまう夢と同じ。僕の中にだけ残り続ける特別な記憶だと思い続けてきた。
(まさか皇族だなんて)
貴族どころかその上位の存在だった事実には驚いたけれど、なるほどとすぐに納得もした。そして、あの日の会話の意味もようやく理解した。
『大人なんかには頼れない』
あの子供が吐露した言葉には妙な深刻さがあり、貴族は貴族で大変なんだなと当時の僕は思ったものだ。しかし、皇族となればまた話が変わる。ほんの十歳の子供がひとりで泣き、妹を守りたいと血を吐くような思いを零していた裏には僕が想像していた以上の切実さがあったに違いない。
「そういうわけで、あなたのことは二年前から色々調べさせてもらっていたの。最初はうちの子におかしなことを吹き込んでいないかと心配してね。親心ってやつ、わかるでしょ? と言っても私はさほど心配してないんだけど、うちの人が色々うるさくて。息子が可愛いだけで悪気はないの、許してあげて」
「は、はい」
うちの人とはブリタニア皇帝のことだろう。ブリタニア皇帝を粗雑に扱っていそうな話しぶりは皇妃だからなのか、マリアンヌ妃その人だからなのか。
「ルルーシュは気付いてなかったみたいだけど、万が一に備えて監視カメラでちゃんと姿を追っていたのよね。あなたはカメラに気付いていたでしょう?」
「多いなとは感じていましたが、皇宮付近ならばそれも当たり前かと思っていました」
「やっぱり勘は良いようね。さすがはユーロピア戦線で活躍しただけのことはあるわ」
皇妃がさらりと口にしたのは半年前の戦闘のことだった。確かに戦果は残したが、ほかの皇族は名誉ブリタニア人の活躍など気にも留めないだろう。
今回の訪問がタチの悪い冗談でないとすれば、皇妃の提案する騎士候補の件は本物で、当然僕の素性やこれまでの戦歴などもすべて把握済みに違いない。しかも相手は元ラウンズだ。僕の実力は下手な軍人以上に理解していることだろう。
しかし、その上で皇子の騎士候補を勧める理由がわからなかった。僕は名誉ブリタニア人だ。制度上はブリタニア人と同等の権利を認められているが、実態は大きく乖離している。名誉ブリタニア人がナイトメアに乗ることは許されておらず、ロイドさんという変人の上司がいなければ僕は今も地上部隊で戦っていただろう。
つまり僕を騎士候補にするという考えは、ブリタニアの常識を踏まえると常軌を逸していた。しかも話を持ち込んできたのは皇妃だ。この話には怪しさしかなく、絶対に何か裏がある。
「やだもう、そんなに警戒しないで」
気持ちが顔に表れたのか、突然皇妃が可笑しそうに笑い出した。
「そ、そのようなつもりは」
「気持ちはわかるわ。縁もゆかりもない相手からいきなり騎士候補を持ちかけられたんですもの、怪しさしかないわよね」
「そのようなことは」
「遠慮しなくていいのよ。嫌々騎士になられてもあの子が可哀想なだけだし、嫌ならさっさと断っちゃいなさい。無理強いするつもりもないし、断ったからって処罰したりもしないわ」
「いえ、嫌という気持ちはありません」
「本当? 下手な嘘をついて後悔するのはあなたなのよ」
「本当です。決して嫌ではありません。むしろあのとき出会った殿下を自分がお守りできるのであればとても名誉なことだと思います」
皇妃に媚を売っているのではない。これは僕の本心だ。
あの子はちゃんと家に戻っただろうか。泣かずに暮らせているだろうか。ほかに誰か頼れる人はできただろうか。そんなことがずっと気にかかっていた。ふとしたときに小さな子供の顔が頭に浮かび、どこか落ち着かない気持ちになった。
相手は上流階級の子供で一生会える機会などないのに。奇跡的に会えたとしても、向こうは一度顔を合わせただけの名誉ブリタニア人兵士など覚えていないはずだ。それでもなぜか気になって仕方がなかった。だから子供の正体が皇族だとわかって驚いたし、騎士候補の話に戸惑いはあるけれど、また彼に会えるかもしれないという期待のほうが僕の中では大きかった。
ただ、気になる点がひとつある。
「――あの、質問をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんいいわよ。なんでも聞いてちょうだい」
「なぜ自分が騎士候補に選ばれたのでしょうか。自分は名誉ブリタニア人です。皇族の騎士として相応しいとは思えませんし、皇帝陛下は反対されないのでしょうか」
「専任騎士は皇族の特権よ。たとえ皇帝陛下であっても口出しできないわ。と言っても、こうして候補者を集めている時点で建前みたいなものになっているわけだけど、実際に誰を選ぶかはあの子次第。私はあくまで優秀な人材を集めているだけ」
『優秀な人材、ですか?」
「ええ。うちの子が優秀だって話はしたでしょう。親としては嬉しいことだけど、ルルーシュの場合は皇族だからその優秀さがあだになっちゃって。最近では命を狙われることが多いから周りは頭を悩ませてるの。暗殺されないためには外に出かけないことが一番よ。でも赤ん坊じゃあるまいし、いつまでもアリエスの中に閉じ込めておくわけにはいかないでしょう?」
狙われることが多いとは穏やかな話ではない。皇宮は権力争いが激しいとはいえ、まだ十二歳の子供が暗殺に怯えて暮らさなければいけないなんてどうかしている。
「それで私やあの子の兄姉は騎士を持てと言っているんだけど、本人はうるさがって聞いてくれないの。気持ちはわかるわ。常に誰かが側にいるのは落ち着かなくて煩わしいものよ。身内の人間でも鬱陶しいときがあるんだから赤の他人ならなおさらよね。でも事態は結構切羽詰まっていて、だったら勝手に候補者を集めて無理やり選んでもらいましょうってことになったの。シュナイゼルやコーネリアは家柄重視で優秀な人間を選んでくれてるけど、私が求めるのは身体能力の高さ。家柄や血筋や階級は問題じゃないわ。求めることはたったのひとつ、身体的に非常に優れていて何があってもあの子の命を守ってくれる人間よ」
わかるわよね? と赤い唇が弧を描く。
要するに皇子を守る盾がほしいという意味で、普通に考えれば名誉ブリタニア人の僕は使い捨ての盾。代わりなどいくらでもいる捨て駒に過ぎない。
だが、捨て駒として使うために名誉ブリタニア人を騎士候補とする必要性がどうしてもわからない。専任騎士にはそれなりの特権が与えられ、記録にも名前が残ってしまう。ブリタニアの伝統や格式を重んじる人々にとっては許しがたいことだろう。ならば僕のことは単なる護衛として使えばいいのだ。わざわざ騎士候補にするメリットがひとつも浮かばなかった。
すると僕の疑問を汲み取ったように皇妃が続けた。
「誤解がないように言っておくけど、あなたのことは正当に評価しているつもりよ。特派で行っているシミュレーション結果はもちろん、戦場での実績も全部ね。それらを総合的に判断した上で、二年前の出来事も加味して私はあなたを選んだ。ほかに何か疑問はあるかしら?」
「自分は特派所属で、特派はシュナイゼル殿下の直属です。シュナイゼル殿下はこのことをご存知なのでしょうか」
「シュナイゼルには話を通しているわ。安心してちょうだい。――と、ここまであなたを騎士にするつもりで話してきたけど、騎士を選ぶのはあくまであの子自身ということをくれぐれも忘れないでね。私はお膳立てをするだけ。あなたが騎士に選ばれなくてもうちの子を恨まないでちょうだい」
「候補として選んでいただけただけで光栄なことです。恨むだなんて有り得ません」
「それは良かったわ。じゃあこの件については一週間後にでも返事をくれるかしら」
「いえ、今すぐお返事させてください」
僕の言葉に皇妃の目が細められる。
「あなたの将来に関わることなんだから悩んでいいのよ。上司にだってお伺いを立てておく必要があるでしょう?」
皇妃がロイドさんのほうを見やる。すっかり蚊帳の外になっていたロイドさんを振り返ると、僕は深々と頭を下げた。
「すみません、ロイドさん。騎士候補のお話、受けてもいいでしょうか」
「ここで僕が駄目って言ったらマリアンヌ皇妃に恨まれちゃうよ。シュナイゼル殿下も公認なら僕が反対する理由はないしね」
「じゃあ」
「たまにはシミュレーションに参加してくれるとありがたいかな」
「もちろんです」
ロイドさんに頷くと皇妃に向き直る。それから姿勢を正し、息を吸い込んだ。
「どうか自分をルルーシュ殿下の騎士候補のひとりにお加えください」
結果として、僕はルルーシュ殿下の騎士になった。ルルーシュ殿下は僕を選んでくれたのだ。
元日本人の名誉ブリタニア人を騎士にするということは、殿下が余計な面倒事を引き受けたということでもある。名誉を騎士にするなんて皇族の権威も地に落ちたものだとか、名誉をはべらせる皇族もどきとか、殿下を誹謗中傷する声はあちこちで聞こえた。自分のせいで主が責められるのは耐えがたく、騎士を辞めようと考えたことは一度や二度ではない。
だけど、そのたびにルルーシュ殿下はこう言ってくれた。
「スザクは俺の騎士だ。俺の騎士ならもっと堂々としていろ。下を向くことも泣き言を零すことも許さない」
厳しい言葉は騎士を思ってのことで、年下の主にこんなことを言わせている自分が情けなかった。だから僕はほかのどの騎士よりも騎士らしくあろうと務めた。ラウンズにも負けない強さを身に付け、命を懸けて殿下をお守りしようと誓った。
殿下の騎士になってからの五年はあっという間だった。ブリタニアに渡って以来、下級兵として過ごしてきた僕にとって離宮での暮らしは不慣れなことが多く、騎士としての振る舞いはもちろん、殿下やほかの皇族の細かい好みから貴族同士の力関係まで覚えることは山積みだ。最近はだいぶ慣れてきたものの、生まれながらの皇族である殿下に比べたら僕は経験も知識も圧倒的に足りない。五年が経った今も常に勉強の日々である。しかし、その勉強もすべて殿下のためだと思えば苦ではなかった。僕の騎士としての評価が殿下の評価に繋がるのだから苦など感じるわけがない。
僕はルルーシュ殿下の騎士であり、ルルーシュ殿下のために存在するのだ。
(だから、年下の殿下に想いを抱くなんてことは間違っている)
生徒会長に何やら意見しているルルーシュ殿下を見つめた。
幼かった横顔はすっかり大人びて、人形のように可愛らしかった子供は人形のように美しい人へと成長した。
殿下の美貌はどこへ行っても目を引くようで、学校はもちろん、皇宮を歩いているときも痛いほど視線を感じる。しかも、殿下に熱を上げるのは女性とは限らない。無類の女好きで有名な中年男性までもが殿下に興味を示し、いやらしい目つきで舐め回すように見ていたのは先日のことである。
昔からそういう視線に晒されてきたせいか、ルルーシュ殿下自身は周りの目をあまり気にしていない。自分の顔を交渉の武器として使うくせに、周りがどんな目で見ているのかについては無頓着なのだ。そのアンバランスさが殿下の魅力であり、危なっかしいところでもあった。
(やに下がったあの貴族の顔付き……。思い出すだけではらわたが煮え返るな)
殿下があんな男にまで笑顔を振りまくのも気に入らない。
皇族として相応しい振る舞いをしただけであることはわかっている。母親の身分が低いという理由だけでいまだに殿下を蔑ろにする連中が多く、外では常に愛想良くしていなければすぐに悪い噂を流されることも理解している。だけど、ああいう男は自分に都合良く解釈し、殿下が自分に媚を売っていると勘違いするかもしれないのだ。
(しばらくは殿下をおひとりにするわけにはいかないな。まあ、あの男の件がなくてもおひとりにはさせないけど)
僕の本音を伝えれば、お前は過保護すぎると殿下は呆れることだろう。実際、大いに呆れて言葉も出てこないという顔をされたことがある。あれは高校への通学が決まったときだ。来月からアッシュフォードに行くと突然宣言された上に、護衛はいらないと伝えられたことが原因である。
学生生活を送ってみたい殿下と、危険を冒してまで通学する必要はないと主張する僕の意見は平行線をたどり、とにかく揉めに揉めた。何かと無茶をする殿下に苦言を呈することはあったけれど、険悪な雰囲気になってしばらく口をきいてもらえなかったのはあの一度きりである。皇族と喧嘩をするなんて普通は有り得ないことで、学生生活を送ってみたいという殿下の希望も理解できる一方、騎士としてはとにかく心配だったのだ。その後、意地を張る僕達を見かねたナナリー様が仲介し、学園には僕を筆頭とした親衛隊を必ず置くことで初めての大喧嘩はなんとか収まった。
そうして学校に通うようになった殿下はあっという間に人気者となった。ただでさえ皇族のステータスがあるのに、加えてあの美貌だ。周りが騒ぐのは当然である。
でも殿下はあのとおりの鈍さだしな――、と零れかけた溜め息を紅茶で流し込む。
ルルーシュ殿下は頭がいいのに、自分に向けられる感情にはとことん鈍い。自分がもてることは理解していても、好きという感情が自分に向けられているとは気付かず、気付いたとしても信じないのだ。
ミレイ様に言われるまでもなく、殿下の鈍さは充分知っていた。何せ、頬を触っても唇に触れても抱き締めてもきょとんとし、当たり前に受け入れるような方だ。だからこそ過剰なまでに心配しているのだ。
(自分の気持ちを抑えられなくて無意識に触ってしまっている僕が言うことじゃないけど)
七歳も年下の主に、しかも男性の皇子殿下に恋をしている。
いまだに信じがたい事実を再確認し、今度こそ溜め息が漏れてしまった。
どうして僕は間違えてしまったのだろう。親愛の気持ちはいつの間に恋愛感情へ変わったのか。騎士になったばかりの頃は弟ができたみたいで嬉しく、年下の主が傷付かないよう必死に守ってきた。殿下が成長し、どんどん綺麗になっていくのを間近で見ていたときも変な気は起こさなかったはずだ。
きっかけがあったとすれば殿下が高校生になった頃、少年の面影を残しつつも外見は成人に近付いていることを感じ、すっかり大人になったのだとその成長を実感したときだろうか。
しかし、見た目は大人でも未成年である。手を出した瞬間に犯罪だ。それなのに無条件に僕を信じ、無防備な表情を見せてくれるルルーシュ殿下があまりに愛しくて、気が付けば勝手に触れていた。これは騎士としても男としても失格ではないのか。
頭を抱えてうずくまりたい気分をこらえていたら、生徒会メンバーと談笑している最中の殿下と目が合った。視線が交わったのはほんの一瞬で、紫の瞳はすぐに逸らされてしまった。だけど、一秒にも満たない瞬間がたまらなく愛おしい。
ああ、好きだな。
自分の想いを改めて実感し、照れくさいような申し訳ないような居たたまれないような、なんとも表現しがたい感情に襲われた。
初めて出会ったときは小さな子供だった人。その子にいやらしい感情を抱いていることが恐れ多く、自分がとてつもなく汚れた人間のような感覚に陥る。
いっそ結婚でもすればこんなよこしまな気持ちを捨て去ることができるのだろうか。不意に浮かんだのは、宰相閣下に勧められたお見合いだった。
ありがた迷惑と言うべきか、最近この手の話が多い。結婚適齢期だからというのもあるだろうが、そのほとんどはルルーシュ殿下との繋がりを求めてのお見合いだ。皇族の騎士である僕と結婚し、いずれは殿下の後ろ盾となり、アリエスに取り入ろうとの魂胆が見え見えだった。だから、今まではお見合いをしないかと頼まれても断ってきたし、ルルーシュ殿下のほうでも話を潰しているようである。
ただ、帝国宰相から持ち込まれたお見合い話となればさすがに断れず、とうとうお見合いをする羽目になったのは半年ほど前。殿下は「俺から兄上に話をする」と言ってくれたけど、僕のせいで兄弟に余計な争いをさせるわけにはいかないので、形だけですからとなだめてお見合いの席へ向かった。幸いなことにそのときの相手は僕と同じくお見合いに乗り気ではなかったらしく、一回きりの顔合わせで済んだのは助かった。
(今後のことを考えればいずれは結婚も視野に入れるべきなのかもしれない。でも……)
殿下を忘れるためにほかの誰かを利用するのは卑怯だと思い直した。これは僕自身で乗り越えなければいけない問題だ。
余計なことを考えるな。騎士の務めをしっかり果たせと己に言い聞かせる。
カップに残っていた紅茶はすっかり冷め、舌の上には苦みが広がった。
***
「枢木卿」
クラブハウスの扉が開くと同時に生徒会長が顔を覗かせた。こっちこっちと手招きされたので彼女のほうに近付く。
「ルルーシュ殿下がお呼びです」
「ご一緒ではないのですか?」
「仕事を片付けるためにまだ残るそうです。なので、枢木卿には上で待っていてほしいと」
「わかりました。ご伝言ありがとうございます」
いえいえと手を振った彼女は軽やかな足取りでその場を離れた。が、三歩行ったところでくるりと振り返った。よほど楽しいことがあったのか、満面の笑みを浮かべている。
「自信作らしいですよ」
「え?」
「それから、多少のスパイスは私からのプレゼントです」
「なんのことですか?」
「いいからいいから、早くルルーシュ殿下のところに行ってあげてください」
では私はこれでと恭しく頭を下げた生徒会長に首を傾げつつ、階段を上って生徒会室に向かった。
なんだかデジャビュを感じるなと記憶を探り、二月の出来事を思い出した。あのときもミレイ様に呼ばれて生徒会室へ行ったのだ。バレンタインの少し前だから、もう半年近くも前のことなのかと感慨深いような心地になる。
時が経つのはあっという間だ。今は高校二年生の殿下もすぐに三年生となって、やがて卒業を迎えるだろう。大学進学を考えているという話は聞かないが、進学してもしなくても卒業後は皇族の仕事が今以上に増えるに違いない。
優秀な殿下は帝国宰相に重宝されている。役職に就いていないのに難しい案件を任され、殿下自身も皇族としての役割を全うしようと日々務めていた。
皇族の義務を果たそうとする姿勢は素晴らしく、僕も殿下の役に立ちたいと願う。ただ、機会さえあれば戦場に出ようとするのは反対だ。まだ学生なのだから危険な戦地に赴く必要はない。しかし、殿下は僕の意見に耳を貸そうとしなかった。二言目には「もう子供じゃないんだ」と反論されてしまう。異母兄姉は同じ年の頃に指揮官として先陣を切っていたので、殿下があせる気持ちもわかるつもりだ。子供のときから強くなりたいと思い続けてきた殿下にとって、自分の力でのし上がることはとても重要な意味を持つ。それでも心配のほうが勝るのは、僕が殿下を子供扱いしている証拠なのか。
生徒会室の前で物思いに耽り、軽く頭を振った。最近、余計なことばかり考えてしまう。あせっているのは僕のほうなのかもしれないと苦く思ったあと、表情を引き締めた。部屋のドアをノックすれば殿下に出迎えられる。
「ミレイ様から生徒会のお仕事が残っていると伺いました。まだかかりそうですか? お手伝いできることがありましたらおっしゃってください」
「いや、実はお前を呼んだのは別の理由があって……」
「ではほかに何か問題が?」
「問題というわけでもなく……」
言葉に詰まることがほとんどない殿下なのに、珍しく歯切れが悪い。余程大きな問題でも起こったのかと眉をひそめれば、とにかくこっちに来てくれと手を引かれた。
「アリエスに戻ってからでも良かったんだが、みんなで祝う前にと思って」
「祝う?」
「今日は我が騎士の誕生日だからな」
殿下の視線を追いかけ、目を瞠った。
生徒会室のテーブルにはカップやティーポットが並び、真ん中にはチョコレートのケーキが置かれていた。丸いホールケーキだ。プロが作ったような美しいデコレーションだけど、この状況から考えられる可能性はひとつ。
「もしかして殿下の手作りですか?」
「ああ」
「僕の誕生日だから?」
「まあな」
素っ気なく答えた横顔は少し緊張している様子だ。
近くで見てもいいですかとお伺いを立て、僕のために用意されたバースデーケーキを改めて眺める。パティシエが作ったみたいだと感心し、プレートに書かれた自分の名前に頬を緩めた。
「誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
笑顔を向けると殿下の表情が明るくなった。嬉しさを隠さない反応に僕の心のほうが温かくなるようだ。
「お忙しいのに一体いつケーキ作りを?」
学校では授業や生徒会の活動が詰まっているし、最近では帝国宰相から課題を出されることも多く、皇族として貴族達との付き合いもこなさなければならない。皇子殿下の一日は何かと忙しく、のんびりケーキを作っている暇などなかったはずだ。
「昨日の夜、ナナリーと母上からお茶に誘われなかったか?」
「はい、珍しい果物があるから一緒に食べないかとお誘いが――」
そこで「あっ」と声を漏らした。
「もしかして」
「二人には俺からスザクを引き離すよう協力してもらった」
「なるほど、やけに引き止められたので不思議だったのですが、そういう理由があったのですね」
「昨日は下準備だけだが、おかげで今日に間に合った。作戦成功だな」
腰に手を当てた殿下が得意げな表情をした。人前では皇族としての顔を意識し、常に『ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア』でいることを心がけている殿下が子供みたいな企みをして笑っている。その顔は年相応にしか見えず、可愛らしさに微笑ましくなった。同時に、皇族という立場でなければもっと普通の高校生活を送れたのかもしれないと切ないような気持ちがこみ上げた。
殿下は自分自身の立場を嘆いたことはないだろう。貴族から心無い言葉を投げ付けられ、ひとりで泣いていたあのときですら決して逃げ出そうとは考えなかっただろう。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアとはそういう人だ。何があっても折れない強さがあり、いつでも前を向き、たったひとりで抗い、決して諦めない。そういう強い人なのだ。
「隠していたことは悪かったが、そんな顔をするな」
「どんな顔をしていますか?」
「悔しくてたまらないという顔だ」
「そんなはずは……」
自分の顔に両手を当てれば、殿下が笑いながら僕の肩に手を乗せた。
「夕飯まで時間があるから少しは食べられるだろう? 食後が良ければこのまま持ち帰るが」
「こちらでいただいていいのですか?」
「ああ。アリエスでは誕生日らしい料理を用意してもらっているが、ケーキは俺が作るからと頼んでいないんだ。だからお前の食べたいタイミングで構わない」
「でしたら今ここで」
「わかった」
座って待っていてくれと言われたので椅子に腰かける。
「ちなみに、ハッピーバースデーの歌とキャンドルの火は割愛させてもらうが構わないな?」
「ええ。そういう年でもないので」
ケーキに年齢の数だけ蝋燭を立てて吹き消している自分の姿を想像してみた。二十代も半ばになってそれはちょっと恥ずかしい。
「ミレイがいたら盛大にやらされるんだろうな」
「本当に恥ずかしいので丁重にお断りさせていただきます」
たとえミレイ様でもご遠慮願いたいと首を振る。可笑しそうに肩を揺らした殿下は、ナイフを手に取るとケーキを切り分けた。甘いチョコレートの香りが鼻孔をくすぐる。
「ところで、なぜ生徒会室なんですか? アリエスでもよろしかったのでは」
何気なく問いかけると、お茶の準備に取りかかっていた殿下がぴたりと止まった。いけないことを聞いただろうかと戸惑っていたら、紫の瞳が僕のほうにゆっくり向けられた。
「最後くらいは二人きりで祝いたかったんだ」
「最後?」
「アリエスでも良かったんだが、ナナリーがいるのに誘わないわけにはいかないし、声をかけなかったらナナリーをのけ者にしているみたいで嫌だったんだ。ナナリーはあとで誘うからそのときに三人でお茶をするつもりで、でもその前に俺だけで祝えたらと」
「お待ちください殿下、最後とは一体どういうことでしょうか」
最後という単語がやけに不穏だ。それ以上に殿下の表情が深刻で、ただ事ではない雰囲気に不安が募る。
「こうして俺がお前の誕生日を祝うのは最後ということだ。もっと早く気付くべきだったのに、至らなくてすまない」
「気付くとは何にですか?」
「そろそろ身を固めるつもりなんだろう?」
言葉の意味がわからず、僕の頭はしばし考えることを放棄した。
「お前が真剣に結婚を考えていると聞いた」
「は?」
「意中の相手がいるのだろう? そういう相手がいる場合、誕生日のような特別な日は特別な相手と一緒に過ごしたいと考えるものだと指摘された。俺はお前の主なのに、ちっとも気付いていなくて情けないな。今まで俺の都合に無理やり付き合わせて悪かった。ただ、せめて今年だけは、今年を最後にするから今日だけは俺に祝わせてくれないか」
「あの!」
声を大きくすれば殿下の瞳が揺れた。
「俺に祝われるのは嫌か?」
「そうではなくて!」
とんでもない嘘を吹き込んだのは一体誰だ。なんの目的があってタチの悪い嘘をついたのだ。
多少のスパイス。
先ほど別れたばかりの生徒会長の顔が唐突に浮かび、あの言葉の意味を把握する。彼女を今すぐ問い詰めたいところだが、今は殿下の誤解を解くほうが先だ。
「身を固めるつもりも意中の相手もいません! その情報はすべてデマです!」
「だがミレイが……」
殿下の口から出てきた名前に、ああやっぱりと頭を抱えたくなった。どこが多少ですか! と心の中で毒づく。
「情報源はミレイ様なのですね」
「あ、ああ」
「僕が結婚するなんて嘘です。ミレイ様は殿下の反応を面白がったのでしょう」
「嘘……?」
「はい、嘘です。結婚の予定も、結婚したいと思う相手も僕にはいません」
ぽかんと僕を見ていた殿下の顔が見る見るうちに赤くなった。秋に色付く林檎みたいだなと思っていたら、おもむろにティーポットを置いた殿下がいきなりその場に蹲った。大丈夫ですかと慌てて駆け寄れば、わなわなと震える唇が「ミレイの奴」と恨めしそうに呟いた。紫の瞳は心なし潤んでいる。
「なんでこんな嘘を……いやその前に、ミレイの嘘を信じてすまない。てっきりお前が結婚するものだと……」
「結婚はしませんが、万が一結婚するとしても真っ先に殿下にご報告しますよ」
「そうだよな。お前はそういうタイプだし、まずはお前にちゃんと確認すべきだったのにすっかり思い込んでしまって」
穴があったら入りたいといった様子の殿下に、笑ってはいけないと思うのについ笑ってしまった。笑うなと涙目で咎められるけど、すみませんと謝った僕の顔は相変わらず笑んでいた。
「慎重な殿下が迂闊でしたね」
「うるさい」
「それはそうと、僕も信用がないですね。殿下ほど大切な方はいないのに、その殿下を放ってほかの誰かと結婚するような人間だと思われていたのですか?」
「そうではない。そうではないが……」
言いにくそうに口ごもった殿下が上目遣いでちらりと見てきた。叱られた子供みたいな仕草は可愛いの一言だ。
「お前が年頃というのは事実だ。学校では女子に人気だし、皇宮では女性からの誘いも多い。俺の騎士でなければ好きな相手と普通の付き合いができただろうに、俺の子守りをさせられたせいで人並みの幸せと自由を失ったのだとしたら俺には責任が」
「そんなことをおっしゃらないでください」
膝を抱えた手に自分の手を重ねて優しく握る。
「僕は充分幸せです。むしろ幸せすぎるくらいです。だからそうやってご自分を責めたり卑下されたりするのはおやめください。殿下の悪い癖ですよ」
あえて冗談交じりに言えば、殿下が不満そうな顔をした。
「知ってる。以前にもこうやってお前に慰められたからな。どうせ俺は先回りして考えすぎるんだ」
「よくご存知ではないですか」
「だが、わかっていてもこういう性格はすぐには治らない。悪いか」
いいえと微笑み、握った手に力を込める。
「確かに殿下の悪い癖ですが、僕のことを真剣に考えてくださったのだと思えば嬉しいです」
「お前はすぐにそういうことを……」
呆れたように呟いたあと、殿下が大きく息をついた。
「しかしミレイには困ったものだ。俺をからかって何が楽しいのか」
「ですが、僕の欲しいものをちゃんと聞き届けてくださいましたよ」
「それは俺が――」
「殿下が? どうされたのですか?」
「なんでもない。早くケーキを食べるぞ」
僕の手を軽く振り払い、殿下はお茶を淹れる作業に戻った。その後ろ姿に思わず笑み崩れる。
生徒会長に借りは作りたくなかったはずだ。それでも協力を仰ぎ、僕の欲しいものを聞き出し、僕のためだけにケーキを作ってくれた。これが最後の誕生日祝いのつもりで。
一体どんな気持ちでケーキを作ったのだろうと想像し、申し訳なさとたまらない愛しさに胸がいっぱいになった。そのいじらしさに抱き締めたい衝動をこらえる。
(あなたが僕のことを好きでいてくれることを、僕は知っているんですよ)
僕への態度が少しずつ変化してきたことにいつから気付いてしまったのか。ずっと前からのような、つい最近のような。はっきり思い出せないのは、僕自身もこの感情を隠すことに必死になっていたからだろう。
僕が殿下を好きだと言えたら、殿下は僕のことで苦しまずに済むのかもしれない。でも、それはできない。思わず触れておいて何を取り繕っているのだともうひとりの自分が笑っているけど、できないものはできない。
すっかり大人びたと言っても殿下はまだ子供だ。いつも側にいる僕への感情を恋だと勘違いしているだけで、もっと多くの人と出会えば自分の勘違いにきっと気付く。だから、その日が来るまで僕は何も知らないふりをし続けなければならない。
僕が願うのはあなたの幸せです。
心の声が届いたかのようにルルーシュ殿下が顔を上げた。紫色の美しい瞳に僕の姿が映る。
「それにしても、欲しいものがケーキだなんて随分と安上がりだな。もっとほかのプレゼントが良かったんじゃないか? 今から追加してもいいんだぞ」
「殿下の手作りケーキをいただけるのですから充分です。むしろもらい過ぎかと」
「ケーキを独り占めできるからか?」
「ええ、そんなところです」
「ホールケーキなら自分でも買えるだろう」
「殿下の手作りケーキは一点物です。これほど価値のあるものはほかにありません」
「そういうものか?」
不思議そうな殿下に頬を緩め、一緒にいただきましょうと告げる。
ルルーシュ殿下のお時間を僕ひとりが独占できるのだからこれ以上ない最高のプレゼントですよ、と僕は心の中で答えた。
(21.07.10)