枢木スザクは俺の幼馴染だ。
家が隣り合っていて、母親同士の仲が良く、生まれたときからずっと一緒にいた。一緒にいるのが当たり前で、まるで兄弟のようだった。
俺より五ヶ月早く生まれたスザクは、俺より早く立ち、俺より早く歩き、俺より早く走り、俺より早く言葉を話した。
小学生ぐらいになると数ヶ月の差はなくなったけれど、ずっとその背中を追い続けたきたせいだろう。スザクはいつも先を歩いていて、俺にはできないことができる憧れのヒーローみたいな存在だった。
友達であり、兄であり、弟であるスザク。
純粋な憧れの気持ちに余計なものが混じり始めたのはいつ頃か。
自分でも思い出せないくらい昔から抱えていたような、最近意識し始めたような、何がきっかけでどこからが始まりなのかわからない。
感情とは不確かなものだ。他人の気持ちはわからないけれど、自分の気持ちはもっとわからないものなのかもしれない。
ただ、ひとつだけ言えることがある。
これは恋だ。
そして、この恋に気付いたそのときに、俺はスザクを失ったのだ。
***
いつものように一緒に下校し、電車に乗って最寄り駅で降り、他愛のない話をしながら自宅まで歩いて行く。
隣ではスザクが笑っていた。生徒会での出来事を語って聞かせたら思いのほかツボにはまったらしく、道すがらずっと笑っていた。
「いくらなんでも笑いすぎだぞ」
「だって、面白くって」
「お前、意外と笑い上戸だったんだな」
「そうかな? 普通だと思うけど。ルルーシュが笑わなすぎなんだよ」
「俺は普通だ。笑うところではちゃんと笑っている。だいたい、大声でゲラゲラ笑うのは下品だろ」
「あー、そういうのすごくルルーシュっぽい」
ようやく笑いを収めたスザクが俺のほうを覗き込みながらそう言った。
「そういうのとはどういうのだ」
「品があるところ」
「品?」
首を傾げてみせれば、スザクの口元が弧を描く。
「王子様っぽいってことだよ」
「どこが王子だ」
「顔良し頭良し、女の子に優しいジェントルマンで生徒会副会長で学校のみんなの憧れで、女子からもてるしファンクラブもあるし、深窓の令嬢ならぬ深窓の王子様って感じ」
「なんだそれは。俺はただの一般家庭の子供だぞ」
「そうだけど、ルルーシュは憧れの存在なんだよ。男子も女子も、みーんなルルーシュに憧れてるの」
それを言うならお前のほうが――、と言いかけて言葉を飲み込んだ。
スザクは俺のことをもてるとか女子から人気だとか言うけれど、俺に言わせればスザクのほうがよほどもてた。
運動神経抜群で、誰に対しても気さくで人当たりが良い。本人は勉強が苦手だと言っているけれど、授業の内容はきちんと理解しているので決して落ちこぼれではなかった。試験前になると泣き付いてくるのが恒例になっているものの、成績だって悪くない。
俺のことを遠巻きに見ている女子達だって、スザクに対しては気軽に声をかけている。結局、俺のような話しかけにくいタイプよりも、スザクみたいに優しい男子のほうがいいのだ。
「ルルーシュ?」
スザクの顔が迫り、俺は息を呑んだ。驚いたふりをして軽く肩を押し、さり気なく距離を取る。
「びっくりするじゃないか」
「急に静かになったからどうしたんだろうって思っただけだよ」
「いつも通りだ」
「そう? 何か心配事でもあるんじゃないの?」
「この俺に心配事なんかあるわけないだろ」
笑いながら前を向く。
なんてことはない。普段通りのやり取りだ。
「駄目だよ、溜め込むのは。ルルーシュはすぐに自分ひとりで抱え込もうとするんだから」
「何かあったらお前やナナリーに話している」
「嘘ばっかり」
「嘘とはなんだ。失礼だな」
「だって本当のことだから。ほかの人はどうでもいいけど、僕には嘘つかないでよ」
「だから嘘なんか――」
「心配してるんだよ」
ぼそりと言ったスザクが立ち止まる。振り返った俺も足を止めた。
スザクはやけに心配性だ。俺のこととなると特に。
今でこそ日本で暮らすブリタニア人は珍しくないが、俺達が子供の頃はまだまだ偏見があり、外国人というだけでいじめられたことがある。
日本生まれの日本育ちで、祖国のブリタニアよりも日本のほうが故郷のような感覚なのに、どうして日本人ではないという理由でいじめられなければならないのかと小学生の俺は憤ったものだ。しかし、身体の大きな上級生が相手では勝ち目がなく、帰り道に待ち伏せされて怪我をした経験は一度や二度ではない。
俺はそのことをスザクに話さなかった。怪我に気付かれ、どうしたんだと心配そうに聞かれたときも、転んだと嘘をついた。簡単にやられてしまう自分が悔しかったし、情けなかったのだ。
それに、スザクには新しい友達がいた。当時はスザクとクラスが分かれていて、登校時も下校時もスザクはほかの友達と一緒にいたから、俺が邪魔するのは悪いと思った。タイミングをずらせば下校途中で遭遇することもなかったので、俺はいつもひとりで帰っていた。
だけどある日、いじめられている現場をスザクに見られてしまった。怒った彼は、たったひとりで上級生全員を打ち負かした。さらに、「なんでいじめられてるって教えてくれなかったんだよ!」と俺を叱った。
「ルルーシュがいじめられていたら俺が助けるから、絶対にちゃんと言えよ」
ぶっきらぼうなセリフは俺を心配してのものだった。それがわかったから、俺は素直に頷いた。
以来、俺が行くところには必ずスザクがついて来た。登下校はもちろん、休み時間も放課後も常に一緒だった。
あまりに一緒にいるので最初の頃はからかわれたものだけど、地元の中学へ進み、同じ高校に進学し、昔からの同級生はすっかり慣れっこになっていたし、新しく知り合ったクラスメートも二人はセットだと認識している。
(相変わらず過保護だな)
自分の知らないところでルルーシュがつらい目に遭っているのが嫌なのだ、とスザクは言っていた。幼馴染がいじめられている光景は、小学生だった彼にトラウマのようなものを残してしまったのかもしれない。
悪いことをしたと思う半面、スザクが俺を特別扱いしてくれることが嬉しかった。
心配をかけているのに嬉しいと感じるのは不謹慎だとわかっている。でも、俺だけがスザクの特別になったような感覚は密かな優越感を抱かせた。
思い返してみれば、子供の頃からスザクを意識していたのかもしれない。初めは小さかった優越感が徐々に降り積もり、俺だけがスザクの特別なのだと錯覚した。
そして、錯覚は現在も続いている。
「もう高校生だぞ。大抵の問題は自分で解決できる」
「そうかもしれないけど……」
「ありがとう、スザク」
俺が笑みを浮かべると、スザクは不服そうな顔をした。
帰るぞと促し、歩き始める。すぐに彼の足音が聞こえてきて、しばらく俺を追いかけたあと、スピードを速めて隣に並んだ。
「ところで、明後日のテストの勉強はちゃんとやっているか」
「えっと」
「ノートはもう見せないからな」
「それは困る! ルルーシュのノートがないと赤点だって!」
「自分でノート取ってるだろ」
「ジンクスだよ、ジンクス。ルルーシュのノートで勉強すると点が取れて、母さんにも褒められるの」
「何がジンクスだ」
「お願い! 今日これから勉強会!」
ぱんと手を合わせたスザクに、「プリン三個」と指を三つ立てる。
「俺とナナリーと母上の分」
「またぁ?」
「または俺のセリフだ。別にいいんだぞ、ノートを貸さなくても」
「それは困るのでプリン買います! だからお願いします!」
必死に拝んでくるスザクに、じゃあ決まりだなと答える。契約成立だ。
「プリン貧乏になりそう……」
「自業自得のくせに何を言う」
「わかってるって。ところで、たまにはおじさんの分のプリンも持って帰ってあげたら?」
「必要ない」
「もう、おじさんのことそんなに嫌わないであげてよ」
「お前が父親と仲良くできたらな」
「それは無理」
「だったら俺も無理だ」
「まあ、父さんと仲良くしろって言われても無理だよね」
お互い父親が得意ではないので、父親の話題のときは話がよく合う。
そうこうしているうちに自宅が見えてきた。手前がスザクの家で、塀を挟んだ向こう側が俺の家だ。
「このままうちに来るか?」
「うん、行く。ナナリーは?」
「ナナリーもまだ部活中のはずだからしばらく帰ってこない。父さんも母さんも仕事で遅くなるし、夕飯の時間までいていいぞ」
「ってことはルルーシュと二人っきりかぁ」
スザクは何気なく口にしただけだろう。意図なんて何もなく、ただ事実を話したまでだ。
でも、『二人っきり』の部分に俺の心臓はどきりとした。
そうか、ナナリーが帰ってくるまでは二人きりなのかと、今さらながらに認識して緊張した。特に何があるわけでもないのに。
玄関を開け、スザクを招き入れる。
「お邪魔します」
そう言って家に上がるスザクに、どうぞと返すのがいつものやり取りだ。
そして、これから先もずっと続くものだと俺は信じていた。
スザクはもてる。
根拠なく思っているわけではなく、実際にスザクはもてた。昼休みや放課後に女子から呼び出されたことは何度もあるし、どこで連絡先を知ったのか、メッセージで告白してくる者もいる。
でも、そのたびにスザクは断っていたから、俺は何も心配していなかった。
休憩時間に教室を出て行ったスザクを見かけても、また告白か、今回も断るのだろうなとしか考えていなかった。それが誤っていたことを知るのは放課後になってからだ。
いつものように下校しようとして、いつものようにスザクに帰るぞと声をかけたところまでは同じだったはずだ。
なのに、どこでどう間違えてしまったのだろうと俺の頭の中は真っ白になった。
「付き合うことにしたんだ、その子と」
一字一字がバラバラの文字のようだった。言葉の意味が頭に入ってこない。
呆然としている俺に構わず、スザクは少し申し訳なさそうな顔をして「だから今日は先に帰って」と言った。
先に帰れ。その一言には残酷な響きがあった。
新しくできた彼女のほうが大事だから。
彼女との時間を優先したいから。
彼女との帰り道に友達は必要ないから。
(俺が邪魔だから……)
邪魔者。
三文字の単語が胸を抉り、ひどく痛んだ。
「じゃあ僕、行くね」
俺の反応を待つことなくスザクが教室を出て行った。あとに残された俺は、椅子に座り込んだまま教室のドアをぼんやり眺めていた。
「彼女……」
ぽつりと呟いた自分の声がやけに遠い。
ナイフに突き刺され、そこからどくどくと血が溢れているみたいだ。ずっと大事にしていた気持ちが血で汚れ、どんどんどす黒くなっていく。
(失恋、って言うんだろうな)
告白も何もしていないけれど、あっさり失恋した。
俺はスザクの特別だという思い込みも優越感も、あっさり否定された。
スザクにとっての俺は、ほかの友達より少し長く一緒にいただけの相手。友達以上にはならないが、友達以下にもならない。ただそれだけだったのだと思い知った。
いつの間にか教室には俺ひとりになっていた。窓の外は薄暗く、今日一日が終わろうとしていた。
「俺も帰ろう……」
のろのろと立ち上がり、人気のない廊下を歩く。
いつもと同じ校舎。いつもと同じ道。いつもと同じ電車。どれもこれもいつもと同じなのに、今朝までとは景色がまったく違っていた。世界中が暗く沈み込んでいるようだ。
これから先、俺が見ていくのは暗くて冷たくて色を失った世界なのだと思い、ぴたりと足が止まった。
スザクは俺のものなのに、どうして人に渡さなければいけないのだろう。スザクと今日初めて言葉を交わしたような相手が、どうして俺からスザクを奪うのだろう。
(スザクが俺から離れていってしまう)
スザクのいない世界は色がない。でも、俺はスザクのいない世界を生きていかなければならない。
全身から血の気が引いて吐き気が込み上げた。力が抜け、鞄が足元に転がる。
身体を支えていられなくて、視界がぐらりと揺れた。
こんなところで倒れたらナナリーが心配する。最悪、頭を打って死んでしまうかもしれない。一瞬のうちにそんなことを思ったけれど、力の入らない身体は受け身を取ることすらできそうになかった。
(ここで俺が死んだら、スザクは少しぐらい悲しんでくれるだろうか)
意識が落ちる寸前に考えたのは、我ながら馬鹿みたいなことだった。
「君、大丈夫?」
だから、その腕と声がスザクのものであればいいのにと、やっぱり馬鹿みたいなことを思った。
地面に叩き付けられるはずだった身体を誰かが支えてくれているのはわかったけれど、相手の顔を確かめるだけの気力がない。
大丈夫です、とかろうじて答えたものの、俺の意識はそこでぷつりと途切れた。
重たい瞼を押し上げると、アイボリーの壁紙が目に入った。
しばらく何も考えることができず、ぼんやりと天井を見上げる。
どのくらい経ったのか、廊下の灯りが暗い室内に射し込んだことに気付いた。首を回せば、静かにドアを開く人影があった。
ここが見知らぬ場所であることにようやく思い至り、俺は慌てて起き上がった。途端に眩暈がして頭を押さえる。
「ああ、急に起き上がったら駄目だよ」
背中を支える手は大きかった。声からしてどうやら男性らしい。
顔を上げ、何度かぱちぱちとまばたきをした俺は、あっ、と声を漏らした。
「スザク……?」
しかし、そんなはずはないとすぐに打ち消す。
目の前の男は確かにスザクとよく似ているけれど、本物よりも大人びている。年上であることは間違いない。
「スザク?」
「いえ、友達によく似ていたので……。あの、それよりここは……」
「僕の家。道端で倒れたことは覚えている?」
「はい。もしかして、ここまで運んでくださったんでしょうか」
「近かったからね。体調はどう? まだ気分が悪いようなら病院に連れて行ってあげるけど」
「大丈夫です。ちょっと眩暈を起こしただけなので。助けていただいてありがとうございました」
礼を告げるとベッドから下りる。制服の上着を脱がされていたようで、どこにあるのかときょろきょろすれば、はいどうぞと鞄と一緒に渡された。
「本当に大丈夫? もう少し休んで行ってもいいんだよ」
「いえ、遅くなると家族も心配しますし」
両親の帰りはいつも遅い。ナナリーは今日も部活だからまだ帰っていないだろう。それでも、心配している人間がいることをあえてアピールした。
見ず知らずの人間をわざわざ助けてくれた相手なので疑いたくはないが、万が一ということもある。介抱するなら救急車を呼べばいいのに、自宅で休ませているところが引っかかったし、親切な人間だから怪しくないとは言い切れなかった。
そそくさと帰り支度をする俺を、男はそれ以上引き止めようとはしなかった。玄関まで送るよと言い、男の先導で廊下を進む。
「気を付けて帰ってね。ここを真っ直ぐ行ったら商店街に出るから迷わないと思うよ」
言葉通り玄関で見送る相手に、俺はぺこりと頭を下げた。
正面からちゃんと見た顔はやはりスザクに似ていた。もしかして親戚ですか? と聞いてみたかったけれど、素性のわからない相手に余計な情報は与えないほうがいいだろうと結論付ける。
「本当にありがとうございました」
もう一度礼を伝え、俺は駅に向かって歩き始めた。
辺りはすっかり暗くなっていて、ぽつぽつと点いた街灯だけが夜道を照らしている。
今ごろスザクは新しい彼女とどこかで一緒に過ごしているのだろうか。それを考えたらまた世界が揺れてしまいそうで、俺は頭の中から無理やりスザクの顔を追い出した。
「携帯がない」
思わず声に出すと、失くしたのか? と隣で作業をしていたリヴァルが俺の鞄を覗き込んできた。
「教室に忘れたんじゃなくて?」
「今日は一日触ってないからそれはない」
「家に置き忘れた」
「いや、それもない」
「じゃあ学校に来る途中で失くしたってことか?」
「恐らくは」
「いつからないんだ?」
「昨日の昼まではあったと思うんだが……」
「えっ、ってことは昨日の昼から今まで、失くしたことに気付かなかったってこと? まじで?」
「ずっと勉強していたから一度も見なかったんだ」
スザクに彼女ができてショックを受けていたから携帯どころではなかった、と本当の理由を話すわけにもいかないので適当に誤魔化す。
生徒会室にリヴァルしかいなかったのが幸いした。会長がいたら根掘り葉掘り聞かれていたかもしれない
「職員室で落とし物を聞いてみて、なければ警察に行くしかないか」
「その前に電話してみれば? 拾った相手が出るかもしれないし」
リヴァルが携帯を差し出した。すまないと断り、自分の番号に電話してみる。
三コールで繋がると、電話の向こうから「もしもし?」と声が聞こえた。
「その携帯を拾ってくれた方でしょうか? 俺は持ち主で――」
「ああ、昨日の君だね」
やけにくだけた口調に、昨日? と疑問符を浮かべた。
そこでようやく昨日の出来事を思い出し、「あっ」と声を上げた。リヴァルが不思議そうにしたので、なんでもないとジェスチャーで伝えてから生徒会室の端に移動する。
「もしかして、昨日俺を助けてくれた方ですか」
「うん。君が携帯を忘れていったことに気付いたんだけど、連絡先を知らないからどうしようと思っていたんだ。ところで体調のほうは大丈夫?」
「ええ」
「そっか、良かった」
電話の向こうの声は穏やかで、見ず知らずの高校生を純粋に心配しているようにしか聞こえなかった。犯罪者かもしれないと警戒しすぎたことを申し訳なく思う。
「あの、それで……」
「携帯だね。返してあげるから取りにおいで。ああ、僕の家以外の場所を指定するから安心して。知らない人間の家にひとりで来るのは嫌だろう?」
俺の警戒心を読んだような提案だ。まさか怪しんでいることがばれていたのかと内心ぎくりとするけれど、お願いしますと淡々と返した。
「それなら、駅に近い店にしようか。何時なら大丈夫?」
「用事があるので、六時ぐらいでしたら」
「わかった。じゃあ六時に」
店名と住所を教えてもらい、そこで待ち合わせることにした。電話を切って戻ると、リヴァルが興味津々な表情をしている。
「誰だった? もしかして年上のお姉さん?」
「残念。年上のお兄さんだ」
「なーんだ。これをきっかけにお付き合いしましょうって展開にはならないか」
「そんなことあるわけないだろ。テレビの観過ぎだ」
「だってさ、可愛い女の子だったら連絡先の交換ができるじゃん。スザクも彼女ができたことだし、俺達も頑張ろうぜ」
スザクの彼女。その単語に顔が引き攣るのがわかったけれど、冷静を装って笑みを浮かべた。
「俺は彼女なんか必要ない。ナナリーがいるからな」
「出た、シスコン発言。ナナリーちゃんだって中学生なんだし、いつ彼氏ができてもおかしくないって」
「ナナリーと交際したければまずは俺の審査をクリアしてからだ」
「厳しいお兄さんを持つと大変だな」
「ほら、作業に戻るぞ。俺は約束ができたから、時間になったらすぐに帰る」
「それは困るって! 最後まで手伝ってくれ!」
「困るんだったら早く手を動かせ」
今日はリヴァルの居残り作業に付き合っているだけなので、俺自身に責任は発生しない。手伝うだけでいい仕事は気楽だなと思いつつ、時間を確認して作業に戻った。
それから二時間ぴったりで終わらせると、待ち合わせ場所へ向かうために帰り支度をする。
「あとはひとりで大丈夫だろう?」
「ほんと助かった! サンキュー、ルルーシュ。今度ジュースおごるから」
「期待しないで待ってる」
「俺は有言実行の男だぜ」
はいはいと笑い、リヴァルを残して校舎を出る。
昨日と同じぐらいの時間なので、外はすっかり暗くなっていた。
(礼と言えば、スザクはプリンを買ってこなかったな)
先日、ノートを見せる代わりにプリンを三個頼んだのに、肝心のプリンはまだ届いていなかった。
彼女ができたことで浮かれ、友達との約束をすっかり忘れてしまったのかもしれない。胸の奥が苦しくなる感覚を振り払い、スザクのことを考えないようにして歩く。
ラッシュの電車に揺られていつもの駅で降りると、教えられた店に向かった。路地の奥まった場所にあったのは小さなカフェだった。
可愛らしい雰囲気の外観は女の子が好みそうで、男ひとりだと少し気が引ける。
なぜこんなところを指定したのだろう。まさか常連客なのか? と疑問に感じながら扉を開けると、ドアベルが軽やかに鳴った。
相手の姿はすぐに見つかった。扉から真正面の席に座り、俺を見つけるとこっちと言うように右手を上げた。
「ごめんね、わざわざ来てもらって」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
「とりあえず座って」
彼の向かい側に座ると、メニューが差し出された。
「好きなの頼んでいいよ。ご馳走するから」
「ご馳走だなんて」
「僕のほうが年上なんだし、こういうときは年上らしくさせてよ。ここ、紅茶とプリンが絶品なんだ。良かったらどうぞ」
スザクがプリンを買ってこないことを嘆いたばかりだというのに、まさかこんなところでプリンにお目にかかれるとは思っていなかった。図られたようなタイミングだなとこっそり嗤い、紅茶の欄に目を落とす。
意外にも銘柄が揃っていて、紅茶専門店に引けを取らない。こんな穴場があったのかと驚き、ナナリーを連れてきたいなと最愛の妹の顔を浮かべる。
「決まった?」
「じゃあ、これとプリンを」
彼が店員を呼び、注文をする。その間、俺は男の横顔を観察した。
こちらが高校生であることは制服ですぐにわかったはずだ。その上で自分を年上だと言ったのだから、大学生、もしくは社会人になりたてだろうか。日本人は童顔で実年齢がわかりにくいから、もっと年上の可能性もある。
「何?」
翠の目と目が合った。そらすのも不自然なので、「大学生ですか?」と尋ねてみた。
「一応、社会人かな」
「一応?」
「会社には勤めてないからね。自由業とだけ言っておくよ。これでも二十歳は越えてるんだ。もっと下だと思った?」
「いいえ。さすがに俺と同じ高校生だとは思ってません」
「童顔のせいでたまに高校生ぐらいに間違われるんだよね」
「たしかに、制服を着たら違和感ないかも」
「君は大人びてるね。私服だったら大学生と思ったかも。学校でももてるでしょ?」
「もてません。仮にもてたとしても、別に嬉しくないです」
不特定多数に好意を寄せられたところで、本当に好きな人には振り向いてもらえないのだ。もてるかもてないかなんて意味がないし、不毛だ。
「そういう冷静なところ、ほかの高校生と違っていていいね。品もあるし、王子様みたいだって言われたことない?」
言われたことはある。スザクに。
どうしてこの人はスザクみたいな発言をするのだろうと、幼馴染によく似た顔を思わずじっと見た。
「どうかした?」
「いえ……、俺の友達みたいだなと思って」
「友達? もしかして、僕に似てるって言ってた子?」
「ええ。もてるもてないで言えば、そいつのほうがよほどもてますよ。彼女だっているし」
「そっか。じゃあ寂しいね」
「え?」
きょとんとすれば、彼が柔らかい表情を浮かべた。
「君の大事な友達をどこの誰だかわからない女に盗られたんだろう? 今までずっと一緒にいたのに、彼の隣は君のものではなくなってしまった。寂しいと思うのは当然だよ」
「俺は寂しいなんて……」
「自分の気持ちを誤魔化す必要はないよ。寂しいなら寂しい、悲しいなら悲しいって思うのは悪いことじゃない」
そこへ店員がやって来た。二人の前に紅茶とプリンが並ぶ。
「彼女ができて寂しいってことを友達には伝えた?」
ふるふると首を横に振った。
「そんなこと、言えません。言ったところでどうにかなるわけでもないし、それに……」
「それに?」
「女々しいことを口にして、あいつに嫌われたくない」
醜くてどす黒い感情を抱いてしまったことも、世界が色褪せて見えたことも、どれも俺個人の問題だ。スザクにとってはどうでもいい話だ。
俺の胸のうちを全部晒せば、スザクは呆れて気味悪がってきっと俺のことを嫌いになるだろう。彼女と別れてくれるのならばいくらでも晒すけれど、実際は俺が嫌われて終わるだけ。ならば何も打ち明けないほうがいい。
そもそも、男同士で好きになること自体がおかしいのだから、打ち明けられるものなんてひとつもない。
(なぜ俺はこんな話をしているのだろう)
昨日会ったばかりの、素性もわからない人間に。
でも、他人だからこそ話せるのかもしれないと思った。
スプーンを取り、プリンを掬う。口の中に程よい甘さが広がり、美味しい、と零した。
「気に入ってくれた?」
「はい」
「良かった」
嬉しそうに彼が笑うので、釣られて俺も口元を緩めた。
「ほら、その顔」
「顔?」
「君は綺麗だけど、笑ったらもっと綺麗になるね」
歯の浮くようなセリフに、男子高校生相手に何を言っているのだと呆れた。大方、日頃から女の子相手にくさい言葉を吐いているのだろう。真面目そうに見えるけれど、実は結構な女たらしなのかもしれない。
胡乱な目で見ていたのか、お世辞じゃないよと彼が弁解した。
「高校生をからかって楽しいですか」
「本当だって。本当に君のことを綺麗だと思っているんだから」
「俺はまだ子供ですよ。そういうのは大人の女性に言ってください」
「本当なのになぁ」
しゅんとした様子は叱られた犬のようで、思わず笑ってしまった。
「そうだ、携帯渡しておかないとね」
ここに来た目的は携帯だったのにすっかり忘れていた。一日ぶりに戻ってきた携帯を受け取ると、ありがとうございましたと礼を言った。
「君さえ良かったら、またこうして会えないかな」
「え?」
「君と話していたら楽しいから。友達が掴まらないときの暇潰し相手でもいいよ。またデートしよう」
「デートって……」
「行きたいところがあれば付き合うからさ。これ、僕の連絡先」
差し出された紙片には携帯番号が記されていた。
「好きなときに呼び出していいよ」
「社会人は忙しいんじゃないんですか?」
「こういうときのための自由業だよ」
自由業だからといっていつでも暇なわけではないだろう。それでも、好きなときに呼び出していいと言ってくれた相手の好意が嬉しかった。
見ず知らずの人間なのに、一緒にいたら心地がいい。好意の裏に悪意があるかもしれないのに、彼ならば信じられるような気がした。
(弱っている証拠だ)
弱っているときに優しくしてくれる人間が現れた。だから簡単に気を許せてしまった。
冷静に自己分析をしながら、その一方で、簡単に信じてもいいじゃないかともうひとりの自分が言っている。
(どうせスザクはもういないんだから……)
俺がどうなろうとスザクは戻らないのだ。
こういうのを開き直りと言うのだろうなと可笑しくなった。いつもの俺らしくない。でも、今さら取り繕うのも馬鹿馬鹿しくなってしまった。
手を伸ばし、紙片を受け取る。
「暇が、できたら」
ぼそぼそと言えば、彼が頬を緩めた。
「いつでも連絡して。時間も曜日も気にしなくていいからね」
「はい――」
手の中の番号を大事に包み込む。
落ち込んでいた気持ちがいつの間にか軽くなっていて、我ながら単純だなと思った。
だけど、救われたような気持ちがしたのは本当だった。
迷ったのは最初だけだった。
一回、二回と電話をし、一週間後には再びお茶をした。その帰り際、今度は食事でもどう? と誘われ、さらにその一週間後には食事ができる店へ連れて行かれた。
そうして何度か会っているうちに躊躇いはなくなっていた。
友達ではない。もちろん恋人でもない。だけど、彼の隣はとても居心地がいい。一緒にいるとそれだけで安心できた。そんな相手をなんと呼べばいいのだろう。
好きなのかと聞かれれば、それは違うと答える。
スザクへの想いはまだ捨てきれなかった。スザクが駄目だから別の相手に、と簡単に切り替えられるほど簡単な気持ちではない。たとえスザクとぎくしゃくしていたとしても。
彼女ができて以来、スザクとは必要最低限の会話を交わすだけになっていた。登下校も別々だ。それはとても寂しく、教室でクラスメートと笑い合うスザクを見るたびに胸が締め付けられた。
喧嘩をしたわけでもないのにお互い気まずくて、まるで二人の間に透明な壁があるみたいだ。その壁が俺とスザクを隔てている。このままでは友達としての立場すら失ってしまいそうで、どうすればいいのか俺にはもうわからなかった。
泣き喚いて追い縋ったところでスザクは戻らない。スザクにとって一番大切なのは彼女で、俺のことはもう必要ないのだ。それは失恋したこと以上につらく、絶望すら抱いた。
彼と出会わなかったら俺は立ち直れずにいただろう。絶望に引きずられずに済んだのは彼の存在が大きい。
失恋のことはさすがに話せなかったものの、友達が離れて行ってしまう悲しさを彼には打ち明けられた。誰にも見せられない本心を、彼の前ではさらけ出すことができた。名前すら知らない赤の他人は、いつしか唯一心安らげる相手となっていた。
いつも話し相手になってくれてありがとうございますと伝えたとき、彼は目を丸くして、それから相好を崩した。僕のほうこそありがとうと言った彼は、とても優しい表情をしていた。
彼に救われたのは事実だ。
でも、恋ではない。
だから家の近くまで送ってもらったある夜、彼にキスをされそうになった俺は咄嗟に拒絶した。
近付いてきた唇を両手で塞ぐと、彼の目が細められた。手首を優しく掴んで、どうして? と首を傾げる。
「僕とキスするのは嫌?」
「嫌と言うか、その、男同士だし……」
その理由がなんの意味もないことはわかっている。俺は男でありながら、同じ男のスザクを好きになった。
でも、スザクだから好きになったのだ。男ならば誰でも対象になるわけではない。目の前の彼に好意を抱いているけれど、そこに恋愛感情はないのでキスを拒否するのは当たり前だ。
一方で、この展開を予想していたような気もする。彼と一緒にいたらこうなるのではないかと、心の片隅で予感を抱いていた。
予感しながら彼の誘いに乗り、彼と二人きりで過ごしてきたくせに、ここで拒絶するのは酷いことなのかもしれない。
「僕は男同士だからって気にしないよ」
「……すみません。今はまだ、駄目なんです」
なんとも滑稽な断り文句だ。今はということは、もうしばらくしたらいいということになってしまう。
しかし、それは俺の正直な気持ちでもあった。今はまだスザクへの気持ちが大きい。忘れろと言われても簡単に忘れることはできないし、スザクの代わりに彼と付き合うのはあまりにも不誠実だ。
何より、俺はそこまで器用ではない。少なくとも恋愛に関しては。
俺の両手を優しく取った彼が、もしかして、と呟いた。
「好きな人がいる?」
彼の質問にすぐには答えられず、しばらくしてから俺は小さく頷いた。
好きな人がいる。いや、好きな人がいた。
(俺は失恋したんだ)
スザクには彼女がいる。男の俺には逆立ちしたって勝ち目がない。そもそも、スザクはノーマルなのだから、たとえ彼女がいなかったとしても俺には欠片ほどの可能性もなかったのだ。
スザクに特別扱いされていることに優越感を覚え、スザクの特別であることに酔っていた。
でも、夢は醒めてしまった。
俺はもうスザクの特別ではないし、友達ですらなくなってしまった。スザクを好きになったそのときに、俺はスザクを永遠に失ったのだ。
大きな手が不意に頬を拭った。顔を上げれば、街灯に背にした彼が慈しむような表情で俺を見つめていた。
「好きな人がいるのはいいことだよ。でも、つらいだけの恋ならやめてしまえばいい」
親指の腹で優しく頬を擦られる。何度も何度も。
俺は泣いているのだとようやく気付いた。
「相手のために君が苦しんだり泣いたりする必要はないんだ」
「……っ、でも」
声が詰まり、目頭が熱くなった。
それをやり過ごすために大きく息を吸い込む。
「ずっと好きだったから、あいつへの気持ちを失くした自分が想像できないんです。想いは叶わないって、無理だってわかっているのに、それでも俺は、あいつのことが好きで――」
また涙が零れた。
誰にも打ち明けたことのない気持ちを吐露したからだろうか。スザク本人にも伝えられなかった想いを吐き出せたからだろうか。
必死に涙を飲み込んでいると、腕を取られて抱き寄せられた。苦しいくらいなのに、身体中で感じる人の体温が安らぐ。
「泣きたいときは泣いていいんだ。我慢する必要はない。君のことは僕が守るから、つらいのならつらいって言っていいんだよ」
柔らかい声が鼓膜を震わせる。
泣いていいのだ。何も我慢しなくていいのだ。だって、彼は俺が失恋したことを知っているから。
そう思ったときには声を上げて泣いていた。
人通りがあるのに。誰かに見られるかもしれないのに。だけど、彼の体温が好きなだけ泣いていいのだと言っていた。
胸に頬を当てる。見た目ではわからなかったけれど、意外と鍛えているらしい。そんなことを冷静に考えている自分が可笑しくて、泣いているのに気持ちは和らいでいた。
やっと涙が止まったときには不思議とすっきりした気分だった。もういいの? と問われ、俯きがちに頷く。
「すみませんでした」
「ここは謝るところじゃないだろう?」
「じゃあ……、ありがとうございます」
「どういたしまして」
彼がさり気なく顔を傾ける。おや、と思ったときには頬にキスをされていた。突然のことに口をぱくぱくさせていると、お代はもらったからと彼が笑う。
「ほ、報酬を払えとは言われてません!」
「役得ってことで」
「何が役得ですか!」
彼の口元が笑みを深めた。
「君の好きな人が僕になったら、そのときはここにキスさせて?」
唇に人差し指の先が押し当てられる。意味を悟った俺は、自分の顔が熱くなるのを感じた。
やはりこの男はただの女たらしだ。こういう手を使ってたくさんの女性を落としてきたに違いない。あるいは、単に子供扱いしているだけなのか。
いずれにせよ、からかわれているのは確かで、思わずムッとした顔を向ける。彼は気にした様子もなく、帰ろっかと手を差し出してきた。
「夜道ではぐれると危ないから」
「俺は子供ではありません」
肩を怒らして先を歩けば、くすくすと笑う声が追いかけてくる。
これだから軽い男は嫌なんだと思いつつ、俺は彼に感謝していた。
このままスザクのことを忘れられるかもしれない。失恋したけれど良い恋だったと思えるようになるかもしれない。そんな期待を抱いて。
期待が期待でしかなかったことを思い知るのは、一週間後のことだった。
いつものように駅までの道を行く。以前は毎日スザクが一緒だったけれど、ひとりきりの帰り道にもすっかり慣れた。
夕飯の献立を考えながら歩いていた俺は、ファーストフード店の前を通りかかったときに何気なく目をやった。そこは学生がよく利用している店で、店内に見慣れた制服姿がいくつもある。
窓際の席を眺めた俺は、一番端に座っている男女の姿に息を止めた。ついでに足もぴたりと止まる。
そこにいたのはスザクだった。隣にいるのは違うクラスの女子生徒だ。
あれが彼女だ、と悟った。
改まって紹介されたことはないし、誰が彼女なのか確かめたこともない。ただ、全校生徒の顔と名前はすべて頭に入っているので、スザクの横に座る女が何者なのかは調べるまでもなくわかった。自分の記憶力が今は恨めしい。
(お前はそんな風に笑うんだな)
少し困ったような、相手を気遣っているような優しい笑み。気楽さはないけれど、微かな緊張感が二人の初々しさを醸し出していた。
鞄の持ち手を握る手に力がこもる。
失恋したのはわかっていた。ちゃんと理解していた。
でも、所詮は俺の想像の中にしかいなかった相手だ。こうして目の前に現れるまで、スザクの彼女という存在はまったく現実感がなかった。
(俺はあの女に負けたのか……)
胸の中がまたどす黒いものに覆われた。
スザクの隣は俺の居場所だったのに、俺から大事なものをすべて奪い取っていった相手が憎い。この先、俺の知らない相手と幸せになるであろうスザクが憎い。
そんなことを考えてはいけないと思うのに、あとからあとから湧き起こってくる醜いものが俺の足先から這い上がって全身を侵食していく。
なんと醜悪なのだろう。
なんと浅ましいのだろう。
なんとおぞましいのだろう。
スザク――、と唇だけで名前を呼んだとき、誰かの手に肩を叩かれた。
振り返ればあの人がいた。俺の肩に右手を軽く乗せたまま、視線は真っ直ぐスザクへと向けられている。
「これでわかっただろう? あいつはああやって君を傷付ける。君がどれだけあいつのことを想っているかも知らずに、君じゃない誰かと楽しそうに笑っているんだ。そうして君を独りぼっちにする。残酷な男だと思わないかい?」
彼の瞳が俺を見た。
スザクと同じ翠の瞳だ。
「僕ならずっと君のそばにいるし、決して君を独りにしないと約束するよ」
だから僕のところにおいで、と耳元で囁かれた。
優しい笑みを向けられ、唇を引き結ぶ。そうしていないと泣いてしまいそうだった。
「僕を選んでくれないかな、――ルルーシュ」
彼の手が差し出される。
それをじっと見ていた俺はゆっくり右手を上げた。躊躇いがちに指先を握れば、大事なものを包み込むように、しかし力強く握り返された。
彼と共に歩き出す。
スザクのほうは一度も振り返らなかった。
***
「ルルーシュと喧嘩したのか?」
リヴァルに小声で尋ねられたとき、とうとうこの質問が来たかと思った。
きっと誰もが抱いている疑問だ。しかし、僕達のことを慮って今までそっとしておいてくれたのだろう。
どう答えたものかと少し考え、なんで? と質問に質問を返すというずるいやり方をした。
「お前に彼女ができた辺りからなんか変じゃないか?」
「そんなことないよ」
「じゃあ、なんで二人とも気まずそうなんだよ。朝も帰りも最近は一緒じゃないし」
「帰るときは彼女と待ち合わせてるから。ルルーシュと三人で帰ったらおかしいだろ?」
「なんだよ、のろけか。いいなぁ、彼女ができたやつは」
「リヴァルも思い切って告白してみたら?」
「今はまだ駄目だ。会長にその気がまったくない」
同級生でクラスメートで同じ生徒会メンバーである彼は、生徒会長のミレイに目下片想い中だ。周りは全員知っているし、ミレイ本人ももしかしたら気が付いているかもしれない。でも、今の関係を壊さないようあえて何も知らないふりをしているのだろう。
(今の関係か……)
僕だって壊したかったわけではない。
誰かに言い訳するように心の中でそう呟いた。
「とにかく、ルルーシュとは今まで通りだって。交友関係が変わったから気まずそうに見えるだけ」
「そうなのか?」
「うん。心配させてごめんね。ありがとう」
だったらいいんだけどさと言って、リヴァルは自分の作業に戻った。
本当に信じてくれたのか、信じたふりをしてくれているのかはわからない。どちらにしろ友人達の様子がおかしいと心配してくれたのは確かで、彼の心優しさに感謝する。
「そういえば、スザクは知ってるか?」
段ボールを抱えたリヴァルが思い出したように僕に声をかけてきた。
「ルルーシュの交友関係も最近変わってるみたいだな」
「どういうこと?」
勢いよく振り返る。僕の剣幕に驚いたのか、リヴァルはたじろいだように半歩下がった。
「スザクは彼女ができたけど、ルルーシュはルルーシュで年上の友達ができたんじゃないのか?」
「年上の友達?」
「大学生ぐらいかな。最近しょっちゅう会ってるみたいだぜ。ま、ルルーシュは大人っぽいから、俺らより年上の相手のほうが付き合いやすいのかもしれないな」
「男? 女?」
「男」
「リヴァルは会ったことがあるの?」
「一度だけな。帰りに見かけただけだから顔ははっきり見てない。でも、あのルルーシュが楽しそうに笑ってて、あんな風に笑う相手がいるんだなーって意外に思った」
そう、とだけ相槌を打つ。
ここ最近、放課後になるとルルーシュがすぐに帰宅しているのは知っていた。僕を避けて一秒でも早く帰ろうとしているのだと思い込んでいたが、リヴァルの話が本当ならば、真実はどうやら違うらしい。
「スザクが知らなかったのは意外だな」
「あ……、うん、帰りは彼女と一緒だから」
「ああそっか、そう言ってたよな。ま、男友達より彼女のほうが大事だもんな」
リヴァルに僕を責める気持ちは一切ないはずだ。だけど、僕の耳には責め立てられているように聞こえた。
もちろんただの被害妄想だ。そういう風に聞こえてしまうのは、僕の中に疚しい気持ちがあるからだ。
「じゃあここの荷物、生徒会室まで運ぶね」
「おう、頼むな」
いくつか重ねた段ボールを持ち上げ、倉庫を出た。生徒会室に戻ると、作業をしているほかのメンバーがねぎらってくれた。
「書類は見つかりそうですか?」
「うーん、どこかに仕舞ったのは確かなんだけど」
「どこかに仕舞ったのは当たり前ですよ、会長。どこに仕舞ったのかを早く思い出してください」
「だって半年も前のことなんだもん。ルルーシュがいれば覚えててくれたんだろうけど、なんでこんなときに限っていないのよ」
「ルルーシュは体調不良だって言ってるでしょ」
僕に続いて戻ってきたリヴァルが、段ボールを下ろしながら会長に言う。
「とにかく早く見つけてください。じゃないと、俺達ずっと帰れませんよ」
重要な書類が見つからないとのことで、今日は生徒会総出で書類探しをすることになった。この場にはルルーシュを除いたメンバー全員がいる。
生徒会の頭脳であるルルーシュは体調が悪いと言って先に帰ってしまったので、ひとつひとつ段ボールを開けて探すという地道な作業をするしかない。
「なあ、ルルーシュのやつ本当に大丈夫かな」
テーブルの端で書類を並べながら、ほかのみんなには聞こえないようにリヴァルが尋ねてきた。
「大丈夫って?」
「あいつ、ここのところずっと顔色が悪いからさ。スザクだって気付いてるだろ?」
「うん……。ルルーシュはいつも夜更かしばかりだから、ちゃんと寝てないのかもしれないよ」
「単なる寝不足ならいいんだけど、俺、怖くってさ」
「怖い?」
「なんて言うか、ルルーシュがこのまま……」
深刻そうな顔で口を噤んだリヴァルは、次の瞬間、明るく笑った。
「いや、なんでもない。とにかく、ちゃんと早く寝ろってルルーシュに言っといてくれよ」
わかったと僕が頷けば、リヴァルは頼むぞと言ってテーブルを離れた。
(ルルーシュがこのまま……)
その先はなんとなく予想できた。でも、言葉にしたら現実になりそうなので考えないことにした。きっとリヴァルも同じ気持ちだったのだろう。
日本には言霊というものがある。声に出した途端、それは力を持ってしまうのだ。
(帰りに家を覗いてみようかな)
最近、授業中以外でルルーシュとの接触がない。僕自身のせいだとわかっているけれど、会話すらなくなってしまったことはひどく堪えた。
だったら今すぐ彼女と別れてしまえばいいのにともうひとりの僕が言っていて、何を今さらと心の中で吐き捨てた。
告白された経験は何度もあるが、付き合うことを決めたのは今回が初めてだ。
相手のことが好きだったわけではない。気に入ったわけでもない。たまたまタイミングが合っただけ。
そんなことを知られたら、お前は最低だとみんなに罵られるに違いない。罵られるのは当然だ。
それでも僕は告白を受け入れた。僕にはどうしても必要なことだったからだ。だけど、実際に彼女を作ってみると違和感ばかりに襲われた。
たとえば、一緒に下校するときの歩くリズム。
たとえば、手作りしてくれたお弁当の味。
たとえば、僕に接するときの態度。口調。声。
相手のすべてをルルーシュと比較し、ルルーシュとは違うと感じてしまった。
違うのが当たり前なのに、無意識にルルーシュと比べている自分に自己嫌悪しては落ち込む。その繰り返しだった。
だったらなぜ好きでもない相手と付き合っているのだと、十人いれば十人が呆れるだろう。気持ちがないのに付き合うのは相手に対しても不誠実だ。それはもちろんわかっている。
でも、僕には必要なのだ。ほかの誰かを傷付けたとしても、ルルーシュを傷付けることになったとしても、僕は今の状況を選ぶしかなかった。
(だって、ルルーシュのことが好きだから)
すべてはルルーシュへの恋を諦めるためである。
僕はルルーシュが好きだ。
いつから好きなのかなんて考えたこともなく、物心ついたときには好きになっていたとしか言えない。
生まれたときからそばにいて、どこへ行くにも一緒だった。
離れていたのは小学校低学年の一時期だけだ。ルルーシュとばかり遊んでいることを同級生にからかわれたのが原因である。
そういうのが恥ずかしい年頃だったし、特にルルーシュは可愛らしい子供だったから、女みたいなやつだとルルーシュを笑われるのが子供心に悔しかった。
だけど、誰に何を言われても関係ないと開き直ることはできなくて、ルルーシュに事情を話そうと思い付けるほど大人でもなかった。
だから僕は、わかりやすくルルーシュを避けた。ほかの友達とばかり遊び、あまりルルーシュには近付かないようにした。当時はクラスが違ったので、たまたま会えないんだ、わざと無視しているわけではないんだと言い訳することも可能だった。
しかし、それからしばらくして、僕は自分の行動が間違っていたと思い知る。偶然、帰り道でルルーシュを見かけ、彼がいじめられている現場を目撃したのだ。
予兆はあった。家が隣同士だから、一緒に帰らなくてもルルーシュの顔を見ることはできる。そのとき、彼が怪我をしていると気付いた。
どうしたのだと尋ねてもルルーシュは転んだと言うばかりだったし、実際、子供の頃の彼は転ぶことが多かったので大して疑問を抱かなかった。
でも、それは嘘だった。怪我をしたのではなく、怪我をさせられたのだ。
事実をようやく知り、僕は愕然とした。ルルーシュをいじめる人間に怒ったし、本当のことを話してくれなかったルルーシュに怒ったし、同級生にからかわれたくらいでルルーシュのそばを離れてしまった僕自身に何より怒りが湧いた。
身体の大きな上級生では抵抗することもできず、ルルーシュが突き飛ばされて尻もちをついたとき、頭にカッと血が上ったのを覚えている。
僕はなんの躊躇いもなく上級生達に殴りかかり、全員をあっさり打ち負かした。それから、「なんでいじめられてるって教えてくれなかったんだよ!」とルルーシュに対して怒鳴った。
よく言うなと子供心に思ったものだ。勝手に離れたのは僕である。僕にルルーシュを責める権利はない。なのに、怒りの矛先をルルーシュに転嫁した。
ルルーシュは何も悪くないのに、僕に向かってごめんと謝ってくれた。助けてくれてありがとうと感謝してくれた。
これからはちゃんとスザクに話すと言い、そのまま帰ろうとしたので僕は慌てて追いかけた。
「ルルーシュは弱っちいんだから俺がいないと」
何もしていないくせに嘯く自分が情けなかった。でも、ルルーシュは嬉しそうに笑ってくれた。僕の言葉を拒絶することなく、じゃあよろしくと返した彼はあのときからすでに大人だった。
その一件以来、僕はルルーシュから決して離れず、常に一緒にいるようにした。
またランペルージにべったりだなとからかわれたけれど、周囲の意見に惑わされることはなくなった。ルルーシュが何より大事なのだから、彼を守るためにそばにいるのは当然のことだった。
思えば、その頃にはすでに恋愛感情が芽生えていたのかもしれない。
恋だとはっきり自覚したのは中学生になってからだ。それからずっとルルーシュに恋をしている。同時に、よこしまな想いも抱いている。
幼馴染で同性の友達に告白なんかできるわけがないと思っているし、想いが叶うかもしれないと期待を抱いたこともない。ただ、成長するにつれてどんどん綺麗になっていくルルーシュを前に、僕の中の劣情は日増しに大きくなった。
彼を自分のものにしたい欲求が高まり、僕は夢の中で何度もルルーシュを犯した。夢精したときは罪悪感でいっぱいで、朝、目が覚めるたびにこのままではいけないと焦るようになっていった。
ルルーシュは僕よりずっと大人だ。発言も佇まいも大人びていて、頭もとてもいい。だけど性的なことには疎く、ナナリーが一番大事だと宣言しては彼のファンを泣かせるような鈍さがある。
もし友達が自分をおかずにしていると知ったら衝撃を受け、二度と僕の顔を見てくれないかもしれない。絶交されるか、理解の範疇を超えた現実に卒倒してしまう可能性もある。
僕はルルーシュとの友情を守りたかった。これからもルルーシュを大事にしたい。
だから、悩んだ末に好きでもない彼女を作った。彼女ができればその子を大切に思えるだろうし、ルルーシュへの気持ちも忘れられるかもしれないと期待したのだ。
自分勝手な理由で付き合うことになった相手には申し訳なく思う。ルルーシュを忘れるという目的があったはずなのに、忘れるどころか比べるようなことばかりを考えてしまい、やっぱりルルーシュとは違うと再認識する自分がいかに最低かはわかっている。
(考えないようにしようとすればするほど、ルルーシュのことしか考えられなくなっているんだよな)
頭の中はルルーシュのことばかりだ。しかし、最近はルルーシュから避けられていた。
元はと言えば、彼女を作ることで無理やり距離を置こうとした僕が悪く、自業自得の結果なのに、いざルルーシュと距離ができたらショックを受けている。
(僕はどこまで自分勝手なんだろう)
自分の事情はともかく、今はルルーシュの体調だと切り替える。
心配だから帰りに家に寄ってみよう。ついでに、リヴァルの言葉が本当なのかを確かめてみよう。そう決めると、地の底まで落ち込みそうな気持ちをなんとか奮い立たせて作業の続きに没頭した。
ようやく目当ての書類が見つかったときには、陽はとっぷり暮れていた。夜道は危ないからと女の子達を駅まで見送り、行き先の違う僕はそこでみんなと別れた。
電車に揺られながら窓に映る自分の顔をぼんやり眺める。
(追い返されたらどうしよう。ナナリーがいれば助かるんだけど、もう部活から帰ってるかな)
様子を見てこようと意気込んでいたのに、時間が経つにつれてどんどん気弱になっていた。溜め息を押し殺し、ルルーシュに会えたら最初になんと言おうか頭の中でシミュレーションする。
最寄り駅で下りたあともシミュレーションを繰り返して歩いていたら、ふと何かが意識の端に引っかかった。
なんだろうと首を回し、一度も通ったことのない横道に目を向ける。そして、息を呑んだ。
後ろ姿だけだが、見慣れた制服と黒髪は間違いなくルルーシュだ。隣にはルルーシュよりも背の高い男がいた。
あれがリヴァルの言っていた年上の友達だと察し、考えるよりも先にあとを追っていた。
どこかへ向かって歩いている二人は親密そうな様子だった。ルルーシュの笑い声が風に乗って聞こえる。それだけでルルーシュの感情が手に取るようにわかった。
(友達にしてはやけに距離が近いような……)
まさかと否定するけれど、本能的な直感が二人はただの友達ではないと言っていた。
このまま見届けようか、やめておこうか。迷いつつもついて行く。
やがて一軒の家の前で二人は止まった。男が何やら声をかけ、ルルーシュが頷く。その横顔は今まで見たことがない表情をしていた。
安心しきっていて、相手を全面的に信用していて、そして、好きだと言っている顔だ。
(ルルーシュが、あいつを……)
目の前が真っ暗になった。
ルルーシュから離れることを自分で決めたくせに、ルルーシュが僕ではないほかの人間を選ぼうとしていることに絶望が広がっていく。
男の正体を知りたくて、無意識に足が動いた。
「どうぞ、入って」
街灯に照らされた男の顔がちらりと見える。その途端、背筋がぞっとした。
「なんで……」
僕の声が届いたはずはない。だけど、男は確かにこちらを向き、僕のほうを見て笑った。
その顔は、僕と同じ顔をしていた。
居ても立ってもいられず、次の日から僕はあの家のことを調べ始めた。
いつの間にか人が住んでいたとか、誰が住んでいるのかわからないとか、近所の人は特に気にした様子がなかった。男の一人暮らしなのか、家族と暮らしているのか、そういう情報すら掴めない。
それでも地道に聞いて回っていると、昔からここに住んでいるという女性が気になることを口にした。
「あの家ってずっと空き家じゃなかったかしら」
その発言に僕はなぜか悪寒のようなものを感じた。
覚えていないくらい昔に持ち主のおじいさんが亡くなって、そのままになっていたはずなんだけど、息子さんが戻ってきたのかしら。でもあのおじいさん、身寄りがなかったのよね。じゃあ誰かが買ったのかしら。誰も手入れをしていなくてボロボロだったのに、いつの間にあんな綺麗な外観になったのかも覚えてないわ。毎日通りかかっているのに不思議よね。
女性の話す声を僕はどこか遠くで聞いていた。
どういうことなのか。なぜ誰もこの家を意識していないのか。なぜ誰もあの男を知らないのか。
(僕によく似た顔だった……)
他人の空似というものは存在する。
たまたま僕とそっくりな人が、何かのきっかけでたまたまルルーシュと知り合った。友達によく似ているという話から盛り上がり、そこから親交が深まったのかもしれない。
しかし、そんな偶然があったとして、なぜルルーシュは何も言わないのだ。僕とは気まずかったとしても、生徒会の誰かに話すことはできるはずだ。スザクによく似た人がいた、あんまり似ていたからつい話しかけてしまった、と話題にしてもいいだろう。
でも、ルルーシュの年上の友達が僕にそっくりだという話は聞いたことがない。実際に目撃しているリヴァルですら何も言っていなかった。
(わけがわからない)
わからないけれど、焦りのようなものを感じた。
このままではいけない。このままルルーシュを放っておいてはいけない。早くあの男から引き離さなければ取り返しのつかないことになる。そんな思いが日に日に募っていった。
だから、ある日の放課後、僕は意を決してルルーシュに声をかけた。
教室ではたまに言葉を交わしていたけれど、こうしてちゃんと話すのは久しぶりだったので少し緊張した。振り返ったルルーシュは僕を見て驚いた表情を浮かべ、それからふいと顔をそらした。
「なんだ」
「君にちょっと話があって」
「話? すぐに済むのか?」
ちらりと時計を見たのは、あの男との約束があるからかもしれない。僕よりあんなやつのほうが大事なのかと怒りが湧く。
ルルーシュから離れようと決め、今までルルーシュを放っておいたくせに、独占欲を丸出しにするのはなんとも理不尽な話だ。でも、僕じゃない誰かがルルーシュを奪うのは許せなかった。
僕のほうが君のことを好きなのにと、子供のわがままみたいな気持ちを抱く。
「君の交友関係について言っておきたいことがあるんだ」
「交友関係? 風紀委員は人様の付き合いにまで口を出すのか。忙しいことだな」
わざと僕を怒らせて話を切り上げようという魂胆が見えた。その手に乗るものかとルルーシュの手首を掴めば、あまりの細さにぎょっとした。
もともと華奢で余計な肉がついていないルルーシュだけど、さすがにこれは痩せすぎだ。体調が悪くなるのも当然である。
「ちゃんと食べてる?」
「いきなりなんの話だ」
「最近、身体の調子が良くないんだろ? 病院は?」
「別にたいしたことはない。ちょっと寝不足気味なだけだ」
「寝不足でこんなに痩せないよ」
「じゃあ季節の変わり目で食欲がないせいだ。ったく、どこまで連れて行くんだ」
教室でする話ではないので特別教室を目指した。誰もいない部屋にルルーシュを押し込むと、逃げられないようドアの前に立ち塞がる。
「で? 話って?」
「この間、見かけたんだ。君が大人の男の人と歩いているところを」
思い切って伝えるとルルーシュは目を瞠った。
「あの人、誰なの?」
「誰だっていいじゃないか」
「友達?」
「ああ」
「年上なのに?」
「年上と友達になってはいけない決まりなんてないだろ。だいたい、俺が誰と友達になろうとお前には」
「あの人はやめたほうがいい」
ルルーシュの纏う空気が変わったのを肌で感じた。
怒り。憎しみ。そういうものがはっきり伝わってくる。
僕は怯まずに言葉を続けた。
「君は知らないかもしれないけど、あの人の家はおかしいんだ。前の持ち主だったおじいさんは随分前に死んでいて、そのおじいさんには家族も親戚もなかったからずっと放置されてきた空き家だったのに、いきなり人が住み始めた。誰も手続きしていないのにおかしいだろ? ちゃんと相続しているのなら問題ないけど、もしあの人が違法なことをしていてあの家を何か良くないことに使っていたら、ルルーシュが事件に巻き込まれる可能性だって」
「――黙れ」
ルルーシュの声のはずなのに、どこか遠いところから聞こえたようだった。
紫の瞳が僕をぎろりと睨み付ける。
「お前は彼女を作って好き勝手やっているくせに、俺にはあの人と会うなだと? 俺が誰かと仲良くしたいときはいちいちお前に報告しなければいけないのか? お前にお伺いを立てなければいけないのか? 何様のつもりだ」
「僕は君を心配して……」
「こんなときだけ友達面するな!」
激高したルルーシュが大きく息を吸い込んだ。
「あの人はお前と違う。お前みたいに俺のそばを離れないし、俺とずっと一緒にいてくれる。俺を裏切ることも、俺じゃない誰かを選ぶことも、俺を傷付けることもない。俺のそばにいて、俺を守ってくれるって約束してくれたんだ。だから――」
ルルーシュの感情が急に凪いだ。顔からすとんと表情が抜け落ちる。
ひどく整った顔は人形のようだとよく言われるけれど、目の前のルルーシュはまさに人形のようだった。魂のこもっていない、綺麗な綺麗な人形だ。
生気のない瞳が僕を見つめ、ゆっくり笑う。
ルルーシュなのに、ルルーシュではない。本能がそれを感じ、背筋に冷たいものが流れた。
「だから、お前はもう必要ないんだ」
赤い唇が言葉を紡ぐ。
ルルーシュではない誰かが僕にそう宣告したようだった。
それからというもの、ルルーシュはますます細くなっていった。
体調はいつも悪そうで、歩くだけでも息を切らしているし、教室よりも保健室にいる時間のほうが長くなっていた。
いつも明るく、前向き思考なミレイ会長ですら、ルルーシュは大丈夫なのかと顔を曇らせて聞いてくるほどだ。夏バテが続いているだけですよと僕は軽い口調で答えたけれど、信じてはくれなかっただろう。
このままルルーシュが死んでしまうのでは。
あの日、生徒会室でリヴァルが言いかけた言葉を今では誰もが感じている。
ナナリーに聞いたところ、ルルーシュはいつも帰りが遅く、休みの日も誰かに会いに行って夜遅くまで戻ってこないそうだ。ようやく帰ってきたかと思えば部屋にこもりっきりで、家族と顔を合わせることも食事も取ることもないらしい。
お兄さまが変なんです、と僕に打ち明けたナナリーは今にも泣き出しそうだった。名前を呼んでも生返事でいつもどこか遠くを見ていて、このままどこかに連れて行かれそうで怖い、と彼女は吐露していた。
ルルーシュがおかしくなった原因は間違いなくあの男にある。なんの証拠もないけれど、僕は確信を抱いた。
とにかくルルーシュとあの男を引き離さなければならない。だけど、最後に会話をして以来、ルルーシュはあからさまに僕を警戒して避けていた。
ならば学校よりも家に押しかけたほうがいいだろうと、ナナリーに協力してもらうことにした。ルルーシュが戻ったら連絡をちょうだい、何時になってもいいからと頼み、彼女も引き受けてくれた。
しかし、時計の針が零時を越えても連絡は来なかった。いくらなんでも遅すぎると、迷惑なのは承知で深夜に電話をかけた。
ワンコールでナナリーは出た。遅くにごめんねと謝るより先に、「お兄様がまだ帰ってこないんです」と泣きそうな声が聞こえた。
「え? まだって、もうすぐ一時だよ?」
「メッセージを送っても返事がなくて、電話もちっとも繋がらなくて……。何度も何度もかけているのに、電波が届かない場所にいますってアナウンスだけで……」
ルルーシュと連絡を取ろうと必死だったのだろう。僕に助けを求めることすら忘れるほどに。
「もしどこかで事故や事件に巻き込まれていたら、お兄様に何かあったら、私……っ」
彼女の焦燥が回線を通じて伝わってくる。僕は汗ばむ手で携帯を握り直した。
「落ち着いて、ナナリー。僕がルルーシュを探しに行くから。どこに行くとか誰と会うとかは聞いてないんだね?」
「はい……」
「おじさんとおばさんは?」
「二人とも海外出張中でいません」
こんな時間にナナリーをひとり残してどこへ行ったのだ。君の大事なナナリーだろと心の中でルルーシュを怒鳴りつける。
「ルルーシュなら大丈夫。今日はもう遅いからナナリーは先に休んでて。いつまでも君が起きていたらルルーシュが心配するよ」
「でも……」
「見つけたらちゃんと連れ帰るから。僕を信じて」
「――はい。お願いします、スザクさん」
心からの懇願に「うん」と力強く答える。通話を切ると、僕は静かに家を出た。
心当たりならあった。今の彼が行く場所はあそこしかない。あの男のところしかない。
深夜の道を必死に駆けた。何事もなければいいと祈りながら目的の場所を目指す。
闇に紛れるようにしてその家はあった。街灯があるのに、なぜかその家の周囲だけが暗闇に覆われているようだ。
インターホンに指を伸ばしかけ、しかし思い直して引っ込める。玄関のドアノブをゆっくり回せば、ドアは音も立てずに開いた。
ここにルルーシュがいるという確証はない。いてもいなくても不法侵入であることに変わりはないし、万が一、誰かに見つかれば警察に突き出されるだろう。だけど、引き返すという選択肢はなかった。
ドアの隙間から身体を滑らせると、家の中は漆黒の闇に包まれていた。耳を澄ましてみても何も聞こえない。
ここではないのだろうか。それとも、こんな時間だからどこかで休んでいるのか。とにかく全部の部屋を確かめてみなければと、靴を脱いで家に上がる。
自分の手元すら見えない闇の中、すり足で廊下を進む。無限に続いているような錯覚を抱くほど長い廊下の先に、仄かな明かりを見つけた。
物音を立てないようさらに慎重に足を運び、開け放たれたままのドアからそっと中を窺う。
そこは何もない空間だった。椅子もテーブルも棚も、人が暮らしていく上で必要な家具が何ひとつない。
ただ、人影だけがあった。
息をひそめて顔を確かめる。ひとりはあの男だ。
あの男の腕の中にルルーシュがいた。ぐったりとした身体を男の腕が抱き留めている。投げ出されてゆらゆらと揺れる手を男が取り、大事に握り締めた。
そして、前髪の上から額にキスを落とした。
「ルルーシュ――!」
その瞬間、僕は飛び出していた。男への怒りに我を忘れた。
渾身の一撃は難なくかわされてしまった。いくらルルーシュが軽くても、人ひとり抱えていたら移動するだけでも大変だ。しかし、相手は重力など感じさせないほど身軽に飛びのいた。
「ルルーシュを離せ!」
「人の家に忍び込んできたくせに威勢がいいね」
「そっちこそルルーシュを拉致監禁したくせに!」
「ここに来たのはルルーシュ自身の意思だ。そもそも、ルルーシュを捨てた君には関係のない話だろう?」
意識のないルルーシュを大事そうに床に寝かせ、ちょっとだけ待っててねと優しく囁いた男がゆらりと立ち上がった。
その目は冷ややかで、ルルーシュに向けていたものとはまったく違っていた。
「邪魔なんだよ、君は」
気付いたときには身体が吹き飛んでいた。壁に背中をしたたかに打つ。
攻撃が来ることはわかっていたのに、ちっとも見えなかった。たった一撃でもダメージが大きく、身体を起こすことすらできない。
「弱いなぁ。でも、平和な世界でぬくぬくと育ってきたんだからこんなものか」
男が近付いてくる。足音もなければ気配も感じられない。
まるで生きていないみたいだ。
「――っ」
片手で首を掴まれ、ぎりぎりと力を込められる。苦しさから逃れようと反撃を試みるけれど、締め付ける力は緩むどころかますます強くなった。
「俺はお前が大嫌いだ」
彼が呪詛のように告げた。
「ルルーシュを裏切って、泣かせて、そのくせルルーシュからもらう愛情を当然のものだと思っている。どこまで傲慢で自分勝手なんだ」
「何を、言って……」
「ルルーシュを悲しませる存在はいらない。だから、僕がルルーシュを守ると決めた。お前はもう必要ないんだよ」
でも――、と男が手を離した。げほげほと咳き込む僕を冷たい瞳で見下ろす。
「お前が死んだらルルーシュが悲しむから、殺すのだけはやめておいてやる」
興味を失ったようにくるりと背を向けた男は、ルルーシュのもとに戻ると膝をついた。
(駄目だ……!)
ルルーシュを連れて行くな。そう叫びたいのに声はちっとも出ないし、金縛りのように身体も動かない。
僕の存在など無視して、男がルルーシュの白い頬を愛しそうに撫でる。
そして、優しい表情のまま口元を緩めた。
「待っていたんだよ、この日をずっと」
僕はルルーシュの名前を呼んだ。
ルルーシュを取り戻したくて、必死に彼を呼んだ。
だけど、ルルーシュの瞼は固く閉ざされたままだった。
***
真っ白い部屋の真っ白いベッドの上にいた。
ここはどこだろうと視線を動かす。部屋の中には何もない。存在するのはベッドと俺だけだ。
「目が覚めた?」
声が降ってきたのでそちらに目を向ける。いつからいたのか、彼が俺を見下ろしていた。
「まだ眠い?」
その質問に瞼を下ろして答える。よく寝たはずなのに、頭がぼんやりしていてとても眠たい。
髪を梳かれる感触が気持ち良く、だんだんうとうとしてきた。
彼のそばは居心地がいい。
初めて自宅に招かれたとき、これからは毎日好きなときに来ればいいと言われた。さすがに毎日はと遠慮したものの、誘惑に抗うことができず、いつの間にか暇さえあれば通うようになっていた。家や学校にいる時間がもどかしくて、叶うことならばずっとここにいたかった。
(ここにいればスザクと喧嘩することもないし)
スザクと喧嘩をした。喧嘩と言うより、俺が一方的に彼を罵っただけだ。
どうしてあんな酷いことを言ってしまったのだろう。誰かが勝手に俺の口を借りたみたいだった。
でも、あれもまた俺の本心なのだ。
(今はスザクに会いたくない)
会ってしまえばまたスザクのことを責めてしまう。
俺のことを心配してくれているのはわかっていた。スザクだけではない。生徒会のメンバーも俺の体調を気遣い、具合が悪いなら休んだらどうかと声をかけてくれた。
たしかに、元からあまりない体力がさらになくなっている気はするけれど、気分はとてもいい。スザクと彼女のことを考えても胸が苦しくなることがなくなった。だから、スザクやリヴァルが俺の顔を見て顔を曇らせるのが不思議だ。
ゆっくり、丁寧に、彼の指が俺の髪に触れる。
僕と一緒にもっといいところに行こう。彼からそう誘われたのは昨日のことだった。
いいところ? と首を傾げれば、彼は優しい顔をして笑った。
「つらいものは何もない。ルルーシュを苦しめるものは何ひとつない。僕と二人で幸せに暮らしていけるんだ。だから一緒に行こう」
彼の言葉に俺は頷いた。
そこで意識が途切れ、目覚めたらここにいた。
(そういえば、スザクの声を聞いたような……)
重たい瞼を無理やり上げる。俺の顔を愛しげに見ていた彼が上半身を傾けた。
キスをされる。
脳がそう認識し、反射的に顔をそらした。
「僕とキスするのは嫌?」
前にも同じ質問をされた。
嫌なのか、嫌じゃないのか。二択で聞かれれば、恐らく嫌じゃない。
彼のことは好きだ。この気持ちがスザクへの気持ちと同じものなのかどうかはわからないけれど、好意を抱いているのは確かだし、いずれ愛情になれるはずだ。
でも、どうしてもキスを拒んでしまう。
怒られるかもしれない。彼の手を取ったのに、この期に及んで拒絶するのかと気分を害されるかもしれない。
ベッドに両手をついた彼が、上から俺の顔を覗き込んだ。
「まだ枢木スザクが好きなの?」
スザクが好きだと打ち明けたことはないけれど、知られていることに驚きや動揺はなかった。むしろ、彼は知っているのだろうと心のどこかで思っていた。
「あんなに酷い人間なのに?」
「スザクは酷い人間ではないです」
「まだあいつを庇うの? あいつは君を裏切ったんだよ」
「違います。だって、俺は好きだって一言も言っていないのだから、彼女を作ったことが酷いとか裏切ったとかそういう風に思うこと自体がおかしいんです。だから、あいつを諦めきれないのは俺のわがままです」
そう。彼女に対して抱いた憎しみも、スザクに対して抱いた怒りも、本当はどれも理不尽なものなのだ。
付き合っていたのならともかく、俺達はただの友達だ。友達が幸せになろうとしているのに、勝手に裏切られたような気持ちになって、絶望して、挙句の果てに憎悪を抱くなんておかしい。
(俺はどこで間違えてしまったんだろう)
勇気を振り絞って告白して、こっぴどく振られてしまえば良かったのかもしれない。
何も言わず、何も伝えず、スザクの特別でいられることに優越感を抱いてただ満足していただけの俺にスザクを罵る権利はない。
(もうやめにしよう)
スザクを諦めよう。そして、幸せになれよとちゃんと伝えよう。今まで通りの俺達に戻れるかわからないけれど、ちゃんと笑って、ちゃんと彼の幸せを願おう。
だって、俺が本当に願っているのはスザクの幸せなのだから。
「君は優しいね」
するりと頬を撫でられる。
それから大事なものを包み込むように両手を添えて、彼は額に額を合わせた。子供にするみたいな仕草だった。
「想いは簡単に消えないよ。いつかは忘れられるかもしれないけど、ずっと残るかもしれない。もしかしたら一生片想いをすることになるかもしれない。君はそれでもいいの?」
「いいんです。俺が大事なのはスザクだから。今も昔も、ずっとスザクのことが大事だったのに、それをすっかり忘れていた」
自分自身の感情に囚われて、何も考えられなくなってしまっていた。俺は馬鹿だな、とようやく冷静に思えるようになった。
(戻ろう)
どこへ戻るのかはわからない。ただ、戻らなければいけないと思った。
ここはとても居心地がいいけれど、俺の居場所ではない。
彼の隣はとても安らぐけれど、その場所は別の誰かのものなのだ。きっと。
彼の手を掴み、そっと握り締める。至近距離で見つめる翠の瞳はどこまでも澄んでいて、どこか寂しそうだった。
「君は僕を選んでくれないんだね」
「ごめんなさい。でも、俺はスザクのところに戻ります。優しくしてくれてありがとうございました」
「それが君の選んだ答えならば僕は何も言わないよ」
額に柔らかいキスがひとつ落ちる。
ゆっくり両手を引かれ、ベッドを下りて地面に足をついた。
「ここを真っ直ぐ行けばいい。明るいほうに向かってずっと進めば、君を呼ぶ声が聞こえるはずだ」
「あなたは?」
「僕はもう戻れないからいいんだ」
優しく俺を見つめる顔に、泣きたいような気持ちになった。
彼とはもう二度と会えない。それを悟り、鼻の奥がつんとする。
「――名前を」
涙を飲み込み、息を吸う。
「あなたの名前を教えてください」
名前も知らない相手と一緒に過ごしてきたなんて、普通に考えれば有り得ないだろう。
だけど、彼のことはずっと知っていたような気がする。知っていたから、名前を知らなくても平気だった。
「君の呼びたい名前を呼べばいいよ。それが僕の名前だ」
謎かけのようなことを言い、彼が笑う。
少し考えて、俺は口を開いた。
「スザク」
どうしてその名前を呼んだのか。
不思議だけど、自然と声にしていた。彼にはその名前が相応しいと当たり前のように思えた。
彼は目を瞠り、泣き出す寸前のような顔をして微笑んだ。
「ありがとう、ルルーシュ」
「俺のほうこそありがとう、スザク」
「さあ、早く行って」
その声に背中を押されて足を動かした。
(さよなら)
別れの言葉を心の中で伝え、明るいほうに向かって歩いて行く。
後ろは振り返らなかった。でも、胸の奥はずっと温かいままだった。
彼に言われたとおりに歩いていると、やがて遠くから知っている声が聞こえてきた。
スザクに会いたい。早く会いたい。その一心で駆け出し、どんどん明るくなっていく道を真っ直ぐ進み、やがてあまりの眩しさに目を閉じる。
次に目を開けたときには暗い場所にいたので驚いた。
ここはどこだと目が慣れるのを待っていると、何かがはらはらと降ってきた。
「良かった、目を覚ましてくれて、本当に良かった……っ」
「スザク……?」
久しぶりに声を出したみたいだった。あまりに掠れているから、ちゃんと呼べているのか不安になる。
(高校生にもなって泣き虫だな)
雨だと思ったものはスザクの涙らしい。次から次へと溢れる涙が降り注ぐ。
どうして泣いているのだろうと思ったとき、力強く抱き締められた。
「ごめん、ルルーシュ、ごめん……ごめんね」
繰り返し謝られる理由がわからなかった。お前が謝る必要はないと言いたいのに、身体はひどく疲れていて声も出ない。
大丈夫と伝える代わりに、スザクの背中に腕を回した。力の入らない手でなんとか抱き付くと、ルルーシュ――、とスザクが呼んだ。
その声がとても心地よくて、俺は微笑んだまま目を閉じた。
戻って来たのだと、そんなことを思いながら。
それからしばらくの間、俺は学校を休んだ。すっかり体力を消耗していて、ベッドから起き上がれなかったのだ。
なんでこんなに疲れているのだろうと零せば、ナナリーに「ちゃんとご飯を食べてちゃんと休んでください!」と叱られてしまった。
俺の身に何が起こっていたのか、自分のことなのに覚えていない。
変化と言えば、霧が晴れたような清々しさがあって、身体が軽くなった気がすることだろうか。スザクにそう話せば、彼は複雑そうな顔をしつつも「ルルーシュが元気になったのなら良かったよ」と安心した表情を浮かべた。
あの夜、再び意識を失った俺を背負い、家まで運んでくれたのはスザクだった。ナナリーは寝ずに俺の帰りを待っていたそうで、翌朝、俺が目を覚ました途端、二人に泣かれてしまったのは何度思い返しても申し訳ない気持ちになる。
ただ、俺自身はそのときのことについて記憶がない。ひと晩、行方不明になっていたらしいが、どこで何をしていたのかちっとも思い出せなかった。
何も思い出さなくていいのだとスザクは言った。
「夢を見ただけだよ。だから、思い出さなくていい」
そして、優しく髪を撫でられた。
仕草が同じだと思った。何が同じなのか誰と同じなのか、やはりわからない。でも、胸の奥が温かくなるような気持ちがした。
「これ今日の課題。先生は無理するなって言ってるけど、もし起きられそうだったら解いてみて。出来たら僕が持っていくよ」
「この程度の量なら問題ない。そもそも病人じゃないんだ」
「病人みたいなものだろ。家の中を歩くだけで息が切れるんだから、もっと体力つけないと。僕と一緒に走る?」
「お前のペースで走ったら死ぬ」
大袈裟だなとスザクが笑う。釣られて俺も一緒に笑った。
あの夜から変わったことがひとつある。学校に行っているとき以外、スザクが常に一緒にいた。
「おじさんとおばさんが出張中ってことはナナリーと二人きりってことだよね。ルルーシュひとりだとまた倒れてナナリーが心配するだろうから、しばらく僕がここにいるよ」
そう言って我が家で寝泊まりするようになったのは、あの夜の次の日からである。
食事はスザクの母親が作ってくれたものを運んでくれるし、家事はスザクとナナリーが分担してやっている。俺が手伝おうとしたら、今はゆっくり静養しろと二人に同時に言われてしまった。病人ではないのにと思うものの、体力が回復していないのは事実なので、しばらくは二人の気遣いに甘えることにした。
一方で、俺には気がかりなことがあった。
言おうかどうしようか迷っているうちに一週間が過ぎたけれど、自分の中に溜め込むのはやめにしようと腹をくくり、思い切って口を開いた。
「なあ、スザク」
「ん?」
「俺達を心配してくれるのは嬉しいしありがたいが、もう一週間になるわけだし、お前のほうだって色々と不都合があるだろう?」
「不都合って?」
「だから……、彼女のこともちゃんとフォローしないと」
以前は彼女と過ごして帰りが遅くなることもあったのに、最近は真っ直ぐ俺の家に来ているようだ。休みの日もずっとそばにいるし、誰かと連絡を取っている様子もない。
「もし俺に遠慮しているのなら、俺は全然気にしていないから自由に――」
「別れたよ」
「え……?」
「一週間前に別れたんだ。今の僕に彼女はいない」
「どうして……」
「ちゃんとけじめをつけようと思ったから」
「けじめ? だってお前、あの子のことが好きで」
「好きじゃなかった」
スザクが何を言ったのか、すぐには理解できなかった。
好きだから付き合うのではないのか。好きではないのになぜ付き合うのか。付き合えるものなのか。頭の中で疑問がぐるぐると回る。
「僕は彼女を利用しただけなんだ。けど、自分の都合に人を巻き込むのも、人の気持ちを利用するのも駄目だと思い直した。だから、けじめをつけることにしたんだ」
どう反応すればいいのだろう。
スザクが彼女と別れた。彼女のことは好きでもなんでもなかった。俺はこの展開を喜べばいいのだろうか。
しかし、別れたからと言ってスザクの気持ちが俺に向くわけではない。もしかしたらほかに好きな人ができたのかもしれない。喜んでもすぐに突き落とされるだけだ。
期待してはいけない、と膝の上のブランケットを握り締めた。
「……そうか、それは悪いことを聞いたな。でも、お前はもてるからすぐに新しい彼女が」
「もう彼女は作らないよ」
「一度の失敗で諦めるんじゃない」
「そうじゃないんだ。僕が好きなのは別の人だから、ほかの人と付き合ってもなんの意味もないってこと」
ほらやっぱり、と心の中で嗤う。
いちいち報告してくるところがスザクらしい。お人よしで、天然で、にぶくて、嘘をつけなくて、そういうところがとてもスザクらしかった。
これからも同じことを延々と繰り返すのだろう。スザクは友達だから当然の報告だと思っているのかもしれない。でも、そんなことは聞きたくない。スザクが誰を好きなのかとか、誰と付き合っているのかとか、俺は何も耳に入れたくない。
ならば、嫌なものは嫌だとここではっきり伝えておくべきだ。
友達なのだから。
「スザク、そういうのはもういいんだ。お前が誰と付き合っても文句なんか言わないし、そもそも俺はお前の彼女にも好きな人にも興味がない。だから俺に報告する義務はないし、全部正直に話す必要もない」
わかってくれと胸のうちで懇願して視線を落とした。
すると、俺の手にスザクの両手が重ねられた。温めるように何度かさすり、ぎゅっと握られる。
「ねえ、ルルーシュ。僕が誰を好きなのか聞いてくれないかな」
「っ、だからその話は…!」
「ルルーシュだよ」
俺は顔を上げてぽかんとした。
「じょ――」
「冗談じゃない。嘘でもない。僕はルルーシュのことが好きなんだ」
頭の中が真っ白で、声を発することすらできなかった。
「子供の頃からずっとルルーシュが好きだった。君のことが好きで、でも僕達は友達で男同士で、こんな気持ちは絶対に知られてはいけないと思った。だから、僕は逃げたんだ。小学生のときにほかの友達を作ったのも、好きでもない彼女を作ったのも、どれも逃げるためだったんだ」
ごめん、と謝ったスザクの手に力がこもる。掌が微かに汗ばんでいて、彼が緊張していることを知った。
「じゃあ、俺から離れたのは……」
「僕は君によこしまな気持ちを抱いているから、一緒にいたらいつか君を傷付けてしまうと不安になった」
「よこしま?」
「よこしまっていうのは――、つまりね、ルルーシュにキスしたいし、セックスもしたいってこと」
単語の意味がすぐに入ってこない。
キス、と呆然と呟いて、頬が熱くなるのを感じた。スザクが困ったような顔をする。
「言い訳だよね。そばにいてもいなくても、結局、僕はまたルルーシュを傷付けた。昔も今も、自分勝手に逃げて君を傷付けてばかりだ」
「スザク……」
「気持ち悪いって思うだろう? ずっとそばにいた友達に恋愛感情を抱かれていたなんて信じられないよね。でも、君を奪われるのは嫌だと思ったんだ。知らない誰かが君を奪っていくのは許せなかった。だから、たとえ君に嫌われたとしても、これで君と疎遠になったとしても、僕の気持ちをちゃんと伝えようと決めた。僕の本心を君に知ってもらいたかった」
それもまた勝手なことなんだけど、とスザクがぽつりと言う。それから、ごめんねと謝られた。
やっぱり言葉が出てこなくて、だけど謝る必要はないのだと伝えなければいけないと思った。
謝らなくていい。俺も同じ気持ちだから。
俺も、スザクのことが――。
「ルルーシュ?」
スザクの手を握り返す。
ここで離したらスザクが逃げてしまいそうだったから、必死に、絶対に離さないように、強く強く握った。
「俺も……」
深呼吸をし、絡まりそうな舌を動かし、スザクに伝えるための声を出す。
「好き、なんだ」
「え?」
「俺もお前のことが好きだ。ずっと前から、お前のことばかり考えていた。お前に彼女ができたときは絶望したし、お前のことも相手のことも憎んだ。そんな感情を抱くのは俺らしくないって思うのに、俺から離れていくお前が憎くて憎くて……。俺はそういう人間だ。お前に好きになってもらえるような綺麗な人間じゃない。俺の中はどろどろしていて、汚くて、醜くて、――っ」
不意にスザクの腕に掻き抱かれる。咄嗟に息を止めていると、目の前に見慣れた顔が迫った。
キスをされるのだと察したけれど、俺は拒まなかった。むしろ無意識に瞼を下ろしていた。
唇が優しく合わさる。ただ触れているだけなのに、そこからスザクの熱が伝わってきて身体中が熱い。
スザクとキスしているのだと実感し、涙が溢れそうになった。縋り付くものがほしくて彼の腕を掴めば、苦しいくらいにスザクが抱き締めてくる。
啄むように口付けられたあと、唇がゆっくり離れていった。吐息が当たり、恥ずかしさに思わず顔を俯ける。
「ごめん、急に」
俺が嫌がっていると勘違いしたのか、スザクにまた謝られたので首を振った。
恥ずかしいけれど、嬉しい。それを伝えたくて、腕を掴んだままの手に力を込めた。
「こんなこと言ったら不謹慎なのかもしれないけど、すごく嬉しい」
「え……?」
「ルルーシュに憎まれるほど愛されていたんだってわかって嬉しいんだ」
「馬鹿じゃないか。そんなことで喜ぶな」
「だって、それだけ嫉妬して独占欲を剥き出しにしてくれたってことだろ? まさかルルーシュがそういうことを思うなんて想像したことなかったから驚いた」
「言っただろ、俺はお前が考えているような人間じゃないんだ」
「言っておくけど、それで君を嫌いになったり幻滅したりすることはないよ。生まれたときから一緒にいるのに、まだまだ知らない部分があるんだなってむしろ感動した」
あくまで前向きなスザクに、どう説得しようと思案する。
好きだと告白してキスもしたけれど、男同士である以上、ここからさらに関係を深めるのは難しい。親やナナリーに説明できないし、みんなの前では友達を演じていかなければならないのだ。そんな苦労やつらさをスザクに背負わせたくなかった。
数秒の間、考えに没頭しているといきなり頬を両手で包まれた。無理やり顔を上げられた先に、今にも蕩けそうな顔で笑うスザクがいた。
「顔が気持ち悪い」
「恋人に向かって酷いなぁ」
「まだ恋人じゃない」
「キスまでしたのに」
「それは……」
お前が無理やりしたんだろと言い返すことはできなかった。キスしようとしたのはスザクだけど、したいと思ったのは俺も同じだ。あれを無理やりと表現するのは卑怯でしかない。
ルルーシュ、と甘ったるく呼ばれて目線を上げる。
「僕と付き合ってください。お願いします」
スザクはずるい。スザクのせいで俺は知らなくていい感情を抱いてしまった。自分の醜さと弱さを知った。全部スザクが悪い。スザクのせいだ。
(でも、それでも好きなんだ)
好きだと言えた。好きだと言ってもらえた。これ以上、何を望むのだ。
「俺なんかでいいのか」
「ルルーシュじゃないと駄目なんだ。僕には君が必要だから」
「――そうか。ならば仕方ないな」
「うん。僕に好かれた時点で諦めるしかないよ」
「何を言っているんだか」
くすくす笑えば、顔の輪郭を確かめるように何度も頬を撫でられた。
「ここにいてくれてありがとう」
「なんのことだ?」
「僕の独り言」
どういう意味かと首を傾げる。スザクはただ優しく微笑むだけだった。
「愛してる、ルルーシュ」
俺もスザクに笑みを返す。
スザクが欲しかった。スザクだけが欲しかった。
(ずっとずっと前から、俺はお前が欲しかったんだ)
失ったと思っていたものを取り戻した。
俺は、俺のすべてをかけてようやくスザクを手に入れたのだ。
***
「こんなところで何をしているんだか」
膝を抱えて座り込んでいたら、よく知っている声がした。顔を上げると、そこには白い衣装を身に纏った彼がいた。
「どうしてこんなところに君がいるんだ」
「お前があまりに遅いから迎えに来た」
「迎え? でも、君はもう……」
「愚問だな。俺の魂はすでに生まれ変わっているが、それはお前だって同じだろう?」
お前と一緒だよと彼が笑い、僕の隣に腰を下ろした。
「なかなか来ないからどこで油を売っているのかと探しに来てみたら、随分と馬鹿なことをしていたんだな」
「馬鹿って言わないでよ。途中まで上手く行っていたんだ」
「最後は失敗したくせに」
痛いところをつかれて押し黙る。
あのルルーシュは素直で可愛かったのになと心の中でぼやいたのがばれたのか、俺はお前に容赦しないからなと宣言された。
「現世に干渉しようだなんてよく思い付いたものだ」
「ルルーシュを守るためだ。悲しいことも苦しいことも何もない世界で、ただ幸せに生きてもらいたいと思った。だから連れて行きたかった」
「あっさり諦めたくせに」
「諦めるしかないだろ。ルルーシュ本人に拒絶されたんだから」
「それがお前の存在理由か?」
そうだよ、と答える。
「僕は、枢木スザクが残した『ルルーシュを二度と否定したくない』という思いだ。だからルルーシュの意思を尊重するし、ルルーシュの望みに反したことはできない」
君は? と尋ねる。彼は静かに笑みを浮かべた。
「お前をひとり残して行きたくない」
「え……」
「だからお前を迎えに来た」
呆然と彼を見ていたら、彼の手が僕の手に触れた。
「一緒に行こう、スザク」
握った手を引かれる。いざなわれるように立ち上がれば、目の前に綺麗な顔があった。
「ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが残した思いはたくさんある。その中で最後に残ったのが俺だ。お前がなかなか来ないせいだぞ」
肩を揺らした彼が悪戯っぽく言う。それから、柔らかい表情で愛しそうに僕を見つめた。
「独りぼっちにして悪かった」
その身体を引き寄せる。
大事に抱き締めれば、腕の中にぬくもりが広がった。泣きたくなるほどのぬくもりは彼が残してくれた僕への想いだ。
「君が僕の名前を呼んでくれたんだ。それだけで僕は充分だ」
「そうか」
でもあんまり自分のことを嫌うんじゃないぞとたしなめられる。
「殴るなんて酷いことをするな」
「君を否定する僕が許せなかった」
「それがお前の後悔だとしても、現世のスザクには関係のない話だろう?」
「だけど」
「それでもあの俺はスザクのことが好きなんだ」
背中に細い腕が回る。
「好きなんだから仕方ないだろう?」
「うん――」
声を詰まらせれば、背中をぽんぽんとあやすように叩かれた。僕は子供じゃないよと言いたいけれど、声を出したら泣いてしまいそうだったので黙っておく。
「行こう、スザク。俺と一緒に」
「うん、……っルルーシュ」
「お前は本当に泣き虫だな。いくつになっても泣いてばかりじゃないか」
優しく、柔らかく、なんの憂いもない笑い声が耳の奥に響く。
僕達が平和な世界で生まれ育っていたら、きっとこんな風に笑うことができたのだろう。そんな世界ならば、僕が君を殺すこともなかったのだろう。
たしかに、何も知らない彼らには関係のない話だ。
「俺はいつだってお前とナナリーの幸せを願っていたんだ」
「その幸せは君がいないと叶わないよ。君がいなければ駄目なんだ」
「わかってる。今度はちゃんとお前を連れて行く」
独りにはしないから、とルルーシュが囁いた。
あの頃の枢木スザクの、そしてルルーシュの想いが溶けていく。
きらきらとした光の粒が辺りを舞い、僕達の身体も一緒に溶けていく。
怖くはなかった。悲しくはなかった。寂しくもなかった。
だって、僕のそばにはルルーシュがいるから。
僕達の想いの先には彼らがいるから。
(18.09.28)