足元の草がさくりと音を立てた。
歩みが一瞬止まる。この程度の音で眠りから覚めるとは思わなかったが、聡いルルーシュのことだからわからない。様子を伺えば、変わらず穏やかな寝息を立てていたのでほっと息をついた。
止めていた足を再び動かして傍まで行くと、静かに腰を下ろした。
木々の間から降り注ぐ木漏れ日が、ルルーシュの顔を微かに照らす。それはまるで神の祝福のようで、世界の敵となるために行動している僕たちにとっては皮肉に思えた。
胸の上に置かれた本の頁がぱらぱらと音を立てている。
(読書をしながら居眠りしてしまったのか。珍しい)
ルルーシュの手からそっと本を抜いて捲ってみる。難しい数字がびっしり載っていて、何が書かれているのかまったくわからない。彼の頭の良さはよく知っているけれど、こんなものを愛読書にするなんて、並みの頭をしている僕にはやはり理解しがたい。
横を見やれば、頁を捲っていた風が、今度はルルーシュの髪を微かに揺らしていた。
露になった額に手の甲で触れる。
とても穏やかな時間。争いごとなど何もないと、錯覚してしまえるほどに。
(――馬鹿だな)
今この瞬間にも人と人は争っていて、世界は憎しみに満ちている。僕自身、たった今、反乱貴族の討伐作戦を終えて戻ってきたばかりだ。この身には血の匂いが染み付いている。
世界のために少しでも早く計画を進めなければならない。僕たちだけが安寧を享受するわけにはいかないというのに、この時間を愛おしむ自分がいる。
「ルルーシュ」
小さく名前を呼んだ。
僕がここにいるのは彼の寝顔を眺めるためではなく、彼を仕事に戻すためだ。休憩時間が過ぎても戻らないと、その姿を探していたジェレミア卿に頼まれ、ルルーシュがひとりでいそうな場所をこうして見つけ出しただけで、決して穏やかな時間を過ごすことが目的ではない。
最近の忙しさを考えれば、静かな寝息を立てている彼を起こすのは忍びなかった。だけど、ここでゆっくりしていたら仕事は溜まる一方だ。
仕方なく彼の肩に手を当て、少し強めに揺すった。
「ルルーシュ。起きて」
「ん……すざく?」
眠り自体はそれほど深くなかったのか、ルルーシュはすぐに意識を浮上させた。目は閉じたまま、寝起きの舌足らずな声で僕を呼ぶ。
「ジェレミア卿やほかの人たちが探していたよ」
「戻ってきたのか?」
「ついさっきね。報告はあとでするよ」
告げれば、ぱちりとルルーシュの瞳が開く。そのまま頭上の木の葉を見つめていた。
「自分の騎士が戦場で働いているときに昼寝とは、大したご身分だよな」
「作戦自体が終了したのは、君が休憩に入る前の時間だよ。それに、部下の心配ばかりして自分の身を減らすような皇帝だったら困る」
「わかっているさ。ただ、俺ひとりだけがのん気なものだなと思っただけだ」
ふっと口元に自嘲の笑みを浮かべられる。
そんな顔をさせたいわけではないのに。ぐっと唇を噛み締める。
しばらくぼんやりしていたルルーシュは、小さく息を吐き出すと上半身を起こした。髪や服に草が付いていたので払ってやる。
「すまない」
「服に草を付けたままなんて、皇帝の威厳に関わるだろう?」
笑って言うと、それはそうだなとルルーシュも笑みを返してくれた。
ギアスのかかった臣下ばかりの中では威厳などあってないようなものだけれど、ただ軽口を叩くだけで、互いに何も言いはしない。
ルルーシュは立ち上がると、ぱたぱたと服の裾を払った。
「はい、これ」
取り上げたままだった本を返す。ルルーシュはそれを一瞥した後、黙って受け取った。
「じゃあ先に戻っている」
そしてそのまま歩いて行こうとしたので、僕は慌てて後を追った。
「一緒に戻るよ」
「お前は討伐から帰ってきたばかりだろう?少しゆっくりしておけ」
「ゆっくりはさせてもらうけど、それは自分の部屋でするよ。それに、君をひとりで帰したらジェレミア卿に怒られる」
「ジェレミアが?なんでだ?」
「陛下をおひとりで歩かせるだなんてそれでも騎士か、ってね」
歩きながら、ルルーシュは肩を竦めてみせた。
「あいつは大袈裟すぎるんだ」
「でも実際、いくら兵士が見張っているとはいえ、いつどこで襲撃があるかわからない。僕が君の傍にいるのが一番安全だ」
並んで歩く僕をルルーシュがちらりと見たのには気付いたけれど、あえて気付かないフリをした。
「あぁ、そうだ」
思い出したように振り返ると、ルルーシュはにこやかに告げた。
「お前に渡したいものがある。報告を聞いたあとに渡すから」
「渡したいもの?僕に?」
「来ればわかる」
何かあっただろうかと首を傾げるが、答えを教えるつもりはないようで、ただ笑みが返ってきただけだった。
宮殿の近くまで来ると、そこにはジェレミア卿が待ち構えていて、僕たちの姿を見つけると「陛下!」と叫んで寄って来た。ルルーシュが少しだけうんざりした表情を見せる。その顔をこっそり笑いながら、僕は護衛の任をジェレミア卿に譲った。ルルーシュは僕を一瞬だけ見ると、何事もなかったかのように歩いて行った。
おひとりで外に出られてはいけませんとか、今度からナイトオブゼロがいないときは自分をお付けくださいとか、ジェレミア卿がしきりに話しかけているが、ルルーシュははいはいと適当にあしらうだけだった。まるで御主人さまと飼い犬のような二人の姿を笑って見送ると、僕は自室へと戻った。
報告の時間まであと45分の猶予がある。
(少し休むか……)
体力に自信はあるが、戦闘を終えたばかりでさすがに疲れている。
着替えもそこそこにベッドに身体を投げ出した。目を閉じれば先ほどのルルーシュの寝顔が思い出されて、口元に自然と笑みが浮かぶ。
ああやって穏やかな眠りに落ちることのできる時間がまだある。そのことにひどく安堵しながら、僕はしばしまどろんだ。
それからきっちり四十五分後。報告のためナイトオブゼロとしての正装に身を包むと、ルルーシュの元へ向かった。
傍に控えていたのはジェレミア卿と数名のギアス兵のみ。僕が一通りの説明を終えたあとは、彼らも下がらせた。何か言うかと思ったジェレミア卿があっさり出て行ったので、僕はおや?と内心首を傾げた。ルルーシュがあらかじめ何か指示を出していたのだろうか。
残ったのは僕とルルーシュ、二人きりだった。
ルルーシュはおもむろに立ち上がると、
「ちょっと待っていろ」
そう言って玉座を離れ、脇へと消えた。一体なんだというのだろう。
(そういえば渡したいものがあるって……)
しかしそれが何なのか検討もつかず、僕は大人しくルルーシュが戻ってくるのを待った。
ルルーシュはすぐに戻ってきた。その手に大振りの剣を携えて。
「それは?」
「新しく作らせた皇帝の剣だ。そして、皇帝が討たれる剣だ」
ルルーシュがうっすらと笑った。僕の元まで下りてくると、子どもが手に入れた玩具を自慢するかのようにすうっと剣を掲げてみせる。
「まさか、それで……」
君を刺せというのか?
問いかけは言葉になっていなかった。
わかっている。初めから話の筋書きはできていて、最後に僕がルルーシュを殺すことも計画のひとつとして組み込まれている。これは計画を遂行するための小道具のひとつだ。そう自分に言い聞かせるのに、実際にルルーシュを殺すための剣として見せられれば、動揺を隠すことができない。
そして、ふとあることに気付いて僕は思わず眉を顰めた。
「ルルーシュ、これは使えない」
「どうしてだ?」
「だって……」
決して実用的ではない、むしろイミテーションと言ってしまっても過言ではない剣。
「これはただの飾りだろう?」
「あぁそうだ。儀礼的なものだからな、人を殺すためには作られていない。それがどうかしたか?」
「どうかするよ。こんなもので刺されたら――」
あとに続く言葉を一瞬躊躇い、しかし言わなければ伝わらないと僕は思い切って口にした。
「……これだと刺されたときに、普通の剣よりも痛いし苦しい」
実戦用の剣で刺されれば痛くないのかといえば、もちろんそんなことは決してないのだが、飾りの多く付いた遊びのような剣よりは多少はマシだ。同じ死ぬのならば、せめて苦痛は少なくしてあげたい。
ルルーシュがふっと笑う。
「だからだよ。苦痛が多ければ多いほどいい」
その返事に僕は耳を疑った。
「何を…、何を言っているんだ」
「言葉のとおりさ」
意味を理解できない僕に、ルルーシュは出来の悪い生徒を教えるように答える。
「悪逆皇帝が討たれるんだ。あっさりしすぎては困る。盛大に演出し、死の瞬間まで魅せなければいけない。俺が確かに討たれたこと、世界が解放されたことを、目に見える形ではっきりと見せなければいけないんだよ」
わかるだろう?と、本当に生徒に教えるような口ぶりでルルーシュが僕に言う。
僕は両の手をぐっと握り締めた。
わからない。そんなことわかりたくない。
君を殺すのに、なぜわざわざ苦痛が増すようなことをしなければいけないのか。そんなことが本当に必要なのか。
大声で問うてみたかったけれど、声に出しては聞けなかった。
「スザク」
ルルーシュが黙ってしまった僕を呼ぶ。あやすような口調だった。
「わかるだろう?俺の死には明確な形が必要なんだ。間違いなく死んだという形が。そのための舞台演出は派手であればあるほどいい」
「……わかっているよ」
僕たちはこの茶番劇を成功させなければならない。ルルーシュがその演出をするのなら、僕は舞台が映えるようしっかり動かなければならない。
二人で決めたのだ。今さら迷うことも渋ることも許されない。
僕は一度目を閉じた。そうして小さく息をつくと、瞳を開いてルルーシュを見据えた。
ルルーシュは微笑んでいた。
「スザク。これは来るべき日にはお前のものとなる。その日が来たら、この剣で俺を討て」
そう言って、横にした剣を僕に差し出す。
「イエス、ユアマジェスティ」
僕は跪くと、両手で剣を掲げるようにして受け取った。
こうしてルルーシュから貰うものがひとつ増える。そのたびに自分の最期が近付くことを、ルルーシュはきっと知っている。知っていて、穏やかな笑みを浮かべることができる。
死を前にして恐怖を感じない人間などいない。だけど、ルルーシュからは怖いという感情を感じ取ることができなかった。どれほど上手く本心を隠しているのか、僕なんかには想像もつかない。
でも、最近はそれでいいのだと思うようになった。彼の心を暴くことが僕の役割ではないのだ。ならば、せめて最期の日までルルーシュが穏やかに笑んでいられるよう、その手助けをするまでだ。
(それだけが、ルルーシュのためにできる僕の唯一の――)
掲げ持った剣をそのままに、僕は顔を上げた。ルルーシュと目が合う。
やはりルルーシュは静かに微笑んでいて、今度は僕も笑みを返せた。
ああ、すべては君の計画の通りだ。僕はそれに従おう。
君と僕が手を組んでできなかったことなど何ひとつないのだから。
違えたりはしないよ。
絶対に。
(09.04.22)