その灯火

 その日は朝から天気が良かった。
 規則正しい生活を送るスザクは休日でもいつも通りの時間に起き、いつも通りに朝食を摂ると、いつも通り朝刊に目を通した。リビングに置かれた新聞は一紙だけではない。ブリタニア
 国内で発行されているものから国外で発行されているものまで多種多様だ。
 これだけの数を読めと最初に言われたときは目眩がしたものだが、習慣として十年も同じことをやっていれば次第に慣れてくる。今ではすべての新聞に目を通さなければ気が済まないほどだ。
 (今日も目立った記事は載っていないか……。ナナリーも元気そうだな)
 週に一度、政庁の様子について、というよりブリタニアの代表であるナナリーに関する記事が定期的に載る。まだ皇族が存在した頃のロイヤルファミリー特集の名残が残っているのだろう。ナナリー自身、元皇族だ。皇族や貴族制が廃止された当初は皇族贔屓な人間が反発し、彼らを再び担ぎ上げようとする動きが時折出ていた。最近ではだいぶ減ったが、今でも当時を古き良き時代として回顧する人々もいる。この程度で彼らの溜飲が下がるとは思わないものの、少しでもガス抜きが出来るのなら安いものだ。

「今日は久しぶりに街に出てみるかな」

 読み終わった新聞紙を畳みソファの上でうんと伸びをしたた。窓の外に目を向ければ、青い空が広がっている。一昨日まで雨が降っていたがようやく止んでくれたようだ。とりあえず溜まっている洗濯物を片付けようとソファを立ち、洗面所へと向かう。
 ゼロレクイエムからすでに十年。スザクは二十八歳になっていた。
 あれから枢木スザクの名を捨て、約束通り世界のためにゼロとして生き続けてきたスザクだったが、十年経って最近はようやくゼロの仕事が減ってきたところである。自らの足で進み始めた世界はもはや救世主の助けを必要とせず、ゼロなしでも滞りなく平和な世界が築かれていた。
 そのため、昼夜を問わず働いていたスザクにもようやく暇と呼べる時間ができ、最近はもっぱらブリタニア郊外の一軒家で過ごすことが多くなった。もちろん、世界を救った救世主の家なので、ナナリーやシュナイゼルの計らいで警備は万全だ。
 そして、月に何度か政庁へ赴き、時折ナナリーに同行して海外出張に出かけるという生活だ。これまでの忙しさを考えれば隠居生活とも呼べるかもしれない。
 ゼロの活躍が減ることに少々複雑な思いを抱くのも正直な気持ちだが、救世主が暇ということはそれだけ世界が平和になったということ。喜びこそすれ悲嘆する必要はない。
 青空の下で洗濯物を干し終えたスザクは、部屋に戻って着替えると、シュナイゼルに出かける旨の連絡を入れた。スザクほどの人間が危険な目に遭うとは考えられないが、万が一を考えれば用心に越したことはない。さすがに護衛までは付かないものの、どこかへ出かけるときは連絡をするのが当たり前になっていた。

「さて、と。それじゃあ行ってきます」

 サングラスをかけ、誰もいない家に向かって挨拶をした。
 外に停めていた車に乗り込み、街までの道のりを走る。平日だからか、前を行く車もすれ違う車も今日は少ない。市街地までは車で約一時間。仕事ではないから慌てることもないと、適正速度を守って道を行く。
 こうしていると本当に平和だと思えた。
 のどかな光景にのどかな時間。それをまさか自分が享受できるとはスザクは思っていなかった。一生世界のために邁進して、いずれ死ぬのだろうと思っていた。だから、こうしてのんびり過ごす時間は予定外とも言えた。
 そういえば、ルルーシュはやがてゼロの仕事がなくなると予言していたけれど、枢木スザクが暇になるとは言ってくれなかった。
 (そんなことを口にしたら僕が反発すると思っていたのかな)
 心外だと思いつつ、平和になればそのうちのんびり過ごせるようになるぞと十年前に言われていたら、冗談じゃないとルルーシュに反発する自分の姿がありありと想像できてしまい苦笑いを浮かべた。自分自身よりもルルーシュのほうがよほど「枢木スザク」を知っていたらしい。
 だけど、そこまでわかっていたのならついでに対処法も教えてくれれば良かったのだ。余暇時間の過ごし方がわからないなんて馬鹿馬鹿しい悩みを抱える事態は想定していなかった。
 (それもまたルルーシュらしいと言えばルルーシュらしいんだけど)
 ゼロレクイエムからまだ十年。
 ゼロレクイエムからもう十年。
 世間からはだんだんその記憶が薄れつつある。世界が解放された日は今も大々的に祝うけれど、当時ほどの熱狂や歓喜はなかった。小さな諍いや争い事は消えないものの、世界は確かに平和を手にしていた。
 そして、だんだん消えつつあるゼロの存在意義と共にスザクが考えるのは、やはりルルーシュのことだった。
 当時のようにルルーシュを思い浮かべるだけで押し潰されそうなほど胸が苦しくなることはもうない。この食べ物はルルーシュが好きだったとか、こういうときならルルーシュはなんと言っただろうとか、こんな場面にルルーシュがいたら一緒に笑ってくれただろうとか、喜んでくれただろうとか、考えるのは些細なことだ。
 ルルーシュとあんなことをした。ルルーシュとこんなことを話した。ふとしたときに昔を思い出しては、一陣の風がさっと通り抜けるみたいに少し寂しくなるだけで、すぐに何事もなかったように振る舞うことができた。十年の歳月とは、そういうものなのかもしれない。
 一時間かけて目的地に辿り着くと、決められた場所に車を止めて降りる。サングラスは外さないままだ。枢木スザクの顔を鮮明に覚えている人がいるとは考えられないし、歳を取って顔つきも変わっているから同一人物に間違われることもないだろうと思うが、念には念を入れたほうがいい。
 街の人間としてウィンドウショッピングをするふりをしながら辺りの様子を窺う。行き交う人々の顔は楽しそうだ。店に立つ人々にも活気がある。中にはブリタニア人以外の人種も混じっている。見た目が明らかに日本人であるスザクが大通りを歩いていても珍しがる人間はいない。
 皇帝ルルーシュが倒れたあと、世界では物だけでなく人の移動も活発になり、かつてブリタニアの属国で暮らしていた人々も気軽にブリタニアへ旅行に来たり移住したりするようになった。人が動けばそれだけ揉め事も増えるわけだが、ただ排除するのではなく、まずは話し合いで解決しようという意識が一般民衆の間にも芽生えていて、誰かが誰かを見下すような風潮はなくなりつつあった。
 その流れが上手く定着すれば成功だし、仮に力で解決するような雰囲気に再びなっていくのだとしても、それはひとつの世界の意志である。
 永遠に平和が続くなら続くに越したことはない。しかし、人の気持ちは移ろいやすい。すでに十年でゼロレクイエムが過去の出来事になってしまったのと同じように、再び武力で支配しようとする世界に変わる可能性だって充分ある。
 それは悲しいけれど、嘆くことはないとルルーシュは言っていた。自分達は世界が話し合いのテーブルに付けるきっかけを与えたにすぎない。そこからどう変わっていくかは世界や人々が選ぶこと。

「もっとも、争いに満ちた世界がいいと言うわけでもなく、そのための保険としてゼロがいるわけだ」

 どこか得意げに言ったあと、ルルーシュは少し考える素振りを見せた。

「シュナイゼルを非難しておきながら、ゼロの存在で無理やり世界を軌道修正させようというのだから、俺のやり方もあまり変わらないのかもしれないな」

 そして小さく苦笑いを浮かべた。
 シュナイゼルとは違うと否定するのは簡単だったけれど、否定するだけなのは少し違うような気がして、結局スザクは黙ってルルーシュの話を聞くだけだった。
 ルルーシュは何を言いたかったのだろう。何を言ってほしかったのだろう。いろんな場面を思い出しては決して答えの出ない迷路に迷い込む。考えてどうするわけでもないのだが、ふとしたときに言い表しがたい虚しさに襲われることがあった。もしかしたら、そういう感情を後悔と呼ぶのだろうか。
 にゃあ、と猫の鳴く声が聞こえてハッと顔を向けた。
 黒い猫がいた。何か言いたげにじっとスザクを見ていたかと思えば、気紛れに身を翻す。

「あっ……」

 猫が珍しいわけではない。すっかり歳を取ってしまったアーサーと今でも時折会うし、道を歩けば猫に出会うことだってある。
 でも何故だろう。目の前の猫を追いかけなければいけないという気がした。
 足早について行くと、黒猫はまるでスザクを誘導するかのように一度立ち止まって振り返り、再び地面を蹴った。するりと路地裏に入り込んだのを慌てて追う。
 大通りから一歩踏み込んだ場所は暗く、すぐに目が慣れなかった。華やかな通りに比べ、ゴミ箱や段ボール箱が置かれていて決して綺麗な場所とは言えない。

「どこに行ったのかな……」

 黒猫だから暗闇だとわかりにくいな。歩きながら独りごちていると、突然黒い塊がもぞもぞと動いてびくりとする。大きさからいって猫ではない。まさか巨大鼠でもないだろうとよくよく見れば、それは路地裏で蹲っている人間だった。

「君、大丈夫?具合でも悪いの?」

 暗がりなので男か女かわからない。大人か子供かも不明だ。
 まさか喧嘩に巻き込まれてここで倒れているのか。あまり厄介事には関わりたくないんだけどなと自己保身を考えた自分に一瞬嫌悪感を抱き、いまだ蹲ったままの相手の肩を軽く揺する。触れたのはやけに頼りない身体で、その細さに驚いた。

「ねえ、君」

 二度目に呼びかけると、ようやくのろのろと顔が上がった。紫の瞳に、少し切れ長の瞳。それからひどく整った顔。
 ルルーシュ、かと思った。
 (――馬鹿な)
 あり得るはずがないのに。仮にルルーシュだったとして、生きていれば自分と同じ二十八歳。C.C.でもあるまいし、彼と別れたときと同じ十八ぐらいの姿で現れるはずがない。
 勘違いするなと自分に言い聞かせ、少年を驚かせないようスザクは人当たりの良い笑みを浮かべた。この十年、人前で素顔を晒す機会がほとんどなかったのでうまく出来ているか正直自信がなかった。

「大丈夫?気分が悪いのかな?」
「……そう、じゃない」
「じゃあこんなところで何しているの?待ち合わせというわけでもなさそうだし、だいぶ平和になったとはいえ路地裏に一人でいるのは危ないよ」
「でも、表に突っ立っているとひっきりなしに声をかけられるから……」
「ああ」

 なんとなく言いたいことがわかり、スザクは頷いた。
 彼ほどの容姿なら、ちょっと街を歩いたり街角に立ったりするだけで必要以上に声をかけられるのだろう。中には不届き者もいて面倒事に巻き込まれたこともあるのかもしれない。ならば少しでも人目に付かない場所にいるのが彼にとっては道理なのかもしれないが、それでも路地裏で蹲っているのはいただけない。

「表に立っていると、ということは誰かと待ち合わせ中?それならどこか店の中に入ったほうがいいんじゃないかな」
「それだと見つけられないから」

 どういう意味だと首を傾げれば少年が立ち上がった。背丈はスザクより十センチほど低い。ぱたぱたと服を払い、目線を剃らしたまま口が開かれる。

「待ち合わせているわけではない。ただ、来てくれればいいなと思っていただけだ」
「それならなおさらこんな場所は相応しくないんじゃ……」

 誰を見つけたいのか知らないが、路地裏にやって来る人間は滅多にいない。スザク自身、猫を追いかけなければ入り込んでいなかった。

「あ、そういえば猫……」
「猫?」
「うん、黒猫がこっちに行ったと思ったんだけど、見なかったかな?」
「俺は顔を伏せていたから……、役に立たなくてすまない」

 思いがけず謝られ、スザクは慌てて首を振った。

「責めてるわけじゃないから謝らないで。僕が勝手に猫を追っていただけだし」

 今になって思えば、何故あれほど黒猫にこだわったのかもわからない。妙な焦燥感と追いかけなければという使命感みたいなものも今は消えていた。

「とにかく、待つならここじゃない場所がいいと思うよ」
「……ない」
「え?」

 何やらぽつりと呟かれたが聞き取れなかったため顔を近付けると、少年の頬が赤く染まっていた。

「だからっ、道がわからない」
「は……?」

 ぽかんとしたまま声を漏らすと、端正な顔立ちが不機嫌そうな色を見せた。

「人を待っているのは嘘ではないが、適当な場所を探していたら道がわからなくなってしまったんだ!」

 やけくそのように大声で言われたのは、要約するとつまり――。

「迷子?」
「迷ってはいない!わからないだけだ!」

 どちらも同じことだと思ったけれど、あまり苛めるのも可哀想な気がしてそれ以上突っ込むのはやめにした。迷子ならばここで座り込んでいた理由にも頷ける。

「で、君はどこに行きたかったのかな」
「それは……」

 そのとき、絶妙なタイミングで腹の虫の鳴る音がした。
 目の前の彼の顔がこれでもかというほど赤くなっている。思わず口許を緩めればぎろりと睨まれた。が、赤い顔ではちっとも迫力がない。

「お腹が空いているの?」
「べ、別に……っ」

 あくまで否定する彼にますます笑みが深まる。とても綺麗で、人間味に欠けるほどだと思ったけれどとんでもない。これほど表情豊かで人間らしくて、それなのに可愛くて美人で。
 (反則だなぁ)
 可愛い子に可愛い反応をされて嫌な気はしなかった。
 何より、彼と一緒にいると胸の内が不思議な温かさに包まれた。このままここで別れてしまうのは惜しいと思った。

「君、歳はいくつ?」
「……?十八だが」

 十歳違いかと思い、この聞き方はまるでナンパみたいだなと内心苦笑いする。
 でも三十路手前ならこんなものだろうと開き直って、スザクは少し屈むと少年と目の高さを同じにした。

「ねえ、デートしない?」
「はあ?」

 しかも、別れが惜しいとはいえ言うに事欠いて「デート」である。みたいではなく、完全にナンパだ。世界の救世主が十代の男の子をナンパしてデートを目論んだと知られれば、世界中から幻滅されること間違いなしだろう。

「あ、デートの誘いを本気にしないでね。要は一緒に食事どう?ってことなんだけど」
「だったら最初から食事と言えばいいだろう」

 胡乱な目を向けられ返す言葉がない。スザクの中でデート気分であることに違いはないのだが、本音を言ってこれ以上引かせてしまうのは逆効果だと黙ったままでいた。

「君の待っている人はいつ来るかわかっているの?ほかに予定があるならそれまででいいからさ」
「……待ち人はもういいんだ。この後の予定も特にない」

 少し躊躇った様子を見せ、紫の瞳がスザクに向けられる。どうしてだろう、それだけで泣きたいような気持ちになった。

「奢ってくれるのなら付き合ってもいい」

 少し偉そうな、しかし確かな了承の言葉にスザクは満面の笑みを浮かべた。

「ありがとう」

 こんな怪しい大人にほいほいついて行ってこの子は大丈夫なんだろうかと、自分の行いは棚に上げて心配しつつ、イエスをひっくり返される前にとその手を掴んだ。

「じゃあ行こっか」

 そしてぐいぐいと少年を引っ張る。

「えっ…、ちょ、っ」
「何が食べたい?何が好き?」
「何って……」
「君が行きたいところに連れてってあげるよ」

 これでは本当に若い女の子をナンパしたおじさんみたいだ。相手の若さに少々後ろめたさがあるのも事実だが、こうして付き合うのはこれっきりなのだと言い訳をする。少しだけ羽目を外しても許されるだろう。
 そもそも、ほんの数分前に出会った子供を食事に誘うこと自体、これまでのスザクの人生にはない。というより、下手をすれば犯罪だし、子供とはいえ相手が怪しい人間ではないという保証もない。もしかしたら新手の暗殺者である可能性もゼロではないのだ。
 でも、彼とはもう少し一緒にいたいと純粋に思った。

「お前の行きたいところでいい」

 通りに戻ってしばらく歩いていると、おずおずとした声が聞こえた。ぶっきらぼうで、でも優しさに満ちた声だった。

「――じゃあピザのお店でもいいかな」
「ピザ?」
「僕の近くにすごくピザ好きな人がいて、その人を前にするとピザなんてもうお腹いっぱいってなるんだけど、一度くらいは食べてもいいかなと思って」

 十年前の話だけど、とは心の中でだけ付け加えた。

「ピザか……」
「嫌い?」
「いや、俺の傍にもピザ好きがいたんだが、そいつのせいで毎日ピザを食べているようなつもりになっていた。でもよく考えると、俺自身はピザをほとんど食べたことがなかったと思い出した」

 昔を思い出すように彼が懐かしい表情を浮かべる。

「じゃあ決まりだね」

 それから店を探して、揃ってピザを堪能した。意外と美味いものだと同じ感想を漏らし、顔を見合わせて笑った。
 食事のあとは再び大通りを二人で歩いた。特別に何かをしたわけではない。「夜までに戻れば平気だ」という言葉を信じ、目的もなく街を歩いただけだ。
 気になった店があれば覗いてみて、彼が何か欲しそうな顔をすれば買ってあげた。そんなことはしなくていいと拒否されたけれど、無理やり付き合わせたお礼だよと強引に払えば渋々彼も頷いてくれた。買ったばかりの品物を渡すとき、少しはにかんだように笑ったのが嬉しくて、彼が喜ぶならなんでも買ってあげたいと思った。ふと、こういう気持ちが若い子をナンパするおじさんの気持ちなのかなと思ったけれど、仕方ないじゃないか可愛いんだからと完全に開き直った。
 見ず知らずの少年との仮初めのデートはあっという間だった。家を出たときはまだ午前中だったのに、気付けば夕飯の時間。昼食に続き夕食も一緒に食べ、食事を終えた頃にはそろそろ帰らなければいけない時間になっていた。

「明日も仕事だろう?」

 スザクの時間を気にしてくれた彼に、苦笑いのまま肩を竦める。

「幸いというか、フリーで働いているから普通のサラリーマンみたいに時間に縛られる仕事じゃないんだ」
「へえ、何をしているんだ?」
「人助けをする仕事、かな」

 嘘はついていない。職業は正義の救世主なのだから。

「君こそ大丈夫?もう帰らないと心配されるんじゃない?」
「ああ、そうだな」

 ちょっと付き合ってもらうにしては随分と時間が経っていた。まだ名残惜しいけれど、これ以上子供を付き合わせるのはさすがに大人として駄目だろう。
 レストランを出ると、彼が帰る方向だという道を歩く。
 街中だけあって夜も遅い時間だが通りはまだ明るく、人も多い。「はぐれないようにしないと」と言い訳をして手を繋げば、彼は一瞬目を見張ったけれど文句の言葉は出てこなかった。そういえば、最初に強引に手を掴んだときも何も言われなかった。少しは気に入られているのかなと自分に都合良く解釈し、夜の街を行く。
 こうしていると本当に恋人同士がデートをしているみたいだ。

「ここで大丈夫だから」

 通りの外れまで行ったところで手が離れる。ぬくもりが消えたことで急に不安に襲われた。
 何も知らない相手。たった一日付き合ってもらっただけで、明日になれば顔を合わせたとしてもただ通り過ぎるだけの相手。
 なのに、別れてしまうのが身を切られるほどつらいと感じた。

「ねえ、君の名前を教えて」

 一日が終わる頃に聞くことではないなと思えば、彼も同じことを思ったのか可笑しそうに笑った。

「名前なんて今さらだろう?それに、俺もおまえの名前を知らないのに俺だけが教えるのは不公平じゃないか?」

 指摘されて、確かにと頷く。ここで自分の名前を明かすのは簡単だけど、「スザク」と告げるのは彼相手でも抵抗があった。「枢木スザク」に気付かれる可能性は欠片ほどでもあってはならない。だからといって偽名を教えても意味がない。ならば何もしないのがベストなのだ。

「それじゃあ。今日一日楽しかった」
「僕も楽しかったよ、ありがとう。君の待っている人が早く来てくれればいいね」

 最後にそう付け加えると、彼は静かに笑みを浮かべた。

「それはもういいんだ」
「どうして?」
「もう見つかったから」
「どういうこと?」

 自分の気付かないうちに彼の待ち人とすれ違っていたのだろうか。だったら悪いことをしてしまったと思うが、彼の顔はにこにこと笑ったままだった。

「お前のおかげだ。俺のほうこそありがとう」
「うん。――じゃあ、ね」

 小さく手を振り、後ろ髪を引かれる思いで来た道を戻った。シュナイゼルに出かける旨は伝えているけれど、あまり長時間所在不明なのはよくないだろう。
 一歩。二歩。少しずつ彼と離れる。
 また会えないかな。喉元まで出かかった言葉はとうとう言えなかった。

「スザク」

 しかし、思いがけない単語にびくりと足が止まる。
 それは十年ぶりに他人の口から呼ばれた名前だった。
 かつての枢木スザクを知る人間ですらその名は呼べなくなった。今は「ゼロ」が自分の名前なのだから、このまま本来の名前を一生呼ばれないとしても仕方がない、むしろ本望だとさえ思っていた。
 では、どうして失ったはずの名前が呼ばれているのだろう。
 スザクは恐る恐る振り返った。
 彼には自分の正体を明かしていない。あの枢木スザクであることは当然知らないはずだ。それなのに、どうして彼は「スザク」と呼んだのだろう。
 不安と警戒心が露わになったままの顔を向けると、彼が口許に弧を描いた。

「こういうのをどっきり成功と言うんだっけ?会長が好きだったよな」
「……ル、ルーシュ?」

 あり得ないはずの名前を、だけどスザクの口は自然と紡いでいた。
 だけど、先ほどまでずっと一緒にいた相手がルルーシュだったと、今になって気付くなんてそんなことがあるのだろうか。

「デートというのもしてみるものだな」
「ルルーシュ」
「お前のほうが背が高いのは少々癪だし、おごってもらってばかりというのも面白くないが、まあ無理やり付き合わせたのはお前なんだから仕方ない」

 負け惜しみのような科白は間違いなくルルーシュだ。
 あの頃と、十年前と変わらないルルーシュだ。

「ただし次は俺がエスコートするからな、覚悟しておけよ」

 にやりと笑って見せる顔もルルーシュだ。
 スザクは思わず一歩を踏み出した。

「ありがとう、スザク」

 そして綺麗な笑みを浮かべたルルーシュの姿は、唐突に掻き消えた。
 何もかもが夢だったかのように何一つ残すことなく。
 スザクは呆然とその場に立ち尽くした。突然の非現実的な出来事に頭がついて行かない。
 のろのろと首を回し、ぼんやり街の様子を眺める。変わりない風景が広がる中、あるものを見つけて「あ、」と声を漏らした。
 仄かな光が灯るオレンジ色のカボチャ。日本人のスザクには馴染みのないものだが、あれはジャックランタンだと教えてもらったことがある。今の今までハロウィンに気付かなかったのは情けないが、日本にはない風習なので仕方ない。

「そうか、ハロウィン……」

 お盆みたいなもの?と聞くと、まあそんなところだと言われた。
 つまり、死者が帰って来る日。

「僕のところに帰ってきてくれたのかな……」

 そう考えると嬉しいけれど、十年もかかったのは何故なのか。ナナリーやほかの大切な人を先に回っていたら自分は最後になってしまったのだろうか。それが真実だったらちょっとヘコんでしまう。
 だけど、「次は」と言っていたからルルーシュはまた来てくれるのかもしれない。そのときもまたルルーシュだと気付かないままなのは嫌だなと思い、スザクはようやく固まっていた足を動かした。大通りのど真ん中で突っ立っているのは不審すぎる。

「……お盆みたいなものということは、一年に一度しか会えないってことだよね。それじゃあまるで七夕みたいだな」

 ふふ、と小さく笑う。
 相手は死者だが、ひどくロマンチックではないか。
 せっかくだから「おかえり」を言いたかったのに、それすら言わせてくれないのはルルーシュらしい。

「また来年だね、ルルーシュ」

 都合のいい夢なのかもしれない。
 それでも、自分を選んで会いに来てくれたことが嬉しかった。
 死者の『次』は生者が死ぬときというオチだとしても、ルルーシュに会えるのならそれでもいいやと思う。もっとも、ルルーシュが聞いたら怒るかもしれないな、と口許に笑みを残したまま家路につく。
 来年は自分の家にもジャックランタンを飾ろう。その明かりを頼りにルルーシュが帰って来てくれればいい。
 淡く優しい灯火が、夜の闇に包まれた道をどこまでも照らしていた。
 (10.10.24)