クチナシ

 胴着を脱ぎ捨て、シャワーを簡単に浴び、髪を乾かしてから騎士服へと着替えたスザクは、姿見の前で己の格好を確かめた。
 ベルトの位置を直し、襟元を整え、腰に下げた剣をおまじないのようにひと撫でする。一連の動作を終えると、よし、と小さく声を出した。
 ドアを開けて隣の部屋へ向かう途中、廊下に立つ兵士達に「おはよう」と朝の挨拶をすれば、ぴたりと揃った敬礼が返ってきた。
 彼らに見守られながらパネルを操作すると、ピピッと電子音が小さく鳴る。ドアがスライドして、スザクは声をかけることなく部屋の中に入った。
 この瞬間、スザクはいつも優越感に満たされた。ブリタニア皇帝の私室に自由に出入りできるのは世界中で自分ひとりなのだと、誰彼構わず自慢して回りたいような気分だ。
 子供っぽい優越感に苦笑いするけれど、皇帝のプライベートに踏み込む権利を唯一与えられているのは事実だった。
 スザクの主である神聖ブリタニア帝国第九十九代皇帝は、スザクの恋人でもある。その恋人から特別扱いされて優越感に浸らない人間がいるだろうか。
 (僕だけが特別だって言葉よりも何よりもこの事実が語っているから)
 彼にとっては何気ない許しが恋人の優越感をくすぐっていることを、果たして当の本人は気付いているのか。
 寝室に足を踏み入れ、ベッドの上にこんもりとできた山を見下ろしながら、スザクは口元に笑みを乗せた。ほんの一時間前まで、自分の腕の中に彼がいたのだと思えば愛しさが増す。

「おはようございます、陛下」

 まずは朝の挨拶から。しかし、これでは起きないことを知っている。
 失礼いたしますと断り、肩の辺りを軽く揺すった。

「朝食の時間です。起きてください」

 幼子がぐずるような声が微かに聞こえた。もぞもぞと身体が動き、枕に乗っていた頭がシーツの中にもぐる。

「駄目ですよ。今日は定例会議なのですから、遅刻できません」
「あと一分……」
「一分ではどうにもならないでしょう。いい加減、諦めてください」

 そう言うや否や、スザクはシーツを思い切り剥いだ。途端に不満の声が上がる。

「昨日遅かったんだ……」
「勝手に夜更かしをされただけで、自業自得ですよね?」
「皇帝に向かってなんという言いぐさだ。悪逆騎士め。あと五分ぐらいいいじゃないか」
「あと一分じゃなかったんですか」

 枕にしがみ付き、柔らかい羽毛に顔を埋めてぶつぶつと文句を言う皇帝陛下はまさに幼児であった。二十歳を過ぎた成人男性、しかも一国をあずかる皇帝がこんなに可愛くていいのだろうか。
 任務中でなければにやけていたであろう顔を引き締め、スザクは皇帝陛下から枕を取り上げた。
 縋るものをなくし、ベッドの上で仰向けになった彼は己の騎士をじっと見上げてきた。

「――スザク」

 名前を呼ぶ声に頬を緩め、身をかがめる。そうして、甘い唇に触れるだけのキスをした。
 伸びた両手が首に巻き付くのを待つと、薄い背中に腕を回して起き上がらせた。

「おはよう、ルルーシュ」
「おはよう」

 これは今日一日を始めるための儀式。
 彼が皇帝に即位したときから続いている習慣は、恋人達だけの秘密だった。
 皇帝陛下の朝は早い。皇帝付きの者ならば誰もが知っていることである。
 しかし、皇帝陛下は朝が弱い。そのことを知るのは皇帝の唯一の騎士、ただひとりである。
 ルルーシュが目を覚ますのは朝の六時と決まっていた。朝一番の仕事はニュースに目を通すことで、朝食は七時に運ばれる。自室で騎士と一緒に食事をとるので、それに合わせて使用人達は動いていた。
 朝は騎士と打ち合わせを行いたいというルルーシュの希望により、給仕が終わると使用人は全員が下がった。皇帝からの呼び出しがあるまで部屋には誰も入れない。
 そのため、新しい皇帝陛下は朝から精力的に職務をこなされると噂され、陛下は朝がお強いと誰もが思い込んでいた。
 (五時か……)
 活動を始めるにはまだ早いけれど、城の中の人々が徐々に自分の仕事を始める時間帯でもあった。
 皇帝の一日は忙しい。朝から晩までやることは山積みで、文字通り、寝る間を惜しんで働いていた。短い睡眠時間で充分な体質とは言え、体力のないルルーシュなのであまり無茶をすると身体が悲鳴を上げてしまうのは自覚している。だから、朝は一分一秒でも惰眠を貪りたい。
 それなのに、五時になると決まって目が覚める。
 周囲は六時が皇帝の起床時間と認識していて、騎士も例外ではない。こんな時間に目を覚ましていることは誰も知らなかった。
 では、なぜ朝の五時という時間に起きるのか。
 (行ったか……)
 今日も今日とていつもの時間に意識を浮上させたルルーシュは、扉の閉まる音を耳で確かめてから再びベッドに懐いた。
 こうして毎朝同じ時間に目が覚めてしまうのは、ひとえに騎士のせいである。
 スザクは五時になると鍛錬のために部屋を出る。日中はトレーニングの時間が取れないせいか、早朝の鍛錬をするのがナイトオブゼロとなって以来の彼の習慣だ。
 鍛錬自体は別にいい。軍人の彼が身体を鍛えるのは当然のことだし、皇帝の騎士として最強の強さを保ち続けるためにも鍛錬を怠ることがあってはならない。
 でも、隣にあったはずのぬくもりがないことに気付いた途端、ベッドがひどく冷えるのだ。おかげで、どんなに深く眠っていてもスザクがベッドを離れるとわかるようになってしまった。
 起きたからと言って挨拶を交わすわけではない。スザクを見送るわけでもない。
 ただ、スザクの足音を耳が追う。
 部屋を出て行く前にルルーシュのこめかみにキスを落としていく感触を全神経が感じる。
 最後に、彼が寝室の扉を閉める音を聞いて二度目を決め込む。
 そんなことがすっかり習慣になっていた。
 (貴重な睡眠時間を削ってまで何をやっているんだか)
 ブリタニアを統べる絶対的な存在である皇帝が、たったひとりの人間に振り回されていた。何をしているのかと自分でも呆れてしまう。
 もぞもぞと身体の向きを変えたルルーシュはスザクのぬくもりが残るシーツに手を伸ばし、抱き締めるようにして俯せになった。
 こんな風にルルーシュがひそかに目覚めていることをスザクは知らない。
 目覚めていると言っても実際には夢うつつの状態だ。目を閉じて彼の気配を感じているだけなので、正確には起きていると言えないのかもしれない。いずれにしろ、ただの自己満足と癖のようなものである。
 とにかく二度寝だ、とルルーシュは身体を丸めた。あと一時間も余裕がある。そのときにはスザクがちゃんと起こしてくれるだろうと思い、意識はあっという間に落ちていた。
 次に気付いたときには、世界がやけに眩しかった。

「おはようございます、陛下」

 いつものようにスザクの声がした。いつものように肩を揺すられる。眩しいのはカーテンが開けられたせいだろう。
 ベッドから起き上がる気になれなくて、ルルーシュは唸るように声を漏らした。睡眠時間は短くても大丈夫だけど、朝そのものは弱いのだ。

「まぶしい……」

 朝陽の眩しさにむずがり、大きな枕に顔を埋める。
 昨日も遅かった。あと十分。いや、あと五分だけ寝かせてくれ。
 そんなことを心の中で訴えていたら、スザクの手が頭に乗った。幼子にするようにしばらく撫でたかと思えば、今度は髪を梳く。
 朝の寝室はとても静かで、彼の指の隙間から黒髪がさらさらと零れ落ちる音が聞こえるようだった。
 (きもちいい……)
 スザクに髪を触られるのは好きだ。幼い頃、なかなか寝付けないときに母が頭を撫でてくれたことを思い出すからなのか、単にスザクが相手だからなのか。
 今だってうとうとしてきて、再び瞼がくっ付いてしまった。いい加減叩き起こされるかと覚悟したけれど、珍しくお小言も何もない。
 ならばもう一回寝てしまおう。今日の仕事はバースデーパーティーの主役だけだし、そのパーティーは昼過ぎの開催だから時間はまだまだある。久しぶりにゆっくりできる朝なのだから二度寝しなければもったいない。
 しかし、耳元に触れた何かのせいで目を開けた。その何かに舐められ、耳朶を甘く噛まれる。

「……っすざく」

 手で払いのけようとしたけれど、あっさり押さえ込まれて身動きが取れない。手首を掴まれ、シーツに縫い止められた。唯一自由だった両足も、覆い被さってきたスザクによって抵抗を封じられる。
 スザクはなぶるようにしつこく耳を舐めていた。ぴちゃ、と濡れた音が鼓膜を震わせ、反射的に身体を竦ませる。

「スザク、ほんとにやめ……っ」
「まだまだお時間はありますよね? だったら、もうしばらく僕にお付き合いください、ルルーシュ陛下」
「この……っ、ン、んぅ!」

 耳の後ろに舌を這わされ、背筋にぞくぞくとしたものが走る。スザクの拘束から逃れようとしていた身体からも力が抜け、気付けばされるがままになっていた。

「ふぁ、ん……ンン、ンっ」

 ようやくスザクが身を起こしたかと思えば、次は唇を塞がれた。触れるだけのキスではなく、初めから深く合わせるキスだ。
 無意識に口を開いてしまったのは刷り込みのようなもので、朝から濃厚すぎる口付けに、起き抜けの頭はすっかりくらくらしていて何も考えることができない。
 普段はこんな悪戯を仕掛けてこないのに、今日はどうしたのだろう。そんな疑問はキスの甘さに溶けてしまいそうで、しかしルルーシュは必死に手を動かしてスザクの胸をなんとか押し返した。

「っ、わかった、起きる、起きるからもうやめろ、ッ」
「たまにはいいではないですか」
「何がだ! これ以上するなら……!」

 不意に抱き締められ、文句の言葉は途中で飲み込んだ。
 ぴくりとも動かない騎士に、やはり今日のスザクはどこかおかしいと訝ったルルーシュは、手を伸ばして彼の背中をゆっくり撫でた。

「俺が起きないから怒ったのか?」
「まさか」

 その口調は騎士のものではなく、プライベートのときのものだった。機嫌を悪くしたわけではないらしいと確信し、ならばほかに何があったのだろうと思案する。

「不愉快なことでもあったか?」
「逆だよ。嬉しくてたまらないの」
「はあ?」

 思わず声を上げれば、スザクが身を起こした。
 ルルーシュの顔の横に両手をつき、身体は両足で封じられる。簡素な牢獄は、彼と二人きりであることを伝える甘い檻でもあった。

「ルルーシュの誕生日だと思ったら嬉しくて」
「人の誕生日だろ」
「ルルーシュの誕生日だよ」
「で?」
「今日、ルルーシュが生まれたんだなって考えるだけで幸せな気持ちになれるんだ。それでちょっと箍が外れた」

 箍が外れた結果が早朝からの濃厚なキスなのかと、呆れるような居たたまれないような気分になる。そもそも、なぜ人の誕生日で箍が外れるのか理解できない。

「誕生日なんて今まで何度も迎えているだろう」
「そうなんだけど、何度お祝いしてもやっぱり今日は特別なんだよ」
「他人の祝い事でそこまで思えるとは、お人よしなのか馬鹿なのか」
「馬鹿って言わないで」

 スザクの顔が再び近付く。温かい唇が優しく触れて、ハッピーバースデー、とキスをしながら囁かれた。

「僕が一番に伝えたかったんだ」
「それは……どうも」
「というわけで、もう少し寝ようか」
「は?」

 どういうことだと突っ込む前に、スザクがベッドへ潜り込んできた。

「起こしに来たんじゃないのか。もう朝食の時間だぞ」
「それなら大丈夫。朝食は二時間後ってお願いしてるから」

 スザクのくせにやけに根回しがいい。まさか最初からそのつもりだったのか。

「俺はともかく、お前は一度起きたくせに! 鍛錬だってさっき……!」

 途中まで言いかけて口を噤んだ。
 スザクが早朝の鍛錬に行っていることをルルーシュは知らないことになっている。
 余計なことを言わなければスザクは気付かないだろう。なぜ知っているのかと問われたら、単に予測しただけだと言い訳すればいい。だから問題ない、とルルーシュが動揺を隠しているとスザクがにこりと笑った。

「うん、鍛錬なら済ませてきたよ」
「そ、そうか……」
「汗も流したから臭くないし」
「お前の匂いだろう? 臭いわけがない」
「その発言って無自覚?」
「何がだ?」
「わからなければいいんだ。で、こうしてまたパジャマを着てきたわけ」
「汗を流したのに?」
「だって騎士服だと寝られないし」
「なぜ寝る」
「ルルーシュの誕生日だから」
「意味がわからない」
「いいからいいから。とにかく二度寝しよう。ベッドの中でイチャイチャするのでもいいけど」
「誰がするか」

 悪態をついたのに、何が嬉しいのかスザクはにこにこ笑ったままだ。腰に手を回され、温かい体温に包まれる。

「今日のバースデーパーティーはお昼過ぎだろう? 移動時間を含めても、着替えまであと五時間ある」
「五時間か」
「だから、それまでの時間を僕にくれない?」

 上目遣いに見れば、まだイエスと答えていないのにスザクは満足そうにしていた。

「今日は俺の誕生日だぞ。お前にプレゼントをやってどうする」

 そう言いつつも、ルルーシュの顔は笑っていた。好きな人と二人きりの時間は、確かに嬉しいプレゼントだ。
 もぞもぞと動いて体勢を変えると、騎士兼恋人の胸に顔を埋める。
 スザクの身体からはいつもと違うボディソープの香りがした。抱き合ったあとはルルーシュの部屋の浴室で汗を流すけれど、今朝は鍛錬のあとだから彼の部屋を使ったのだろう。慣れない香りは、スザクが一時でも自分から離れた証のようで少し寂しい。

「ところで、いつか言おうと思っていたんだけどさ」
「ん?」
「無理して早起きしなくていいよ」
「なんのことだ」
「僕と一緒に起きる必要はないってこと」

 しばし考え、ルルーシュはがばりと顔を上げた。
 毎朝、五時に目を覚ましていることを言われているのだと気付き、うろたえてしまう。

「一緒に起きてくれるルルーシュは可愛いけど、貴重な睡眠時間を削らせるのは申し訳なくって」
「な……、お、俺は別に……」
「君の気配に僕が気付かないと思った?」

 優しい好青年を絵に描いたような笑顔に、ルルーシュは口をぱくぱくさせるだけだった。あんなに言い訳を考えていたのに不意打ちはずるい。
 しばらくスザクの顔を眺めていたルルーシュは、溜め息をつくと元の体勢に戻った。息を吸い込むと、ボディソープに混じって彼自身の匂いがした。
 とても安心できる匂いだ。

「黙っているなんて性格が悪い」
「可愛くてつい」
「何が可愛いだ」
「それに、天下のブリタニア皇帝が僕のためにこっそり起きてくれるのが嬉しくて」
「馬鹿だな」
「うん。でも、やっぱりちゃんと休んでほしいから。いつかちゃんと言おうと思っていたのに、先延ばしにしちゃって本当にごめん」

 甘えるように身体を寄せると、スザクの腕が強くなる。

「だったら、お詫びとして誕生日プレゼントを要求していいか」
「ルルーシュがプレゼントを欲しがるなんて珍しいね。何がいいの?」
「お前の時間」

 顔は見えないけれど、スザクがきょとんとしたのがわかった。

「お前のせいで毎朝目が覚めて迷惑しているんだ。だから、俺が起きる時間まで一緒にいろ。鍛錬はそのあとでもいいだろう? お前が戻って来るまで俺は朝刊を読んでいるから、朝食はお前の鍛錬が終わったあとだ」

 まくし立てるように言い、スザクの胸に額を押し付けた。
 反応は返ってこない。
 (しまった、言い方を間違えたか? 迷惑しているなんて言ったから、本当に迷惑だと勘違いされていたり……。だが、ベッドが寒くて嫌だなんて絶対に言えないし、だからって鍛錬そのものを禁止するわけにもいかないし、ほかに何をどう言い訳すれば……)
 ルルーシュがぐるぐると考えていたら、いきなりぎゅうぎゅうと抱き締められた。先ほど以上に強い力で息が止まりそうになる。

「あー、本当に可愛くてたまらない」
「馬鹿なことを言ってないで離れろ、この馬鹿力! 窒息する!」

 ごめんごめんと適当な謝罪をされる。腕は緩んだものの、拘束は相変わらず解かれない。
 これでは二度寝できないではないかと胸のうちでぼやくけれど、スザクに欲しがられているみたいで嫌ではなかった。

「かしこまりました。皇帝陛下の仰せのままに」

 騎士の口調で言ったかと思えば、髪にキスを落とされる。

「そういうわがままはプレゼントじゃなくても叶えてあげるからもっと言って」
「もっとと言われても」
「それに、今日は君の誕生日なんだから」

 誕生日だから。
 ならば、もう少しわがままを言ってもいいのだろうか。

「――じゃあ、もう一度」
「ん?」
「誕生日……祝ってほしい」

 午後には大勢の人から祝ってもらえるのに、たったひとりの人からの言葉が欲しい。それは最高の贅沢で、最大のわがままだ。

「それだけでいいの?」
「お前だからだ」

 ルルーシュが頬を緩めると、スザクが耳元に唇を寄せた。ルルーシュ、と呼ぶ声はひどく甘ったるく聞こえた。

「誕生日おめでとう。君が生まれてきてくれて良かった。僕と出会ってくれてありがとう」
「今日は俺の誕生日だと言ってるだろ」
「ルルーシュの誕生日だと思ったら嬉しくてたまらないって言ったよね」

 顔を見合わせ、二人でくすくす笑い、心地よいベッドの中で互いの体温を感じ合う。

「ありがとう、スザク」

 感謝を告げる言葉には嬉しさと愛しさが滲み出ていた。
 今年もきっと良い一年になるだろう。
 とても幸せな誕生日の朝だった。
 (18.12.05)