書類を捲っていた手を止める。
明日は早朝会議が入っているし、そのあとは昼食も兼ねた視察があり、戻ったら謁見を数件こなして、夕方には他国の首脳との電話会談だ。
皇帝の一日は忙しい。分刻みでスケジュールが詰まっており、ゆっくり書類に目を通せるのは夜も遅くなった頃である。
置き時計を見れば、すでに二十三時を過ぎていた。今日も終わるなとぽつりと零したルルーシュは、それから盛大な溜め息を吐き出した。
「なんで俺はあんなことをしてしまったのだ……」
書類の上に肘を付き、頭を抱えて黒髪をぐしゃぐしゃとした。世界の大国ブリタニアの第九十九代皇帝がこんな格好で唸っているなんて誰が思うだろう。
若くして世界の頂点に立ったルルーシュ皇帝の人気は高い。前皇帝である父が強硬路線を取っていたのに対し、一年前に皇帝となったルルーシュは軍事だけでなく医療や福祉にも力を入れていた。さらに、エリア制度と呼ばれる他国への侵略も順次撤廃していったことで、世界からは正義の皇帝と評されている。
ブリタニア国民からの支持も高く、十七才という若すぎる即位に当初は不安視する声があったものの、今では歴代皇帝の中でも一、二を争う人気ぶりだ。
しかし、そんなルルーシュに対する反発がまったくないわけではない。何かを変えるには多少の荒療治も必要だということで、これまで不正を働いてきた貴族や商人を厳しく取り締まったところ、各地で皇帝への反乱が起こるようになった。もっとも、それ自体はあらかじめ想定していたことだし、反乱自体も小規模なものが多く、既得権益を失う貴族たちの最後の悪あがきに過ぎなかった。
そして、そういう反乱や各地でのテロの際に大いに活躍するのがナイトオブラウンズであり、ラウンズを越える存在として特別に任命したナイトオブゼロである。
彼らはルルーシュの手足としてよく働いてくれていた。ラウンズは一人が一個師団に相当すると言われ、軍隊を動かして大規模な遠征をするよりずっと効率的だ。もちろん単騎で行動させることはないが、彼らをひとり投入するだけで遠征軍の規模を小さくできるし、戦闘もあっという間に終わる。
とりわけ、唯一の騎士とされているナイトオブゼロの活躍は素晴らしく、ほかのラウンズが束になってかかっても彼ひとりに敵わないと言われるほどの実力だ。
(今回の遠征を任せたのがスザクで良かった……)
そして、ルルーシュの溜め息の原因はそのナイトオブゼロ・枢木スザクに関係していた。
遡ること十六時間前。発端は起床時の出来事である。
毎朝、ルルーシュを起こしに来るのはスザクの役目だ。お前は騎士だが、召使いではないのだからそんなことはしなくていいと言うのに、この習慣はルルーシュが皇子だった頃から変わらない。
ルルーシュの起床時間は七時と決まっていて、今朝も時間ぴったりにスザクが部屋にやってきた。深夜まで資料を読みふけり、寝不足だったルルーシュは当然すぐには起きなかった。
「陛下、起きてください。今日は朝から謁見が入っています。寝ぼけた顔で玉座の間に向かうおつもりですか?」
「んん……」
「陛下」
皇帝就任以来、忙しくない日はなかったが、ここ数週間は輪をかけて忙しかった。夜更かしが得意なルルーシュもさすがに疲れていて、すぐに覚醒することができない。スザクの声を夢うつつに聞きながら、夢の中で返事をするという有様だ。
「陛下、ルルーシュ陛下」
だから、ようやく目を開けても頭はまだ眠っている状態だった。ベッドに手を付き、自分の顔を覗き込んでいるスザクを夢だと認識していた。
「スザク……」
「はい?」
手を伸ばせばスザクが身を屈めた。肩を掴み、首に抱き付くと「ルルーシュ?」と騎士らしくない慌てた声が聞こえた。
二人きりのときは昔のように名前で呼べと言うのに、律儀な彼はもうずっと前から「陛下」か「ルルーシュ陛下」としか呼んでくれない。
でも、夢の中だからスザクも名前を呼ぶのだなと、ルルーシュはふふっと笑った。そして、鍛え上げられた体をさらに抱き寄せた。
「ルル――」
そのあとのことはなんとなくしか記憶にない。できれば忘れたい。でも、一生に一度のことならもう少し覚えていたかったと相反することを思う。
とにかく、あのときの自分は正気ではなかった。まだ寝ていたのだ。夢に片足を突っ込んでいる状態だったのだ。
だから、自分の騎士になんの躊躇いもなくキスができたのだ。
顔を寄せ、少しかさついた唇に触れて、自ら舌を差し出して、唾液の絡まる音が聞こえるようなキスを。
「馬鹿じゃないか! 本当に馬鹿じゃないのか俺は…!」
深く触れた唇の感触を思い出し、ルルーシュはあまりの居た堪れなさに叫びながらまた頭を抱えた。目を閉じるとリアルに再現されてしまいそうなので、決して瞼を下ろすことなくますます小さくなった。
(スザクは俺の騎士で、友達で、そういう対象にはならないのに、本当に馬鹿だ馬鹿だ、大馬鹿だ!)
スザクとキスをする夢を見ました。だから、目が覚めても現実がわからず、夢の延長だと思ってキスしてしまいました。
という言い訳は恐らく通用しないだろう。そもそも、なぜ騎士とキスをする夢なんて見るのかというところから説明しなくてはならない。
(お前のことが好きだから、なんてもっと言えるわけがない!)
スザクとの出会いは彼が十才でブリタニアにやって来たときのことだから、もう八年も前になる。
彼の立場は表向きは留学生だが、実際は人質だった。当時は日本との仲が悪く、ブリタニアが日本に攻め込まない条件として首相の息子のスザクが人質となったのだ。
十才の子どもに人質としてどれだけの価値があったのかは不明だが、緊迫する両国の関係とは真逆に、ルルーシュとスザクはあっという間に仲良くなった。最初こそ殴り合いの喧嘩をしたが、一ヶ月が経つ頃にはお互いが一番の友達になっていた。ルルーシュには同年代の知り合いがいなかったし、スザクは人質で頼れる人間なんていなかったから、二人が仲良くなったのは必然だったとも言える。
その後、ブリタニアと日本が和平条約を結び、スザクは日本に帰ってもいいということになった。だが、彼は帰国しなかった。「ここに残ってルルーシュを守る騎士になる」というのが理由だ。
それは二人が戯れに交わした約束のひとつで、まさかスザクが本気にしていると思っていなかったルルーシュは慌てた。自分のせいで彼の人生をおかしくさせるわけにはいかないと、日本に帰るようしつこく説得した。でも、スザクは首を縦には振らなかった。
ルルーシュは危なっかしいから俺が守ってやらなきゃ。説得のたびにそう言われた。
やがてルルーシュもスザクの熱意に負け、なれるものならなってみればいいだろと半ば突き放すようにスザクと距離を置いた。そうすれば彼も自分なんか嫌になって帰りたくなるだろうと思ったのだ。
しかし、ルルーシュの企みとは裏腹にスザクは士官学校に通い始め、めきめきと力をつけていった。ブリタニア人の中に日本人がひとり混じって苦労も多かっただろうに、決して弱音は吐かなかった。ラウンズ相手の稽古でなかなかいい線をいっていたぞと姉のコーネリアに聞かされたときは、心配しつつも誇らしい気持ちでいっぱいだった。
そうして、初めて出会って五年が経ったとき、ルルーシュはとうとうスザクを騎士にすることとなった。五年越しの夢を叶えたスザクは嬉しそうで、お前には負けたよと言えば、悪戯が成功したときのような顔で笑っていた。
その後、ルルーシュが十七才で皇帝に即位すると、スザクをナイトオブゼロとして就任させた。思い返せば、あのときが自分にとっては一番幸せな時期だったかもしれない、とルルーシュは心の中で呟いた。
即位して一年。色々あったけれど、スザクとの関係はずっと良好だった。友達で、共に戦ってくれた戦友で、背中を預けられる騎士で、彼がいなければ今の自分はないかもしれない。
(ずっとそれで良かったはずなのに)
この気持ちに気付いたのはいつだろう。皇帝となったルルーシュにスザクが少しだけ距離を置くようになったのと同じくらいだろうか。
自分はスザクが好きだ。唐突に気付いてしまった想いは、もしかしたら出会った当初から抱いていたのかもしれない。
蒔かれていた種が今になって芽吹いただけで、自分はずっとスザクのことを好きだったのかもしれない。
(これが男女なら純愛になるが、男同士なら単なる笑い話だな)
スザクをナイトオブゼロにしたのは間違いだった。自分はとんでもない選択をしてしまった。そう後悔したのは一度や二度ではない。いっそ、今すぐ解任しようかとも考えたが、それではスザクの不名誉になってしまう。理由だって説明できない。
何より、スザクがすぐ傍にいてくれるという誘惑に勝てなかった。たとえ気持ちを告げられなくても、想いを遂げられなくても、スザクのもっとも近くにいるのは自分だ。彼が命をかけて守るのは自分だけだ。その自負がルルーシュの密かな支えとなった。
スザクが騎士として傍にいてくれるのなら、今後スザクが結婚するようなことになったとしても生きていける。自分はちゃんと立っていられる。
そう思ってきたのに、たった一度のキスで今まで保っていた何かが崩れそうになった。
傍にいてくれればそれでいい、というのは単なる詭弁だ。本音ではスザクが欲しくて欲しくてたまらないくせに、一緒にいられるなら幸せだなんてよく言えたものだなと自分に嗤う。
(スザクはどう思っただろう。やはり気持ち悪かっただろうな……)
キスをしてしまったあと、寝ぼけたふりをして再びベッドに潜り込んだから、彼がどんな反応をしていたのかはわからない。怖くて確かめたくもない。
肝心のスザクは朝から遠征に出ていて、今朝はその挨拶も兼ねていたのだが、自分の仕出かしたことで頭がいっぱいになっていたルルーシュはまともに返事ができなかった。
(今回は最低でも三日はかかるはずだから、その間に心の整理をして、戻ってきたあいつへの言い訳を考えておかなければ)
顔を上げ、ぐちゃぐちゃになった髪を整える。
とりあえず湯でも浴びるかと立ち上がったところで誰かが部屋を訪ねてきた。こんな時間に仕事はない。火急の用件かもしれないと入室を許可し、扉のほうに目を向けたルルーシュは固まった。
そこに立っていたのは、あと三日は帰ってこないだろうと思っていたスザクだった。
「ただいま戻りました、陛下」
「なっ、お前なんで……、三日はかかる計算だったのに……」
「半日で終わらせてきました」
「半日? 半日で鎮圧したと言うのか?」
「残務処理は残っていますが、あとのことはジェレミア卿に任せてきました。どうしても今日のうちに戻って、あなたの顔を見たかったから」
「なぜだ?」
「今日がなんの日か、お忘れですか?」
スザクが一歩近付く。ルルーシュは緊張に体を強張らせたままその顔を呆然と見つめた。
「これをどうぞ」
「え?」
差し出されたのは薔薇の花束だった。スザクの突然の帰還にすっかり気を取られ、彼がそれを抱えていたことに気付かなかった。咄嗟に受け取ったルルーシュは、薔薇とスザクを交互に見比べた。
「どういうことだ?」
「九十九本あります」
「九十九?」
ちっともわからなくて首を傾げる。するとスザクが柔らかく笑った。
「どういう意味かはあとで調べてみてください」
「意味があるのか?」
「ええ。今日は僕があなたの唯一の騎士になれた日ですから、それも重要かな」
「あ……」
ルルーシュは目を瞠った。そうだ、と思い出す。
正式な叙任式はもう少し先だが、今日は一年前に二人きりで誓いを立てた日だ。お互いが唯一であると、そう約束した日だ。
「すまない、忙しさにかまけてすっかり忘れていた」
こんな大事なことを忘れて、キスだなんだと頭を悩ませていた自分が恥ずかしい。申し訳なくて謝れば、スザクは首を振った。
「僕が勝手に覚えていただけですから。そんな顔をされたらかえって申し訳ないです」
「でも……」
「それに、自己満足でもあるんです。今朝のことがあったから、この想いを伝えるなら今日がいいなと思って」
今朝という単語に己の失態を思い出す。あれは違うんだ、寝ぼけていただけなんだと弁解しようとしたルルーシュだが、
「申し訳ありません」
とスザクのほうから謝られて口を噤んだ。どうしてスザクが謝るのだろうと不思議に思っていたら、お許しくださいと懺悔のような言葉をかけられる。
そして、距離を詰めたスザクの唇が近付き、触れるだけのキスをされた。
ゆっくり離れていく顔をルルーシュはただ見つめることしかできなかった。
「これが僕の返事です」
「え……?」
「今朝、僕に抱き付いて、好きだとおっしゃったことをお忘れですか?」
「な…っ」
言ったかもしれないし、言っていないかもしれない。自分が何を口走ったのかまったく覚えていないけれど、スザクがそう言うなら事実なのだろう。
顔を赤くして狼狽えていると、意地悪そうに微笑んだスザクは踵を返した。そのまま部屋を出て行こうとするのを慌てて呼び止める。
聞きたいことや確かめたいことは山ほどあるけれど、何をどう聞けばいいのかわからない。ふと、腕の中にある花束の存在を思い出し、声を張り上げた
「スザク、待て! この薔薇の意味を教えろ!」
おもむろに足を止めたスザクは、わずかに顔を横に向けた。
「永遠の愛ですよ」
「あい……?」
「明日の朝、百八本の薔薇をお持ちしますから、そのときに返事を聞かせてください。もっとも、僕としては一年前の陛下の就任式が結婚式ぐらいの気持ちだったんですけど」
「は?」
ルルーシュが戸惑っている間にスザクはさっさと部屋を出て行った。
残されたルルーシュはしばらくぼんやり突っ立っていたが、我に返ると急いで机に戻った。端末で九十九本と百八本の薔薇について調べ、その結果にまた固まった。
だから永遠の愛なのかと赤面し、「いやそんな、まさか、でも」とひとしきり狼狽したあと、腕の中の花束を抱き締めた。棘が刺さらないように、潰さないように、そっと。
「――あの馬鹿」
頬を赤くして呟き、赤い薔薇に目を落とした。
これが嘘や冗談だったら許さない。人にこんな思いをさせておいて、騙されたのかと笑ったら絶対に許さない。
「返事は明日の朝、たっぷり聞かせてやるからな。覚えておけ」
吐き捨てるような口調に甘い響きがあったことには気付かないふりをした。
「結婚してくださいって、それより前に言うことがあるんじゃないのか」
(15.08.31)