きみの声

 疲れていると言えば疲れていた。
 連日の激務に加えて寝不足だ。身を粉にして働かなければいけない時期は当に過ぎたのに、体を限界まで酷使させなければ眠れない。そんな生活が数年も続いているのだ。いくら体力馬鹿と言われた自分でも疲れるのは当たり前だ。
 だから、視界がぐらりと揺れると同時にナナリーの悲痛な叫びが聞こえたときには、ああやっぱりと思った。それから、倒れるタイミングを間違えたなとも思った。
 倒れるのが会談のあとだったのはいいが、ナナリーの目の前はまずかった。あとでこっぴどく叱られるなと無意識に考え、ナナリーに心配をかけることで怒る人間はもういないのだと思い出した。
 (だって、彼は僕が――)
 後悔とも悔恨とも呼べる気持ちに囚われ、自分の状況を一瞬忘れた。だから、何が自分の身に起こったのかすぐには把握できなかった。
 次に顔を上げたときには、霧に囲まれた寂しい場所に立っていた。

「あれ……?」

 自分はたしか移動途中に倒れたはず。しかし、傍にいたナナリーや文官たちの姿は見えず、名前を呼んでも声は遠くに響くばかりで返事は返ってこなかった。
 (夢でも見ているのかな。まさか幻覚ってことはないだろうし)
 立っているばかりでは埒が明かない。でも、どこへ行けばいいのかわからない。周りは霧が濃く、目を凝らしても景色はまったく窺えなかった。
 こうも霧が濃いと髪が酷いことになりそうだとうんざりし、ハッとして頭に手をやる。そこにあるはずの仮面がなかった。咄嗟に衣装を確認すれば、ゼロの服ではなくなぜかアッシュフォードの学生服を身に付けていた。
 だけど、それに対して驚くことはなかった。なぜ制服なんだろうと疑問に思うだけで、夢の中ならこういうこともあるさとやけに落ち着いていたし、納得もしていた。
 (夢ってどうやったら醒めるんだっけ)
 とりあえず歩いてみるかと足を踏み出したとき、何かに引っ張られてつんのめりそうになる。振り返っても誰もいない。

「そっちじゃないよ」

 低い場所から聞こえた声にびくりとして視線を下ろす。
 そこにいたのは子どもだった。
 誰もいないのではなく、相手が小さすぎて視界に入らなかっただけのようだ。二十歳を越えた自分から見れば随分と小さな子どもで、年の頃は十歳といったところだろうか。

「そっちじゃないよ」

 もう一度言った彼は、制服の裾を引っ張った。

「えっ……、あの、君は道を知っているの?」

 相手がこくりと頷いた。道を知っていると言うのならこのままついて行けばいいかと、彼の歩幅に合わせて歩く。
 そういえば顔を晒したままだと気付くけれど、あれから何年も経っているし、十歳ぐらいの子どもなら悪逆皇帝の騎士の顔なんて覚えていないだろう。
 現実ならもっと切羽詰まった状況なのに、のんびり構えていられるのは夢だとわかっているからだ。そもそも、夢なのだからいくら顔を見られて騒がれたとしてもまったく問題ない。そう考えたら何もかもが気楽に思えてきた。
 迷いのない足取りで歩く子どもを見下ろした。大人の目線では後頭部しか見えない。ぎゅっと握られた手はまだまだ小さく、自分にもこんな時期があったのかと思うと懐かしいような、切ないような気持ちになった。
 小さな手をそっと取る。驚いたのか、子どもが顔を上げた。意志の強そうな目がとても綺麗だった。どこかで見たことがある瞳の色だなとも思う。
 にこりと笑って手を握れば、相手は何も言わずに前を向いた。

「君はこの道に詳しいんだね」
「うん」
「ひとり? ほかに大人の人は?」
「いない。僕ひとりだけ」
「寂しくない?」
「寂しくない」

 ぽつりぽつりと話をしながら歩く。話といってももっぱらこちらから話しかけるばかりで、相手は短い相槌を打つだけだ。でも、ひとりきりで知らない道を歩くよりはずっと楽しい。
 どのくらい歩き続けただろう。ふいに霧が晴れ、視界が開けた。

「わぁっ」

 そこにあったのは一面の花畑だった。
 赤。ピンク。黄色。白。紫。色とりどりの花がどこまでもどこまでも続いている。

「綺麗だね」
「うん」

 花畑の真ん中を進む。足の下で踏み締められる草の音は夢なのにやけにリアルだ。

「向日葵畑は見たことがあるけど、こんなにたくさんの花が咲いている場所は初めてだな。本当に凄いや」

 ナナリーが見たら喜ぶに違いない。
 (心配をかけてしまったからお詫びに持って帰りたいな)
 夢の中だとわかっているのに、ここで花を摘まなければいけないような気がしてきた。

「ここの花、少しだけもらっても大丈夫かな?」
「少しだけなら」
「じゃあちょっとだけ待ってて」

 花を摘むなんていつ以来だろう。あのときもナナリーのために花を摘みに行ったのではなかったか。彼と一緒に。
 白い花。赤い花。黄色い花。
 順に手にしていると、ふいに声を聞いた気がした。あの子どもの声とは違う。立ち上がり、導かれるように足を踏み出した。
 光に満ちた場所に人影のようなものが見える。そこに誰かいるのか。天国のようなこの場所に、誰がいるのか。
 一歩。また一歩。ゆっくりと近付いていく。
 このままここにいられたら。そんなことを思った。
 何もかも忘れてこの場所にいるのはとても幸せなことのように感じられた。

「そっちじゃない、スザク」

 ふらふらと光のほうへ向かっていると、今度は手首を掴んで引き留められた。聞こえたのは子どもの高い声ではなく、声変わりをした低い声だった。

「そっちに行ったら戻れなくなるぞ」
「戻るって、どこへ?」
「お前のいるべき世界だ」
「僕は、そこへ戻らなきゃいけないのかな」
「当たり前だ。ナナリーを残していくなんて絶対に許さない」

 ナナリー。
 その名前に、ああそうか、と口許に笑みが浮かんだ。同時に、頭の中にあった霧も晴れたような気がした。
 ずっと一緒にいたのにどうして気付かなかったのだろう。

「走るぞ、スザク」

 引っ張られるまま足を動かす。彼はこんなに速くなかったはずだけど、と失礼なことを思いながら一緒に駆けた。
 振り返れば、神々しささえ感じられた光が禍々しい渦となり、真っ黒で大きな影が追いかけてきた。その影に触れると花たちはあっという間に枯れてしまい、天国から地獄のような風景へと変わっていく。

「あれは何?」
「お前を連れていこうとしているんだ。取り込まれたら二度と戻れないぞ」
「だったら急いで逃げなきゃね。ずっと真っ直ぐでいいの?」
「ああ」
「じゃあもっと速く走るよ、――ルルーシュ」

 走って走って走って、恐ろしい呻き声が聞こえなくなるまで走った。どんなに走っても不思議と息は乱れなかった。
 怖いものに追いかけられているはずなのに、なぜかとても楽しかった。こんな風に二人で駆け回ったと子どもの頃を思い出すからだろうか。
 このままここにいられたら。そう思ったのは、あの花畑に対してではない。彼と一緒にいることに対してだ。
 どれだけ走ったのか、気付けば辺りの景色が変わっていた。最初に立っていた場所と同じで寂しいけれど、最初と違うのは霧がないことだ。顔を上げれば、空には一面の青空が広がっていた。

「ここまで来たらひとりで帰れるだろう?」

 ずっと手を繋いでいた相手の顔をようやく見る。
 一緒にいたはずの子どもは、いつの間にか十八歳の彼の姿をしていた。同じ制服を着て、あの頃と変わらない姿で。

「早く行け。ナナリーが待っている」

 いつになっても彼はナナリーだ。少し悔しくて、でもとても彼らしいと心の中で苦笑いした。

「僕が行ったらルルーシュはひとりになるの?」
「ああ」
「ひとりは寂しくない?」

 また同じ質問をする。彼が笑った。

「いつかお前もここに来るとわかっているからな。寂しくはない」

 だからお前は気にせず元の場所に戻れ。そう言って背中を押された。
 もう二度と来るんじゃないぞとも言われた。あれは人間の心の弱い部分に付け込むんだ。お前、どうせ碌に休んでいなかったんだろう。そういうときも狙われやすいんだぞ、だから適度な休息を取るよう言っておいたのに、とさらに小言が続く。
 やっぱりルルーシュだ。

「また来るよ」
「お前な、」
「いつかまた来る。今度は自分の役目をちゃんと果たしたときに」
「――そうだな」

 彼は少し泣いたかもしれない。声が微かに震えていた。

「また来るから。絶対にまた来る。だからそれまで待っていて、ルルーシュ」
「ああ。待っているよ、スザク」

 彼が、ルルーシュが笑う気配がした。
 そうして僕の意識は遠のいた。再び目を開けたときにはベッドの上にいて、点滴の落ちる音がしていた。
 対処してくれたのはゼロ専用の医療チームで、ナナリーはドアの向こうでずっと心配して待っていると聞かされた。仮面の中の顔を彼女の前で晒すわけにはいかないから仕方がないとは言え、申し訳ないことをしたと反省する。
 あとでナナリーに謝ろう。これからは自分の体ももう少し大事にすると伝えよう。それに、あまり早く行きすぎたらまたルルーシュに叱られる。
 ふと、自分が何かを握り締めていることに気付いた。

「あ……」

 手のひらには一枚の黄色い花びらが残っていた。
 窓から入った風にさらわれ、ふわりふわりと空を舞う。そうして高い場所まで飛んで行き、やがて見えなくなってしまった。
 (あれは夢じゃなかった)
 待っているとルルーシュは言ってくれた。その言葉を胸に僕は生きよう。
 だって、僕たちはいつかまた会えるから。
 (15.08.01)