肩と肩がぶつかった。
指先が触れ合った。
目と目が合った。
気付けばお互い引き寄せられるように顔を寄せ、キスをしていた。
きっかけなんて単純だ。自分自身、そんなことがきっかけで同性と、しかも昔からよく知っている幼馴染であり友達でもある彼とキスをするなんて思ってもいなかった。
羽のように軽いキス。唇が触れていたのは時間にすればほんの数秒。
だけど、反射的に瞼を下ろし、再び視界が開けて翡翠の瞳を目にするまでの数秒間は、ルルーシュにとって永遠にも感じられる時間だった。
「ルルーシュ?」
名前を呼ばれた。だから逃げ出した。
この場合、だからという接続詞はおかしいのかもしれない。しかし、彼の口から紡がれる自分の名前がひどくいたたまれなく感じられ、ルルーシュは逃げ出すしかなかった。
鞄も持たずに教室を飛び出し、行き先も定めぬまま廊下を走った。放課後の誰もいない校舎はしんとしていて、自分の足音がひどく大きく聞こえるようだ。
もともと体力がないせいですぐに息が切れる。だけど足を止めるわけにはいかなかった。
今すぐこの場を離れなければ。
何故そう思ったのかはわからない。ただ、あのまま教室に留まって彼と会話を交わすことが怖かった。
何を言われるのか、何を言ってしまうのか。それは、自分の中の何かを暴かれるかもしれない恐怖だったのか、それとも自分が望んでいない言葉を聞かされるかもしれない恐怖だったのか、どちらなのかはわからない。でも怖かったことだけは確かで、だから逃げてしまった。
廊下を曲がり、階段を駆け上り、屋上へと続くドアの前でようやく足を止めた。息はすっかり乱れ、忙しなく深呼吸を繰り返す。
自分にしてはよく走ったほうだろう。授業や体育祭でもここまで真剣に走ったことはない。
そうしてふと冷静になれば、自分が鞄も財布も携帯も定期も何も持っていないことに今さらながらに気付いた。このままでは家に帰れないし、迎えに来てくれと連絡することも出来ない。
鞄を持って逃げ出せば良かったと後悔しても後の祭り。
(戻れば確実にスザクがいるだろうし……。仕方ない、しばらく待つか)
扉に背を預け、天井を見上げる。
どうしてあんなことをしてしまったのだろう。それこそ後悔しても遅いことだけど、あのときもし二人の手が触れなければ、彼のほうに顔を向けなければ、きっとこんなことにはならなかった。
「スザク……」
「ルルーシュ」
独り言に返事が返ってきてルルーシュはぎょっとした。緊張に再び心臓がどくどくと音を立てる。
「鞄、忘れてるよ」
階段の下にはスザクがいた。その手には確かに鞄がある。これだけなら忘れ物をした友達を追いかけてきたようにしか見えないだろう。
でも自分たちは違った。ほんの数分前にキスをしたのだ。何もなかったふりをして鞄を受け取ることは出来ない。
「どうして逃げたの」
スザクが階段を一段上る。
「に、逃げてなんか……」
我ながら下手な嘘だ。あの状況を見て逃げていないと信じる者なんかいない。
「じゃあ、ルルーシュはどうしてこんなところまで走っているの。まさか体育の授業に備えて練習しているわけじゃないだろう?」
一段、また一段。少しずつスザクとの距離が縮まる。
「俺がどうしようとお前には関係ない」
「関係あるよ。僕には君に聞かなければいけないことがあるんだから。それに、伝えなければいけないこともある」
とうとうスザクが目の前まできた。一瞬、屋上の扉を開けてまた逃げようかと思ったが、生憎、ここは立ち入り禁止で施錠されている。スザクほどの馬鹿力がない限り開けることは不可能だし、スザクを押し退けて再び逃げることも恐らく無理だろう。
次に逃げ出せば今度は確実にスザクに捕まる。そんな予感があった。
「さっきのことなんだけど……、どうしてルルーシュはキスを許してくれたの」
いきなり直球で訊かれ、またルルーシュの心臓が大きく鳴る。
「あ…、あれは成り行きみたいなものだろう。事故だ事故、それ以上の理由はない」
「事故?ということは、あのとき目が合ったのが僕以外の人間だったとしてもルルーシュはキスしていたの?」
スザクの声が不機嫌そうに聞こえたけれど、はぐらかすことに必死なルルーシュは特に気にも留めなかった。
「あんなことをほかの人間とするものか!」
「本当に?」
「当たり前だ!だって俺は――っ」
そこで口を噤む。自分は何を言おうとしたのか。
その先を考えると恐ろしい結論が生まれてしまいそうで、慌てて頭を振った。
「俺は何?」
「と、とにかく、あれはなんでもないことなんだ、だからお前ももう気にするな!ほら、外も暗くなってきたし帰るぞ」
誤魔化すように吐き出すと、スザクの手の中から鞄を奪おうとした。が、逆に手首を捕まれ、そのまま扉に体を押し付けられた。鞄はスザクの足下に落ちていた。
「何を、」
「なんでもない?ルルーシュにとってキスはなんでもないことなの?」
「スザク……?」
「僕にとってはなんでもないことじゃない。ありったけの勇気を振り絞ってやっと君に触れたんだ。事故とか成り行きとかそういうものじゃない。だって僕は、僕は――」
スザクの手に力が籠もった。捕まれた部分が痛い。
「好きなんだ」
その言葉はすとんと胸に落ちた。
あれほどキスをした事実から逃げ出そうとしていたのに、スザクの一言は素直に聞くことが出来た。
「好きなんだ、ルルーシュ。幼馴染とか友達じゃなくて、キスをしたいという意味で君のことが好きなんだ」
だけどすぐに反応を返すことは無理だった。今までずっと友達だと思っていた相手からいきなり告白をされたのだ。いくらルルーシュの頭が優秀でも、予想外の告白には何も言葉が出てこない。
「順番が逆になってしまったことは謝るよ。好きだと言う前に告白なんて最低だよね。でも今の言葉に嘘はないんだ。だから……」
スザクの言葉が途切れ、辺りに再び静寂が落ちる。
「今すぐ返事をくれとは言わないよ。今まで通り付き合ってとお願いするのも無理かもしれないけれど……、それでも、今の告白をなかったことにだけはしてもらいたくないんだ」
ようやく手が離れ、落ちた鞄をスザクが拾う。そしてルルーシュにぐいっと押し付けるように渡した。
「……ごめん、今日は先に帰るね」
そしてスザクは背を向けた。軽やかな足音を立てながら階段を下りて行く。
その音がだんだん遠くなり、やがて聞こえなくなった頃、ルルーシュは扉に背を預けたままずるずるとしゃがみ込んだ。
「なんで……」
それ以上は言葉が出てこなかった。思考も回らない。
はっきりしているのは、唇に触れた感触と捕まれた手首の熱さだけ。
スザクが自分のことを好きだなんて信じられない。今まで一度でもそんな素振りを見せたことがあるだろうか。わからない。
(だけど、嫌、ではない)
ルルーシュは自分の唇にそっと触れた。
好きと言われて好きと返せるだけの気持ちが自分にあるのか、それすらもわからない。「嫌じゃなかった」という感想ですべての答えが出ているような気もして余計に混乱しそうだ。
でも、少なくとも自分はスザクのことを嫌いではない。それが形を変えることだってあり得るのかもしれない。
きっと、キスから始まる恋もある。
(12.11.11)