遠くで爆音がした。
微かに動く指先が草を掴む。
「……生きて、いるのか…」
吐き出した声はひどく掠れていて、呼吸をするたびに嫌な音がした。口の中は錆びた味がする。
これは本格的にまずいかもしれないと思ったけれど、恐怖心は抱かなかった。むしろ穏やかな気持ちですらいた。
(空が、青い)
視界がやけにクリアだ。そういえば、薄れそうになる意識の中でなんとか仮面を取ったのだと思い出した。見つかったときに『ゼロ』と『枢木スザク』ではどちらがより世界に与えるダメージが大きいかと咄嗟に考え、判断した結果だ。
(でもゼロの衣装を着ていれば一緒か)
自分が今、身に付けているのは世界中に知られた英雄の衣装。
死んだはずの騎士が英雄の格好をしていたらそれだけで充分問題になるが、仮面を剥ぎ取られ、その中身を曝け出すよりはきっとましだ。
世界にとって重要なのはゼロの衣装を着た人間ではなく、ゼロの仮面を被った人間なのだから。
(ナナリーとの約束、守れないかもしれないな)
とある国で勃発した内戦。それを仲裁するために黒の騎士団とともに戦地に赴いたものの、政府側が強硬で話し合いは決裂し、そのまま戦闘になってしまった。
出発前、ナナリーには無事に帰ってくると約束したのだが、このままでは約束を破ることになってしまいそうだ。
(僕も勘が鈍ったかな。背後からの攻撃に気付かないなんて)
車に乗っての移動中、潜んでいた敵に襲撃されて運転手も護衛の人間も殺された。普段ならあの程度の攻撃は簡単にかわせたのに、銃弾を身に浴びてしまったのは完全な油断だ。
戦争の真っ最中に油断だなんて自分も随分と平和ボケしたものだ。自嘲気味に思い、ゼロ――スザク――は口角を微かに上げた。
ふいに、草を踏み締める音がした。
誰かが近付いたようだが、起き上がって逃げることはおろかその姿を確かめる気力すらない。
(死ぬのか、ここで)
自分の心臓がどくりと鳴った。『生きろ』というギアスが、死ぬかもしれないという思考に抗っている。
動かないはずの腕が忍ばせていたナイフを手に取ろうとして思わず笑ってしまった。これを呪いと言ったこともあるけれど、無様なまでに生きようとするのはギアスのせいではなく、自分自身の意志であるような気がした。
ならば今ここで自分が取るべき道はただひとつ。生きるための最低限の努力をしなければならない。
スザクは、ぐっ、と手に力を込めた。
「こんなところで死ぬのか、お前は」
しかし、頭上から聞こえた声に一瞬だけ今の状況を忘れる。
「シー、ツー……?」
「久しいな、元気にしていたか……と訊くのは愚問か」
人影が足下に移動し、ようやく視界にその人の姿が映る。鮮やかな緑色の髪も、少女らしい顔付きも、十年前と何も変わらないC.C.がいた。
「どうする。助けを呼ぶなら呼んでやるぞ」
「いや、仮面が、ないんだ。だから、人を呼ぶのは……まずい」
「ならば死ぬのか、ここで」
瀕死の人間を見つけて死ぬのかと問えるのはさすが彼女だ。彼女に会うのは十年ぶりだからこれは十年ぶりの会話なのに、ブランクをまったく感じさせなかった。
対する自分もなんの躊躇いもなく彼女と話しているのだからお互い様なのかもしれない。
「撃たれた、場所が悪い。もし、助けが来たとしても、きっと、助からない」
「そうか」
「君は、どうして、」
こんな場所にいる理由を訊きたかったけれど、息が苦しく最後までは問うことが出来なかった。
「頼まれたからな」
「なにを……」
「お前が死ぬときはきっと一人きりだから、せめて最期を見送ってやってほしいと」
C.C.がにやりと笑う。
誰の頼みなのかは尋ねなくてもわかった。そんなお節介をするのは世界中でただ一人しかいない。
「ルルー、シュ」
その名前を口にしたのは何年ぶりだろう。心の中では何度も呼び続けたけれど、声に出したのは本当に久しぶりだ。
ふいにこめかみを何かが流れ落ちる感覚がして、自分が泣いていることに気付いた。
温かい指先が涙を拭ってくれた。
「お前はよくやったと思うぞ。こうした内戦や小さないざこざはいまだに起こっているが、あれ以来大きな戦争はない。少しずつ、でも確実に世界は平和を実現している」
「まだ、たったの十年だ。あと数年もすれば、きっとまた、同じような争いが起こる。僕が、生きている間は、起こらなかったとしても、ゼロがいなくなれば、同じだ」
「そのときはそのときに生きている人間がどうにかしようと考えるさ。百年も二百年も先の未来までお前たちが保障する必要はない。お前たちが作ったのはほんの小さなきっかけに過ぎないのだから」
「だけど、僕は、見たくないな。ルルーシュが作った、この世界が、また、醜く争うのは」
答えながら気付いた。
自分が望んでいるのは平和な世界ではない。ルルーシュが目指していた平和な世界なのだと。
これが正義の味方だと言うのだから笑ってしまう。世界の英雄で、悪から世界を救った正義の味方の本当の願いが、たった一人の人間の望みを叶えることだなんて。
正義の味方の正体は、十年経っても一人の人間が忘れられないただのちっぽけな人間だ。
「少しだけ、寝かせてくれないかな、C.C.……」
重くなった瞼を下ろす。
「お前は働き過ぎなんだ。ここには誰も近寄らせないから安心して休め」
「ありが……とう」
自分の意識が暗い闇の中に落ちていくのを感じた。
次に目覚めたときにはルルーシュが目の前にいてくれたらいいのに。そんな馬鹿げたことを考えてしまったのは、きっと夢の狭間にいたからだろう。
* * *
なんだ、もうギブアップか。
「一生懸命やってきた人間にその言いぐさは酷くない?」
だってお前は諦めたんだろう?
「諦めてはいないよ。不可抗力だ」
何が不可抗力だ。這ってでも助かろうとしないのは諦めた証拠だ。
「無茶なこと言わないでよ。いくら僕でも不可能なことはあるんだから」
でもまあ、今まで頑張ってきたことは褒めてやる。
「褒めてくれるのは嬉しいけど、やっぱり上から目線なわけ?」
我儘を言うな。
「……なんかさ、しばらく会わない間にガサツなだけじゃなくて随分と理不尽な人間になってない?」
そんなことはない。お前がたるんでいるだけだ。
「正義の味方にたるんでるなんて言えるのは君だけだよ」
新鮮でいいだろう?
「新鮮って……」
だが、十年も頑張ってきたんだから少しくらい気を緩めてもいいんじゃないか?
「十年、か。もうそんなに経ったんだ」
お前もそろそろおじさんと呼ばれる歳だな。
「やめてよもう。それ結構気にしてるんだから」
気にするって何を?
「だって、僕だけがどんどん歳を取っていくんだよ。僕はおじさんになっておじいさんになるのに、君はずっと十八歳のまま」
仕方ないだろう。それこそ不可抗力だ。
「やだなぁ。次に会ったときにお前は誰だなんて訊かないでよ」
……次、でいいのか?
「え?」
お前は頑張った。ほかの誰が認めなくても、俺はお前の頑張りを認めている。十年間も顔を隠し、秘密を守り、ただ世界のためだけに生きてきた。十年は決して短くない。だから、疲れたのならもういいんだぞ?
「……そんなの駄目だよ」
俺との約束があるからか?
「それもあるかな。君との最後の約束だから、僕は簡単に諦めたら駄目なんだ」
お前は充分役目を果たした。
「まだ世界から争い事はなくなっていない」
争いを完全に失くすのは不可能だ。
「それでも僕は諦めたくない」
そうしてずっと一人きりで生きていくのか?
「確かに、君のいない世界はつらいよ。どうして君がいないんだろう、君がいない世界なのにどうして僕は生きているんだろうって何度思ったかわからない。こんな世界なくなってしまえばいいと思ったこともある。最低だよね、こんな人間が正義の味方をやっているんだから。本当に笑っちゃうよ。だけど、君は一人で先に逝ってしまって、僕は一人で顔を隠して生きて、だけど皆は何事もなかったように当たり前に生きててなんて理不尽なんだろう、僕たちの覚悟はなんだったんだろうって疑問に思うこともあったよ。君との約束がなければずっと前に見限っていたかもしれない。君のいない世界なんて嫌いだ、大嫌いだ。だって僕が本当に守りたかったのは違うものなのに、守りたいものは世界中のどこを探してもどこにもないんだ、もう失くしてしまったんだ。だからこんな世界は嫌いなんだ。それでも僕は……、僕は、」
それでもお前は、生きたいと思っているんだろう?
「――うん。君のいない世界だけど、それでも僕は、もう少しこの世界を見ていたいと思った。この世界がどんな選択をするのか、最期まで見ていたいと思った」
たとえそれがお前の望まない世界だったとしても?
「うん。それも世界の意志であり、ひとつの結果だから。大嫌いだけど、僕はこの世界が好きなんだ。ようやく少しだけ好きになれたんだ」
そうか。
「君に会うのは少しだけ遅くなっちゃうけど」
そんなことは心配しなくていい。百年程度ならあっという間だ。どうせ俺もお前も行き着く先は地獄なんだから、こちらでのんびり待っているさ。
「ごめんね、ありがとう」
俺のことなら気にするな。待たされるのは慣れている。
「あ、またさり気なく酷いこと言われた」
どっちが酷いんだか。
「ねえ」
ん?
「十年経っても、僕はやっぱり君のことが好きみたい」
――そうか。
「ここは怒らないんだね」
怒っても意味がないだろう。十年経ってもお前の馬鹿は直らないし。
「うわ、やっぱり酷い」
馬鹿なことを言っていないでさっさと戻れ。ナナリーを泣かせたら許さないからな。
「わかってるよ。君にももう心配なんかさせない」
無駄に会いに来るんじゃないぞ。
「次に会うときは胸を張って来るよ」
ああ。
「そのときにまた、君に好きって言うから」
やっぱり馬鹿だな。
「仕方ないよ、だって好きなんだもん。……でも、次に会うときまではさよならだね」
これは別離の別れじゃない。また出会うための別れだ。
「うん、そうだね」
哀しむことじゃない。
「うん、わかってるよ。だから……さようなら、ルルーシュ」
ああ。さよなら、スザク。
(お前は、生きろ)
* * *
最初に耳が捉えたのは機械音だった。次いで水音のようなもの。
視線を斜め上に向ければ、見覚えのある機械と点滴があった。腕を小さく動かすと引っ張られるような感覚がして、自分が何本ものコードに繋がれていることを理解した。
「ようやくお目覚めか」
「C.C.……」
「なんだいたのかって顔だな」
「そんなことないよ」
どうやら自分は死に損ねたらしい。
しかしあの状況でどうやって助かったのかと疑問に思っていると、訊かれていないのにC.C.が答えてくれた。
「大変だったんだぞ、お前を看ても大丈夫な人間をあそこまで連れて来るのは。仮面は探しにくい場所に捨ててあるし、なんで私が汗だくにならなければいけないんだ」
仮面が見つけやすい場所にあったら捨てた意味がないじゃないかと思ったけれど、くどくど文句を言い続けられたので口を挟むのはやめた。彼女と言い争いが出来るほど回復はしていないのだ。
ゼロには専属の医療チームがある。こういう状況を想定してルルーシュがあらかじめギアスをかけていた人間だからたとえ顔を見られても安心だった。
そんなものは必要ないと言った自分に、いつか必ず役に立つとルルーシュは言っていたけれど、そのいつかが現実になったらしい。
「僕は三途の川を渡りかけていたのかな……」
「はあ?」
「ルルーシュに会ったんだ」
その呟きに反応は返ってこなかった。気にせずに続ける。
「会ったというか、正確に言うと会ったような気がするってだけなんだけど、僕のすぐ傍にいるような感覚はあった」
まるで夢の中のようだった。姿の見えないルルーシュがいて、自分は誰もいない空間に向かって喋っていた。
でも、確かにルルーシュがいた。
「ならば会ったのかもしれないな」
「馬鹿にしないの?」
「お前がそう言うのなら会ったんだよ。それに、死人が出てきたとしても不思議ではないからな」
「どういうことだ?」
「今日は十月三十一日だからさ」
わからなくて目線だけで問う。するとC.C.が赤い唇を弓の形にした。
「ハロウィンだよ。名前ぐらいは知っているだろう?この日の夜は死者の霊が訪ねてくるらしい。だが、魔物も一緒にやってくるためそれらから身を守るために仮面を被るのだが、生憎お前は『仮面』を外していた。だから死人と会った」
「子ども騙しな話じゃない?第一、ルルーシュは魔物じゃない」
「悪逆皇帝ならば世間的には魔物と一緒さ。どちらにしろ会ったという事実に代わりはないのだから別にいいだろう」
無理やり話をまとめられて眉を寄せる。しかしC.C.は意に介した様子もなく、「じゃあ帰るぞ」と唐突に言った。
「もう?」
「いつまでも看病をしていられるか。私も忙しいんだ」
看病をしていたのは医療チームの人間で、間違っても彼女ではない。そう思ったけれど、余計な口を挟むだけ無駄なので声には出さなかった。
「C.C.」
「ん?」
「ありがとう」
「礼には及ばないさ」
ふわりと笑んだ顔にこちらも笑みを返す。
「いつかまた、会えるかな」
「いいのか?そんなことを言って。私が再びお前に会うのは、お前が死ぬときだぞ」
「いいよ。今度は情けない姿を見せたりしないから」
一瞬ぽかんとした表情を浮かべたC.C.は、にやりと口角を上げた。
「ルルーシュに何を言われたのか知らないが、そういうことなら死ぬまで励め。最期は私が見届けてやるから安心しろ」
「うん、お願いする」
「じゃあな。生きろよ、スザク」
同じ科白をつい最近聞いた気がしてハッとしたけれど、かつて同じ時間を共に過ごした魔女は気付いた様子もなく去っていった。あとに残ったのは鮮やかな緑の残像だけ。
「――生きるよ、僕は」
誰に言われたからではない。自分自身の意志で生きるのだ。
生きたいと願った分だけ生きて、そしていつかルルーシュに会いに行こう。胸を張って、堂々と会いに行こう。
だから、さようなら。
それは十年目にようやく告げることの出来た別れだったのかもしれない。
(11.10.29)