或る記憶

 ふわりと香った匂いに思わず振り返った。
 これが教室だったら気にもしなかっただろう。クラスの女子がこういう類いの匂いをよくさせているから、いつものことだと思って終わりだったはずだ。
 しかし、ここは男子更衣室。当然ながら男子しかいない。だから気になったのだ。
 一体誰が香水なんてつけてきたのかと。

「もしかしてお前か?」
「え?何が?」

 最近復学したばかりの『友人』に目を向ける。彼は不思議そうに首を傾げていた。その仕草は以前と変わらぬもので、自分たちも何ひとつ変わっていないような錯覚を抱く。
 一歩踏み出してスザクの顔に鼻先を寄せれば、彼は驚いたように少しだけ身を引いた。

「やっぱり匂う」
「ええっ!?僕って臭い?体育で汗かいたからかな」
「違う。香水か何かの……」
「ああ、そっちの匂うか」

 安堵したように笑う姿は童顔と相俟ってどこか幼い。
 だけどルルーシュは知っていた。その優しげな顔は偽りで、本当の彼は友達を平気で裏切り、出世のために売り飛ばし、大事なものをすべて奪い去る人非人だということを。
 (よく平気な顔をして笑えるものだ)
 彼を唾棄しながら、同じように笑っている自分も同類かとルルーシュは口角を上げた。

「お前が香水をつけるなんて信じられないな。彼女にでも貰ったのか?」
「彼女はいないし、いたとしても香水はあまりプレゼントしないんじゃない?」
「じゃあどうしてそんなものをつけている。ナイトオブラウンズは香水をつける決まりにでもなっているのか」

 少し皮肉を込めて問いかければ、まさかとスザクが肩を竦めた。
 気付けばクラスメートたちは教室に戻っていて、更衣室には二人しか残っていなかった。もちろんスザクと二人きりになりたかったわけではない。しかし、彼としては監視対象から離れないためにわざわざ会話に付き合っているのだろう。
 (殺したいほど憎い人間の話し相手をしなければいけないとは、ラウンズ様もご苦労なことだ)
 ゼロをブリタニア皇帝に売ったスザクは、その功績を認められて帝国最強の騎士の座を得た。そうして与えられた仕事のひとつがルルーシュ・ランペルージの監視である。
 C.C.をおびき出す餌としてのみ生かされている自分を彼はどう思っているだろう。
 皇帝のギアスによってルルーシュ・ヴィ・ブリタニアを構成していたものは奪われ、鳥籠の中での生活を強いられているものの、はた目にはのうのうと暮らしているようにも見える。
 あのとき皇帝に突き出さず、自分の手で殺しておけば良かったと後悔はしていないのだろうか。

「実は、僕のラウンズ就任を祝した記念品を作ってもらったんだ。香水なんて柄じゃないけど、せっかくだからと思ってつけてみたんだ」
「なるほどな。だが、わざわざ学校にまでつけてくる必要はないだろう」
「ちょっと試してみただけだよ。まさかこんなに匂いが残るとは思わなかった」
「これだから初心者は」
「ルルーシュが香水上級者みたいな言い方だね」

 当然だろう、と言いかけて飲み込んだ。
 皇族として暮らしていたので、嗜みとして香水の一つや二つは持っていた。が、それは『ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア』の話だ。ただの学生であり、一ブリタニア人でしかないルルーシュ・ランペルージが香水に慣れ親しんでいるというのはおかしい。
 こんな引っ掛けも出来るようになったのかと、ルルーシュは心の中で苦々しく思った。

「俺は香水をつけるタイプじゃない。だが、つけ方くらいは常識として知っている」
「それも自分で調べたの?」
「もちろんだ」

 何かを見定めるような目をしていたスザクは、すぐに表情を崩すと「ルルーシュらしいね」と笑った。

「そうだ、せっかくだからルルーシュにもあげるよ」

 鞄をごそごそと探って中から取り出したのは、やけに高価なボトルに入った香水だった。

「さっき言った記念品。多めに貰っちゃって余っているんだ」
「お前、そういう貴重なものを無造作に鞄に入れるな。と言うか、なんで持ち歩いている」
「たまたまだよ。第一、香水なんか僕には宝の持ち腐れだし」
「だからと言って、」
「それに君ならきっと似合うから」

 にこりとした笑みとともにボトルを手の中に握らされる。

「似合うって……」

 先ほど香ったのは柑橘系の匂いだ。就任記念の品らしいから、やはりスザクのイメージで作っているのだろう。
 スザクは似合うと言うけれど、自分には少々爽やか過ぎる気がする。

「香水をつける習慣がないなら部屋に置いておくだけでもいいんだ。芳香剤の代わりにはなると思うから」
「だから、貴重なものを芳香剤と一緒にするな。……ったく、わかった、どうせゴミになるのなら貰っておいてやろう」
「うん、ありがとう」

 嬉しそうにスザクが笑う。自分もいつの間にか笑顔を浮かべていたことに気付き、ちくりと胸の奥が痛んだ。
 (馬鹿だな。これは偽りだ)
 友達のようなやり取りも。
 自然な笑みも。
 何気ない会話も。
 すべては嘘で、本物なんてどこにもない。

「おーい、スザクいるか?」

 更衣室のドアが開き、リヴァルが顔を覗かせた。

「お前らまだ着替えていたのか?先生からスザクを呼んで来いって頼まれたんだけど」
「僕に?」
「復学のための書類に間違いがあったとか言ってたぞ」
「あとからじゃ駄目かな」
「駄目に決まっているだろう。さっさと着替えて行って来い」

 スザクとしては監視対象から目を離したくないのだろうが、ルルーシュは何も知らない顔をして促した。仕方なく着替えを終えたスザクは、リヴァルとともに更衣室を出て行った。

「ルルーシュも早く教室来るんだぞ」
「ああ、すぐに行く」

 ドアが閉まると更衣室にはルルーシュひとりが残された。視線を落とせば手の中には香水のボトル。
 おもむろに蓋を開けて左の手首につけると、先ほどまで嗅いでいた匂いがした。このまま教室に戻ったら、二人して同じ香水をつけていると思われるだろう。
 つけたばかりの香水は、肺いっぱいに吸い込むと少しむせるくらいだ。
 (スザクの匂い、か……)
 こんな人工的なものではない、本来の彼の匂いを自分は知っていた。そのはずなのに今は思い出せない。
 匂いとともに、彼への想いも忘れてしまったのかもしれない。愛していると囁いた日のことが遠い過去のようだ。
 (記憶も匂いも想いもすべて上書きされて、あとには何も残らない)
 でも、きっとそれでいいのだ。
 枢木スザクは敵だと、お互いに正体を隠していたあの頃よりも明確になったではないか。
 (スザクの匂いは思い出さない。もう二度と)
 ただ、この香水が香るたびに今度は今のスザクを思い出して、やっぱり自分は心を動かされるのかもしれない。
 馬鹿は自分かと嗤い、ルルーシュは自らの手首に唇を押し当ててそっと瞼を閉ざした。
 息の詰まるような匂いは、どこか涙に似た味がした。
 (13.01.29)