「いらっしゃいませ」
からんと涼やかな音を立てて開いたドアの向こうには、目の覚めるような美人がにこやかな笑みとともに立っていた。
「こんばんは。すみません、こんな時間に。もう閉店ですよね?」
どうやら閉店準備の最中だったようで、店の奥は照明が落とされている。
しかし美人のオーナーは嫌な顔ひとつせずににこりと微笑んだ。疲れている体にはかなり効果のある笑みで、今日一日の疲れが吹き飛ぶようだ。
「大丈夫ですよ。枢木さんは特別です。ほかのお客さんが来ないよう表の看板を仕舞ってきますからちょっと待っていてくれますか?」
「いえ、それならまた明日来るから今日は、」
「いいんです。今日最後のお客さんが枢木さんなら俺も嬉しいし、少しだけ話し相手になってください」
そんなことを言われたらこっちのほうが嬉しくて舞い上がるんですけどと心の中で訴えながら、お言葉に甘えてカウンターの椅子に腰かけた。座り心地の良い椅子はオーナーである彼が遠方の業者まで足を運んで選んだそうで、テーブルや料理に使われる食器はもちろん、店を彩るあらゆる家具に彼のこだわりが窺えた。
(センスがいいしこうやってお店までやってるし、とても同い年には見えないよなぁ)
大学の帰りに必ずこの店に立ち寄るのがスザクの習慣である。
今日は一日研究室に籠もりっぱなしで危うく最終のバスを逃すところだったし、おかげで夕飯も食べ損ねてしまった。この時間だと店は閉まっているだろうと思いつつ念のためにと覗いてみたのだが、諦めずに来て正解だったようだ。
表の電気を消し、看板を片付けるオーナーの後ろ姿をちらりと窺う。
駅から少し歩いた路地裏に佇むカフェは、彼がひとりで切り盛りしている小さな店だ。曰く、道楽のためだけに開いているらしいけれど、オーナーの料理の腕は確かで淹れてくれる珈琲も絶品だった。あまり宣伝していないようなので店内はいつもまったりとしているが、通っている人の中にはかなりの食通もいるという噂である。
難しいことはわからないスザクにも、彼の作る料理やデザートのひとつひとつがどれも最高級の味であることはわかった。
(それに、ルルーシュさん凄く美人だし)
同じ男を美人と評するのは間違っているのかもしれない。でも、オーナーであるルルーシュの場合は美人以外の表現が思い付かなかった。
「お待たせしました。何か召し上がりますか?」
片付けが終わったのか、店内に戻ったルルーシュがにこやかにオーダーを尋ねる。今、この空間には自分たち二人しかいないのだと思うと、スザクの胸は自然と高鳴った。
「実は夕飯を何も食べていなくて」
「それは大変だ。でしたら、オムライスにサラダとスープにしましょうか?」
「こんな時間に作ってくれるんですか?」
「もちろんです」
あと一時間ちょっとで日付が変わる時刻だと言うのに、ルルーシュが自分のためだけに料理を振る舞ってくれる。
相手はカフェのオーナーで商売なのだから当たり前だけど、疲れた体にはその優しさがひどく沁みた。
「大学、忙しいんですね」
「教授にこき使われているだけですよ」
「変わり者の教授でしたっけ?」
「研究に命を懸けているような人です。おかげで巻き込まれる学生は大変な目に遭いますけど」
雑談をしながらルルーシュの手は器用に動く。まるで精密な機械のようだ。スザクも一人暮らしが三年になるので一応台所には立つものの、料理は得意とは言えなかった。
やがてテーブルにはサラダとスープ、それからメインのオムライスが並んだ。つやつやとした卵色は食欲をそそる。
いただきますと手を合わせると早速口に運んだ。チキンライスと卵、そしてデミグラスソースのバランスは最高で、空腹だったこともありスザクは無心で食べ続けた。
「そんなに急いで食べなくても」
くすくす笑う声に「だって」ともごもご答える。食べてから話してくださいとルルーシュの笑みが深くなる。
スザクは口の中のものをごくりと飲み込んだ。
「だってすごく美味しいから、食べるのに必死になっちゃうんです」
「ありがとうございます」
「本当ですよ、ルルーシュさんのご飯は世界一です!」
「大袈裟です。そういうことは彼女にでも言ってあげてください」
にこりと微笑んだ彼は、背を向けると洗い場へ向かってしまった。
(彼女なんていないのにな……)
少しだけ寂しい気持ちになりながら残りのオムライスを口にする。
昔は彼女がいた。可愛い子で友達からも羨ましがられるような子だったけれど、二年前に別れてしまった。以来、彼女は作っていない。
その理由がまさか自分自身であるとは、目の前のオーナーは思いもしないだろう。
(ルルーシュさんを好きになったから彼女はいないんです、って言ったら驚かれるよな)
もし嫌悪されたら店には二度と来られない。だから気持ちを伝えるつもりはなかった。
常連として顔と名前を覚えてもらい、時間があるときに雑談に応じてもらえるだけで充分だ。
「ごちそうさまでした」
チキンライスの最後の一粒まで食べ終わると手を合わせた。出来ることならもっとゆっくりしたいけれど、夜も遅いしこれ以上は迷惑になるだろう。
「あ、枢木さん、少し時間ありますか?」
「え?ええ……」
「ちょっとだけ待っていてください」
帰るつもりが逆にルルーシュに引き留められ、上げかけた腰を下ろした。明日は土曜日で講義はないし教授から実験の手伝いの要請もないし、時間ならたっぷりある。
ルルーシュはキッチンで何かをしていた。テーブルに組んだ腕を乗せたスザクは、話しかけることなくその横顔を眺めた。
初めてこの店を訪れたのは夏の暑い日で、喉も渇いたしちょっと涼んでから帰ろうと立ち寄ったのだ。
そして出迎えてくれたオーナーに一目惚れをし、常連になるほど通って、ほかの客より少しだけ仲良くなれた。好きと告げることは出来なくても、このまま穏やかな時間が続くのならば構わない。
「お待たせしました」
物思いに耽っていたので、隣にルルーシュが立っていることに気付くと少しだけびくりとした。ふいに漂った香りに、おや?と目を向ける。テーブルに置かれたのはココア色の飲み物だ。
「ココア?」
「色は似ていますが、これはホットチョコレートです」
「へえ、名前は聞いたことあるけど実物は初めて見ました。でもなんで……?」
食事以外のものは頼んでいない。不思議に思って首を傾げると、ルルーシュが口許を和らげた。
「これは俺からのサービス。先月のお返しです」
「お返し?……あ」
先月のことを思い出し、恥ずかしさに顔が熱くなる。
二月と言えばバレンタインデー。その日は女の子からチョコレートを渡すのが日本の常識で、最近は友チョコなんてものも流行っているようだが、男から男にあげるのはさすがにないだろうと思った。にもかかわらず、気付けばチョコレートを買っていたのだから無意識とは恐ろしい。
そのチョコレートはと言うと、どうしようか散々悩んだ末に、美味しそうだったからとの理由を付けてルルーシュにさり気なく渡した。「え、今日ってバレンタインだったんですか?」と白々しく惚けたのだが、ルルーシュは客からの贈り物として深く考えずに受け取ったに違いない。
(と思っていたんだけど、お返しって……。いや、ルルーシュは真面目だからバレンタインのお返しを律儀にしているだけだ。うん、きっとそうだ)
オーナーが客を気遣っているだけだと自分に言い聞かせる。これはあくまでお返しだ。
「もしかして甘いの苦手でしたか?」
ホットチョコレートを見つめたままじっと固まっていることを訝しんだのか、ルルーシュが少し不安げに尋ねてきた。スザクは慌てて首を振る。
「そんなことはないです!ただ、ちょっとビックリして……。あれは僕が食べたかったからついでに買ったようなものなのに、かえってすみません」
「いいえ、枢木さんは特別ですから。それに俺も嬉しかったから」
「え……?」
「熱いから気を付けてくださいね」
それだけ告げるとルルーシュは背を向けた。
今のはどういう意味だろうと、カップに口を付けながら考える。初めて飲むホットチョコレートはココアとは違う濃厚さがあって美味しかった。メニューには載っていないものをルルーシュが自ら淹れてくれたのだと思えばさらに格別だ。
(僕は特別ってまるで僕のことを好きみたいな……ってそれはないか)
自分のためだけにお店を開けてくれて、自分のためだけにオムライスを作ってくれて、自分のためだけにホットチョコレートを淹れてくれる。これだけのことをされたら勘違いしてしまいそうだ。
(僕のことを好きだって、そう思ってくれていたら嬉しいんだけどな)
夢みたいなことを空想しながら、温かくて甘いチョコレートを飲む。
一日の終わりにとても幸せな時間を過ごせてなんてラッキーな一日なのだろう。片想い相手の横顔をこっそり眺めて、スザクは幸せそうに頬を緩めた。
「これ、メニューにはしないんですか?」
「メニューにしたら枢木さんだけの特別にならないでしょう?」
今日はやけに期待を持たせるような発言ばかりで、嬉しいけれど内心複雑だ。これはリップサービスで、常連客への単なるサービス。それ以上でもそれ以下でもない。
「ルルーシュさんはお上手ですね。でも、それこそ僕より彼女に言ってあげたほうがいいと思いますよ」
彼女という単語に自ら傷付く。馬鹿だなと思ってもう一口チョコレートを飲んだ。
ふと視線を感じて顔を上げれば紫の綺麗な瞳が自分をじっと見つめていて、意味もなく緊張した。
「今日が何の日かわかっていますか?」
「えっ、今日?」
何か行事があっただろうか。三月はお雛様くらいしか思い浮かばない。首を傾げれば、なぜかルルーシュが小さく溜め息をついた。
「なるほど、枢木さんの場合は正攻法だと駄目ってことか」
しかも何やら呆れられた。
「チョコレートのお返し、と言ってもわかりませんか?」
「お返し?お返しはお返しでしょう?」
「確かにお返しですが、今日はホワイトデーですよ」
バレンタインデーにホワイトデー。この二つはセットのようなものだ。お菓子業界の策略という話もあるが、イベント好きな日本人にとってはもってこいの行事だろう。
そして今日は三月十四日。
つまり、カップの中のホットチョコレートはホワイトデーを意識してのもの、というわけだ。ハッとしたスザクは思わず椅子から立ち上がった。
「そうだ!今日はホワイトデー…!」
口をあんぐり開けて固まっていると、ルルーシュがくすくす笑った。
「本当に今ごろ気付いたんですね。最初からお返しだって言っているのに」
「す、すみません、そういう意味でのお返しとは全然思わなくて……」
「いえ、枢木さんらしいです。それじゃあ、俺がこうしている理由も気付いていないんでしょうね」
「へ?」
捲っていた袖を元に戻しながら話す顔はどこか寂しげで、自分が何か悪いことをしてしまったような気分だ。
「この店の閉店時間、何時か知っていますか?」
「閉店時間……」
今まで気にしたことがなかった。店に寄って開いていればラッキー、閉まっていたら諦めて帰るというスタンスで立ち寄っているけれど、そう言えばいつも開いている気がする。
「午後九時です」
「九時……九時!?」
思わず時計を二度見した。今の時刻は午後十一時。閉店を二時間も過ぎていた。
「で、でも、なんで」
「さっきから言っているでしょう?枢木さんは特別だって」
柔らかい笑みをぼんやり見つめる。
「それって……」
何度も特別と言われて、期待していいのだろうか。本当は冗談で、からかって遊んでいるだけかもしれない。
でも今日はホワイトデーだ。告白はバレンタインだけという決まりはない。
毎日毎日、閉店時間を過ぎても店を開けてくれているルルーシュの気持ちを疑えば、もう二度とチャンスはないだろう。
「あ、あの、ルルーシュさん!」
「はい」
「その、えっと……」
ごくりと唾を飲み込み、大きく息を吸う。
「僕の……僕のためだけにホットチョコレート淹れてください!」
精一杯の勇気を込めた言葉は、しかし自分でも呆れるような内容だった。
ニュアンスとしては「君の作った味噌汁を毎日飲みたい」なのだが、これでは何を伝えたいのかちっともわからない。
「だから、今のはつまり、僕と付き合ってくださいってことなんですが……」
しかも告白のやり直しだなんてカッコ悪いにもほどがある。頭を抱えてこの場に蹲りたい気持ちをなんとか抑えてルルーシュの反応を窺った。
ぽかんとした表情を浮かべていた彼は、小さく吹き出すと肩を揺らした。
「そんなにホットチョコレートお好きだったんですか?」
「そ、そういうわけじゃ」
「やっぱり面白いですね、枢木さん」
「面白くしているつもりもないんですが……」
「いいですよ。あなたのためだけに淹れますから、どうか毎日飲みに来てください」
さらりと告げられた科白にスザクは目を瞠った。ルルーシュが口許を緩める。
「俺もあなたのことが好きってことです。いつ来るかわからないあなたのためにずっと店を開けておくくらいには」
夢みたいな返事だった。
さっきまで告白するつもりなんてなかったのに、気付けばお互い想いを伝え合い、両想いになっている。まるで奇跡のような展開だ。
「あの……、もう少しお話しさせてもらってもいいですか?」
「ええ、俺もあなたともっとお話ししたいと思っていました。じゃあ、まずはさん付けと敬語をやめましょうか?」
ルルーシュの提案に迷うことなく頷く。
「僕もそう思っていたところだよ、――ルルーシュ」
初めて名前を呼んだみたいな新鮮さが面映ゆい。思わずお互い顔を見合わせてはにかむ。
ただそれだけのことがとても幸せだった。
その日、店の裏メニューにホットチョコレートが加わったことは二人だけの秘密である。
(13.3.14)