夏になると蛍が見られるんだ。
 そう教えてくれたのは、この町に引っ越して来て初めてできた友達だった。
 いつも元気に外を駆け回り、よく笑い、たまに馬鹿で、でも心優しくて太陽みたいな彼。自分とはまったく違う性質を持った彼のことが僕は嫌いじゃなかった。
 自然に囲まれた小さな町は閉鎖的で、ブリタニア人の一家を表面上は受け入れているが、陰でこそこそと噂しているのを子供の僕は知っていた。
 どうしてこんなところに来たのかと思ったけれど、妹の病気のためには空気の綺麗なところがいいんだと両親に説明されていたから文句は言えなかった。
 僕より小さな妹はよく熱を出し、ベッドの上で過ごすことが多い。遊びたい盛りなのにいつも寝てばかりの妹が可哀想で、僕はよく本を読んであげた。
 ここに越して来てからは顔色も良く、寝込むことも少なくなったので、綺麗な水と空気は彼女のためにはとてもいいのだろう。成長するに連れて元気になると言われていて、今はなるべく静かな場所で過ごしたほうがいいという医者の言葉に嘘はなかったようだ。
 僕はブリタニア人だけど日本で生まれたので、日本の文化はそれなりに理解していた。都心の学校にはブリタニア人も多く、今まではブリタニア系列の学校に通っていたから何も問題を感じていなかった。
 しかし、この町の閉鎖的な空気には辟易していた。大人だけではない。学校でも同じだ。子供達は大人達の空気を敏感に感じ取る。引っ越してきたばかりのブリタニア人一家を部外者と認定し、避けてくるのはごく自然なことだった。
 妹の身体が良くなるまでの一時的な移住で、僕が中学に上がる頃には都心に戻ることを両親は相談していた。もしこのまま住み続けることになったとしても、中学進学を機に町の外に出てしまえばいい。
 長くてあと二年。たった二年我慢すれば僕はここから出ていく。それまでは面倒に巻き込まれないよう静かに過ごすつもりだった。
 計算外だったのは、同級生の男子達があまりに幼稚だったことだ。
 こちらは大人しくしているのだから放っておいてくれればいいのに、いちいち嫌がらせをしてくる。ノートや教科書を隠されたり、靴を捨てられたり、実害はあってもその程度で済んでいた頃はまだ良かった。
 だけど嫌がらせは次第にエスカレートし、僕に直接危害を加えてくるようになってきた。学校の帰り道に待ち伏せされ、何人もの人間で囲んでくるのは厄介でたまらない。手加減なしに突き飛ばされ、転んだ拍子に怪我をしたのは一度や二度ではなかった。
 小学生ならば子供らしく外で遊び回ればいいのに、毎日がそんなに退屈なのか、彼らは気に入らないクラスメートを執拗に狙ってきた。行きも帰りも教室の中でもお構いなしで、僕は学校に行くのが嫌で嫌でたまらなくなった。
 それでも、学校を休むという選択肢はなかった。父さんは仕事で忙しいし、母さんは妹の看病のためにやはり忙しい。「お兄ちゃんはひとりでなんでも出来る良い子で助かるわ」と母さんから頭を撫でられるたびに、僕は何も言えなくなってしまった。
 両親の前では良い子、妹の前では良いお兄ちゃんでいなければならない。だから、いじめられていることも学校に行きたくないことも言えなかった。僕のプライドが許さなかったのだ。
 十歳の子供だろうとプライドはある。この問題は僕自身が乗り越えなければいけないのだと思ったから、僕は絶対に学校を休まなかった。
 そんなある日、いつものように待ち伏せをされて僕は川に落とされた。
 町には川があり、とても綺麗な水が流れていた。幸い、子供の腰ぐらいの深さで流れも速くないので大事には至らなかったが、服も靴もランドセルの中身もぐっしょり濡れてしまった。
 このまま学校に行ってもびしょ濡れのままで授業を受ける羽目になる。先生は心配も何もしないだろう。机を濡らすなと逆に怒られるかもしれない。それを見てクラスメート達がくすくす笑うのだと思ったら何もかもが一気に面倒になった。
 川に落ちて風邪を引いたことにしよう。サボる理由を決めると僕は通学路を引き返した。
 このまま戻るとほかの子供に遭遇してしまうので、いつもは通らない細い道に向かう。歩くたびに濡れた靴が気持ち悪く、早く脱いでしまいたいと思いながら鬱蒼とした林を抜けた。
 そこには古い建物があった。ぐるりと回れば赤い鳥居が目に入る。どうやら神社の境内に出てきたらしい。
 この町に神社があるとは知らず、ぽっかりと開けた場所を僕は物珍しく眺めた。
 人の気配はしない。小さな神社のようで、あっという間に一周できた。
 玉砂利を鳴らしながら拝殿に近付くと、記憶の中にある神社のお参り方法を手繰り寄せる。確か『かしわで』って言うんだっけと思い出し、それっぽい動きをして手を合わせると、「しばらくお邪魔させてもらいます」と心の中で神様に許可を取った。
 賽銭箱の前の石段にランドセルを下ろし、靴も靴下も脱いでしまう。ランドセルの中身も全部並べた。天気がいいので帰る頃には少しは乾くことを祈る。
 石段に座り込んだ僕はぼんやりと景色を眺めた。
 気持ちのいい風が吹いて、木々の葉がさわさわと音を立てている。のどかな光景は落ち着くものだった。毎日嫌な出来事があるのを忘れてしまいそうだ。
 この町の自然はこんなにも美しいのに、どうして人々の心はあんなにも醜いのだろう。それとも、僕が弱いことがいけないのだろうか。弱いから付け込まれてしまうのだろうか。
 何気なく神社を見上げた。ここの神様はこの土地を守っているはずで、ここに住む人間のことも見ているはずだ。ならば、僕のことはどう思っているのだろう。受け入れてくれるのか、外敵だと排除されるのか。

「好きでここに来たわけじゃないのに」

 ぽつりと呟いたとき、茂みのほうからガサガサと音がした。動物っぽい音だ。まさか野犬、と思ったら急に身体が竦んだ。この土地に文句を言ったから神様が本当に僕を排除しようとしているのかもしれない。
 咄嗟に逃げようとして、自分が裸足であることを思い出した。
 靴下、それより靴、いやランドセル。何を持って逃げればいいのかわからず、もたもたしている間に音はどんどん近付き、そして黒い塊が飛び出してきた。
 僕は尻餅をついた。驚き過ぎて声は出なかった。

「あれ? なんだお前」

 野犬かと思ったのは人間だった。不思議な格好をして、手には木の棒みたいなものを持っている。

「見かけない顔だな。外国人? なんで外国の子供が神社にいるんだよ。どこの人? あ、えーっと、お前、日本語わかる?」

 どこまでが独り言でどこからが質問なのかよくわからない。わからないけれど、僕は「わかる」と呆然としたまま答えた。

「僕は日本生まれで日本育ちのブリタニア人だ」
「日本語ペラペラじゃんか。なんだよ、騙された」

 目の前の人間はひとりで勝手に怒り出した。騙した覚えはないのに騙されたと言われるのは心外だ。
 ようやく冷静になった僕は、なんだこいつ、と胡乱な目で相手を確かめた。
 どう見ても子供だ。僕と同い年ぐらいかもしれない。白と紺の上下は何かで見たことがある。そうだ、弓道だ。たまたまニュースに弓道の映像が流れていて、そのときに選手が着ていた服がこんな感じだった。ということは日本の武芸をやっているのかもしれない。
 でも、なぜこんな場所にいるのだろう。子供はみんな学校に行っているはずだ。そもそもこいつは誰だ。
 狭い町なので住民の顔と名前はだいたい把握している。自慢ではないが、僕の記憶力はかなりいい。小学校の全校生徒の顔ももちろん覚えていた。
 だけど、どの学年にもこんな子供はいなかった。僕と同じ転校生だろうか。それにしては神社に詳しそうな様子だ。
 つらつらと考えていると、その子供は僕の姿を見て眉を寄せた。

「何してるんだよ、それ」
「何って、乾かしている最中だ」
「なんでそんなに濡れてるんだ。雨なんか降ってないぞ」
「川に落ちたんだ」
「へえ、どんくさい奴」

 馬鹿にした言い方にムッとした。

「好きで落ちたわけじゃない」

 無視すれば良かったのに、思わず言い返してしまった。どうせこの子供もブリタニア人だからと嫌がらせをしてくるに決まっている。
 僕はふいと顔を逸らし、濡れたままの教科書をランドセルに入れ、濡れたままの靴下を履いた。生乾きの靴下ほど気持ちの悪いものはないけれど我慢した。

「どうしたんだよ。まだ濡れてるぞ」
「僕が邪魔なんだろう。すぐに行くよ」
「乾くまで待てばいいじゃん」
「ブリタニア人が神社にいたら不快だろう?」

 靴を履きながら見上げれば、その子供はぽかんとしていた。変な反応だ。

「ふかいってどういう意味だよ。深いところまでもぐるのか?」
「不快も知らないのか?」

 馬鹿にした口調になっていたのか、今度は相手のほうがムッとしていた。

「悪かったな、どうせ俺は勉強が苦手だよ」
「君、何年生なんだ」
「四年」
「え? じゃあ僕と同じ学年?」
「お前も四年? あ、もしかして転校生ってお前のことか? なんだ、それならそうと早く言ってくれよ」
「早く言えと言われても、君のことは一度も見たことがない」
「ああそっか、俺は四月からずっと本家に、あ、本家ってわかるかな、えっと、親戚、そう、しばらく親戚の家にいたんだよ。で、昨日こっちに帰ってきたばかり。だからお前と会わなかったんだ」

 本家とは一族の中心となる家のことだろう。本家から帰ってきたということは、ここにあるのは分家なのか。
 そういえば、この町にひときわ大きな家があると聞いたことがある。地主みたいなものかと思っていたが、どうやら彼はそこの子供らしい。
 一番関わってはいけない面倒な人間であったことが判明し、僕は溜め息を押し殺した。

「あれ? 学校は?」
「だから……川に落ちたから行くのをやめにしたんだ」
「だったら家に帰ればいいのに」
「こんな時間に帰ったら母さんが心配する」
「じゃあ学校が終わるまでここにいるつもりなのか?」
「なんだっていいだろう。とにかくもう行くよ。勝手に神社を借りて悪かった」
「待てって、そんなに濡れてるのにどこ行くんだよ。よくわかんないけど、家には帰らないんだろう?」
「僕がどこに行っても君には関係のない話だ」
「関係あるよ。ここで会ったんだから。それにお前、なんかイイ」
「は?」

 なんかイイ、の意味が把握できなかった。僕の知らない日本語だろうかと疑問符を浮かべていると、彼が「ちょっと待ってろ!」と踵を返した。

「勝手に帰るんじゃないぞ!」

 引き止める間もなく、その子供はあっという間に林の向こうへ行ってしまった。

「待ってろって……」

 どうして見ず知らずの人間に命令されなければいけないのだ。彼とは知り合いでも友達でもない。このままいなくなっても問題はない。
 だけど――、と考えた。
 彼は僕が誰かを知っている。もし勝手に帰ったと知ったら、学校の人間を使って僕に嫌がらせをしてくるかもしれない。これ以上の面倒は御免だ。ならば非常に不本意ではあるけれど、言われたとおりここで大人しく待っているしかないのだろう。
 石段に座り直し、僕は雲ひとつない青空を見上げた。このまま消えてしまってもいいなと思えるほど気持ちが良くてとてもいい天気だった。
 それからどのくらい待ったのか。再びガサガサと音が聞こえ、あの子供が戻ってきた。何か荷物を抱えている。なんだろうと立ち上がれば、ほらこれ、と手の中のものを押し付けられた。

「タオル?」
「と服と靴下」
「え? なんで?」
「だってお前、濡れてるから」
「まさか僕のため?」
「ほかに誰がいるんだよ」

 ちょっとぶっきらぼうに、どこか照れくさそうに言って、彼はタオルと服と靴下をぐいぐい押してきた。
 なんで、と呆然と呟く。知り合いでもなんでもないブリタニア人にどうしてこんなものを渡してくるのだろう。

「これ、俺の服だから」

 誰の服かわからなくて僕が躊躇っていると思ったのか、「だから汚しても大丈夫」と彼が付け加えた。

「濡れたやつはこれに入れて持って帰ればいいよ」

 差し出されたのはビニール袋だった。濡れた服を入れるには少し小さいけれど、わざわざ持ってきてくれたのだと思ったらなんとも言えない感情が込み上げた。

「大丈夫って、でも僕、君の友達じゃないのに……」
「友達じゃないと服を貸したらダメなのか? じゃあ友達になろう」
「じゃあって……」
「ほら、いいから早く脱げって。着たままだと乾かないぞ」
「わ、わかった、わかったから引っ張るな!」

 このまま脱がされそうな勢いで、僕は慌てて距離を取った。

「パンツもあるぞ。一回も穿いてない新しいやつだからな」
「わかったからこっちを見ないでくれ!」

 受け取ったものを抱えて神社の裏に回る。なんでそっちに行くんだよと不満そうな声が届いたけれど、人前で着替えをする趣味はない。たとえ相手が同級生の小学生男子でもだ。
 のんびりしていたら彼が様子を見に来そうだったから、僕は急いで真新しい服を広げた。Tシャツに首を通したとき、他人の家の匂いがしてなんだか変な感じがした。

「なあ、まだか?」
「もう行く!」

 濡れた服をビニールに突っ込んで戻る。彼は石段に座って足をぶらぶらさせながら待っていた。

「靴はこのまま乾かすしかないな」
「うん。……ありがとう」
「気にするなって」
「でも本当に良かったのか? 家の人が怒らないか?」
「困ってる奴がいるから持って行くっていったら、お友達ができたのねって喜ばれた」

 なんだそれは、と僕は眉を寄せた。どういう意味かわからない。

「そもそも君、学校は?」
「今日まで休み。お前、何組?」
「一組」
「じゃあ同じクラスじゃんか。明日も会えるな」
「そうだね……」

 明日のことを考えたら憂鬱になった。いっそこのまま学校に行くのをやめてしまおうか。今まで一度も考えなかったことが浮かんだ。
 ずっと休まずに通っていたけれど、一度サボってしまうとそんな意地はどうでも良くなってしまった。

「学校、楽しくないのか?」

 僕の顔が暗く陰ったことに気付いたのか、窺うように聞かれた。傍若無人で人を振り回すだけの人間かと思ったけれど、人の心の機微を意外と敏感に感じ取るタイプなのかもしれない。

「君は楽しい?」

 質問に質問で返せば、うーん、と彼が唸った。楽しいと即答されるかと思っていたのでこれも意外だ。

「どういうところを楽しいって思えばいいのかよくわかんない。体育は得意だけど勉強はそんなに好きじゃないし、先生もクラスの奴らも俺のこと避けてるし」
「避ける? どうして?」
「枢木って家、知らないか? この裏に家があるんだけど、俺、そこの子供なんだ。俺の親がせーじかってやつで、みんなは先生先生って呼ぶんだ。学校の奴らもそれを知ってて、俺のこと陰で先生って呼んで馬鹿にしてる」
「馬鹿にする? ちやほやするの間違いじゃないか?」
「ちやほやってなんだ?」
「君って政治家の息子なのに馬鹿なのか」
「バカって言う奴がバカなんだからな!」

 ムッとして言い返してきた彼に、はいはいと気のない返事をする。

「ちやほやっていうのは、君のことを褒めたりおだてたり……おだてるはわかるか?」
「そのくらいわかるぞ! バカにするな!」
「それは良かった。つまり君を褒めたりお世辞を言ったりおだてたりして、君に気に入られようとするってことだよ」
「なるほど。うん、そういうのはある。先生がよく俺のことすごいすごいって褒めてくる」
「じゃあ馬鹿にされてないじゃないか」
「バカにされてるよ。みんな陰で笑ってるの知ってるんだ。でも、俺をバカにしてるってことが親にバレたら大変だから直接言ってくる奴はいないし、それに、俺と喧嘩しても勝てないって知ってるから近付いてこない」
「遠巻きにされてるってことか」
「遠巻き?」
「君に関わったら面倒だから関わらないようにしているってこと」
「へえ、遠巻きって言うんだ。うん、俺、遠巻きにされてる」

 なぜか嬉しそうに遠巻きを連呼され、そこは喜ぶところじゃないだろうと呆れた。

「枢木か……、聞いたことあるな。今度、総裁選に出る人だろう?」
「そうさいせん?」
「君、本当に政治家の息子か?」
「だからバカにすんなって! 別に政治家の息子が知らなくたっていいだろ! それに、父さんは俺のこと政治家にするつもりないし……」
「そうなのか?」
「そうだよ。優秀な子供はほかの分家にたくさんいるから、そういう奴らは本家に集められてるんだ。でも俺はバカだからここに預けられてる」

 少し寂しそうな色が彼の横顔に浮かんだ。

「君は馬鹿じゃないよ」

 慰めるつもりでも励ますつもりでもなく、僕は思ったままを口にした。本当の馬鹿は、自分がどういう立場でどういう状況に置かれているか理解できないのだから。
 すると、彼は驚いたように僕のほうを見た。

「それがちやほやってやつか?」
「今の発言は馬鹿だな。覚えたばかりの単語を使えばいいってものじゃない」
「もう! バカなのかバカじゃないのかどっちなんだよ!」
「勉強は不得意そうだが、人間としては馬鹿じゃないって意味だよ」
「人間として……?」

 クエスチョンマークを大量に浮かべている顔に、僕は声を出して笑った。こんな風に笑ったのは久しぶりだ。家でも学校でも作り笑いしかしていなかったから、笑い方をすっかり忘れていた。
 僕はまだ笑えたのだとわかって少し驚いた。

「どうした?」

 彼がぼんやりと僕を見ていたので首を傾げた。途端にその頬が赤くなり、うろたえた様子で「なんでもない!」とそっぽを向かれた。
 ちょっと馬鹿で変な奴だけど、悪い人間ではなさそうだ。この町で出会った人間の中で一番好きだと思えた。

「お前、変な奴だな」

 僕が心の中で思ったことをそっくりそのまま返され、僕はまた笑った。何が可笑しいんだよと不貞腐れた顔をされる。

「――なんで僕に優しくしようと思ったんだ?」
「なんでって?」
「だって、僕はブリタニア人だぞ」
「そんなの見ればわかるよ」
「学校のみんなも町のみんなも、僕がブリタニア人ってだけで嫌がるんだ。別にそれを非難するつもりはない。集団の中に異質なものがあれば排除しようとするのは当たり前の感情だ。ただ、僕は放っておいてほしいだけなんだ。仲良くしたいとか溶け込みたいとかそんな希望は持ってない。ただ、いつかこの町を出るときまで静かに過ごせればそれでいいんだ。なのに――」

 膝を抱えて顔を埋める。急に泣きたいような気持ちになった。どうしてだろう。この町で初めて誰かに優しくされたからだろうか。

「お前、ここにいたくないのか?」

 僕は何も答えなかった。でも彼は察したようで、不意に頭を撫でられた。

「なあ、だったら俺と友達になろう」

 のろのろと顔を上げれば、彼がにこにこと笑っていた。太陽みたいだと思った。

「だったらというのはどこにどう繋がるんだ」
「安心しろ。俺がいるとみんな寄ってこない。だから大丈夫」

 ちっとも答えになっていない。でも、大丈夫の一言になぜか安堵するような気持ちになった。

「俺が一緒にいてやるから。な?」

 出会って一時間にも満たないのにどうして友達になろうだなんて思えるのかわからない。でも、彼の言葉に救われたのは確かだった。

「お前、名前は?」
「ルルーシュ」
「俺はスザク。よろしくな」
「――よろしく」

 どうせただの気紛れだろうと思った。いや、思い込もうとした。
 もし明日学校に行って知らないふりをされたら。声をかけても蔑むような目をされたら。ほかのみんなと一緒になって嫌がらせをしてきたら。そんなことをされたら僕は二度と学校へ行くまいと考えるほどには彼に救われた。だからこそ、自分の中の期待値を下げて何があっても耐えようと覚悟していた。
 しかし僕の覚悟に反して、彼は本当に僕の側にやって来た。教室に行くと「ルルーシュ!」と僕を呼び、休み時間も放課後もずっと一緒にいてくれた。
 久しぶりに登校してきたスザクが僕と仲良くしているのを見て、クラスのみんなは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。先生も生徒も近所の人達もみんながぽかんとしているのは少し面白かった。
 子供達の嫌がらせがなくなり、先生が急に猫撫で声になり、近所の人達は笑顔で挨拶をしてくるようになり、スザクの存在は神社のお守りよりもすごい効果があった。
 君ってすごいんだねと純粋な感心を伝えれば、俺じゃなくて俺の父さんがすごいだけだよとスザクは否定していたけど、その顔は満更でもなさそうだった。
 それからというもの、僕とスザクはいつも一緒だった。学校がある日も休みの日も一緒で、スザクの住む分家のお手伝いさん達ともすっかり顔馴染みになっていた。
 やがて夏休みに入ると、スザクと過ごす時間はますます増えた。
 もうすぐ夏祭りがあると教えられ、ついでに蛍を見に行こうと誘われた。僕が蛍を見たことがないと言ったら、一番綺麗なところに連れてってやるとスザクは約束してくれた。僕もとても楽しみにしていた。
 それなのにスザクと喧嘩をした。
 喧嘩の原因は思い出せないくらい些細なものだ。
 せっかくスザクの浴衣を借りてお手伝いさんに着せてもらい、蛍の前にお祭りの出店に行って好きなものを買おうと計画していたのに全部ダメになってしまった。
 足元でからんころんと音がする。慣れない下駄は歩きにくく、だんだん足の指が痛くなってきた。見下ろしてみると皮が擦りむけて赤くなっていた。
 僕は溜め息をついて下駄を脱いだ。裸足になって土の上をぺたぺたと歩く。裸足で遊び回るようなことはなかったのでなんだか新鮮だった。
 しばらく行くと川が見えた。スザクの言っていた蛍は恐らくいない。恐らく、と不確かな言い方になってしまうのは、僕が蛍の実物をまだ見たことがないからである。どんな風に見えるのか当日の楽しみにしていたから、僕にしては珍しく調べてこなかったのだ。
 でも、そのスザクは隣にいない。
 今頃は家に帰ってしまっただろうか。それともほかの同級生と一緒だろうか。
 ようやく友達ができて、ここでの暮らしも悪くないとほんの少し思えるようになってきたのに、僕はまた独りぼっちになってしまった。
 土手にぽつんと座り込む。さらさらと流れる水の音だけが耳に届いた。
 神社のほうでは出店が出ているはずなのに、人の声はちっとも聞こえてこない。まるで世界に僕ひとりだけになってしまったみたいだ。
 それならそれでいいかもしれない。僕ひとりになれば面倒なことからも煩わしいことからも逃れられる。
 そんなことを考えたとき、川の向こうに小さな灯りが見えた。
 今にも消えてしまいそうな仄かな光は、右へ左へとゆらゆら揺れている。

「蛍……?」

 あれがきっと蛍だ。そう思った僕は立ち上がり、もっとよく見ようと川に沿って歩いた。
 あと少し。もう少し。すぐ側は川だから落ちないように。

「うわっ」

 慎重に足を進めていたのに、次の一歩を踏み出した瞬間、草を踏んだ足元がずるりと滑った。
 辺りは真っ暗で、底なしの沼が足元にぽっかりと広がっているようでぞっとした。川の深さもわからないし、このまま滑ったら危ないと思うのに、身体は重力に従って下へと落ちて行く。僕は反射的にぎゅっと目を瞑った。

「大丈夫?」

 人の声が聞こえた。恐る恐る目を開ければ、大人の男の人が僕を見ていた。
 その人は僕を抱き上げて川から離れた。土手の上まで来るとようやく地面に足がつく。滑って転びそうになったところをこの人に助けられたらしいとなんとなく理解した。

「怪我してない?」

 驚いて声を出せずにぼうっと見上げていると、その人がしゃがみ込んで僕と目線を合わせた。栗色の髪はくせっ毛でふわふわしている。スザクみたいだった。

「川に落ちる前に助けられたと思うんだけど、もしかして濡れちゃった? あれ、裸足? まさか靴落とした?」

 その人が川のほうを振り返る。いつまでも黙っているのは失礼だと気付き、僕は「違います!」と声を出した。

「大丈夫です。怪我もしてないし、濡れてもいません。今日は下駄を履いてきたんですが、足が痛かったから脱いだだけで……」

 多分その辺に、と足を踏み出した。すると、大きな手が僕の手を掴んだ。

「あとで探してあげるよ。今はあまりうろうろしないほうがいいから」
「どうしてですか?」
「うん、そうだね」

 答えにならない返事があった。その人の視線を追いかけて川の向こう側を見る。
 ひとつ。ふたつ。先ほど見つけた光が飛んでいた。

「蛍だ」

 弾んだ声を上げれば、蛍を見に来たの? と聞かれた。

「こんな時間にひとりで?」
「……友達と来るつもりだったんですけど、喧嘩しちゃったから」
「なるほど。だからひとりで来たんだね。でも、夜に出歩くのはやめておいたほうがいい。この辺りはちょうど境目なんだ。君も迷い込んじゃったみたいだし」
「境目?」
「僕達の世界は境界線が曖昧だからね。それに君は可愛いから、君みたいな子を呼びたがる連中もいるんだ」
「不審者ってことですか?」
「まあそんなもの。だから夜に出歩くときはひとりになっちゃダメだよ。どうしても外を歩く必要があるときは、その友達に頼んで一緒にいてもらって」
「でも、きっと嫌われたから……」

 お前なんかもう知らないと、スザクに言われたことを思い出して鼻の奥がつんとした。この程度で泣くなんてみっともないし、どうして急に泣きたくなったのかわからない。

「ちゃんと謝れば大丈夫だよ。僕は喧嘩の原因を知らないけど、もし君が悪いと思っているんだったら謝ればいいんだ。友達だって今ごろ後悔してるだろうし」
「謝ればスザクは許してくれると思いますか?」

 この人に聞いてもわかるはずがないのに、思わず尋ねていた。自分でもビックリするくらい情けない声で、また泣きたくなった。

「思うよ。それとも、君の友達は君が謝っているのにいつまでも怒るような酷い人間?」

 ううん、と首を振る。じゃあ大丈夫だと頭を撫でられた。
 初めてスザクと出会ったとき、僕を慰めるためにこうして撫でられた。なんだかよく似ている仕草だ。
 スザクと同じくらいこの人の近くは安心した。強張っていた心がどんどんとけていくのを感じる。

「向こうまで送ってあげるよ」
「ひとりで帰れます」
「また川に落ちそうになっても困るし、足だって痛いんだろう? 子供は素直に甘えていいんだよ。それが子供の特権だ。大人は子供を甘やかす義務がある」
「そんな義務、聞いたことありません」
「じゃあ僕の義務かな。とにかく夜道は危ないから送っていくよ。下駄ってどの辺にあるかわかる?」

 先ほど座り込んでいた場所を指すと、ちょっと待っててと言い置いてその人は行ってしまった。しばらく地面を見渡し、やがて「あった」という声がした。
 僕の下駄を下げて戻ってくる。大人が持つ下駄はとても小さく見えた。

「はい、どうぞ」

 しゃがんだその人が僕に背を向けた。どういう意味かと首を傾げていると、おんぶしてあげるからととんでもないことを言われた。

「いいです! いやです!」
「足が痛いのに無理しないでよ」
「自分で歩きます!」
「もう、相変わらず意地っ張りなんだから」

 僕に近付いた相手がにっこり笑った。なぜだか嫌な予感がした。この人のことは知らないはずなのに、どこかでこの笑顔を見たことがあると思った。
 脇の下に手を入れられ、え? と思ったときには身体が宙に浮いていた。

「うわぁ!」
「暴れると落としちゃうから気を付けて」

 怖いことをさらりと言われ、ぴたりと口を噤んだ。そして、恐る恐る自分の状況を確認した。
 見ず知らずの大人におんぶされている。こんなところを学校の誰かに見られたら明日からいい笑いものだ。でも逃げ出すことはできないし、「落としちゃう」と言われては下手に身動きが取れなかった。

「じゃあ、あっちに戻ろっか」

 その人が歩き出す。どうすればいいのかわからなくて、僕は仕方なく肩に両手を乗せた。なんでもいいから掴まるものが欲しかったのだ。

「君、何歳?」
「十歳です」
「そっか。じゃあまだ小さいね」
「背は日本の小学生の平均身長ぐらいです」
「ああ、そういうことじゃなくて、まだ子供だねって意味」
「好きで子供をやってるわけじゃありません」
「そういう意味でもないんだけどなぁ。君は子供の自分が嫌かもしれないけど、子供の時代は貴重なんだ。大人とは違う不自由さがあるし、自分ひとりでは何もできないことが多くて今は苦しいばかりかもしれないけど、本来子供というのはもっと大人に甘えていいんだよ。それに、君には友達がいる。友達がいるというのはとてもいいことだと思わない?」

 僕に語りかけるこの人は何を思い出しながらこんなことを言っているのだろう。誰かに言い聞かせるような言葉は、どこか遠くを見ているように感じられた。

「なんでもひとりで抱え込む必要はないよ。逃げたくなったら逃げてしまえばいい。家族も学校も世界も、君ひとりが立ち向かって戦わなくていいんだ。だからひとりで無理をしないで」

 ほかの大人に言われていたら聞く耳を持たなかっただろう。でも、この人の言葉は不思議と響いた。僕に優しくしてくれたのはこの人で二人目だと思ったら温かい気持ちが胸に広がる。

「それから、友達とは仲直りできるときにしておいたほうがいいよ。一度きっかけを失ったら仲直りできなくなって、最後までごめんって言えなくなってしまうから」
「言えなかったことがあるんですか?」
「うん。どうして言えなかったんだろうって今でもずっと後悔してる。本当はとっくの昔に許していたのに、意地になって謝れなくなっていたんだ」
「その友達とは仲直りできなかったんですか?」

 少し間をおいて、どうだろう、とその人が呟いた。

「結局、仲直りしたのかもしれないし、仲直りできなかったのかもしれない。僕は一度もごめんって言えなかったから、彼は僕のことを怒っているかも」
「じゃあその友達の人とは会っていないんですか?」
「そうだね。もう二度と会えなくなっちゃった。こうして探してるんだけど、ずっと会えないままなんだ。僕のことが嫌いでたまらなくて、だから会いたくないのかもしれない」

 その人の声が泣いているように聞こえた。

「……スザクに二度と会えなくなったら嫌だな」

 ぽつりと言えば、喧嘩した友達のこと? と聞かれた。はいと答えて、僕は大きな肩に抱き付いた。

「僕、よそ者だからこの町で浮いていて。でも、スザクだけは最初から僕と普通に接して、友達になろうって言ってくれたんです。スザクが一緒にいると学校で嫌がらせをされなくて、だから僕、いつの間にかスザクに頼ってばかりいたんです。こんなことじゃダメだと思って、ひとりでも大丈夫なようにもっと強くならなきゃいけないのに、そしたらスザクが、僕のことを俺が守ってやるって言い出して、でもそんなのは押し付けだって僕は怒っちゃって……」

 喧嘩の原因を思い出した。些細なことなんかじゃない。僕にとっては大切なことだった。でも、スザクはちっとも悪くない。
 僕が一方的に怒っただけだ。守ってやるとスザクに言われ、お前は何もできないと言われたみたいで腹が立ったのだ。
 スザクが厚意からそう言ってくれたのはわかっている。実際、スザクのおかげで僕はたくさん助けられた。スザクに守られているのが現実なのに、それを嫌だと思ってしまった。恩をあだで返したのだ。

「ひとりで生きていく強さはもちろん必要だよ。でも、時には誰かに頼ったっていいんだ」
「でも、弱いのは嫌なんです」
「どうして?」
「僕が強かったら誰からも嫌がらせなんてされないのに、弱いから付け込まれるんです。だから弱いのは嫌なんです」
「弱さは悪じゃないよ。弱いからこそ強いことだってある。現に君はたったひとりで戦ってきたんだろう? ひとりでよく頑張ったね」

 頑張った。
 その一言を伝えられた途端、無性に泣きたい気持ちになった。誰かに自分を認めてもらえるのはとても嬉しいことなのだと僕は初めて知った。

「友達を頼りたくないって気持ちもわかるよ。僕の友達もそういう意地っ張りなところがあったし、君みたいにひとりで頑張っていたから。でも、思うんだ。もし僕が彼のことをもっとちゃんと守ることができたら、彼はひとりでつらい思いをしなかったんだろうなって。だから、君も君の友達に守られてあげてくれないかな。その友達は君に頼ってもらえて嬉しいはずだし、そうすることで自分自身の存在意義を見出しているんだと思う」
「そんなことしなくてもスザクの存在意義はあるのに」
「気持ちの問題だよ。他人からいくら言われても、自分自身で存在意義を感じられなきゃ意味がないだろう?」
「そう……かもしれません」
「だからさ、守りたいっていう友達の気持ちに付き合ってもらえたら嬉しいな。でも、本気で嫌なときは嫌って伝えるんだよ。それを言えるのが友達なんだ」
「言ってることが矛盾してませんか」

 僕が不服そうに指摘すれば、その人は「確かに」と声を立てて笑った。

「人間なんて矛盾だらけだからさ」
「開き直らないでください」
「だけど、言いたいことも言えないのは友達じゃないと思わない? 一方的なわがままを言えってことじゃなくて、友達とは本音で付き合ってほしいって意味だよ」
「嫌だと言って喧嘩になったとしても?」
「何かを我慢したまま友達を続けてもいつか駄目になる。そのときに後悔してほしくないんだ」

 この人はきっと何かに後悔したのだろう。だから僕にこんなことを言い聞かせているのだ。

「……善処します」
「うん。そうしてあげて」

 それきり言葉はなかった。辺りは真っ暗でどこを歩いているのかわからない。
 心地よい振動にだんだんうとうとしてきた。何分経ったのだろう。五分だったのか。三十分だったのか。時間の流れが曖昧だった。
 随分と遠くまで歩いたのではないかと思った頃、そろそろ着くよと声がしてハッとした。

「蛍が見たくなったら、今度は必ず二人でおいで。ひとりは駄目だからね」
「はい」

 川に沿って歩いて行く。蛍はいつの間にか消え、代わりに家の明かりがぽつぽつと見え始めた。
 おーい、と風に乗って声が聞こえた。耳を澄ませると、それはスザクの声だった。

「スザクだ」
「友達?」
「はい」

 今度は僕の名前を呼ばれ、僕は「スザク!」と叫んだ。すると下駄の走り出す音がした。なぜか二人分だ。

「ルルーシュ!」

 真っ暗な道の向こうから走ってきたのは確かにスザクだった。見知らぬ誰かの手を引いている。
 その誰かは僕達の前で立ち止まり、膝に手を当ててぜえぜえと息を切らしていた。浴衣姿に黒髪だけど、どうやら日本人ではないらしいと気付く。
 下ろすね、と声をかけられた。おんぶはここで終了だ。
 地面に並べられた下駄の上に下ろされる。支えてもらいながら下駄を履くとスザクが駆け寄ってきた。

「ルルーシュ! さっきは酷いこと言ってごめんな。俺、やっぱりルルーシュと一緒に蛍を見に行きたい」

 先に謝られてしまい、僕は思わず振り返った。その人は僕を安心させるように笑ってくれた。それに勇気を得てスザクと向かい合う。

「僕のほうこそごめん。蛍、僕もスザクと一緒に見に行きたい」

 そう伝えるとスザクが満面の笑みを浮かべた。この笑顔をまた見られて良かったと心の底から思う。

「良かったな、仲直りできて」

 黒髪の人がスザクに言うと、スザクは嬉しそうに頷いていた。
 誰? と小声で尋ねれば、迷子と返ってきた。

「迷子? 大人なのに?」
「だってどこへ行けばいいのかわからないって言うから」
「どういうこと?」
「さあ。俺にもわかんない」

 わかんないってどういうことだとスザクに聞いていたら、ここまで僕を背負ってくれた人が足を進めた。黒髪の人の前で止まると、久しぶり、と優しい声で言っていた。どうやら知り合いらしい。
 その人は僕達を振り返って笑った。

「ありがとう、二人とも」

 感謝されるようなことは何もしていない。だけど、その人はもう一度「ありがとう」と告げた。それから再び黒髪の人を見た。
 とても優しくて、愛しさを感じられる横顔だった。
 ああ、やっと会えたんだ。
 どうしてだろう。僕はそんなことを思った。

***

 ルルーシュと喧嘩をした。
 初めての友達で、初めて誰かと一緒に蛍を見に行けると思ったのに、喧嘩をしてしまった。
 ちえっ、と思って俺は足元の石ころを蹴飛ばした。
 ルルーシュなんかもう知るか。俺ひとりで出店に行って、蛍だって俺ひとりで行くんだからな。そんなことを呟いてとぼとぼと歩く。
 川に沿って歩いていると誰かの足音がした。でも靴の音にしてはおかしい。ぺしゃ、ぺしゃ、と濡れたような音だ。
 なんだろう? と俺は目を凝らした。薄暗くなっているので道の向こうがよく見えない。
 音はだんだん近付いてきて、やがて人の姿が浮かび上がった。大人の人だ。男、かな? と首を傾げる。
 その人はとても色が白くて、髪は黒いけど日本人っぽくない。ルルーシュっぽいんだと気付き、立ち止まった俺はなんとなくその人を見守っていた。
 その人が横を通り過ぎたとき、俺はぎょっとした。全身ずぶ濡れで、髪からも服からも水滴がぽたぽたと落ちている。靴も濡れていて、さっきの変な音はこのせいだったのだとわかる。

「な、なあ!」
「……え?」

 気の抜けたような声を出してその人が振り返った。俺を見て、なぜかビックリした顔をする。

「川に落ちたのか?」
「え?」
「だって濡れてるじゃんか。大丈夫か?」
「あ……ああ、そうだな、落ちたのかもしれない。向こう岸に呼ばれたんだが、忘れ物をしてきたような気がして、それで戻ろうとしたら足を踏み外してこのとおりだ」

 どんくさいなぁと俺は思った。川に落ちるところもルルーシュっぽい。

「なあ、お前……じゃなくて、あんた、でもなくて、えっと」

 年上の人と接するときはちゃんと礼儀正しくしなければいけないとルルーシュに言われていた。近所の人だったらおじさんとかおばさんとか呼ぶけれど、今初めて会った人のことはなんと呼べばいいのだろう。すると、その人が笑った。

「なんでも好きな呼び方をすればいい」
「えっと……じゃあ、お兄さん」
「お兄さん?」
「だって俺より年上だから」
「そうか。確かに俺のほうが年上だもんな」

 お兄さんは嬉しそうだった。その顔を見ていたらなんだか自分の顔が熱くなったような気がして、俺はぶんぶんと頭を振った。

「お兄さん、どこの人?」

 町の人はだいたい知っていた。よそから来た人がいてもすぐに情報は伝わってくる。でも、このお兄さんは初めて見る顔だ。

「――迷子、みたいなものかな」
「迷子? 大人なのに?」
「大人でも迷子になることがあるんだよ。どこへ行けばいいのかわからないからきっと迷子なんだ」

 何を言っているのか俺のほうがよくわからないけど、迷子ならお巡りさんのところへ連れて行かなければならない。
 それは嫌だ、と俺は思った。もう少し一緒にいたかったし、なぜかこのお兄さんをひとりにしてはいけない気がした。

「なあ、だったら俺んちに来ないか」
「君の家?」
「だってそんなに濡れてたら風邪引くよ。うち、ここから近いんだ」

 お兄さんに近付き、俺はその手を取った。触れた手はとても冷たくてぞっとした。
 恐る恐る見上げれば、お兄さんはどこか悲しそうな顔で俺を見下ろしていた。

「君の家のご迷惑になるからいいよ」

 引かれそうになった手を慌てて掴み直す。どうしてなのかはわからない。ただ、ここで逃がしてはいけないと思った。

「大丈夫。うちのお手伝いさん、お客さんが来ることには慣れてるから。なあ、着替えようよ」

 ぐいぐいと思い切り引っ張れば、初めは渋っていたお兄さんも諦めた感じでついて来てくれた。
 薄暗い道を二人で歩く。今日は夏祭りの夜なのに、不思議と誰にも会わなかった。

「ところで君、どうしてこんな時間にひとりで? 子供が出歩くような時間じゃないだろう?」

 いつの間にかお兄さんも俺の手を握り返してくれていた。先ほどのような冷たさはなく、俺と同じように温かかった。

「蛍を見に行く約束をしたんだ」
「誰と?」
「友達と。……でも、喧嘩しちゃった」

 きっかけは思い出せない。ただ、俺がルルーシュに「お前なんか知らない!」と言えば、僕だって君のことなんかもう知らないと言い返された。だから、ルルーシュなんか勝手にしろ! 蛍だって見に行ってやらない! と叫んで逃げ出してきたのだ。
 ルルーシュは初めてできた友達だった。
 この町ではみんなが俺のことを怖がっている。学校のみんなも近所の人も、俺のことを怖がって近付いてこない。正しくは、俺の父さんを怖がって近付いてこないのだ。
 だから喧嘩で相手を負かしたとしても、相手にケガをさせたとしても、謝ってくるのは相手の親のほうだった。そして、枢木の坊っちゃんに関わってはダメだと陰で言っている。
 枢木の家の子だから。それがなんだって言うのだろう。
 俺は俺なのに、誰も俺のことも見ていない。見ているのは俺の後ろにいる父さんだ。だけど、その父さんも俺のことを見てくれない。父さんにとっては馬鹿な息子で、使い物にならないから放っておかれていることを俺は知っていた。まだ十歳の子供だからと大人達は馬鹿にするけど、十歳は十歳でいろんなことを考えているのだ。
 そんな俺と普通に話してくれたのはルルーシュが初めてだった。俺のことを知ってもビクビクしたりへらへらしたりせず、「君は君だろう」と最初に会ったときとずっと同じ態度でいてくれた。
 初めての友達が嬉しくて、学校でも登下校のときも帰ってからもずっとルルーシュと一緒にいた。夏休みになってからはもっとべったりで、ルルーシュが側にいないと落ち着かなくなってしまった。
 だからルルーシュは嫌になってしまったのかもしれない。ルルーシュはひとりで過ごすほうが好きだから、いつも側にいる俺を面倒だと思ったのかもしれない。こういうのをわずらわしいと言うんだっけ、と先日ルルーシュに教えてもらったばかりの言葉を思い出す。
 握った手にぎゅっと力を込めた。すると、お兄さんが立ち止まった。しゃがみ込んで俺と同じ目の高さになる。

「どうして喧嘩したんだ?」
「……わかんない」
「なるほど。まあ、子供は些細なことが原因で喧嘩するものだからな。俺もよく喧嘩したよ」
「友達と?」
「ああ。毎日のように喧嘩していたかもしれない」
「仲直りした?」
「昔はな」
「昔って?」
「子供の頃はって意味だ」
「今は?」
「今は――」

 お兄さんが口を噤み、頬に張り付いていた髪を邪魔そうに耳にかけた。俺はその仕草になんだかドキドキした。そういえば、ルルーシュもたまに髪の毛を邪魔そうに耳にかけていたと思い出し、なぜかドキドキが増えてしまった。

「俺は仲直りしたかったけど、あいつは仲直りしたかったのかどうかわからないな」
「許してくれなかったのか?」
「許すとか許さないとかそういう次元の話ではなくなってしまったし、同じ目的のために一時的な協力関係にはあったがそれを仲直りと表現するのは少し違う気もするし……、すまない、難しい話だったな」

 俺の顔が変になっていたのか、お兄さんが困ったように笑って俺の頭を撫でた。
 たまに家に来る大人達に撫でられるときは子供扱いするなって思うのに、今は不思議と嫌じゃなかった。ふわふわとした温かいものが心の中に広がる。

「難しい話はいつもルルーシュがしてるから平気だ。それに難しい話を聞いてたら俺も勉強ができるようになる気がするし」
「君の友達は難しい話が好きなのか?」
「ルルーシュは頭がいいんだ。テストだっていつも百点だし、ブリタニア人なのに漢字ばかりの本だって読めるんだから」

 俺のことじゃないのに俺は胸を張った。ルルーシュは優秀ってやつだ。父さんがルルーシュのことを知ったらきっと優秀だって言うだろう。
 それに、ルルーシュはとてもかわいい。お人形さんみたいねと大人が褒めることがあるけれど、あの言葉はルルーシュのためにあるものだ。同じ男子なのに女の子よりもずっとかわいい。
 学校の奴らだってルルーシュの頭の良さやかわいさは知っているはずなのに、外からやって来たよそ者が優秀でお人形みたいにかわいいのが悔しいから嫌がらせをしているのだ。そういうのは幼稚なんだとルルーシュは言っていた。
 自分の欠点を補うのではなく他者を貶めることで足を引っ張り自分のレベルに落とそうとしているんだ、と難しい説明をされた。意味はよくわからなかったけど、とにかくルルーシュは優秀だからいじめられている。
 だから俺はルルーシュを守ってやらなきゃいけないと思った。俺がいると大人も子供も寄ってこないから、俺が一緒にいればルルーシュは安心だ。
 でも、そういうのは押し付けと言うらしい。

「どうした?」

 急にしゅんとした俺の顔をお兄さんが覗き込んだ。

「押し付けってダメなのかな?」
「押し付け? どういうことだ?」
「俺の友達、みんなにいじめられていたんだ。だから俺が守ってやらなきゃって思ったんだけど、それは押し付けだって友達が怒って……」
「押し付けにも色々種類があるから全部が悪いってわけではないが、その子は自立心が強いのかもしれないな」
「自立心?」
「自分のことは自分でやりたい、誰にも頼らずになんでも自分でやらなければいけないと思っているんだよ。君がその子を守ってあげようとするのは立派だ。間違ったことじゃない。でも、守られてばかりでその子は自分のことが不甲斐なく感じたのかもしれないな」
「不甲斐なくって?」
「君に守られて情けないと思ったってことだ」
「俺、ルルーシュのことそんな風に思わない」
「君の厚意はその子にも伝わっているはずだよ。ただ、これは本人の気持ちの問題だから、もしその子が本気で嫌がっているのならやめてあげてほしい。だけど、その子が本当に困っているのなら、たとえやめてくれと言われても守る必要があるんだ」

 守っていいのか守ってはいけないのか、どっちなんだろう。俺はまた変な顔になった。お兄さんが「やっぱり難しかったな」と笑う。

「守りたいって思うこと自体は決して悪いことじゃないんだ。だから君がその友達を守りたいと思うのなら、君の心のままに守ってあげればいい。難しいことを考えるのは君がもう少し大きくなってからでもいいよ」
「でも、勝手なことをしたらルルーシュに嫌われる」
「それならまずは君の気持ちをはっきり伝えたらどうかな。守ってやるだと一方的に押し付けることになるけど、守りたいんだって真剣に伝えればその友達だって嫌な気持ちにはならないはずだ」
「本当に?」
「まあ、意地っ張りな友達だからすぐには無理かもしれないけど。でも、君がその子の心を守りたいって思ってくれていることが俺は嬉しいな」

 お兄さんがにこりと笑う。その笑顔になぜかまたドキドキして、俺は「わかった」と頷くと大きな手を引っ張った。

「早く行こう」
「ああ」

 なんだか恥ずかしくて、屋敷に着くまで俺はずっと黙っていた。でも、ふわふわとした温かい気持ちはずっと心の中にあった。
 屋敷に到着するとお手伝いさんを大声で呼んだ。いつも俺の世話をしてくれるおばあちゃんが出てきて、お兄さんを見るとあらあらまあまあと口に手を当てた。

「雨でも降っていたのですか?」
「川に落ちたんだって」
「スザク坊っちゃんのお友達はよく川に落ちるのですね」
「それ、ルルーシュに言ったら怒られる」

 あらあら、とおばあちゃんが笑った。

「ではお風呂に入っていただきましょうかね。お洋服はどうしましょう」
「ねえ、浴衣は? 今日お祭りだから」
「そうですね。ちょっと探してみましょうか」
「じゃあお風呂行こう」

 繋いでいる手を引っ張って家に上げる。俺とおばあちゃんのやり取りをぽかんと見ていたお兄さんは、慌てた様子で「ちょっと待て」と止めた。

「見ず知らずの人間をほいほいと家に上げるんじゃない」
「俺、お兄さんのこと知ってるよ?」
「さっき会ったばかりだろう」
「そんなの気にしないよ」
「俺が気にする!」
「もう、ルルーシュみたいなこと言うんだな。いいから早く。お祭り終わっちゃう」

 無理やり手を引いてお風呂場に連れて行く。お兄さんの服を引っ張れば、自分で脱げるから脱がそうとするな! と追い出された。やっぱりルルーシュっぽい。
 お兄さんがお風呂に入っている間、浴衣はどうなったかなと様子を見に行った。おばあちゃんが楽しそうな様子で僕を手招きした。

「ちょうどいいのがありましたよ。でもこんな浴衣、いつ仕立てたんですかねぇ。旦那様のご趣味ではないし、旦那様以外の方の浴衣なんて用意していないし、誰に聞いてもわからないって言うし、不思議ですね」

 畳の上に広げられていたのは濃い藤色の新しい浴衣だった。大人用の下駄も揃っていて、まるで今日のために誰かが用意したみたいだった。

「ブリタニアの方ですけど、色白で髪が黒いからきっとこの色が映えますよ」

 おばあちゃんはなぜかうきうきとした様子だ。着せ替え人形でよく遊んでいるいとこを思い出し、女の人は何歳になってもこういうのが好きなんだなと俺は納得した。
 お兄さんがお風呂から上がるとすぐに座敷へ連れて行った。そこで着替えることになったお兄さんは、おばあちゃんの手を借りることをとても嫌がっていたけど、自分ひとりでは浴衣の着方がわからないと諦めたみたいだった。
 そうして着付けが終わると、変じゃないか? とお兄さんは照れくさそうにしていた。

「ううん、綺麗」

 俺は思ったことをそのまま言った。おばあちゃんの言っていたとおり、浴衣はとても良く似合っていた。

「綺麗って……、お前、将来はたらしになりそうだな」
「たらし?」
「わからなければいい」
「なあ、それよりお祭り行こうよ」

 はいはいと言いながらお兄さんがついて来た。下駄に足を通すと、二人で一緒に神社へ向かう。からころと二人分の音がするのがなんだか嬉しかった。

「お祭りもいいが、その前に友達に謝って来なくていいのか?」

 だけど気になっていることを指摘され、俺は俯いてしまった。

「早く謝らないとどんどん謝れなくなってしまうぞ。謝れないまま別れてしまったらきっと後悔する」

 繋いだ手をぎゅっと握ると、お兄さんが握り返してくれた。

「お兄さんも後悔してる?」

 俺の質問にお兄さんは、そうだな、と答えた。

「ずっと後悔してる。謝りたかったのに、俺は謝れないままだ」
「――わかった。ルルーシュにちゃんと謝る」
「そうか。じゃあ友達を探しに行こう」
「うん!」

 手を繋いで道を行く。ルルーシュの名前を呼びながら暗い道を進んだ。
 今日はお祭りなのに俺達以外の人とはやっぱりすれ違わなかった。みんなどこへ行ってしまったのだろう。
 どのくらい歩いたのか、急にお兄さんの足が止まった。どうしたのかと見上げれば、その唇が動いた。
 スザク
 確かにお兄さんはそう呼んだ。俺以外のスザクがいるのかなと首を捻っていると、向こうから俺の名前を呼ぶ声がした。今度の声はルルーシュだった。

「ルルーシュ!」

 嬉しくなった俺は、早く早くとお兄さんの手を引っ張って走った。走って走って、ようやくルルーシュの姿が見えたときには嬉しくて泣きそうになった。別れたのはほんの少し前なのに、十年も二十年も離れていたみたいだった。
 ようやくルルーシュに謝ると、ルルーシュからも謝られた。
 これからもルルーシュと友達でいられる。そう思ったらすごく嬉しかった。
 俺達が仲直りしている間、ルルーシュを背負っていた人とお兄さんはずっと向かい合っていた。もしかしたらこの人が謝りたかった友達なのかもしれないと思った。

「ねえ」

 俺が声をかけると、お兄さんが振り返って優しく笑ってくれた。
 俺の前でしゃがみ込み、「もう大丈夫だろう?」と聞かれた。

「うん」
「じゃあ、俺はもう行くな」
「どこへ行けばいいのかわかったのか?」
「そうだな。あいつが俺を見つけてくれたから」

 お兄さんが男の人のほうを見る。その人も優しい顔をしていた。

「二人で仲良くするんだぞ」
「うん」
「喧嘩をするのはいいが、自分が悪いときはちゃんと謝ること」
「わかってるって」
「それから――、ありがとう」

 手が伸びて頭を撫でられた。すると、急に寂しい気持ちになった。お兄さんとは会ってまだ数時間なのに、昔からずっと一緒にいたような感じがする。ここで別れたら二度と会えない予感もした。

「行こうか」
「ああ」

 男の人に声をかけられ、お兄さんが立ち上がった。

「それじゃあ、元気でな」
「うん」

 男の人が「バイバイ」と手を振れば、ルルーシュが「さよなら」と言った。ルルーシュの声もなんだか寂しそうだった。
 二人の背中が遠ざかる。からん、ころん、とお兄さんの下駄の音がしばらく響いて、やがて何も聞こえなくなった。
 ルルーシュの手を掴めば、ルルーシュも俺の手を握ってくれた。
 その途端、後ろのほうからお囃子の音がした。ルルーシュと一緒になって振り向くと、今まで真っ暗だった場所が明るくなって出店や町の人の姿が見えた。

「お祭り、まだやってたんだ」
「そうみたいだね」
「じゃあさ、りんご飴買おう。ルルーシュまだ食べたことがないんだろう?」

 出店のほうへ走れば、いきなり走るなと後ろから文句を言われた。仕方がないので少しスピードを下げると、ルルーシュは足を引きずっていた。

「怪我したのか?」
「下駄がちょっと痛くて……」
「なんだよ、それなら早く言えばいいのに」
「君がいきなり走り出したんだろう」
「じゃあ出店はやめてうちに帰ろう」
「りんご飴は?」
「明日も買えるし。その下駄、痛いなら脱いじゃおう。俺も脱ぐ」
「君は痛くないだろ」
「いいんだよ」

 ほら早く、とルルーシュの下駄を奪おうとすると仕方なさそうにルルーシュが脱いだ。俺も下駄から裸足になって、二人分の下駄を持って歩き出した。

「なあ、ルルーシュ。ルルーシュは中学生になったら外の学校に行くんだろう?」
「そのつもりだけど」
「俺も一緒に行っていいかな」

 ルルーシュのほうを見れば、ルルーシュは目を丸くして俺を見ていた。

「……別に僕の許可なんていらないじゃないか」
「だって、もしルルーシュがひとりで行きたいって言うなら諦めるから。でも俺、ルルーシュと一緒にいたいんだ。中学校も高校もそのあともずっと一緒がいい」
「君なら僕以外の友達ができるよ」
「ルルーシュじゃないとやだ」
「やだって」
「ルルーシュは俺と一緒にいるの嫌?」
「――嫌なわけないだろ」

 小さな声が返ってきて、俺は嬉しさで笑顔になった。

「言っておくが、僕の考えている中学は君の今の学力だと無理だからな」
「えっ」
「ちゃんと勉強しろよ」
「あったりまえだろ! 俺、ちゃんと勉強する!」

 力いっぱいに言えばルルーシュが可笑しそうに笑った。
 そのとき、小さな光が目の前を通った。

「蛍だ」
「今のが?」
「もっとたくさん見られるところがあるんだ。今日は遅くなっちゃったから明日また行こう。本当に綺麗だからルルーシュびっくりすると思う」

 あれが蛍、とルルーシュが呟いた。それから優しい顔をして、綺麗だな、と言った。
 俺はルルーシュのほうがもっと綺麗だと思ったけど、口にしてはいけないような気がして黙っておいた。
 今はまだ言わない。でも、いつか言えたらいいなと思う。
 俺がルルーシュを守ろう。今もこれから先も、ずっと俺が守るのだ。そう思ったことも今はまだ黙っておく。
 伝えなければいけないときにちゃんと伝えたい。押し付けではない気持ちをルルーシュにちゃんと伝えたい。
 だって、ルルーシュのことが大好きだから。

***

 少し待ってくれ、と言われた。振り返れば彼が立ち止まって足元を気にする素振りをした。

「どうしたの?」
「鼻緒の部分が痛いんだ。よく考えたら下駄なんて履いたの初めてだ」

 ぶつぶつと言っている彼に、僕はつい笑ってしまった。人が痛がっているのに、とムッとした顔をされる。

「ごめん、違うんだ。ルルーシュを笑ったんじゃなくて、ほんとそっくりだなと思って」
「なんだそれは」
「だって君達、同じように下駄で痛がってるんだもん」

 見せてとしゃがみ込む。確かに鼻緒に当たっている部分が擦れて痛そうだ。

「このまま歩いても痛いだけだし、一旦脱いだほうがいいね」
「裸足で歩けってことか」
「僕が背負ってあげる」
「は?」
「大丈夫。ちっちゃい君にも同じことしてあげたから」
「そういう問題じゃない!」
「いいからいいから」

 無理やり下駄を脱がそうとすれば彼が後ずさる。しかし力で僕に敵うはずもなく、あっという間に下駄を奪うとしゃがんだまま背を向けた。

「はい」
「絶対に嫌だ」
「また川に落ちるよ」
「落ちてない!」
「そんなに嫌がるならお姫様抱っこにするよ。どっちがいい?」
「どちらも嫌に決まっているだろう」
「もう、わがままなんだから」

 下駄を持ったまま近付くと、問答無用で彼の手を肩に回させた。そのまま無理やり持ち上げ、軽い身体を背負う。

「ば、馬鹿か! 下ろせ!」
「暴れたら落とすよ」

 彼がぴたりと口を噤む。同じ脅し文句で大人しくなるところもまったく同じだ。
 後ろ手で下駄を持つと彼を背負って歩き始めた。一定のリズムで下駄が鳴る。

「屈辱だ」

 本当に嫌そうな声がして僕は笑った。言いたいことが山ほどあったはずなのに、なんとも馬鹿馬鹿しいやり取りのおかげですっかり気が楽になる。

「――やっと見つけたよ」

 僕の声に返事はなかった。ただ、肩に置かれた手に力がこもった。

「どうしてこんなところにいたんだ」
「君を探していたからに決まってるだろう」
「俺を? だってお前は俺のことを……」
「ごめんね、ルルーシュ」

 彼の手がぴくりと動いた。

「僕はとっくの昔に君を許しているってことを君にちゃんと伝えていなかった。ごめん」
「俺はお前に憎まれるだけのことをした。謝るのは俺のほうだ。お前が謝る必要はない」
「違うよ。どちらか一方の罪じゃない。二人の罪だって確認したじゃないか」
「そうだとしても、俺がいなければお前が罪を犯すことはなかった。俺はそのことをずっと謝りたかったんだ」
「それは僕と君が出会わなければ良かったって意味?」
「俺達が出会わなければ、少なくともお前はもっと幸せな人生を送れたはずだ」

 馬鹿だね、と返す。君はやっぱり馬鹿だ。

「僕はルルーシュと出会わなかった人生を知らない。僕にとってルルーシュのいない人生は無意味だ」
「そう思い込んでいるだけだ」
「思い込みの何が悪いの? 僕にはルルーシュが必要なんだ。それがすべてだよ」
「……出会って良かったと思ってくれるのか」
「思ってなければこうして君を探しに来ないよ」

 そうか、とぽつりとした声が耳に届いた。
 本当は寂しがり屋なくせに意地を張って強がりを言うし、愛することは得意なのに愛されることには不慣れ。なんて不器用なんだろう。

「見つけられて良かった」

 背中に彼の重みを感じられることがとても幸せなことだと思える。

「君のこともあの子のことも、ちゃんと間に合って良かった」
「お前はいつも俺のことを助けてくれるじゃないか。お前も、小さなお前も、スザクはいつも俺のことを救ってくれた」

 そんなことないよ、と答えた声は泣きそうになっていたかもしれない。
 本当は守りたかった。ただ純粋な気持ちで彼を守りたかった。
 僕が叶えられなかった幼い日の想い。ここにいる僕は、これから先も違えずに守り続けてくれるだろうか。
 世界は残酷だ。つらいことも悲しいこともたくさんある。僕は独りぼっちだと何度も思った。
 だけど、優しくしてくれた人もたくさんいた。君という唯一の人がいた。それはとても幸せなことだったのだと今ならわかる。

「あの二人、今度こそ蛍を見られたかな」
「きっと見られたよ。だって二人は一緒だから」
「そうだな。一緒だから、な」

 ルルーシュの声は柔らかかった。その顔もきっと優しく微笑んでいることだろう。

「スザク」
「ん?」
「俺を見つけてくれてありがとう」

 どういたしましてと僕は答え、川の向こうを目指した。淡い光がひとつ、ふたつと浮かび上がり、僕達を導くように飛んでいった。
 (19.09.28)