フードを深く被り、黒いサングラスを掛けた男がひとり立っていた。
少年と青年の狭間のような顔立ち。瞳の色はサングラスに隠されて見えないが、どこかまだ幼い印象を与える雰囲気だった。
手には一本の白百合を持つ。
顔を俯けて見つめる先には名前すら刻まれていない墓石。この世界に生まれた日と、この世界から去った日だけがひっそりと、申し訳程度に書かれている。その墓の下に誰が眠るのか。男か女か、子供か大人か、それすらもわからない。
膝を折り、百合を捧げる。
朝靄に包まれた中、男はようやくこの時間帯には場違いなサングラスを外した。冷たい風が向かいから吹き、フードの陰に隠されていた顔が晒された。
そこにいたのは、『すでに死んでいるはず』の男だった。
枢木スザク。
それが、かつての彼の名前だった。
まだ年若いにもかかわらず、肩書の数は多くあった。中でも人々の記憶に一番濃く残されているのは、彼が『死んだ』ときの呼び名だろう。世界で二番目に忌み嫌われている名。しかし彼が、世界の英雄の名前をも持っていることは一部を除いて誰も知らない。
死んでいるはずの彼は、死んでいるのに息をし、死んでいるのに誰かの墓を訪れ、死んでいるのに花を供えた。
「 」
そっと唇を動かす。音にはせずに呼んだのは、この墓に眠る人の名前。
「――また来るよ。今度は君の誕生日だね」
枢木スザクであった男は、優しく語りかけ口許を和らげた。感情を表に出さなくなって久しいが、この場所でだけは凍った感情が少しだけ溶ける。
墓石をそっとひと撫でし、立ち上がって踵を返すと一度も振り返ることなくその場を去った。
* * *
入室の許可を取って部屋に入ると、顔を上げたナナリーが朗らかな笑みを向けてきた。
「ゼロ!戻ってらっしゃったのですね」
「はい」
「事務官からの連絡ではもう二、三日はかかるだろうと思っていたのですが、早く終わったようで何よりです。お疲れさまでした」
各国との交渉のため、ここ数週間ほどゼロ――スザク――はナナリーの元を離れていた。常に二人一緒に行動しているわけではなく、こうして別々に仕事をこなすことも最近では少なくない。それでも、顔を合わせるたびにナナリーはスザクのことを労わってくれた。体力だけは有り余っているので疲れることはほとんどないけれど、こうして誰かに気遣われるのは決して不快なことではなかった。むしろ、顔を仮面で隠してもなお自分のことを気に掛けてくれる人がいるというのは嬉しいことである。
ゼロレクイエムから早数年。
当初はナナリーが死んだものと思って計画を進めており、彼女が生きているとわかってからもその目的と最終的な結末を変えることはなかった。ある意味、自分たちの計画の中でナナリーはイレギュラーだったわけだが、彼女が生きてくれていたおかげでスザクは大いに救われている。
一切打ち明けていないのに、ナナリーはゼロレクイエムの真実に気付き、仮面の中身についても勘付いているようだった。あくまでゼロとして接しながら、昔と変わらぬ様子で笑顔を見せてくれる。最愛の兄を殺した憎き仇であるはずの自分に、優しく声をかけてくれる。
もしかしたら、これは互いに傷を舐め合っているだけなのかもしれない。だけど、この世界の中で自分以外にもルルーシュのすべてを知る人間がいる。それは、スザクにとっては何よりの救いだった。
椅子を勧められ、腰を掛けると机を挟んで言葉を交わす。いくつか報告をし、今後のスケジュールの確認などを行ったところで少しだけ肩の力を抜いた。疲れてはいないが、大勢の人と会ってきたのでやはり気疲れはしてしまう。交渉事は断然ルルーシュのほうが得意なのにな。そんな考えが浮かび、慌てて打ち消した。
ルルーシュが死んで数年。スザクは感情を顔に乗せることをやめてしまっていた。同時に、ルルーシュのこともなるべく考えないようにしていた。考えれば、自分の中がルルーシュでいっぱいになってしまう。そしたら、しなくてもいい後悔をしてしまいそうな気がしたから、意識して自分の中からルルーシュを追い出すようにしていた。なのに、ルルーシュのことを無意識に思い出していた。
何か別のことを考えようと、ナナリーの執務机の上に目をやれば、ひとつの小箱が目に入った。中には可愛らしい花の飾りが見えた。
「そちらは?」
「え?」
「その花飾り……」
指せば、ナナリーが顔をぱっと輝かせた。
「これはミレイさんがくださったのです」
「ミレイ…アッシュフォード?」
「はい!」
懐かしい名前を聞いた。テレビで活躍している彼女なのでその姿を目にしない日はないが、こうして誰かの口からミレイの名を聞くのは久しぶりかもしれない。『ゼロ』とミレイはなんの接点もないのだから当然である。
小箱の中から飾りを取り出したナナリーは、大事そうに掌に乗せた。
「髪飾りなんです。何でも特注品だそうで、そんな高価なものは申し訳ないと思ったのですが、せっかくだからおめかしして行きなさいって言われて」
「おめかし?どこかへ行かれるのですか?」
その言葉に首を傾げた。おめかしと言うからにはどこかへ顔を出すのだろうが、しばらくパーティーや会食の予定は入っていないはずだ。公的な予定でなければプライベートだろうか。
スザクの疑問に、ナナリーは「内緒です」と悪戯っぽく言った。
「いつも先を越されてしまいますから、今年こそは一番乗りしたいんです」
「え?」
ふふっと笑うナナリーをスザクは不思議そうに見た。
秘密ということは、もしかしたらデートかもしれない。ナナリーも年頃の女性である。そういうお付き合いがあってもおかしくはないだろう。
(ルルーシュが知ったら絶対にショックを受けるな)
またルルーシュのことを考えてしまったことにスザクはハッとした。今日はどうかしている。やはり疲れているのだろうか。それとも明日が――。
「ところで、ゼロ。ひとつご相談があります」
ナナリーの声に意識を戻す。
「明日一日、お休みをいただいてはいけませんか?それで、午前中に入っている予定を代わりに引き受けていただきたいのですが」
「明日……ですか?」
咄嗟に承諾の返事を返すことができなかった。明日の午前はスザクも休みを取るつもりでいた。ナナリーの部屋を訪れたのは帰還の挨拶もあるが、休みの話もしたいと思ったからだ。しかし、先手を打たれてしまっては言い出しにくい。
「駄目でしょうか?」
ナナリーが窺うようにスザクを見てくる。考えてみたら、彼女が自分から休暇を求めてくるのは初めてのことだった。この数年、ルルーシュの代わりに一生懸命頑張ってきて、休みも取らずに毎日忙しく仕事をこなしていた。そんな彼女が休みたいと言っているのに、拒否するのはひどく心苦しい。
「――いいえ。どうぞお休みを取られてください」
スザクの返事に、ナナリーは顔を綻ばせた。
「ありがとうございます!」
たいしたことはしていないのに、これほど喜んでもらえてスザクも嬉しくなる。自分の用事は午後にでもすればいいのだ。今は些細なことでもナナリーの望みを叶えてやりたかった。
「それではゼロ、明日の予定なのですが……」
引き継ぎを受けながら、スザクは思った。ナナリーにも楽しいことが見つかって、こうして前へと進んでいる。だけど、自分はどうなのだろう。
ちゃんと前に進めているのか。それを確認できる相手は、もういなかった。
* * *
敷地の一番奥まった場所へと進む。
日は暮れかかっており、世界はオレンジ色に染められていた。冬の一日は短い。もう少しすれば辺りは薄暗闇に包まれてしまうだろう。
今日が終わるまではまだまだ時間があるから急ぐ必要などないのだけれど、日があるうちに訪れたいという気持ちがあったから、手にした白百合が傷付いてしまわないよう気を付けながらスザクは早足に進んだ。
目指すのは、ルルーシュの墓。
誰にも知られないようにひっそりと存在するその場所に、スザクは一年に二回だけ花を手向けていた。彼が死んだ日と、彼が生まれた日に。
いつもは早朝のまだ誰も起きていないような時間に行くのだが、今日はナナリーの代わりにいくつか仕事をこなしたので遅くなってしまった。思えば、夕方に来るのは初めてかもしれない。どの時間帯に訪れてもいいのに朝を選んでしまうのは、世界が新しい一日を迎えたばかりのときに彼と会いたい気持ちがあるからだろうか。
木々の間を潜り抜け、開けた場所へと出る。
そこでスザクは足を止め、大きく目を見開いた。
「これ、は」
変わらずルルーシュの墓はあった。ひっそりと、静かに。
ただ、たくさんの花々で飾られていることだけが普段と違っていた。
「どうして……」
墓が荒らされたわけではない。それなのに、スザクは呆然とその光景を眺めた。何にショックを受けているのか自分でもわからなかった。
呆然としたまま、一歩ずつ足を進める。
赤。白。黄。ピンク。様々な色合いの花はとても温かい気持ちにさせた。
その中央に置かれた花束を見て、スザクはハッとした。
「もしかして…………ナナリー?」
それは、昨日見たばかりのナナリーの髪飾りとまったく同じ花が使われた花束だった。花束をそのまま小さくしたようなものがナナリーの手に乗っていたのを覚えている。とても精巧で綺麗なものだったから間違いない。
彼女がおめかしをして行く場所がどこなのか、どうして今日休みを取ったのか、何を一番乗りしたいのか、スザクはようやく気付いた。ミレイがナナリーに贈り物をした理由にも。
膝を折り、花束の間に挟まっていたメッセージカードを手にする。
『Happy Birthday』
カードはひとつだけではなかった。誰に宛てたメッセージなのかは書かれていないけれど、誰のために書かれたものかは明らかだ。
「そうか、皆が」
来てくれていたのだ。ルルーシュの誕生日の日に。
ふいに鼻の奥がつんとした。
数年ぶりの感覚だった。もう失ったと思っていた人間らしい感覚。
「馬鹿だな、僕は……」
どうして忘れていたのだろう。
ルルーシュはたくさんの人に愛されていたじゃないか。
世界にとって彼は悪で、憎むべき存在だけど、彼を知る人たちにとっては愛すべき人間だったじゃないか。
それなのに、自分ひとりが彼の死を悼み、彼の誕生日を今でも祝っている気になっていた。彼を想っている人間が自分ひとりだけだとどうして思えていたのだろう。
白百合一本だけを捧げる人間が誰なのか、ナナリーはきっと気付いていたに違いない。だから「一番乗り」だなんて言ったのだ。
スザクは知らなかった。ここに来るのはいつも早朝だったから、当然自分より先に人などいるはずもなく、ほかに訪れてくる人間がいることにも気付いてもいなかった。
悪逆皇帝の墓に花なんてあってはいけない。だからこの墓には名前すら刻まれていない。スザクが百合を一本だけ供えるのは、不用意に飾り立てる必要がないと思っていたからだ。
でも、こうして訪れてくれる人たちがいる。ルルーシュの誕生日を、今でも祝ってくれる人たちがいる。
「――幸せ者だね、君は」
ふ、と口許を和らげた。まるで返事のようにスザクの髪を撫でた風は、冬だというのに不思議と温かく感じられた。
白百合を手向け、墓石をそっとなぞった。さらりとした感触は手に良く馴染む。
「また来年も来るよ。皆と一緒には無理だけど、今度はたくさんの花を持って」
ルルーシュ。
囁くように、小さく名前を呼んだ。
もし隣に人がいたとしても全く聞こえないくらい小さな声だったけれど、風に運ばれてルルーシュのところまで届けばいいと願った。
自分の想いも、皆の気持ちも、全部一緒に乗せて。
「誕生日、おめでとう」
(09.12.05)