花かんざし

 皇帝陛下の一日は忙しい。
 神聖ブリタニア帝国を率いる指導者として多忙なのはもちろん、世界の約半分を支配していると言っても過言ではないからこそ、世界中の規範となるべき言動が求められた。その一挙手一投足に人々が注目するため、迂闊なことはできない。
 しかも、現皇帝であるルルーシュは別の意味でも注目されていた。
 約半年前の即位時に、現在の政策の見直しを提言したからだ。
 ブリタニアはエリア制度と呼ばれる植民地政策を取っていた。この政策によって国力を増大させ、歴史的にも稀に見る超大国となった経緯がある。
 しかし、ルルーシュは即位早々エリア計画を白紙とし、さらなるエリアの拡大は中止、現エリアは継続するものの、将来的な運用については全体的な見直しを図ると宣言した。
 これは前皇帝の政策を真っ向から否定することでもあり、国内外で大きな話題となった。エリア推進派からはルルーシュ皇帝は皇帝にあらずとの声が上がり、エリア慎重派や反対派からは正義の皇帝と持ち上げられた。
 即位からしばらくはこの件で何かと騒がしく、新皇帝を否定する動きまで出るという前代未聞の事態に発展した。にもかかわらず、当の本人は「ぬるま湯の現状に満足して思考を停止した連中にはこのくらいの刺激が必要だろう?」と楽しそうに笑っていた。
 当面は穏やかにやっていくのではなかったのですかと咎めるように尋ねても、気が変わったと言って騎士に悪い笑みを向けるだけだ。

「宰相閣下もご存知なのですか?」
「一応、話は通している」
「それで、宰相閣下はなんと?」
「面白い」
「一言だけですか?」
「ああ。つまり、好きにやれということだ」

 そんなことで国の政策を決めていいのかと呆れたけれど、好き勝手にやっているように見えるのはただのポーズであることをスザクは知っていた。皇帝の頭の中にも宰相の頭の中にも、今後の方策は明確に描かれているのだろう。
 しかし、二人以外の人間がその頭を覗くことはできないので、国内外の騒ぎはなかなか落ち着きそうになかった。
 民衆からの人気が高いルルーシュだが、ルルーシュの皇帝即位を快く思っていない皇族や貴族の中には、この機に乗じて皇帝の椅子から引きずり下ろそうと画策する者もいる。
 そこで、ルルーシュは次のことを発表した。
 まずは国内を治めるのが先であること。計画を白紙にしただけで、今すぐにエリア政策の方針を変えるわけではないこと。そして、前皇帝にはあらかじめ政策見直しの件を伝えていること。
 三つ目の発表は推進派を黙らせるのに充分な効果を持っていた。
 もともとエリア政策を進めていたのはシャルル前皇帝である。その彼が、息子による政策否定を認めた上で皇帝へと推したのだ。
 つまり、ルルーシュを否定することは前皇帝をも否定することに繋がるわけで、新皇帝排斥の動きは一気に沈静化した。
 こうして、即位から約半年。ルルーシュはエリアに頼らない生産性の確保を課題とし、国内生産の向上や他国との連携など様々な問題を検討している。
 今まで正当に支払われてこなかった賃金や報酬を適正にしたため、一時的には赤字となったものの、その効果は徐々に出始めていた。
 国内財政が確実に黒字を継続していることは何より大きい。エリア政策白紙によるマイナス面をしきりに強調していた連中も最近ではすっかり大人しくなり、ルルーシュ皇帝支持へと鞍替えする者も増えた。

「結局、政策の良し悪しを決めるのは経済だ。どんなに正しい政策でも経済が悪化すれば人々は反対するし、どんなに汚い政策でも経済が順調ならば大多数が支持する。なんとも理不尽な話だが、世の中とはそういうものだ」

 淡々と語ったルルーシュは、嬉しそうでも悲しそうでもなかった。ただ、己のやるべきことをやるという信念だけが覗いていた。
 皇帝ルルーシュが表に見せる顔はあくまで皇帝としてのもの。そこにルルーシュ個人の感情はない。個人的なものはすべて排除し、皇帝としての自分を徹底的に演じている。
 誰に対しても平等であり、誰に対しても一定の距離を置くのが皇帝の彼であった。
 そういうわけで、ルルーシュにプライベートの時間はほとんどない。常に人に見られ、言動に注目され、気の休まる暇もないだろう。
 だからこそ、空いた時間に少しでも休んでもらいたいと思って彼の好きな紅茶とプリンを用意した。
 ところが、スザクの顔を見た途端、皇帝陛下は不機嫌そうな表情を浮かべた。

「プリンはお嫌いでしたか?」
「プリンは好きだ」
「では、なぜそんなに不服そうな顔をされているのですか」

 テーブルにティーセットを用意しながら問いかける。
 ルルーシュの騎士になって以来、紅茶の淹れ方はだいぶ上手くなった。主のお気に入りの茶葉も濃さもお湯の温度も、この数年でしっかり勉強した。
 美味しいものを淹れられているのかどうかはいまだに自信がない。ただ、ほかの誰よりもルルーシュの好みを把握していると自負しているので、彼が皇帝となってからもこうしてお茶の時間に紅茶を振る舞うし、そのたびにルルーシュは美味しいと喜んでくれた。
 その感想がスザクを甘やかすためのものであることはわかっているけれど、敬愛する人から美味しいの一言と笑顔を贈られたら誰だって幸せな気分になるだろう。近頃では、ふわふわとした甘いお菓子のような幸福感を共有したくて紅茶を淹れている節もある。
 それなのに、今日のルルーシュはなぜかご機嫌ななめだ。大好物のプリンを恨めしそうに見ている。

「俺が作るつもりだったのに」
「作るって、プリンをですか?」
「プリンではなくケーキの予定だったが、先を越された。今日は取りやめだ」
「それは失礼をいたしました」
「まったくだ」

 ソファに移動したルルーシュはスプーンでプリンを掬った。その口元に笑みが浮かぶ。
 どうやら、本気でへそを曲げたわけではないらしい。
 (機嫌が悪いと言うより、拗ねてるって感じかな)
 一国の皇帝が甘い物ひとつで拗ねるだなんて、帝国臣民が聞いたら耳を疑うことだろう。

「どうして甘い物なのですか?」

 今日は比較的ゆったりとしたスケジュールだ。だから、こうしてお茶の時間を取れている。ルルーシュ自らケーキを焼くつもりだったと言うくらいなので、今日中にやらなければいけない案件は終わったのだろう。
 料理はルルーシュの気分転換のひとつであり、皇帝となってからも厨房に立つことは珍しくない。だけど、ケーキにこだわる理由がわからなかった。

「試作品を作ろうと思ったんだ」

 ルルーシュが顔を上げた。プリンをテーブルに置き、代わりにカップを持ち上げる。とても優雅で、いつ見ても綺麗な所作だ。

「試作品?」
「近々、ガーデンパーティーがあるからな」
「まさかご自分で料理を用意されるのですか?」
「全部ではないぞ。ただ、せっかくみんなが来てくれるから、何かひとつくらいは振る舞いたいと思って。それにしても、どうして兄上はこうも面倒なことを思い付けるのか」

 おかげで仕事ができないと愚痴を零しながら、ルルーシュはプリンの残りを食べ始めた。

「そうおっしゃる割には、ケーキを作るなんて手間のかかることをされるのですね」
「ただ参加するだけではサボっていると思われる。こういうときにポイントを稼いでおかなければ」

 肩を揺らすルルーシュに、ポイント云々は後付けだなと思った。要は、みんなをもてなしたいのだ。
 ガーデンパーティーの主催者は、ルルーシュの異母兄のクロヴィスだ。皇帝即位半年を祝ってみんなで集まろうと、新しい美術館の構想を持ち込んできたときに一緒にプレゼンされたのだ。
 何を言っているのですかと、ルルーシュはいつものごとく眉間に皺を寄せて異母兄の提案を一蹴しようとした。
 しかし、今回のクロヴィスは引き下がらなかった。

「一周年には公式の式典で国中がお祝いするけど、私はルルーシュのためにもっとカジュアルなお祝いをやりたいんだ。呼ぶのはルルーシュと付き合いがある人間だけで、そんなに大勢は参加させない。あくまで身内だけのお祝いだ。ナナリーやユフィだって君とゆっくり話をしたいと思うよ」

 妹達の名前を出されては反応しないわけにはいかない。特に、ナナリーとは通信でのやり取りしかできていないので、シスコンのルルーシュは直接会って話をしたいはずだ。
 そういうルルーシュの心理を絶妙についたクロヴィスの作戦は見事に功を奏し、ささやかな会としてガーデンパーティーが開かれることとなった。すべてクロヴィスが監修するので、ルルーシュはただ参加するだけの予定になっている。
 (けど、ルルーシュの性格ではじっとしていられなかったってわけか)
 プリンを食べ終えて満足したのか、ルルーシュはソファにもたれて瞼を下ろした。

「スザク」

 目を閉じたまま名前を呼ばれる。なんでしょう、と尋ねた。

「三択だ。チョコレートとチーズと苺。どれがいいか選べ」
「なんの三択ですか?」
「質問は禁止だ」

 彼の口元が笑っている。すっかり機嫌は治っているようで、スザクも思わず頬を緩めた。

「では、チョコレートで」
「チョコレートか。わかった」

 よしっ、と勢いを付けてソファから立ち上がったルルーシュは、時計を見ると何やら思案し始めた。
 思案と言っても考えていたのはほんの数秒で、騎士のほうをくるりと向いた顔は楽しそうな表情を浮かべていた。

「一時間休憩する。それと、ケーキを作るから厨房を借りたいと連絡しておいてくれ」
「かしこまりました」

 ルルーシュが厨房に行く旨を内線で伝えれば、すっかり慣れた担当者は「すぐにご準備いたします」と返事をした。
 皇帝の執務室から厨房までは歩いて十五分。ルルーシュ曰く、「無駄に広い城」なので、ちょっと移動するだけでも結構な時間がかかる。しかし、皇帝が厨房を訪ねることは想定されていなかったので遠いのは致し方ない。
 二人で部屋を出ると、衛兵に見送られて厨房へと向かう。
 長く広い廊下には誰もいなかった。厳かでどこか重苦しくも感じられる雰囲気はアリエスとあまりに違っている。
 以前はラウンズとして出入りしていたけれど、足を運ぶのはもっぱら玉座の間で、皇帝の私室は見たことも足を踏み入れたこともなかったから何もかもが目新しかった。
 だからなのか、ここに移り住んだばかりの頃は違和感のようなものを覚えた。
 ルルーシュが皇帝になる。それを強く意識したのはこの場所だったかもしれない。
 もちろん理解はしていた。皇帝になれば皇子のとき以上に自由を制限されるし、彼が国のために己のすべてを捧げて生きていくであろうこともわかっていた。
 だけど、本当の意味で理解したのはこの場所に立ったときだ。
 ここは皇帝の住まいであり、国と権力の象徴であり、皇帝を閉じ込める鳥籠でもある。
 鳥籠という表現をしたらルルーシュは不服に思うだろう。囚われているわけでも、誰かに強制されたわけでもないと反論するだろう。
 彼の決意と覚悟をスザクは汲み、ルルーシュを守るために生きていくことを己に課した。それは彼の騎士になったときから変わらない信念だった。
 しかし、枢木スザクはルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの騎士である。ブリタニアの騎士になったわけではない。
 騎士とは主ただひとりを守るために存在するもので、主のためだけに生きる存在だ。
 だからこそ、ルルーシュが皇帝になったことは喜ばしい一方で、ブリタニアに盗られたような気分になった。
 そんなことを伝えれば確実に叱られる。個人の思いを優先するなと怒られる。
 (でも、僕だけは君のために生きたいと思った)
 ルルーシュが国を守るのならば、ルルーシュのことはスザクが守る。一番大事なのはルルーシュであり、スザクにとっては当たり前の事実だった。
 前方を歩いていた彼が不意に足を止めた。窓の外には絵の具を塗ったように鮮やかな青が広がっている。

「ガーデンパーティーのときもこんな風に晴れるといいな」
「そうですね」
「庭園の花も見ごろになっているだろうから楽しみだ」

 皇宮の一角には庭園がある。アリエスを模した造りはルルーシュの希望で、時間があれば自ら手入れをしていた。
 ルルーシュ自慢の場所をガーデンパーティーの会場に選んだクロヴィスは、異母弟の好みをよくわかっている。それが日常的に発揮されないのはどうしてだろうと、スザクは忍び笑いを零した。
 しばらく青空を見上げていたルルーシュが、ところで――、と振り返った。

「俺が皇帝になって半年近くが過ぎたわけだが、お前もナイトオブゼロの立場に慣れてきた頃だろう?」
「ええ。最初はいろんなものに追われるばかりだった気がしますが、ようやく慣れました」
「そうか。ということは、そろそろ嫌気が差してくる頃でもあるだろう?」
「嫌気?」
「皇帝の騎士は忙しいとか、皇帝の騎士は面倒だとか、そういう不満があるのなら言ってくれ。善処する」

 ルルーシュの言葉の意味を考える。
 我が騎士の仕事の愚痴を聞こうというわけではあるまい。ならばどういうことなのか。
 (善処するってところが気にかかるけど……まさか……)
 ルルーシュに対してまさかと思ったことはだいたい当たる。これまでの経験則にのっとってみると、あまり嬉しくない答えが出てきた。

「先に申し上げておきますが、僕は騎士を辞めませんからね」
「辞めさせるなんて一言も言っていないぞ」
「言いそうな雰囲気でしたよね」
「お前も空気を読めるようになったか」
「ルルーシュ陛下」

 咎める気持ちを隠さずに呼べば、ルルーシュが軽く肩を竦めた。

「確認したかっただけだ。本気じゃない」
「本気でも冗談でもやめてください。だいたい、僕はあなたの騎士ですと前にちゃんとお伝えしましたよね。まさかそれすらもお疑いなのですか?」
「疑っているわけでもない。確認がしたかっただけだと言っている」
「なんの確認ですか」

 むう、と唇を結んだルルーシュの横顔をじっと見つめる。
 どこか拗ねたような表情は子供っぽくて可愛らしいけれど、この顔に絆されて追及をやめるつもりはなかった。

「――だって、理想と現実は違うだろう」
「違うとは?」
「毎日慌ただしいし、仕事は山ほどあるし、それに……」

 何やら逡巡したあと、ルルーシュはゆっくり口を開いた。

「お前と、一緒に過ごせない」
「過ごしているではないですか」
「それはそうだが」
「夜だって一緒に寝ています」
「それもそうだが」
「僕はこれで充分ですよ」

 主に向かってにこりと笑う。
 ルルーシュが言わんとしていることは察した。察したからこそ、彼に最後まで言わせたくなかった。
 皇帝とその騎士なので毎日一緒にいるのは当たり前だ。彼の仕事が終わったら一緒に食事をとるし、周りには内緒だけど同じベッドで一緒に寝てもいる。
 しかし、ルルーシュが言いたいのは別の意味だ。
 ただの恋人同士として過ごす時間がない、ということを彼は言いたいのだろう。
 即位から半年、休みらしい休みは一日もなかった。当然、プライベートを二人きりで過ごせる時間もほとんどない。
 でも、そんなことはもとより承知の上だ。彼が皇帝になると知ったときから理解しているし、その程度のことで不満を抱くようなら騎士にも恋人にもなっていなかった。
 そもそも、ナイトオブラウンズだったスザクが、皇子のルルーシュを好きになった時点で世間一般的な普通さはないのだ。
 ルルーシュに告白したのはスザクである。普通と縁遠いことは最初からわかっているのに、今さら普通を求めるのはルルーシュへの冒涜に等しい。
 それでも、ルルーシュは心配していた。
 皇族の自分と一緒にいてスザクは幸せなのかと。皇子だったときも、皇帝となった今も。

「アリエスで僕が誓った言葉をお忘れになったわけではありませんよね?」
「もちろんだ」
「でしたら、陛下のご心配はすべて取り越し苦労。杞憂ですよ。どうかご自分の騎士を信じてください」

 スザクが言い切れば、ルルーシュは困ったような顔をした。

「信じていないわけではないのだ」
「もちろん承知しております。ですから――」

 一歩近付き、形のいい耳に顔を寄せる。
 このまま抱き締めてキスしたいな、と思った。廊下ではなく部屋の中だったら迷わず唇を近付けていたのに。

「夜になったらたっぷり甘やかして差し上げますね」

 小さな小さな声で囁けば、ぱっと耳を押さえたルルーシュがあとずさった。猫のような反応にスザクは笑みを深める。途端に、白い頬が朱に染まった。
 恋人になってからだいぶ経つのに、ルルーシュはいまだに初々しい。どうしてこんなに可愛いのだろうと感動すら覚える。

「な、何を言っている! この馬鹿が!」
「騎士に向かって馬鹿とは失礼ですね」
「馬鹿だから馬鹿だと言っているんじゃないか!」

 息をついたルルーシュは大きく深呼吸をし、スザクを睨むように見たあと、その表情を崩して笑い出した。

「どうやら俺は疲れているらしい。つまらないことを考えた」
「休暇を取ってくださいと簡単には言えませんが、余裕のあるときはもう少し積極的にお休みください」

 ああ、と答えたルルーシュが笑いながら再び歩き始めた。

「今からだとケーキの焼き上がりに時間がかかる。それに、飾り付けと試食のためにもう一時間はほしいところだ。というわけで、休憩時間は二時間にしよう」
「二時間でよろしいのですか?」
「それ以上は働くのを放棄したくなるからな」

 言葉とは裏腹にルルーシュは楽しそうな声だった。たしかに、とスザクも笑った。

「ケーキも楽しみですが、夜も楽しみですね」

 からかうつもりで口にすれば、ちらりとスザクのほうを振り返ったルルーシュが唇に弧を描いた。

「では、たっぷり甘やかしてもらおうか」
「え?」
「俺はわがままだからな。覚悟しておけよ」
「えっ、ルル――、陛下!」

 まったくもう、と胸のうちで呟き、スザクは主の背中を追いかけた。その靴音に彼への愛しさを忍ばせて。
 皇帝陛下の一日は忙しい。
 だから、今日一日の終わりには彼をいたわり、たくさん甘やかしてあげたい。
 それができるのは皇帝の唯一の騎士だけで、スザクにとっては何よりの喜びだった。
 (18.08.31)