極上の口溶けを

 それは生徒会の活動が終わり、帰り支度をしているときだった。

「バレンタインデー?」
「そ、バレンタインデー」

 テーブルいっぱいに広がった書類をすべて片付け、案件ごとに山を作り、帰宅を急ぐメンバーを見送ったあと、俺はようやく自分の荷物をまとめ始めた。外で待機している彼を寒空の下でいつまでも待たせられないと少し焦っていた。
 そこで生徒会長のミレイ・アッシュフォードに声をかけられた。一度帰ったはずの彼女は忘れ物があったと言いながら戻ってきたのに、忘れ物とやらは探さずに俺の顔を覗き込んできた。そうして尋ねられたのが「バレンタインデーって知ってる?」という質問である。

「もちろん知っているに決まっていますよ。あなたにだって毎年お菓子を贈っているでしょう?」
「でも、日本方式のバレンタインデーは知らないでしょう?」
「日本方式?」

 ミレイが満面の笑みを浮かべる。彼女がこの顔をするときは碌でもないことが起こると経験則で知っていた。警戒心から咄嗟に席を立とうとすれば、両肩に手を乗せられて問答無用で椅子に戻された。

「俺は帰りたいんですが」
「まあいいじゃない。ルルちゃんにとっておきの情報を教えてあげるんですから」
「とっておきって、どうせまたくだらない話でしょう」
「あら失礼ね。とっておきはとっておきよ。だって恋が叶うかもしれないおまじないですもん」

 思わず睨み付けるように見れば、ミレイの笑みが深まった。

「知ってる? 日本のバレンタインは好きな人に愛の告白をする日なの」
「その情報は古いですよ。昨今の日本では友達で贈り合ったり、自分のために高級チョコレートを買ったりするほうが増えているという話です。そもそもチョコレートなんか買わないという層も多い」
「あら、知ってたの?」
「別に普通ですよ」
「ルルちゃんの言うとおり、昔ほど告白の日って感じではなくなっているみたいね。けど、好きな人にチョコレートを贈って告白する習慣がゼロになったわけでもないわ」
「俺は男ですよ。そういう話は女子同士でやってください」
「あら、告白するのが女の子だけって誰が言ったかしら」

 わざとらしい言い方に、俺はわざとらしい溜め息を返した。

「どちらにしろ俺には無関係なことです。話がそれだけならもう帰っていいですか」
「確かに今の日本ではバレンタインの状況が変わっているかもしれない。でも、十五年近く日本を離れている人にとってはどうかしら」

 ミレイが何を伝えたいのか見えてきた。しかし、ここで反応するわけにはいかない。俺は興味のないふりをして彼女の言葉を待った。

「バレンタインなんて生きていく上で必要なことではないから、情報がアップデートされていない可能性のほうが高い。つまり、その人にとってバレンタインにもらうチョコレートは特別な意味があるかもしれないってことよ」
「その人がどの人か知りませんが、十五年もブリタニアにいたらこちらのバレンタインと日本のバレンタインは習慣が違うと気付くでしょう」
「私、その人が日本人とは言ってないけど?」

 さり気なさを装ったのに墓穴を掘った。ミレイがにやにや笑っている。

「ちなみに私からその人に探りを入れてみたところ、ブリタニアと日本のバレンタインが違うってことは理解しているけど、バレンタインと言えばチョコレートって認識は今も消えていないみたいよ」
「なっ……、余計なことを聞かないでください!」
「誰に聞いたとは言ってないわよ? それとも、相手が誰なのかルルちゃんには心当たりがあるのかしら?」

 失態である。遊ばれているだけだとわかっているのに冷静さを欠いてしまった。しかしミレイには何もかも見透かされているようで、どう答えても藪蛇になりそうだ。
 迷った末に、俺は顔を逸らした。断じて逃げたわけではない。戦略的撤退だ。

「もう帰ります」
「話は最後まで聞きなさいって」

 ミレイの両手にぐぐっと押さえ付けられる。俺はもう一度嘆息すると椅子にもたれかかった。煮るなり焼くなり好きにしてくれと投げやりな気分だ。

「ルルちゃんは毎年、アリエスでバレンタインのお菓子を配っているでしょう? それには当然あなたの騎士も含まれているわよね」
「ええ、そうですね」
「そのお菓子は不特定多数に配られるものだから、仮にルルちゃんが特別な想いを込めて作ったとしても、自分だけが特別なものを贈られたとは誰も気付かないわ」
「特別な想いなんか込める予定はありません」
「だから、今年はちょっと趣向を変えてみましょう」

 俺の発言を無視してミレイが顔を寄せる。

「お菓子は例年通り全員に配る。その上で、その人にだけ特別なチョコレートを渡すの」
「なんのために」
「あなたが特別ですよって伝えるために」
「馬鹿馬鹿しい。大体、俺には特別に想っている人なんて」
「またお見合いの話が来てもいいのかしら」

 お見合い。
 その単語で俺は言葉に詰まった。なぜ知っているのだとか誰に聞いたのだとか、問いただしたいことは山ほどある。が、口に出して聞くわけにはいかなかった。
 要するに、ミレイは面白がっているだけだ。俺をからかう情報を手に入れて楽しんでいるのだ。
 仕方がないな、と本日何度目になるかわからない溜め息を心の中でつく。学校で皇子の身分を利用するのは不本意だけれど、これ以上は付き合っていられなかった。

「ミレイ、いい加減に――」

 しかし顔を上げると思いのほか真剣なまなざしがあって、俺は咄嗟に息を呑んだ。

「余計なお世話かもしれないけど、私はね、あなたに後悔してもらいたくないの」
「何を言い出すかと思えば……」
「だって、学校を卒業したらあなたは自由を謳歌できなくなるでしょう?」
「卒業したからってアリエスでの日常は変わりませんよ」
「気持ちの問題よ。我がアッシュフォードを預かる生徒会長としては、心残りがないように学生時代を過ごしてもらいたいわけ。わかる?」

 おどけた口調は普段のミレイらしい態度だ。しかし、後悔してほしくないという気持ちは恐らく本物なのだろう。だからこそ、皇族として生きていく俺のことを気にかけてくれているのかもしれない。
 もっとも、そのせいでバレンタインなんてものを焚き付けられるのは困るけれど。

「――会長の心遣いはありがたく受け取っておきます。でも、チョコレートを渡すかどうかは要検討ですね」
「もう、ささっと作って勢いで渡しちゃいなさいよ」
「できるわけないでしょう。というか、その、なんで俺が……」

 もごもごと言い淀む。なぜ俺の想い人を彼女が知っているのか、情報の出所は確認しておきたい。誰にも知られないよう細心の注意を払ってきたし、まさか生徒会長権限で調査したわけでもないだろう。
 するとミレイがこてんと首を傾げた。

「あんなバレバレの態度を取っておいて今さら?」
「バ、バレバレ?」
「とにかくアドバイスはしておいたから、あとはあなたの行動力に期待するわね。私が卒業するまでに上手くやるのよ」
「ちょっと会長!」
「報告はあとで聞かせてちょうだい。じゃあねー」

 ひらひらと手を振ってミレイは生徒会室を出て行った。しばらく固まっていた俺は、盛大に息を吐き出すとテーブルに突っ伏した。

「少しでも絆された俺が馬鹿だった。ミレイの奴、やはり俺をからかって遊んでいるだけだ……」

 バレンタインだとか特別なチョコレートだとかささっと作って勢いで渡せだとか、他人事だと思って好き勝手に提案してくれたものだ。どれかひとつでも簡単にできたら苦労はない。
 第一、バレンタインにかこつけてあれこれできるのは対象が異性の場合に限られる。女が渡すにしろ男が渡すにしろ、相手が異性だからこそ可能なのだ。ミレイはその点を失念している。
 (だって、俺が好きなのは――)
 そこへノックの音が響いた。びくりと起き上がった俺は、ミレイが帰ってきたのかとドアのほうを振り返った。しかし、いつまで経ってもドアは開かない。まさか不審者ではないよな、と即座に身構えてズボンのポケットに手を入れた。
 学園内には俺の護衛が配置されていて、校内で怪しい動きを見せる者がいれば彼らがすぐに動く。監視カメラも数多く設置されており、それらの目をかいくぐって生徒会室に侵入できるとは思えない。だが、万一の事態に備え、ポケットの端末の緊急コールはいつでも押せるようにしておく必要がある。
 再びノックがあった。不審者ならば問答無用で押し入ってきそうだから、ドアの向こうにいるのは生徒か教師だろうか。
 (さて、どう動くか)
 ノックを無視してやり過ごすか。思い切って相手が誰か問いかけてみるか。だけど、学園の関係者が必ずしも安全とは限らない。教師のふりをした敵という可能性もある以上、ここは護衛達を呼び出してからのほうが――。

「枢木です。こちらにルルーシュ殿下はいらっしゃいませんか」

 聞こえてきた声にまばたきをした俺は、それから大きく息をついた。過剰なほど警戒していた自分が恥ずかしい。
 くそっ、と悪態をついて勢いよく立ち上がり、部屋を突っ切るとロックを解除した。

「良かった。別の場所からお帰りになったのかと心配しました」

 そこにいたのはひとりの日本人の男だった。童顔にふわふわとした栗色のくせっ毛。一見すると喧嘩が弱そうな風貌だが、この男がブリタニア随一の身体能力を持っていることは俺が一番知っている。

「なぜここにいるんだ」
「ミレイ様から殿下がお困りだと伺いましたので」
「余計な真似を……」
「え?」
「いや、なんでもない。もう帰るところだ」
「何か作業をされていたのではないですか?」
「終わったからもういい。ナナリーが待っているから早く帰ろう」

 鞄を取りに戻ると、すかさず彼に取り上げられた。ムッとして見上げれば、にこりとした笑みが返ってきた。

「では参りましょう」
「ああ」

 廊下に二人分の靴音が響く。今さら珍しいことではないのに、学校で彼を伴って歩くのはなんだか変な気分だ。
 (学校という場においては俺達が異質だからな)
 神聖ブリタニア帝国の第十一皇子とその騎士。それが俺と彼の関係だ。
 身分は隠していないため、俺が皇子であることは学園関係者ならば誰でも知っている。最初こそ腫れ物に触るような扱いをされていたけれど、ミレイがほかの学生と同じように俺をこき使ってきたおかげで、学園にいる間は普通の高校生と変わらない日常を送っていた。
 とは言え、皇子である以上、何もかも普通とはいかない。何かあれば学園を運営するアッシュフォード家の責任となる。だからこそ警備は厳重だし、俺の親衛隊が要所要所に配置されていた。その親衛隊のトップを務め、警備全般の責任者として警備計画や配置する人間を決めているのが俺の騎士である。
 騎士の名は枢木スザク。
 俺より七歳年上で、十歳のときに人質同然で日本からやって来た彼は、たまたま受けたナイトメアパイロットの適性テストで驚異の数字を叩き出したことで才能を見いだされ、以来、数々の戦場で活躍してきた。日本人ということで差別や不利な条件があったにもかかわらず、皇帝の騎士であるナイトオブラウンズにも引けを取らないと評価されるほどの実力者である。
 それほど優秀な軍人が、なぜ皇位継承順位の低い皇子の騎士を選んだのか。枢木スザクの才能を見込んでスカウトしたのは母だと聞いているものの、まさか脅されて引き受けたわけではあるまい。出世の足がかりのつもりなのか、年下の皇子ならば御しやすいとでも思ったのか、それとも元ラウンズの母の頼みを断れなかっただけなのか。
 俺は理由を聞けずにいた。彼が騎士になった五年前からずっと。

「明日の予定は空いていたな」

 迎えの車に乗り込み、しばらく走ったところでスザクに声をかける。

「はい、例年通り空けております。ほかに何かご予定が入りそうですか?」
「確認しただけだ。明日は午前も午後も厨房に籠もるから、クロヴィス兄上からお茶の誘いがあっても断れよ」
「かしこまりました。しかし、たまにはクロヴィス殿下のお茶会に参加されてもよろしいのでは?」
「お茶だけなら付き合うが、兄上の場合は余計なオプションが付くんだ。何が楽しくて私をモデルにした絵なんか描くんだか」
「絵のことは詳しくありませんが、ルルーシュ殿下を描きたいという気持ちはわかる気がします」
「まさか兄上の肩を持つつもりじゃないだろうな」
「まさか。自分はルルーシュ殿下の騎士ですよ」
「どうだか。お前はいつまで経っても私を子供扱いするし」
「子供扱いなんていつしましたか?」
「さぁな」

 素っ気なく答えて窓の外に目を向ける。
 スザクと出会ったとき、俺はまだ十二歳だった。成人年齢に近かった彼からは小さな子供にしか見えなかっただろう。
 あれから五年。スザクの俺への接し方は子供の頃と変わらない。声変わりし、背も伸びて、見た目はだいぶ大人に近付いたのに、スザクはまだ俺を子供だと思っているのかもしれない。
 (皇子で同姓で年下のお子様で……。スザクが俺に惹かれる要素は皆無だな)
 ミレイとのやり取りが脳裏に浮かんだ。
 特別なチョコレート。そんなものをもらってスザクが喜ぶわけないだろうと胸の内で嗤う。
 彼女曰くバレバレらしいが、これでも必死に隠している感情。スザク本人には悟られていない感情。どうして俺の中に宿ってしまったのかわからない感情。
 これに名前を付けるのならば、きっと恋と呼ぶのだろう。
 年上の同性、しかも自分の騎士に恋心を抱くなんてどうかしている。これは間違った気持ちで、俺はおかしくなってしまったのだと思い悩んだ時期もあった。自分自身の感情を素直に受け入れるのは難しく、今でもどうすればいいのかわからない。気持ちを伝えたところで未来があるわけでもない。勇気を出して告白したところでスザクを困らせるだけ。最悪、騎士を辞任される恐れだってある。
 (それだけは絶対に嫌だ。だがミレイの言うとおり、もしまたお見合いの話が来たら……)
 年頃の男性ということで、スザクのもとには貴族の令嬢との見合い話がよく来る。大抵は俺がはね付けるのだが、先日の見合いは異母兄のシュナイゼルが仲介したこともあって断れなかった。形だけですからと見合いの席に向かうスザクを俺は見送ることしかできなかった。
 あんなことがこれから何度あるのだろう。今は結婚に積極的ではないスザクもいずれは気の合う女性と出会い、その人とならば結婚して家庭を持ってもいいと思うようになるかもしれない。婚約が決まったらスザクは俺に報告し、妻となる人を紹介するかもしれない。そしたら俺はおめでとうと祝福し、スザクの選んだ女性を笑顔で歓迎しなければいけないのだ。
 いつか訪れるであろう未来を想像して胸が悪くなった。普段は酔わない車に酔ったような気分がして、膝の上で両手を握り締めた。嫌なものを振り払うように首を振る。

「お加減でも悪いですか?」

 近くで声がした。スザクの手が近付き、失礼いたします、と額にそっと当てられた。

「熱はないようですね」
「車に少し酔っただけだ。子供っぽいことをするな」

 手を払うふりをしてスザクの手に触れる。しかしその手を逆に掴まれ、心臓がどきりと跳ねた。

「殿下はすぐに無茶をされるから心配なのです」
「――心配性だな、お前は」

 スザクは優しい。万人に対して優しいのだと知っていても、こうして心配されるのは嫌ではない。だって、俺の騎士は俺だけを特別扱いしてくれると思えるから。

「寝る。着いたら起こしてくれ」

 スザクにもたれかかって目を閉じた。子供扱いされることを嫌うくせに、自分の立場を利用して子供の頃のようにわざとスザクにくっ付いている自分はつくづく身勝手だ。
 スザクは何も言わず、ただ俺の頭を優しく撫でてくれた。それも子供の頃に良くされたことだけれど、子供扱いするなと思わなかった俺はやはり身勝手なのだろう。

***

「今年も壮観ですね」

 感動するような騎士の口調に、俺はエプロンを外しながら笑った。

「毎年のことだろう?」
「毎年のことですが、これだけの数を前にしたら壮観としか言い様がありません」

 厨房には甘ったるい匂いが満ちていた。朝から仕込みを始め、夕方前にようやく完成させたのはバレンタインデーの焼き菓子だった。
 バレンタイン当日は俺から離宮の者達にお菓子を配るのが恒例となっていて、毎年、その前日は一日中お菓子作りをしている。だから予定は何も入れず、学校もサボっていた。
 学校を休むことについて、騎士になったばかりの当時のスザクは難色を示したけれど、だったらお前が代わりに作ってくれるんだな? と問えば仕方なく認めてくれたようだ。今ではラッピングの手伝いをしてくれるので非常に助かった。
 子供の頃になんとなく始めたイベントで、使用人達は嫌々もらっているのではないか、社交辞令で美味しいと言っているのではないかと不安になることもある。だからこそ、スザクに「殿下のお菓子は毎年好評ですよ」と教えてもらえたときは嬉しかった。いずれ役職に就けばお菓子を作る時間すら取れなくなるだろうから、それまでは続けていきたい恒例行事だ。

「こちらはすべて詰めてよろしいですか?」
「ああ、三個ずつ頼む」

 スザクが作業を始めたことを確かめると、俺は自分の手元にそっと目を落とした。
 (まんまとミレイに乗せられたな……)
 宝石箱をイメージしたチョコレートボックス。我ながら気合いが入りすぎだと呆れてしまうそれは、スザクが厨房を離れている間にこっそり作ったものだった。
 何が特別なチョコレートだと散々否定していたのに、結局はこうしてスザクのためだけに用意してしまったのだからミレイの掌で転がされている気がしてならない。
 (せっかく作ったんだ。騎士を特別扱いするのは別におかしなことではないし、さり気なく渡せば問題ない)
 本当はバレンタインデー当日がいいのかもしれない。だけど、明日はアリエスの各部署にお菓子を配って回るほうがメインで、いつスザクと二人きりになれるかわからない。結局渡せなかったでは意味がないし、先延ばしにしても余計に緊張するだけ。ならば、作った勢いのままこの場で渡してしまったほうが気も楽だ。
 チョコレートはこの作業が終えたあとにしようと決め、無心で焼き菓子を詰めていく。

「こちらは終わりました。お手伝いしましょうか?」
「いや、必要ない。俺のほうもこれで終わりだ」

 二人で黙々と作業を進めたおかげで準備は無事に済んだ。残ったのは俺のチョコレートだけである。

「今年も助かった。ありがとう、スザク」
「自分は最後の作業をお手伝いしただけです。殿下のほうこそお疲れ様でした。ここの片付けはほかの者に任せますので、お部屋でゆっくり休まれてください」
「あ、ああ」

 言わなければと思うのに、いざ口にしようとしたら言葉が上手く出てこない。どうしようと迷っていると、スザクが不思議そうな顔をした。

「やり残した作業でもありますか?」
「そうではなくて……」

 ブリタニアの皇子がこの程度のことでうじうじするな。己を叱咤し、チョコレートボックスを手に取るとスザクに押し付けた。

「やる」
「え?」

 雰囲気も何もないけれど、ただのチョコレートであることをアピールするにはこのほうがいいだろうと開き直る。

「騎士としていつも側にいてくれるお前への礼だ」
「自分にですか?」
「お前に作ったんだ。受け取ってもらわないと困る」
「では開けてもよろしいですか?」
「ここで?」
「駄目ですか?」

 渡して終わりのつもりだったから、その先のことは何も考えていなかった。開けるなと言うわけにもいかないので仕方なく頷く。
 嬉しそうな顔で箱を開けたスザクは中身を見て目を瞠った。

「すごいですね、いつの間にこんなに……」
「ただのトリュフだ。珍しくもなんともない」
「ですが、あちらのお菓子を作りながらこちらの作業もされたのでしょう?」
「バレンタインはチョコレートだと聞いたからな」

 首を傾げたスザクに、日本ではそうなのだろう、と早口で伝える。

「確かに日本ではバレンタインと言えばチョコレートですが、まさかそのためにわざわざ?」
「チョコレートのほうが日本らしいと思っただけだ。俺からではなんの感慨もないだろうが」
「そんなことはありません。ありがとうございます、ルルーシュ殿下」

 スザクがふわりと笑う。彼からすれば子供のお遊戯を褒めるような心地なのかもしれない。でも、スザクに喜んでもらえたことは素直に嬉しかった。

「いつか本物をもらえばいい」
「何をおっしゃっているのですか。このチョコレートは本物ではないですか」
「そうではなくて――、聞いた話だが、日本では好きな相手から贈られるのを本命チョコレートと言うらしいな。だから、いつかお前の本命からもらえという意味だ」

 言いながら後悔した。せっかくスザクにチョコレートを渡したのに自分で台無しにしている。俺はどこまでも馬鹿だ。

「もらいませんよ」
「え……?」

 視線を上げれば、優しい表情をしたスザクがいた。一歩近付き、俺の顔を覗き込んで目と目を合わせる。新緑の色に引き込まれそうだ。

「誰からも受け取るつもりはありません。自分が欲しいのは殿下だけです」

 まるで俺を欲しいと言われているみたいだった。
 単なる言葉の綾だとわかっているのに胸が震えた。

「来年もその次も、その先もずっと、自分はルルーシュ殿下からしか受け取りません」
「だが……」
「お約束します」

 真摯に伝えられ、俺は魅入られたように緑の瞳を見つめた。
 今のスザクが見ているのは俺だけだ。たとえ心の中では別の誰かを想っていたとしても、今のスザクを独占しているのは俺ひとりだ。
 (泣いてしまいそうだな)
 俺の心を見透かしたのではと思えるタイミングで目元を拭われる。軍人らしい指先が頬を辿り、下唇をなぞり、最後に顎を軽く持ち上げた。

「ホワイトデーにはお返しさせてくださいね」
「ホワイトデー?」

 なんだそれはと聞き返せば、スザクが唇に弧を描いた。

「今はチョコレートで満足しておきます」

 スザクがトリュフを一粒つまみ、口の中に入れる。甘いですね、と告げた顔はいつものスザクの顔なのになぜだかいつもと違って見えた。

「あ……、お、俺は部屋に戻る」
「あとでお茶をお持ちいたします」

 スザクのほうを見ていられず、逃げるように厨房を出た。廊下を歩いている間も心臓はうるさいくらいに音を立てていて、辺りに響いてしまいそうだ。
 足を止めて窓の外をなんとなく見上げる。夕暮れの色が広がっていて、切ないような心苦しさに襲われた。

「なんなんだこれは……」

 胸の辺りをエプロンの上から握り締めた。
 顔が熱い。鼓動が速い。ふわふわとした気持ちに足元が覚束ない。耳の奥にはスザクの声が残っていて、目を閉じると彼の指先が肌を撫でる感覚が蘇った。
 (俺からしか受け取らない、か……)
 あの言葉を思い出すだけで胸の奥が温かくなった。主相手に気を遣っただけだとしても嬉しいものは嬉しい。
 俺だけがスザクにチョコレートを渡せる。いつかスザクの本命が現れたとしても、俺だけがチョコレートを渡す権利を持っている。
 それは悪くないことのように感じられた。
 (ところでホワイトデーとはなんだ?)
 あとで調べようと思い、俺は窓辺を離れると自分の部屋に向かって歩き始めた。
 (21.02.14)