フレンチトースト

 ふいに目が覚めた。香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
 なんの匂いだろうと考えてみたけれど、寝起きの頭はすぐには働いてくれない。
 身じろぎをして隣のぬくもりにくっつこうとすれば、そこには冷えたシーツだけがあった。おや、と重い瞼をうっすら開けてみる。
 そこに予想していた人はなく、カーテンの隙間から差し込む陽の光だけが伸びていた。
 (――ああ、そうか)
 そこでようやく昨夜の約束を思い出した。
 寝返りを打つと素肌に冷たいシーツが触れて少し寒い。ルルーシュは猫のようにベッドに潜り込むと再び瞼を下ろした。本当は今すぐにでも服を着たいところだけど、今は照れくささより眠気のほうが勝る。次に目が覚めたら正気に返っていたたまれなくなる自分がいるのだろうと思いつつ、もう少しだけ朝の微睡みに浸っていたかった。
 まだ寒い春の朝、体温で温もったベッドでごろごろ過ごす時間は格別だ。普段ならば目覚ましが鳴る前に起きるほど几帳面だけど、今日は休日なのでどれだけ寝ていても誰にも文句は言われない。
 そもそも眠りについたのは、おそらく早朝と言っていいような時間だった。はっきり断言できないのは、自分が何時頃に意識を失ったのかわからないからだ。その原因は――。

「ルルーシュ、起きて。朝ご飯できたよ」

 うつらうつらとしていたところで聞き慣れた声が耳に届き、一気に意識が覚醒する。せっかく二度寝を決め込んだのにと思うけれど、この声に起こされたら再び眠りにつくことは不可能だ。
 柔らかく触れてきたキスにそっと口角を上げた。「おはよう」と唇越しに朝の挨拶をされて、甘えるように首の後ろに腕を回した。温かい手が寝乱れた黒髪を優しく梳く。

「何時だ?」
「十一時」
「朝食じゃなくて昼食だな」
「まだ午前中だから朝ご飯でいいの」

 背中に手を添えられ、そのまま起こされた。毛布が落ちて裸の上半身が空気に触れる。

「ごめん、君の服は洗濯しちゃったから乾くまで僕のを着ていて」

 こくりと頷けば服一式を渡された。

「それからこれも。新しいから大丈夫だよ」

 さらに押し付けられたのはまだ封の切られていない下着。普段、自分が穿いているビキニタイプのものではないのでなんだか違和感があった。

「新しくなくてもいいのに」

 洗濯されていれば問題ないとぽつりと言えば、なぜかスザクが黙り込んでしまった。不思議に思って首を傾げる。

「ルルーシュが良くても僕が良くないって言うか、平常心を保てないと言うか」
「何を言っているんだ」
「ううん、なんでもない、気にしないで。それより早く顔を洗ってきなよ。朝ご飯が冷めちゃう」
「ああ」

 ベッドを離れた彼の後ろ姿を見送るとルルーシュは下着を開けた。スウェットのズボンに足を通し、半袖のTシャツを着てパーカーを羽織る。スザクの服だと思うと少しだけ照れくさい。
 ワンルームの狭い部屋なので、顔を洗うためには彼の横を通り過ぎなければならなかった。ベッドを軽く整えてからキッチンへ向かう。

「スザク」

 ちょうど盛り付けを終えた彼が振り返った。翡翠の瞳が自分に向けられる瞬間がとても幸せで、ルルーシュは自然と頬を緩める。

「おはよう」

 少し遅れた朝の挨拶にスザクが笑った。
 個人経営のカフェのオーナー、と聞けば普通は中年くらいの男性の姿を思い浮かべるかもしれない。
 しかしルルーシュはまだ二十歳を越えたばかりで、世間一般的には大学生と呼ばれる年齢だ。
 もっとも、飛び級でブリタニアの大学は卒業済みだし、日本で改めて大学に通うつもりはなかった。一通りの勉強は終えてしまい、今は株の取引などで生計を立てているのだがそれもいまいち張り合いがなく、暇つぶしと趣味を兼ねてカフェを開いたのは二年ほど前のことだ。
 もともと料理は得意だし、その腕前に自信もあった。こぢんまりとした店にしたのは、一人で切り盛りできる範囲と暇つぶしの域を越えないためだ。しかし客に提供するものに妥協はせず、小さいながらも次第に常連が増え、今ではちょっとした街の有名店になっていた。
 そんな店に彼、枢木スザクが訪れたのはオープン直後のときだった。
 初めはただの客と店のオーナー。自分と同年代だろう容貌はどこか人なつこい印象で、ふわふわとしたくせっ毛はブリタニアで暮らす妹を思い出させた。だからなのか、彼のことが何故か最初から気になってしまい、二回、三回と回数を重ねて通ってくれるのがとても嬉しかった。
 自分が彼に特別な感情を抱いていると気付いたのは、最初の来店からふた月が過ぎたあたりだ。ちょうど彼と親しく言葉を交わし始めた時期で、そのときはなぜか恋人の話題となった。

「ルルーシュさんはもてるんだろうな」
「どうしてですか?」
「だってカッコイイし料理が出来るしオーナーもやっているし、女の子だったら憧れるんじゃないかな。女性のお客さんからも人気なんですよ。知りません?」
「残念ながら今は自分のことで精一杯なので。枢木さんこそもてるんじゃありません?彼女はいるんですか?」
「まあ一応は」

 照れたように笑ったスザクに、一瞬自分の胸が凍るような感覚を抱いた。

「ルルーシュさん?どうかしましたか?」
「え……、いえ、珈琲のおかわりいりますか?」

 笑みを浮かべようとして、顔の筋肉が上手く動かないことを自覚する。かろうじて口角だけは上げられたけれど、ちゃんと笑っているように見えたかどうかは自信がなかった。
 (なんだこれは……?)
 ショックだった。
 何がショックなのか言葉で言い表すことが出来なかったけれど、とにかくショックだった。スザクが店を出たあとも、その日の営業を終えて自宅に戻っても、シャワーを浴びてベッドに入っても、鉛のように重たいものが心の中に巣食っていた。
 翌日、スザクは店に来なかった。大学が忙しいようだし、まだ学生だから頻繁に足を運ぶことが難しいのは当たり前だ。第一、カフェなんて街には山のようにある。今は自分の店に来てくれているが、ほかに贔屓の店を見つけたらそちらへ通うようになるだろう。
 接客や調理をしながら考えるのはひどく言い訳めいたことで、まるでスザクが来ないことを自ら慰めているみたいだった。
 そのとき、ふと気付いた。
 どうしてスザクに彼女がいると聞いてショックだったのか。
 どうしてスザクが店に来ないだけで自分を慰めているのか。
 (知り合いに彼女がいると知っても普通は何も感じない。せいぜい羨ましがるくらいだ。たとえば相手の彼女を密かに好きだったとか、実は昔の彼女だとかそういう場合ならショックというのは有り得るが、俺は相手のことをまったく知らない。つまりこれは……)
 スザクを好きなのだという答えに至り、ルルーシュは呆然とした。持っていたグラスを落とさなかったのは我ながら見事だったと言うべきだろう。こんなときでも平静でいられるのだなと他人事のように思いながら、震える手でグラスを棚に戻した。
 しかし、自らの気持ちに気付いたところで何かが変わるわけではない。自分たちは男同士だ。スザクはよく店に来てお喋りをしてくれるけれど、それは友達感覚で接しているだけだ。間違っても友情以上の気持ちはない。性別の問題がなかったとしてもスザクには彼女がいるのだから、いずれにしろ初めから叶わない想いなのだ。
 そう自分に言い聞かせ、気持ちにも蓋をしようとした。
 だけどスザクの来店頻度が徐々に増え、これまで以上に仲良く話すようになり、ルルーシュは幾度もぐらつきそうになった。
 一ヶ月。三ヶ月。半年。一年。
 少しずつ重ねていく時間の中で、諦めるはずの気持ちは消えるどころかよりいっそう深まった。店の閉店時間は午後九時なのに彼が来ることを期待してついつい遅くまで開けてしまったり、訪ねてくるのがほかの客だったら断るのに彼だったら簡単に中に入れてしまったり、あまりの一途さに馬鹿じゃないかと思ったほどだ。それでも好きな気持ちに変わりはなかった。
 告白はしない。好きだなんて言わないし、彼女と別れてくれとも付き合ってくれとも言わないから、好きだと思い続けることだけは許してもらえないだろうか。
 バレンタインデーを迎えたのは、そんな願いを抱くようになった頃のことだ。
 この日になると毎年多くのチョコレートを渡され、女の子から気持ちを伝えられた。もちろんどれにも応えることは出来ないから、朝から晩まで丁重にお断りの返事をしている。
 スザクが来店したのはちょうど客が途切れたタイミングで、席に着くなり何かを鞄の中から取り出した。

「これ、良かったら食べてくれません?」

 差し出されたのはチョコレートで、ルルーシュは思わず目を丸めた。
 もちろん、スザクが自分に気があるなんて幸せな勘違いはしなかった。最近は友達にチョコレートを贈る習慣があるものの、それは主に女子の間だけだ。いくら仲が良くても男同士でチョコレートを渡すのは珍しいから純粋に驚いたのだ。

「バレンタインにチョコレートなんて意味深ですね」
「え、今日ってバレンタインだったんですか?美味しそうで思わず買っちゃったんです」

 案の定と言うべきか、予想通りの答えが返ってきて笑った。やはり彼にバレンタインという意識はなかったらしい。
 しかし彼に片想いしている自分にとっては非常に複雑だ。
 そう思ったのが理由かどうかは定かではない。ただ、いい加減スザクを諦めようと決心したきっかけになったことは確かだ。
 スザクには彼女がいるし、大学を卒業したらこの街からもいなくなるだろう。好きだと思い続けるだけでいいなんて強がっていたけれど、意味のない気持ちなんて終わらせたほうがいいに決まっている。
 だからスザクに告白してあっさり振られて何もかも諦めてしまおうと思った。決行の日はホワイトデーと決めて、悲壮とも言うべき覚悟で当日を迎えた。
 そして、逆にスザクから告白されてしまった。

「ルルーシュは僕より大人で僕よりずっと余裕があるんだと思っていた」

 告白のあと、今まで隠していた気持ちを全部打ち明けたらスザクにそんな風に言われたけれど余裕なんてちっともなかった。スザクより大人だと思ったこともない。
 今でこそお互いの空回りぶりは笑い話のようなものだが、好きな相手に必死だったのだと考えればなんだか微笑ましくも感じる。
 ともかくホワイトデー以来、ルルーシュの毎日は大きく変わった。
 スザクは閉店間際になると訪ねてくるようになり、カウンターの真ん中で夕飯を食べる。ルルーシュはメニューに載っていないホットチョコレートを出して、こっそり笑みを交わし合う。店が終われば逢瀬の時間で、次の日があるときは店で少しだけ話をしたり、翌日が休みのときは自分の部屋に来たり、そのまま泊まって行ったり。
 片想いをしていた頃を思えば急変とも呼べる毎日は、間違いなく幸せだった。

「いただきます」
「いただきます」

 手を合わせてフォークを手に取る。サラダを食べているとスザクの視線に気付いた。

「どうかしたか?」
「いや、好きな人にご飯を食べてもらうのって緊張するなと思って」
「そうだぞ、知らなかったか?」

 悪戯っぽく笑えば、スザクが意外そうな顔をした。

「ルルーシュは料理が上手いんだから失敗なんてしないでしょう?」
「でも味の好みはそれぞれだからな。喜んでくれるかどうか、いつだって緊張しているんだ」

 カフェのオーナーをやっているくらいだから料理の腕に自信はある。だけど、美味しいと言ってもらえるまではいつも不安なのだ。もちろんほかの客の反応も気になるけれど、相手がスザクとなればなおさらだ。
 焼き上がったばかりのフレンチトーストをナイフとフォークで器用に切り、口へと運ぶ。ふわふわとした食感とメープルシロップの甘さに自然と笑みを浮かべた。

「おいしい」
「本当?」
「ああ。料理は苦手と言っていたが、なかなか上手いじゃないか」
「一応練習したからね」

 照れくさそうに笑うスザクに頬を緩め、ルルーシュは二口目を切り分けた。
 僕の部屋に来ないかな。
 そう誘われたのは、告白から一ヶ月後の昨日のことだった。いつもは店から近いという理由でルルーシュの部屋に行くけれど、昨日は初めてスザクの部屋を訪れた。
 朝ご飯は僕が作るから。
 意外な提案をされたのは、柔らかいベッドでキスを受けていたときだ。
 お前作れるのかと尋ねれば、僕だって作れるものがあるんだよと言われ、そのあとはお互いキスに夢中になった。
 スザクと抱き合うと自分がひどく淫乱な気がして、なのに体の底から湧き上がる熱と興奮を抑えることは出来なくて恥ずかしい。気持ち良すぎてどうにかなってしまいそうな感覚も少しだけ怖い。
 だけど、ルルーシュを気持ち良くさせているんだからたくさん感じていいんだよと耳元で囁かれ、スザクがいいと言うならばいいのだろうとあっさり納得した。行為自体はまだ恥ずかしさが抜けないけれど、ずっと好きだった人と体を繋げられることはたまらなく幸せなのだから。
 そして迎えた翌朝に、こうして甘いフレンチトーストを口にしている。何もかもが甘過ぎて溶けてしまいそうだ。
 最後の一切れを飲み込んで完食するとごちそうさまと告げた。

「本当に美味しかった」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
「フレンチトーストは得意料理なのか?」
「得意ってわけではないけど……」

 けど?と首を傾げる。何やら言いにくそうにしているスザクが頭をかいた。

「ルルーシュに似合ってると思ったんだ」
「俺とフレンチトーストが?」
「そういうイメージってわけじゃないけど、ルルーシュの部屋に泊まったらいつも純和風のご飯を作ってくれるから僕もルルーシュに何か食べてもらいたくて、和食じゃ見劣りするから何がいいかなって考えたらフレンチトーストがぴったりかなと思って……。単純でしょう?」
「――いや」

 自分がスザクのために食事を用意するのは半ば趣味のようなものだ。料理は好きだし、何より好きな人のために作るのだからちっとも苦ではない。
 だけど、あまり料理が得意ではないスザクが、自分と同じように相手のことを思って「朝ご飯は僕が作る」と言ってくれたのだとすれば嬉しかった。

「ちなみにレパートリーはほかにあるのか?」
「自分が食べるものを作るだけだから、レパートリーって言うほどのものは……」
「そうか。じゃあ、明日からは閉店後にマンツーマンで料理教室でもやるか?」
「料理教室?」

 なんで?という疑問がスザクの顔に浮かび、ルルーシュは口許に弧を描いた。

「毎回フレンチトーストというわけにはいかないだろう?それに、いつかお前の作った日本食も食べてみたいからな」
「それって、また僕の部屋に来てくれるってこと?」
「当たり前だろう。来たらいけないのか?」
「ううん、そんなことないけど……なんだか夢みたいで」

 付き合って一ヶ月が経つのに何を言っているのだと小さく吹き出す。でも確かに、スザクが自分の部屋に来てくれるのは夢みたいなことだ。

「それなら、夢じゃないかどうか試してみるか?」

 指を伸ばしてスザクの手に触れた。我ながら大胆なことをしている。
 意図に気付いてくれたスザクが身を乗り出し、唇が触れた。すぐに深く合わさって咥内を探られる。

「甘いね」

 キスの合間に囁かれ、そっと笑みを浮かべた。

「フレンチトーストを食べたからな」
「そうかな。もう一度確かめさせて」

 スザクがテーブルを回って隣に来た。翡翠の瞳の奥に昨夜の名残を見つけて背筋がぞくりと震える。再び仕掛けられたキスに、ルルーシュも薄く唇を開いて応えた。
 お昼に近い朝食を終えたばかりで何をしているのだと思ったけれど、スザクに触れたら止まれないのはこの一ヶ月で思い知った。昼間だからやめろと言うのはあまりに白々しい。
 ルルーシュは彼の背中に腕を回して強く引き寄せた。そのままラグの上に押し倒される。
 甘い朝食に甘いキス。
 たまには甘い時間に溺れた休日も悪くない。
 (13.04.29)