柔らかな旋律が風に乗って聴こえてくる。
ピアノが奏でるのは有名曲の一節だ。その音に合わせてルルーシュの右手の指は軽やかに踊っていた。バルコニーの手すりが鍵盤代わりである。幼少期からピアノを習ってきたおかげで大抵の曲は楽譜がなくても弾けた。
しかし、習い初めの頃はさほど楽しいとは感じなかった。ピアノの講師曰く「ルルーシュ殿下にはピアノの才能がおありです」らしいけれど、幼い指は思い通りに動かず、譜面を読むにも時間がかかった。
兄や姉が身内だけの演奏会を開いたときも、ルルーシュは観客として眺めるしかなかった。難しい曲を弾きこなすには技術も経験も足りなかったのだ。
小さな弟を慰めようとしたのだろう。素晴らしい演奏を披露した二番目の兄が「君は来年参加すればいいよ」と頭を撫でてくれた。しかし、負けず嫌いのルルーシュにはその慰めが屈辱だった。兄の心遣いを素直に受け取るにはまだまだ幼く、才能のなさを突き付けられたようで悔しくてたまらなかった。八歳にも満たない頃の話だ。
今になって思えば、あれほどムキになる必要はなかったのである。技術がなければレッスンをすればいいだけで、実際、一年後にはそれなりに弾けるようになっていたけれど、当時はピアノを上手く弾けない自分が情けなかった。とにかく負けることが嫌いだった。負けることは自分自身を否定されたみたいで嫌だった。だから、ピアノを弾くという行為そのものに対して楽しいという感情はちっとも湧かなかった。
ルルーシュの気持ちに変化があったのは母と妹の前で初めてピアノを披露したときだ。
普段は講師と一対一のレッスンばかりで、誰かに自分のピアノを聴いてもらう機会はなかった。講師は毎回褒めてくれるけれど、皇子をおだてているだけとしか思っていなかったので賞賛の言葉を信じたことは一度もない。
そんなとき、ナナリーから「お兄様のピアノを聴いてみたいです」とお願いされた。年長の兄達による演奏会に感化されたようで、私もお兄様みたいにピアノを習いたいと言い出したのがきっかけだ。
僕はまだ上手じゃないから、と最初はやんわり拒否してみた。しかし、人に聴かせるほどのものではないという言い訳が幼いナナリーに通用するはずもなく、どんなに断ってもピアノピアノと熱心にせがまれた。ナナリーの頭の中では演奏会の素晴らしい音色が奏でられていて、ピアノを習っているルルーシュも当然あんな風に弾けるものだと思ったのだろう。
小さな妹の無邪気なお願いを無下にするのは心苦しい。でも、期待通りに弾けなかったときにがっかりされたらと考えたらとても頷けない。すっかり困り果てているルルーシュに、「私も聴いてみたいわ」と背中を押してくれたのは母である。
「毎日ちゃんとお稽古しているでしょう? だったらもっと自信を持ちなさい。あなたは私の自慢の息子なんだから」
ルルーシュの母はかつて閃光のマリアンヌと呼ばれた人で、皇帝を守った英雄として有名な人だった。そんな母に自慢の息子と言われたら嫌だとは断れなかった。毎日欠かさずレッスンをしてきたという自負もあった。閃光のマリアンヌの息子というプライドもあった。妹のおねだりを叶えられない兄にはなりたくなかった。
だから、ルルーシュは母と妹のための小さな演奏会を開くことにした。曲はたったの一曲だけ。ピアノ初心者がようやく弾けるようになった唯一の曲。演奏会と呼ぶにはあまりにささやかだったけれど、ルルーシュは二人のために心を込めてピアノを弾いた。
曲が終わったとき、すぐには家族の反応を見られなかった。下手くそだと笑われたら。期待外れだと言われたら。最悪の反応を想定して縮こまっていたらぱちぱちと拍手が聞こえた。ナナリーが小さな手を一生懸命叩いていた。母も拍手を贈ってくれていた。
「すごいですお兄様!」
駆け寄ってきたナナリーがキラキラとした目でルルーシュを見上げた。もう一回聴かせてとせがむ妹に戸惑っていると、上手だったわよと母に頭を撫でられた。
「ナナリーもお願いしていることだし、もう一度聴かせてくれるかしら」
「でも僕はこの曲しか……」
「あら、同じ曲だと何か問題があるかしら? それに一曲だけって馬鹿にしてはいけないわ。ピアノに限らず、何かを極めるのはとても大変なことなのよ」
「母上……」
「お兄様、早く!」
自分の手を引くナナリーを見下ろし、ルルーシュは笑った。そのとき初めて肩から力が抜けた。
「わかったよ、ナナリー。もう一度弾いてあげる」
ピアノが楽しいと思えるようになったのはそれからだ。勝った負けたの勝負ではない。技巧や才能でもない。誰かに聴いてもらいたい、誰かに喜んでもらいたいという純粋な気持ちを大事にしたかった。
あれから十年近くが経つ。レッスンは現在も続けていた。成人が近付き、皇族としての役割も増えてきたので毎日とはいかないものの、時間があれば五分でも十分でも弾くように心がけている。
兄姉達の演奏会にも毎回参加し、ルルーシュがメイン奏者となることもあった。殿下のピアノは素晴らしいと褒めたたえられる機会も増えたが、そういうあからさまなお世辞はちっとも心に響かない。ルルーシュがピアノを弾くのは誰かに聴いてもらうためであり、聴いてくれた人に笑顔になってもらいたいからである。だから、芸術を政治の道具として考えているような連中に聴かせても意味はない。
ホールからの音楽が途切れた。そろそろダンスの時間なので奏者を交代しているのだろう。
俺ももう帰るか、と手すりにもたれかかった。今夜の主役ではあるけれど、最初の乾杯も貴族達への挨拶もすでに済ませている。ルルーシュがパーティー嫌いであることを兄妹達は心得ているから、ここで消えても騒ぎにはならないだろう。最後にもう一度だけ顔を見せて今日は終わりにしてしまおう。
(どうせあいつは来ないし)
心の中でぼやいたとき、バルコニーに一人分の靴音が響いた。
「こんなところにいらっしゃったのですね」
想定していなかった声が耳に届き、思わず固まった。まさかという疑いと、もしかしたらという期待に心臓の鼓動が速くなる。
「ホールでは見つけられなかったので、もうお帰りになったのかと思いました」
ゆっくりと振り返った先で青いマントが揺れていた。闇夜でも目に鮮やかな青だ。
スザク――、と唇だけで呼べば彼が柔和な笑みを浮かべた。それからかつかつとブーツを鳴らし、ルルーシュの前で膝をつく。空気を孕んでふわりと広がるマントが美しく、しばし見惚れた。
「到着が遅れて申し訳ございません。お誕生日おめでとうございます、ルルーシュ殿下」
皇族に礼をとるのはナイトオブラウンズのひとり、ナイトオブセブン枢木スザク。帝国最強の騎士であり、建国史上初の外国人ラウンズとなった人物でもある。
現在は海外に遠征中で、今日の誕生日パーティーには参加できないとあらかじめ謝罪されていた。だから招待状の返事はいらないと伝えていたのに、その彼がなぜここにいるのだろう。
「ありがとう、スザク。それにしても驚いた。お前の戻りは一週間後だと聞いていたが」
「事後処理をなんとか終わらせてきました」
「全部?」
「こまごまとしたものは残っていますが部下に任せました」
「陛下への報告は済んだのか?」
「いえ、そちらはまた明日」
立ち上がったスザクがしれっと答える。なんだと? と眉を寄せれば、ちゃんと許可はいただいていますと弁解された。
「今夜はルルーシュ殿下の誕生日パーティーなのでと申し上げたところ、そちらのほうが大事だからすぐに行ってこいとおっしゃっていただきました。勝手に後回しにしたわけではありませんのでどうかご安心を」
「何が安心だ。私の誕生日よりお前の任務のほうが大事だろう。父上も父上だ。皇子や皇女の誕生日なんて数えきれないほどあるのに、そのたびに報告を後回しにしていたら何も進まないではないか」
「そこは陛下の特別なご配慮ということで。それよりお戻りにならないのですか?」
ホールのほうを示され、ルルーシュはふいと顔を背けた。
「好きじゃないんだ。親しい者だけならまだしも、大勢の人間がいる場所は息が詰まる。皇族や貴族の腹の探り合いに誰が好き好んで参加するものか」
「それは同感です。では、自分も殿下とご一緒に避難させてください」
「私を連れ戻しに来たのではないのか?」
「自分は殿下にお誕生日のお祝いをしたかっただけです。いろんな方に捕まっているだろうと思っていたのでお伝えできるか心配していましたが、おひとりだったので幸運でした」
「誕生日の祝いならいつでもできるじゃないか」
「いいえ、誕生日は年に一度。特別な日は今日だけなのですから、今日でなくては意味がありません」
そういうものかと首を傾げれば、そういうものですと答えたスザクが隣に並ぶ。ちゃんと顔を見るのは二ヶ月ぶりだなと思い、ルルーシュは彼の横顔を盗み見た。
ブリタニア人に比べると日本人の見た目は幼いが、スザクは特に童顔だ。そのため、ラウンズ就任直後は帝国の騎士の中にお子様がいると陰口を叩く不届き者もいた。しかし、くだらない批判は彼自身の活躍によって一蹴された。戦場での活躍は素晴らしく、スザクがいれば勝利は確実だとかナイトオブセブンのいる戦場に負けはないとか、現場の兵士達からは厚い信頼を寄せられている。
実際、その実力はラウンズ内でも一二を争うもので、いずれはナイトオブワンの強さも超えるだろうとルルーシュは密かに予想していた。
(スザクの強さは本物だ。そんなことを口にしたら身内贔屓だと言われるかもしれないが)
実力主義を信条にしている自分が身内贔屓か、と苦く笑う。
最初にルルーシュとスザクと引き合わせたのは兄のシュナイゼルだった。帝国宰相である兄はどこまでも合理的で、無駄なことはしないタイプだ。そんな兄が弟にわざわざ外国人ラウンズを紹介したのは何かしらの意図があったのだろう。
良い組み合わせだと考えたのか。頭脳派と肉体派による相乗効果を狙ったのか。あるいはもっと別の理由があったのか。兄の真意はわからないが、それがきっかけでスザクと知り合うことができたのだから人の縁はどこに落ちているかわからないものである。
(それがなければ俺がスザクを好きになることもなかった)
しみじみと考え、胸の中で溜め息をつく。
いつからこの感情が生まれたのか。どうして好きになったのか。明確な回答は自分の中で見つけられない。
ただ、好きという気持ちだけが日々大きく膨らんでいく。
出会ってしまったものは仕方がない。でも、出会わなければこんな気持ちを抱えずに済んだのにと思うこともある。
恋愛とは綺麗でキラキラと輝くようなときめきがあるのだと想像していた。実際、恋愛映画や恋愛小説では恋がこの世でもっとも素晴らしいもののように描かれている。どろどろとした嫉妬や醜い劣等感を必死に押し殺さなければいけないことや、相手に嫌われたくないと思うあまり臆病になってしまうことはちっとも知らなかった。
何より、創作世界の恋愛は相手に告白して両想いになってめでたしめでたしで終わるものである。両想いかもしれないのにあえて身を引く主人公は滅多にいない。悲恋というジャンルもあるが、そういうものは通常の恋愛物よりもさらにドラマチックに描かれる。事件も何も起こらず、主人公達が両想いになることもなく、淡々とした日常を送るだけの恋愛は大衆を熱狂させられないのだろう。
皇子と騎士の恋愛ストーリーは現実だとかなりの醜聞になるのにな、とルルーシュはこっそりぼやいた。
「ピアノはもう演奏されたのですか?」
いきなりスザクの顔が横を向いた。思い切り目が合い、バツの悪さに慌てて正面を見た。
「演奏だったらもう終わらせた」
兄のシュナイゼルとクロヴィスの三人で二十分ほどの小さな演奏会を開いたばかりである。なぜ自分の誕生日に自分で演奏しなければいけないのだと不満だったけれど、クロヴィスにどうしてもと泣き付かれ、その上、ナナリーに説得されては断れない。仕方なく「一曲だけですよ」と条件付きで認め、客の前でピアノを披露することになったのだ。
しかし招待状にはそのことを書いていなかったのに、どうしてスザクが知っているのだろう。
「そうですか、それは残念ですね。あと三十分早く来れば良かった」
「私のピアノにそこまでの価値はないぞ。だが、そんなに聴きたいのならいつだって弾いてやる」
ピアノさえあればどこでも弾けるからなと肩を揺らす。社交辞令だとわかっているけれど、スザクが自分のピアノを聴きたがってくれるのは嬉しい。
「本当ですか?」
「ああ、お前の都合さえ合えば」
「でしたら――」
スザクの顔が近付く。覗き込むように瞳を見つめられ、また心臓が早鐘を打ち始めた。
人の顔を見て何が楽しいのだと笑い飛ばさなければいけない。距離が近いと冗談まじりにスザクを押し返さなければいけない。でも、ルルーシュの身体はぴくりとも動いてくれなかった。
不意に話し声がした。警備の人間かと思ったけれど、楽しそうに笑い合う男女は恐らく貴族だろう。
ルルーシュは皇族でスザクはラウンズ。ブリタニア国内でも最高位に属する二人がいるとなればあちらのほうが逃げ出すに違いない。それはわかっているのに、気付けば後ずさっていた。
どこかに姿を隠そうと思ったタイミングで手を取られ、ハッと顔を上げる。口に人差し指を当てたスザクが「逃げましょうか」と囁いた。
返事をする前にぐいっと引かれていて、反対側の出入り口から建物の中に戻った。通路には貴族達の姿があったけれど、誰もがパーティーを抜け出してプライベートの時間を楽しんでいるようだ。その証拠に、どの男女も背を向けてお互いに肩を寄せ合ったり抱き合ったりしている。
人の誕生日パーティーでいちゃいちゃするなとムッとすれば、隣で笑う気配がした。
「笑うな」
「笑ってません」
「笑っているじゃないか」
小声でこそこそと言いながら廊下を進む。相変わらず手は繋がれていたけれど、ルルーシュは振り払おうとはしなかった。
「ちなみに殿下のこのあとのご予定は? パーティーには最後までいらっしゃるのですか?」
「いや、ピアノの演奏が終わった時点で俺の出番は終わりだ」
「殿下が主役なのに?」
「あとは余興の時間だからな。一応帰る前に挨拶はしておいたほうがいいだろうが、それさえ終われば俺はいなくても問題ない」
「なるほど、そういうことでしたら」
スザクがぴたりと足を止めた。どうしたのかと窺えば、ざわざわとした空気が濃くなった。ホールの扉が開いたのだろう。若い女性達の声が近い。
ここで顔を合わせるのは面倒だなとうんざりしていたら再び手を引っ張られた。窓のほうへ向かったスザクが重厚なカーテンを捲り、包むように押し込まれる。何事かとルルーシュは目を丸くした。スザクの体温が近すぎてどうすればいいのかわからない。
「少しの間、ご辛抱ください」
至近距離で告げられ、こくこくと頷いた。女性達の声もどんどん近くなる。三人、いや、四人はいるだろうか。貴族の令嬢にもかかわらず声量が大きくて、これでは会話が筒抜けだと眉をひそめれば、「枢木卿」という単語が耳に入ってどきりとした。
「今日いらっしゃってるみたいよ。お母様が言ってたわ」
「ナイトオブセブン様がルルーシュ殿下のお誕生日パーティーに? お二人って仲がよろしかったのかしら」
「さあ、交流があるというお話は聞かないわね。同い年ですからどこかでお会いしていても不思議ではないけど」
「それで枢木卿はどちらに?」
「私はまだ見かけてないわ。いらっしゃっているのなら声をおかけしたいのに」
「ちょっと、あなたはルルーシュ殿下狙いでしょう。抜け駆けは許さないから」
「ルルーシュ殿下はもちろん素敵な方ですけど、皇族はやっぱり高嶺の花だわ。だったら、まだ枢木卿のほうが手が届きそうじゃない」
「ずるい、私だって枢木卿をお慕いしているのに」
「やめなさいよ二人とも。それに枢木卿はユーフェミア皇女殿下とお噂があるじゃない」
「そうなのよね。相手が皇女殿下だとさすがにねぇ」
「私は諦めるつもりはないわ。先に既成事実を作ったほうが勝ちでしょう?」
「だからそういう話は別の場所で――」
かまびすしい声はだんだん遠ざかり、やがて静かになった。じっと身をひそめていたルルーシュは静かに息を吐き出した。
まさかカーテンの後ろに皇子とラウンズが隠れているとは誰も思いもしないだろう。知らないからこそ、彼女達はあけっぴろげな話ができたのだ。ここでスザクが顔を出したら全員が真っ赤になって淑女らしく振る舞い、少しでも気に入られようと媚を売るに違いない。その光景を想像したら途端に面白くない気分になった。
(大体、ユフィとスザクが噂になっているのも気に入らない)
異母妹に嫉妬するのも情けない話だが、スザクのこととなるとどうしても心が狭くなってしまう。たとえ相手がナナリーだったとしても同じように嫉妬したかもしれない。
一方で、ユーフェミアやナナリーならばスザクにお似合いだということも理解していた。戦闘で疲れた心身を癒すには可愛らしくて優しい女性が相応しい。頭でっかちで口煩い皇子など間違っても側に置きたくないだろう。考えれば考えるほど自分がスザクの相手になれないことを突き付けられて落ち込みそうになる。
これ以上スザクといてもつらいだけだ。令嬢達も行ったことだしもう帰ろうと決め、ルルーシュはスザクの胸をそっと押した。
「では、私はこれで」
「まだお話が終わっていませんよ」
「話なら今度ゆっくり」
「いいえ、ここでお願いします」
「ここでって、いつまでもカーテンの裏に隠れているわけにはいかないだろう」
「隠れていたほうが好都合なものでして」
「好都合?」
「なるほど、既成事実を作ってしまえばいいと言っていた彼女は確かに正しいですね。顔も名前も知らない相手に盗られてしまうのは何より許しがたいことですし」
「なんの話だ?」
「――既成事実、作ってもよろしいですか?」
はあ? という声は音になる前に消えた。
両手で頬を包まれたのと同時に何かが唇に触れる。羽のように軽く、あっという間に離れてしまった何か。
目の前にはスザクの柔らかな笑顔があって、ルルーシュはその顔をぼんやりと眺めることしかできなかった。
「お嫌でしたら僕を突き飛ばして逃げてください」
嫌とはどれのことだろうと考えた。
スザクが?
キスが?
触られることが?
(どれも、嫌じゃない)
青いマントを掴んだのは無意識だった。皺が寄るほど握り締め、無意識のまま自分のほうに引き寄せる。
次の瞬間、スザクの腕に掻き抱かれていた。
苦しいと思う間もなく口付けられ、反射的に目を瞑った。
カーテンの向こう側では人々の声がしている。扉が開くたびにダンスの曲が大きくなり、誰かにスザクとのキスシーンを目撃されるかもしれないという緊張感に包まれる。とても悪いことをしている気分で、それなのにひどく興奮した。
合わせた唇が熱を持つ。咥内に入ってきた舌がルルーシュの舌をくすぐり、時折甘く噛まれる。食べられてしまいそうだと思ったら背筋がぞくぞくして、ルルーシュはキスに夢中になった。
ファーストキスと呼ぶにはあまりにも刺激的なキス。
スザクとキスをしているのだと思ったらそれだけで興奮が増し、気持ち良さに膝から力が抜けそうになった。くずおれかけた身体を逞しい腕に支えられ、そこでようやく口付けがほどける。
乱れた息を整えながらルルーシュはスザクにもたれかかった。背中へと回った手に優しくさすられ、甘やかされているような錯覚を抱いた。
「これで満足か? 私をからかったのかもしれないが、こういうことはほかの者にはするなよ。特に女性は勘違いする」
遊びに付き合ったふりをしてスザクの腕から抜け出そうと試みた。しかし相変わらずがっちり抱き締められていて、身じろぎすら叶わない。
「スザク、いい加減に」
「からかってなんかいませんよ」
「え……?」
「順番が逆になってしまったことは謝罪します。でも自分が――、僕がお慕いしているのは殿下だけです」
「どういう意味だ」
「愛しています、という意味です」
ルルーシュはぽかんとスザクを見た。
有り得ない言葉を聞いた気がする。空耳か。都合の良い幻聴か。
(だって、そうでなければスザクが俺のことを)
でも、もし本当に愛していると言われたのだとすれば。
今の告白が真実だったらと考えた途端、頬が燃え上がるように熱くなった。
「つ、つまらない冗談を」
「冗談ではありません。ちなみに罰ゲームや何かでこんなことをお伝えしたわけでもありません。僕は本気ですよ」
本気。その二文字がルルーシュの頭をぐるぐると回った。
優秀な頭脳は完全に思考停止してしまって言葉が出てこない。こういうときはどんな反応をすればいいのか。山ほどある蔵書のどこにも書いていなかったぞと、もうひとりのルルーシュが頭の中で喚いていた。
「愛しています、ルルーシュ殿下」
グローブを取った手がルルーシュの頬を優しく撫でる。
甘いセリフに甘い笑顔。その笑顔を見ているだけでぐずぐずに蕩けてしまいそうで、ルルーシュの顔はますます熱くなった。
とにかく何か言わなければ。そう思い至って口を開いたとき、ポケットにある端末がいきなり振動してルルーシュはびくりとした。
「あ……」
「どうぞ。急ぎのご用件かもしれません」
言われるままに端末を取り出して発信者を確かめる。そこには忠実な部下の名前が表示されていて、思考が急に現実へと戻った。息を吸い込み、覚悟を決めたように通話ボタンを押す。
「私だ」
答えるや否や、ルルーシュの不在を心配する大袈裟な声が聞こえてきて思わず端末を耳から離した。
「少し休憩していただけだ。ほかの者と一緒だから心配するな。もう戻る。ああ、扉の前で待っていてくれ」
迎えに行くという相手をなんとかなだめて通話を切る。それから恐る恐るスザクのほうを窺った。
「スザク――」
「ジェレミア卿ですか?」
「ああ、私の姿が見えないと大騒ぎしているらしい」
「それは一大事です。早くお戻りになってください」
「だが……」
さっきの返事は。そう言いかけて口を閉ざした。
キスの余韻と突然の告白で何も考えられなくなっていたけれど、冷静になってみれば有り得ないことだ。その証拠に、今のスザクは何事もなかった様子である。
やはり遊ばれただけなのだろうと割り切り、端末をポケットに入れる。ついでに、痛んだ自分の心も胸の奥のほうに仕舞い込んだ。
「今でしたら人の気配はしませんので大丈夫です」
「ああ」
「それから、パーティーが終わるまで自分は裏でお待ちしています」
思いがけない言葉に、なぜ? と目を瞠る。スザクの顔がまた近くなった。
「先ほどのお返事を伺っていませんので」
「あれは……」
開きかけた唇に人差し指が押し当てられる。
「殿下のお返事がノーでしたら、自分のことは無視してアリエスにお戻りください。明日以降、殿下とお会いしても自分はこれまで通りに振る舞います。でも、もしイエスをいただけるのでしたら――」
耳元に吐息がかかる。スザクの匂いが濃くなって、キスをしたときのように胸が高鳴った。
「今夜は僕の部屋にお越しください。正式なお返事はそこで」
反射的に顔を向ければにこにこと笑う顔があった。だけど緑の瞳はひどく真剣で、戦闘中のナイトオブセブンを彷彿とさせる。
スザクは本気なのだ。
遊びなんかではない。冗談でもない。本当に本気なのだ。それを悟って指先が痺れるような感覚がした。
(だったら、俺は)
頬が熱い。身体も熱い。
スザクのことを考えたらどこもかしこも熱くて、何もかもが甘くて、いつもの自分ではいられなくなる。そういうみっともない自分でもスザクはいいと言ってくれるのだろうか。
「さ、早く戻られないとジェレミア卿が本気で泣いてしまいますよ」
背中を軽く押され、ようやくカーテンの外に出た。人の姿はないけれど、少し離れたところからざわざわとした空気が近付いてくる気配がした。
「ちょうどいいタイミングでしたね。ダンスタイムはそろそろ終わる頃でしょうか」
振り返ってスザクに何か伝えようとしたけれど、やはり何を伝えればいいのかわからなかった。
「――スザク」
「はい」
「ノーだったらアリエスに、イエスだったらお前の部屋にと言ったな」
「そうですね」
「だから、私の答えはそのときに教える。ただ――」
息を飲み込み、スザクを見つめながら思い切って口を開く。
「お前のことを考えながらお前のためにピアノを弾くことは吝かではないと、先にそれだけは伝えておく」
早口で伝えるとルルーシュは背を向けた。スザクの顔は見なかった。見られなかった。
はっきりと言葉にしたわけではない。愛の言葉を囁いたわけでもない。スザクは何を言われたのか理解していないかもしれない。それでもルルーシュの心臓はばくばくと鳴っていた。遠回しな告白ですらこれなのだから、好きだと直接伝えたら恥ずかしさで死んでしまうかもしれない。
頭を抱えてこの場にうずくまりたい衝動をこらえ、ルルーシュは自分の誕生日パーティーの会場に戻って行った。
「不意打ちでそういうセリフは反則すぎますよ……」
だから、口元を覆ったスザクがぽつりと零した言葉は当然聞こえていなかった。
(20.12.05)