コバルトブルーに沈む

 ぱしゃん、と水しぶきの音がした。
 頭上からは蝉の忙しく鳴く声がひっきりなしに聞こえる。
 じりじりと照りつける太陽はアスファルトを焦がし、遠くの地面はゆらゆらと揺れていた。
 米神を伝った汗が顎にまで流れ、手元のノートに落ちたところでルルーシュは小さく舌打ちをした。

「……暑い」

 あまり汗を掻く体質ではないと自分では思っているけれど、30分も炎天下の中にいればさすがに汗は止まらない。
 ぱしゃ、と再び聞こえた大きな音に顔を上げれば、水の中を泳ぐ身体がちょうど目の前を横切っていった。
 その動きを無意識のうちに目で追っていて、ルルーシュは慌てて顔を俯かせた。相手は泳いでいて陸の人間の視線などまったくわからないだろうが、まじまじと見つめていたことが万が一にでもバレてしまうようなことがあっては困る。
 顔を伏せたまま目だけはプールの中に向けるというあえて難しい方法でもって、ルルーシュはその動きを見つめた。
 何度目になるかもう数えるのをやめてしまったターンのあと、プールの底で伸びやかに身体を進め、水面に浮上したかと思うと滑らかな動きで水を掻き分けていく。
 交互に動く腕には筋肉が綺麗についていて、思わず自分の二の腕を触ってしまった。貧弱とまではいかないが、少なくとも運動を得意とする身体ではないだろう。自分の得意不得意は重々承知しておきながら、それでもどこか羨望を抱いてしまうのはどうしてだろう。どうやっても手に入らないと思うものほど欲しくなるのは人の性かもしれない。
 つらつらと考え事をしている間に、気付けば水音が止んでいた。
 ハッとして顔を向ければ、プールの縁にスザクが腕を乗せて休んでいる。ようやく疲れたのか、それとも単に飽きただけなのか、一体どちらだと思いながら濡れそぼった頭のてっぺんを見ていると、いきなり顔を上げてきたのでびくりと身体を震わす。
 そんなルルーシュの驚きに気付いていない様子で、スザクは満面に笑みを湛えた。

「ルルーシュも一緒に泳ごうよ」
「水着もないのに誰が泳ぐか、と30分前に言ったはずだ」
「でも僕が泳ぐのを見て気が変わったかもしれないだろ?」
「誰の気が変わるか。お前の泳ぎを見ていたら、たとえ泳ぐつもりがあったとしても萎える」
「えぇ、なんで!?」
「競技さながらの泳ぎを見せられて、同じプールに入れるか!」

 ルルーシュは手元のノートを音を立てて閉じた。
 そもそもどうして自分はこんなところにいるのかと、額の汗を拭いながら30分前のことを思い出す。
 今日は朝から市内の図書館にスザクと一緒に行く約束をしていた。夏休みも残りわずかということで、休み明けの実力テストの勉強をしようというのが最初の目的だったはずだ。
 自宅でも良かったのだが、夏休み中はほぼどちらかの家で課題をやっていたため、たまには違う場所で勉強して気分を変えたいと昨日の別れ際にスザクが言い出したのだ。ルルーシュとしては勉強に気分も何もないからどこでも構わなかったのだが、スザクの言うことも一理あるかと思い同意した。その同意が最初の間違いだったのかもしれない。
 そして今朝、開館時間に図書館の入り口で待ち合わせをし、午前中は空調の効いた建物の中で勉強をした。お昼を挟んでさらに二時間ほど教科書と睨めっこしていると、自分から言い出したくせにスザクが飽き始めた。なんて勝手なやつだと怒ったルルーシュだが、学習用の席を占領し続けているのも申し訳ないと思い、結局そのまま図書館を出てしまった。
 このまま帰るのだろうかと考えたらなんとなく寂しい気持ちになって、これではまるで自分がスザクと一緒にいたいみたいじゃないかと気付いた。決して一緒にいたいわけではない、ただスザクの勉強の進捗状況が気になるだけだと心の中で言い訳をしながらルルーシュが歩いていると、行きたいところがあるから付き合ってと言ったスザクにいきなり手を引かれた。道の往来で手を繋ぐなんてと喚きながら、ルルーシュが自分の意志とは無関係に足を進めた先は学校だった。

「忘れ物でもしたのか?」

 夏休みの終わり間近に忘れ物なんてあるだろうかと思いつつ尋ねれば、曖昧に笑われた。

「ちょっと待ってて」

 そう言い置いてスザクは校舎の中に入っていった。
 運動神経抜群な彼は特定の部活には所属していないが、助っ人として様々なところからよく声を掛けられる。どこかの部の様子でも見に行ったのだろうか、でもスザクが顔を出す部は大抵運動部だから用があるとすればグラウンドか体育館のはずだが、と疑問に思ってふとルルーシュは夏休みの校舎を見上げた。
 人にいない学校はひどくしんとしている。部活動の生徒もすでに帰ってしまったあとなのか、普段なら絶えず人が行き交う廊下も今は誰も通らない。
 だけど、あと数日して新学期が始まればいつもの喧騒に包まれるのだろうなと考えたところで、こちらに駆けてくる足音が聞こえた。

「ごめん、お待たせ」
「何してきたんだ?」
「うん、ちょっとね。行こうルルーシュ」
「へ?え?だ、だからどこに」

 またもや無理やり手を引かれ、ルルーシュはわけがわからないままスザクに着いて行った。そうしてある扉の前まで来ると、制服のポケットから鍵を取り出して開けた。

「おい、ここは」
「いいからいいから」

 不穏な空気を漂わせているルルーシュを気にした様子もなく、扉を開けたスザクはどんどん進んでいく。どこか湿っぽい階段を上りきれば、途端に夏の日差しに焼かれた。咄嗟に手で顔に影を作る。そしてスザクに向かって怒鳴った

「スザク!どういうつもりだ!」
「暑いから泳ぎたいなぁって思ってさ」
「そういう問題じゃないだろ!大体、体育の授業と水泳部の部活以外は立ち入り禁止のはずなのに、どうしてプールの鍵なんて持ってるんだ」
「ロイド先生に頼んだから」
「ロイド……って、あのエセ教師が!!」

 いつもメガネに白衣姿の飄々とした教師の姿を頭の中に思い描いて、ルルーシュは憤慨した。プールの鍵を貸してくれと頼むほうも頼むほうだが、あっさり貸すほうもどうかしている。

「大丈夫、僕なら事故はないって信頼されているから」
「信頼じゃなくて放任されているだけだろ」
「どっちだっていいじゃない」
「良くない!」

 ルルーシュは太陽とは逆方向に顔を背けた。するとプールが思い切り視界に入り、一瞬だけ言葉を忘れる。目の前にたゆたうブルーの水面はきらきらと日差しを反射していて、とても綺麗だった。人の入っていないプールはこんなに静かなのかと初めて知った。
 ふと視線を感じて横を向けば、破顔したスザクの顔があった。なんとなくバツが悪くて再び顔を背ける。

「そういうわけで僕はこれから泳ぐんだけど、ルルーシュはどうする?」
「は!?泳ぐって水着は……」

 言っている傍から、スザクは持っていた鞄をごそごそと漁って中から水着を取り出した。

「お前はまさか毎日水着を持ち歩いているのか……?」
「え、まさか。たまたまだよ」

 それはどんなたまたまだと思ったけれどこれ以上質問するのは疲れるような気がして、代わりに溜め息をひとつだけ吐き出した。

「で、ルルーシュは?」
「水着もないのに誰が泳ぐか」
「水着なしでも裸で泳げるよ?」
「断固拒否する」

 残念、とつまらなそうに呟いたスザクは、いきなりその場で制服を脱ぎ始めた。ぎょっとしたルルーシュは、視線を外すと日陰になっている場所に歩いていった。
 同じ男同士だし、所謂そういう間柄なので裸なんて見慣れていて今さらといえば今さらなのだが、こうして明るい陽の中で裸を見るのはやはり憚られる。しかしスザクにそういう羞恥心というものはないようで、平気で服を脱ぐから困る。
 (俺ひとりが照れて恥ずかしがって馬鹿みたいだ)
 汚れていない場所を選んで座ると、着替え終わったスザクがちょうどストレッチをしていた。不躾な視線にならない程度にルルーシュはその姿を追う。
 やがて準備運動を終えたスザクはスタート台に立つと、迷うことなく水中に向かって飛んだ。
 水しぶきが上がったかと思えば、綺麗なフォームでぐんぐんと進んでいく。反対側に着くとターンをして来た道を引き返す。同じ動きを何度も何度も繰り返すスザクを、ルルーシュはぼんやりと見つめていた。
 スザクの泳ぐ姿を見るのは好きだった。
 泳ぎだけではない。スザクが競技に参加して身体を動かしている姿はどれも好きだ。本人に言ったら調子に乗りそうだから口にしたことはないけれど、スポーツをしているスザクを見るのがルルーシュは何よりも好きだった。動きひとつひとつに無駄なものがないし、贔屓目ではなく、どの競技をさせてもスザクはほかの誰よりも上手いと思う。見ていて飽きなかった。
 そして、そんなスザクがいいところを見せようと頑張る理由は自分ただひとりなのだと、子どもっぽい優越感を抱いていた。そういうときに、自分はスザクのことが好きなのだとルルーシュは強く実感する。どれもこれも正気になって考えると恥ずかしいことばかりで、やはりひとつもスザクに伝えたことはないけれど。
 しばらく水の中のスザクを見続けていたルルーシュだったが急に我に返り、周囲に人などいないというのに、スザクの泳ぐ姿ばかりを見ていると思われるのは恥ずかしいと感じ、鞄から教科書とノートを取り出した。勉強している振りだけでもしようとぱらぱらノートを捲りながら、時折視線はプールへ向けるという忙しいことを始めたのが30分前。
 それから一度も休むことなくスザクは泳ぎ続け、いくら日陰とはいえ炎天下の中30分も黙って座り続けたルルーシュはすっかり汗が止まらなくなってしまっていた。

「我儘だなぁ、ルルーシュは」
「我儘はどっちだ」
「まあいいや。僕の鞄の中にタオルが入ってるからちょっと取ってくれない?」

 図書館で勉強するだけなのにやけに大荷物だと思えば、そんなものまで持ってきていたのかとぶつぶつ悪態を吐きながら、ルルーシュは立ち上がるとスザクが置きっぱなしにしていた鞄を開けた。大判のタオルはすぐに見つかり、それを持ってプールの縁に近付く。

「ほら」

 タオルを差し出したのと手首を掴まれたのは同時で、まったく構えていなかったルルーシュは簡単にバランスを崩した。

「ほあぁ!!」

 そのまま勢い良くプールの中に落ちる。いきなりの事態に少し水を飲んでしまい、慌てて水の中から顔を出した。息苦しさに咳をするルルーシュの背中をスザクが撫でる。

「大丈夫?」
「ごほっ……誰の、せいだと、っ」
「ごめん、まさかそんなに水を飲むとは思ってなかったから」
「お前と一緒に、するな」
「うん、本当にごめん」

 ようやく息を整えると、涙の浮かんだ目でスザクを睨む。ぽたりと髪の毛から雫が落ちて、ルルーシュはますます視線を険しくした。

「どういうつもりだ。子どもの悪戯にしては度を越しているぞ」
「ルルーシュも水の中に入れば気持ちいいのにって思っただけだよ」
「だからって制服のまま引っ張り込むやつがいるか!」
「じゃあ全部脱がせてからすれば良かった?」
「そ、そういう問題じゃない!」

 誰も見ていないとはいえ、こんなところで裸にされるなんて真っ平御免だ。しかしスザクならあっさり実行しそうな気がして、ルルーシュは思い切り否定する。
 そして、はぁと溜め息をついた。たしかに水中に落ちたことで暑さは一気に和らいだが、制服はびしょ濡れだ。このまま帰るわけにはいかないし、今すぐ水から上がって自然乾燥させたとしても何時間かかるかわからない。
 さてどうしようと思っていると、ふいに手首を掴まれた。先ほども手を掴まれたのが原因でプールに引っ張り込まれたのだと思うと、自然と眉間に皺が寄る。
 文句を言ってやろうと顔を上げれば、やけに穏やかな顔をしたスザクの目とぶつかって息を呑んだ。
 そのまま顔が近付いてきて、キスをされる、と思ったときには唇に温かな感触がしていた。啄ばむように何度も繰り返されるキス。身体を熱くさせるものではなく、単なるスキンシップのひとつとして触れてくる唇は、しかしただそれだけで頭の中がくらくらするような気持ち良さがあった。
 ゆらりと足元が揺れている。足はプールの底にしっかり付いているのに、水の中という不安定さがひどく頼りない気にさせた。縋るものが欲しくて、ルルーシュはスザクの首の後ろに腕を回した。そうしてしがみつけば腰の辺りをスザクが掴み、引き寄せられた。
 ぴちゃ、と二人の間で水音がして、その音がやけに生々しく恥ずかしいと思ったけれどキスはやめられない。さっきまで濡れた制服を気にしていたのに、今は身体にしっかり張り付いているシャツの感触すらどうでも良かった。
 互いに息が少し弾んだところでようやく唇を離す。
 顔を合わせるのは照れくさく、ルルーシュはスザクの肩口に顔を埋めた。

「……塩素臭い」
「あはは、色気がないなぁ」

 ルルーシュの濡れた髪をスザクが撫でる。そして、耳元でそっと囁いた。
 このまま君を抱きたい。
 ルルーシュはがばっと顔を上げると、目の前の身体を押し退けようとした。しかし腰をしっかり掴まれてしまい、逃げることは叶わない。

「ばっ、お、お前は、時と場所を…!」
「プールの中でっていうのもいいなぁと思ったんだけどさ」
「絶対に嫌だ!」
「うん、ルルーシュはそう言うだろうと思った。だからさ、早く帰ろう」

 なんでもないことのようにさらりと言われたが、それはつまり帰ったらそういうことをすると言っているのも同じことで、ルルーシュは顔を真っ赤にさせた。

「か、帰るといっても、俺はこの通りずぶ濡れで」
「それなら大丈夫。僕が予備の服を持ってきてるから、サイズがちょっと合わないかもしれないけど、問題ないだろ?」
「予備……?」

 なぜ勉強するだけなのにそんなものが必要なんだ。そもそも水着やタオルといったものまで用意されていることからしておかしい。
 これではまるで、最初からプールに入ることもルルーシュが水に落ちることも予定されていたような――。

「……最初から全部織り込み済みか?」
「なんのこと?」

 害などひとつもない爽やかな顔でスザクが笑う。ルルーシュは本日三度目の溜め息をついた。
 してやられた、と思う。まさか図書館で勉強しようと言い出したときから、こうするつもりだったのだろうか。
 どこまでが偶然で、どこからが計算か。スザクのことだから実は全部偶然なのかもしれないが、それにしても上手くしてやられた。
 (結局、今日はスザクがしたいことを思い通りしているだけじゃないか)
 ムッとした顔のままスザクを見れば、さっきキスをする前に浮かべていた穏やかな顔をしている。

「帰ろう?」

 そんな顔でそんな風に言われてしまうと山ほどある不満の言葉も全部飲み込まずにはいられず、ルルーシュはただ小さく頷いた。
 水から上がったスザクに手を差し出され、それに捕まってルルーシュもプールから出る。水を含んだ制服が一気に重くなった。

「学校が始まるまでにクリーニングに出しておかないとね」
「誰のせいだと」
「僕のせい」

 やけに嬉しそうな顔に、ルルーシュは何も言えなくなる。自分も大概この男に甘いと内心呆れた。

「もうすぐ学校だね」
「ああ」
「短かったなぁ、夏休み」
「一ヶ月以上あれば充分だろ」

 学校が始まっても暑い日は続く。それでも夏休みの終わりとともに夏の終わりを感じてしまうのはなぜだろう。
 ルルーシュの頬を伝った水滴がぽたりと落ちる。地面にできた染みはすぐにすうっと消えていった。

「なあ、スザク」
「ん?」

 水の中に落ちていたタオルを拾い上げ、力いっぱい絞っているスザクを見る。
 何を言おうと思ったわけではない。
 ただ、もし理由があるとすれば、こうして過ぎ行く時間を惜しんだのかもしれない。

「好きだよ」

 スザクがぽかんとした顔をしている。ルルーシュはぷっと吹き出した。そんなに笑わなくても、と非難する声を無視してルルーシュは笑い続けた。
 夏の空は高く青く、どこまでも果てなく続いていた。
 (09.08.29)